第9話

 


 この世界にいきなり生まれ落ちたみたいに覚醒してから、まだほんの少し。

 リクが言う、生まれたての赤ん坊のようなぼくが、誰かのことを怒ったり憎んだり、批判できる資格なんてない。

 自分自身を評価することだって。

 だったら、もっともっと、人を見なきゃいけない。

 その人がどういう人で、なにを考えていて、どんなことが好きで、なにに怒りを感じ、喜び、笑い、泣くのかを。

 それはまだ全然、ぼくには難しくて。

 それでも、ただ頼ることしかできないいまのぼくを助けてくれて、親切にしてくれた人たちに、ありがとうって、言いたい。

 言わなくちゃ。

 もう二度と、会えないかもしれないから。




「ありがとうございます、エヴァンスさん」

 夕刻に近くなって、スーザの街中を、一緒に来てくれたエヴァンスと歩いていた。

「えっ、どうしたのいきなりお礼なんて」

 きょとんとした顔で隣から見下ろしてくる色男さんは、小さなぼくの歩調に合わせてくれている。ぼくがみんなに会いたいって言ったから、彼はぼくに付き合ってくれていた。

 もう明日、この街を離れることになって、スウィンや、リクのうちの子供たちに、お礼が言いたかったんだ。リクは、あのあと戻ってきたセリュフとこれからのことを話すと、ついてはこなかった。

 立ち止まって、あらためて、いま一番お世話になっている人をしっかりと見上げる。

 荒野が近いスーザでは、夕陽が辺りの岩場全体に反射して、街全体が紅く染まる。白く塗装された石造りが多い街の建物も、同じように紅くなって、エヴァンスの整った顔立ちの陰影を際立たせていた。

「これから、マンダルバに一緒に行ってくれることも、いままで親切にしてくれたことも、感謝してます」

 さっきから、なんだか情緒不安定みたいで、苦しかったり、嬉しかったり、泣きたくなったり、いろんな気持ちが、この体に沸き起こってくるんだ。

 共に立ち止まったエヴァンスは、ちょっと困ったような顔をしていた。それはそうだろう。この人がぼくと一緒にいてくれるのは、リクの仲間で、ぼくがリクにとってある意味では重要な人間だからで、ぼく個人をどう思っているかなんて、関係がない。

 それでも、言いたかった。

「あー、あのね、うん、弱ったな」

 そうですよね。

 ごめんなさいと言おうとして、頭をふわりと撫でられて、驚いて固まった。

「いまだけ、ごめんね」

 リクのうちの子供たちにするように、撫でながらとても感情豊かな笑顔を見せてくれる。

「きみは、ちゃんと、がんばれてるよ。リーヴはあんな人だから、ちょっときみには厳しいことを言うかもしれないけど、大丈夫。きみだから、リーヴは手を貸してるんだ。自覚できてないところが、またいいんだろうけど。そのまま、きみが思うことを、やっていけばいい。助けてくれる人は必ずいるよ」

 エヴァンスとも、いつか、別れる日がくるんだろう。

「はい」

 誰かに、偽りのない自分を知っていてほしい、エヴァンスにも、本当のことを言ってしまいたい。

 けれど。

 本当のことを言っていないだけで、ぼくは、ぼく自身でいられてるのかな。

「ありがとうございます」

 笑顔を向けられる人がすぐ隣にいてくれるのは、とても恵まれてるんだって、このとき思ったんだ。


 本来リクがこの街に来たときに定宿にしていた家は二階建ての石造りで、ひと家族が住むには大きな建物。本来はヤトゥ商会の寮のようなものにしようとしていたが、他にいい物件があったとかで、リクと周囲の人たちが逗留するものにしていたそうだが。

 そこは現在、子供たちがやってきていたことで、彼らの家になっていた。

 ぼくがエヴァンスと家に行ったときは、みんな総出で夕飯の支度の最中だった。ぼくとエヴァンスも手伝うことになり、早めの夕飯もご馳走になった。

 スウィンは、みんなのお母さんみたいな人。表情は少ないけど、気遣ってくれてるって、ちゃんと思わせてくれる。

 タグは、子供たちのことを煩わしげに見ることもあるけど、けっして子供たちを嫌だと思っているわけじゃない。たまにしょうがないといった感じで世話をしていることもある。

 セリアは、気まぐれで自分の思うように行動しているけど、悪意はまったくない人なので、全然憎めなくて、それがとても可愛らしいって思うこともある。大人たちが彼女のわがままを聞き流しているのはそういうことだと思う。

 ニキは、小さな紳士っていう感じで、女の子には親切で、セリアのわがままにも無言で従うことがあるけど、言いなりになっているというよりは、わがままを許してあげているお兄さんに見えるときがある。内面がすごく男前。

 イチヤは、静かな子で、ぼくと背丈が一緒くらい。ぼくよりも年下だけど、一番気が合いそうだなって思っていた。たまににこりと笑顔をくれる。

 シースは、最後までぼくに近寄りはしなかったけど、目は向けてくれていた。笑いかけると、恥ずかしそうに俯いた。

 サンゼは、たまにぼくの隣に来て、ぼくの服の端っこをきゅっと握って、じっと見てくる。ぼくが笑うと、きゃあと嬉しそうにスウィンに飛びついていく。スウィンはよかったねなんて言ってる。

 ゴウトはときおりロクレイにちょっかいをかけ、顔に料理途中のものを塗られていたずらを受けたロクレイのほうは、きょとんとした顔で自分のやるべき作業を続行させる。

 シチェックは、あちこちに移動しつまみ食いをして、みんなに怒られたり全身を撫で回されたり、邪魔とばかりに年長者にぽいっと違う部屋に放り投げられても、めげずにまた同じことを繰り返していた。

 この数時間だけでも、楽しかった。

 この家の子供に、なりたかった。

 それは無理だって、知っていた。


 自分なりの気持ちを、みんなに表せたと思う。


 お別れの言葉は言わなかった。




「訊いても、いいですか?」

 またエヴァンスと二人、暗くなってしまった道を歩いていた。

「なんです?」

 エヴァンスは丁寧な言葉遣いに戻っていて、ぼくのいまの立場を思い出させる。

「みんなの親って、いるんですか」

 知っておきたかった。

 いまみんなが、みんなで生きていることの理由を。

 もう二度と会うことがなくっても、彼らが、どうやってこれからを生きていくのか、自分でも想像していけるように。

「死んでしまった人もいれば、生きてるかわからない人もいる」

 どういうことだろう。

 無言のぼくに、エヴァンスはちゃんと答えをくれる。

「ムトンと呼ばれているところは結構広域で、どこにどんな村や町があるかっていうのは、現状では把握しきれないところがある。新しい村ができれば、すぐに廃れる町もある。無法地帯だって言ったでしょう? 国や組織に守られていないっていうことは、自分たちで好きなようにも過ごせるけど、自分自身で身を守らないといけないことでもある。それに、農地には向かないから、よほどの技術や知識がないと、自給自足も難しい。昔ながらの町や村もあるけど、訳ありの人たちが流れ込んでくるところでもある。あの子らの村は、もともとは長く続いていたところだったらしいけど、あるとき素性の悪い者らも流れてきて、だんだんとはぐれ者たちの溜まり場みたいになっていったみたいでね、離れていく者も増えたみたい。数年前、冬の大寒波と、夏の水不足がこの一帯を立て続けに襲ってね、かろうじて自給自足をしていたあの子らの村も、作物が育たなくなった。大人たちは、出稼ぎによそへと出て、老人や子供たちだけが村に残された。溜まり場にしていたはぐれ者たちも貧しい村に見切りをつけたのか寄り付かなくなって、働けない者ばかりが残された」

 想像すると、身がすくんでくる。

「それでも、たまに大人たちも帰ってきたり、仕送りがあったりして、細々とはやってたみたいだけど。俺たちがその村を入ったときには、老人たちも少なくて。餓死者は出てないって聞いたけど、食料不足と無理な農耕作業がたたって亡くなった人はいたはずだ。子供たちは、当たり前だけど、いまよりも小さくてね、哀れだった。旅の途中だった俺たちは、そのフッサの村に拠点の一つを置いた。物資の保管の仕事や、馬の世話とかを、残っていた老人たちはいま喜んでやってくれてる。でも子供たちを育てる環境じゃないって、セリュフが近くのもう少し大きなリラって町に連れ出したわけです。彼らの親たちが、もう何年も帰ってこなくなったから」

 どうして。

「悪い噂でも流れてたんですかね。俺たちも見た目は荒くれもんですからね。本格的にはぐれ者の村になってしまったとでも聞いたんでしょう。大人だって、生きていくのに必死だ。だからって、子供たちを置いていった時点で、俺はその親らを許せませんけどね」

 上品な振る舞いを忘れないエヴァンスには珍しく、少し機嫌が悪いふうに吐き捨てた。

「リーヴは、もうそのときから俺たちと一緒でした。全部、リーヴの意思です。村を拠点とするのも、老人たちに仕事を与えたのも。俺たちは、リーヴの意思に従ったに過ぎません。フッサの村は、いまでも不便なところです。それでも、俺がいたところよりはまだいいほうだって、リーヴは言うんですよ。険しい山の中ってわけじゃないし、馬車があれば、少し大きな町にもたどり着ける。時間さえあれば、このフッサの村だって、人が住めるところにできるって。その通り、場所が不便なだけで、物資と食料さえあれば、ちゃんとした村にできるんです。ムトンには、そういう村や町が、まだたくさんある。俺たちは、そういう場所を見つけて、拠点にしながら、物ばかりじゃなく、人も、うまく回せるようにしていってる。仕事が必要ならば商隊に雇い、腕に自信があれば護衛人にする。人が生きていくために、最低限のことは提示する。まあ、あとは、その人のやる気次第ですけどね」

 ゆっくりと、ところどころ街灯があるけどほとんどが暗い道を歩きながら、エヴァンスは話してくれた。

 ヤトゥ商会は、神出鬼没な成り上がりだって、蔑むように言った人がいる。

 そんなふうに言われるくらいに彼らが躍進を続けていられるのは、人を導いていける人が、そこにいるから。

「キルリク。古代の言葉ですって。誰が呼んだんだか、セリュフだったかもしれません」

 キルリク。

「扇動者」

 エヴァンスが立ち止まってぼくを見ていた。

「他者の思いを掻き立て、奮い立たせる。彼は、その言葉、そのものだ」

 その笑みは、見たことのない、強い瞳の好戦的なものだった。

「俺のそばを離れないで」

 え?

 エヴァンスから目を離し、少しだけ辺りを見回す。

 いままでは、暗くてもいろんな人が通りを歩いていた。

 でもいまは、ぼくたちの周りに人は誰もいない。

 遠くに、なんだか嫌な感じがあるということだけがわかった。

「人の思いに敏感なのはいいことだ。その感覚、忘れないで」

 ぼくが辺りを警戒したことに気づいたエヴァンスが、薄い笑みを浮かべ、ゆっくりと周りに目をやりながら言う。

 ふと、暗闇の一つからその闇が分かれたように見えた。ビクッと驚いたけど、よく見れば黒づくめの衣服を身につけたル・イースだった。

「何人?」

 エヴァンスが訊く。

 ル・イースのほうから、ほんの少しの音が聞こえてきたけど、言葉のようには聞こえなかった。

 ぼくはいまだにル・イースの声を聞いていない。

 エヴァンスには聞こえたようで、ふうんとつぶやいた。

「来るかな?」

 エヴァンスの問いには応えずに、ル・イースがそのままそばに来て、ぼくの姿を隠すように目前に立つ。

 この人がこんなにぼくの近くにいるのは、最初に会ったときに抱き上げてくれたとき以来だ。

 エヴァンスはぼくのやや後ろにいた。

「いつまでほっつき歩いてる」

 リクの声が後ろから聞こえて、振り向くと、街灯からは離れているのに、その姿がはっきりと見えた。

 こんなに安心する人の声は他に知らない。

「遊んでたわけじゃあ、ないんですけどね」

 ふっと笑ってエヴァンスが言う。

「帰るぞ」

 リクが何事もないように言ってくる。

 だけど。

「帰りましょう。大丈夫」

 エヴァンスがそう言ってくれるから、歩き出すリクの後ろをためらいながらついていく。

 ル・イースはさらに後ろをついてきた。

 なにか、起こってる。

 でも、ぼくにはそれがどういったことだか、読む力がない。

「一人にはさせられませんね」

「そりゃそうだ。もう、こいつを普通の子供だなんて、誰も思ってない」

 リクが素っ気なく言う。

 どういう、ことだろう。

 やっと、人の姿が見えてきて、いつもの街に戻ってきていた。

 白くて上品な宿が、すぐそこにある。

「おまえは、他の候補者側も認める、マンダルバ領主後継者候補の一人だってことだ」

 宿を常に明るく照らす街灯が、大通りにはいくつも置かれている。

 その光に照らされて、こちらを向いたリクの瞳が金色に輝いた。




 翌朝、ぼくは身一つで、マンダルバへ向かう馬車に乗り込んだ。

 リクたちが用意した馬車は、ぼくが最初に乗せられた古びた馬車とは違って、馬は若く四頭立て、御者側の他に、客席が四席分は付いていて、どちらも屋根付き。後ろにもわりと大きめの荷台が作りつけられていた。商隊でも、偉いお人が旅をするときに利用するものらしい。

 御者側に知らない男の人が二人、これはヤトゥ商会の人間と聞かされた。彼らは護衛人も兼ねている。

 ぼくと一緒に客席に座るのは、リク、エヴァンス、ル・イース。

 馬に直接乗って馬車の後ろを行くのは、いつのまにかみんなに合流していたヴィイ。それと、ぼくが知らない男性だが、その人も引き締まった肉体をしていて、剣とかが強そうな人。

 ヴィイは表情の少ない人だけど、ぼくと目が合ったとき、赤味がかった瞳を細めて、小さく笑った。彼は、キースと目の前で会ったときの感覚に近くて、この人が近くにいてくれることが心強いって思わせてくれる。護衛人って、すごい。

 少数精鋭。

 他の仕事があるセリュフが見送ってくれたときに言っていた。

 この配置は、ヤトゥ商会最強布陣だって。

 なんだか、身が縮まる思いだった。

 他の陣営は、マンダルバ側で馬車を手配したらしく、アーノルトとユナムたちはもう先に行っていて、クイン・グレッド管財官も前日に出発済み、一人で行動していたシンはジョーイ・ハーラット氏が共に行動することになったと、マンダルバ役人から出発前に説明を受けた。

 マンダルバ側からはその役人が二人、ぼくらの前をそれぞれ馬で行っている。案内人として先導する形だ。

 スーザからマンダルバまでは、いくつかの経路がある。

 大きな主要路からは、一度大きく西側から迂回して海側へ南下し、港町から海路でマンダルバ本都へ直接行く道。これは迂回しているように見えて海上で最短速で本都にたどり着けるらしいけど、経費がかかる方法。

 マンダルバからの物産は、ほとんどがこの海路からやってくる。海産物も多い理由だった。

 陸路からは、二つ。

 スーザから南下すると、この地方最大の高山、レッテ山岳地帯がマンダルバの前で旅人を厳しく迎え入れる。マンダルバが他国からの侵略を阻んできた天然の盾。

 レッテ山はかつては火山だった。いまもときおり噴煙は上がるそうだけど、大きな活動はしていない。この山頂は際立って鋭く尖っているけど、その他は比較的なだらかで、その谷間を開拓した道がある。

 直線距離としては一番近いけど、大きな馬車が通れない細身の道で、人の足か単騎の馬でしか通れない。舗装もないようなので、今回は除外された。

 ぼくたちが行くのは、三つ目の道。

 レッテ本山ではなく、周囲のなだらかな山々の稜線沿いを時間をかけて行く道。

 背の高い木々の森は少ないけど、ムトンの荒野みたいに裸山ではなく、景色を見ながら旅ができる豊かな樹林が続いていた。

 一番時間がかかる経路。それが一番安全な道だった。

 レッテ山岳地帯に入ってしまえば、そこはもうマンダルバ領域。レッテ本山周囲の山々の経路はいくつかにまた分かれていて、その所々に集落も増えてくる。大きな物資を持ち歩かなくて済んでいるのは、ムトンと違ってこの地域の資源は豊富で、いたるところに休憩地としての集落があり、そこでなんでも調達可能だからだそうだ。

 レッテ山岳地帯山頂を通り抜ける前に二度小さな町の宿を使うと事前に聞かされていて、朝出発して、昼食を道路沿いの休憩地の一つの店でいただき、夕刻に近づく手前、そろそろ宿の一つも近いだろうと思っていた。

 窓から流れ見える風景は、ムトンの山道を走っていたときよりは遥かに速く流れていた。行き来の盛んなこの道は広く舗装されていて、馬車も上等、結構な速度を出して一行は走っていた。客席には背や座に綿入りの敷物がふんだんに使われていて、少し道が悪くても体が痛くならない。

 ぼくはずっと客席にいて、なにかの本をまたつまらなさそうな顔で読むリクが隣に、向かい側にはル・イースが外を見ていて、ぼくの前にいるエヴァンスはときどきぼくの退屈しのぎに付き合ってくれるように他愛ない話をしてくれていた。

 そんなときに、いきなり、外から鋭い口笛のような音が聞こえてきた。

 馬車はすぐに止まった。

 ル・イースが間髪入れずに外に出て、リクはまだ仏頂面で本を読んだまま、エヴァンスはにこりとぼくに笑顔をくれた。

 先を行っていた役人二人も馬を降りてきていたのか馬車の窓から見えた。

「どうしたの?」

 またなにか嫌な気配でもあるんだろうかと、ぼくは不安になって訊いたけど、他の二人はとくに警戒はしていない顔だった。

「なんでしょうね」

 とエヴァンスものんびり声。

 リクのほうは視線すら動かさない。

「リーヴ」

 外からヴィイの声。

 リクはさすがに顔を上げて、窓を見た。

 ぼくも同じほうを見た。

 そこには、セリアと、タグがいた。

「え?」

 思わず声が出た。

 えええ⁈

 なんで!

 どうして?

 慌てて馬車から下りると、確かに二人はそこにいた。

「馬車で追ってきたらしいよ」

 ヴィイが二人に聞いたのか、ちょうど馬車を下りてきたリクに言った。

 リクは不機嫌そうに、

「なにしてる」

 と冷たい声を出した。

「えっと、あの」

 さすがのセリアも、こういうリクには強気に出られないのか、言ってよというふうに、タグの後ろに隠れて肩を押した。

 タグは仏頂面で言う。

「シチェックが」

 シチェックが?

「いなくて」

 ええ⁈

 リクが溜め息をついた。

「ル・イース」

 ぼそっとリクが言いながら荷台に顎をしゃくる。

 ル・イースが荷台に上がり、しばらくすると、満面の笑みで両手に持ったお菓子を食べているシチェックを腕に抱えてきた。

 驚きすぎて、心の声も出なくなった。

 リクが抱かれたままのシチェックの前に行き、視線を合わせる。

「なにしてた」

「かくれんぼ!」

 元気一杯のシチェックに、エヴァンスが顔を押さえた。

「ああもう、スウィンが怖い」

 心底怯えたような声をするのが上手い。

 リクは追いかけてきたという二人のほうにまた視線を戻した。

「セリア」

 その声は、いままで聞いたリクの声の中でも一等低い。

「だ、だって、リーヴが、もう帰ってこないような気がしたから」

 目線を合わせるのは避けながら、セリアが小さな声で白状した。

 ああそうか、セリアがシチェックにかくれんぼしようって言ったのか、それはシチェックも喜んだだろうなリクもぼくも近くにいるし。と、どこか気が遠くなりながら思った。

 外はもう暗くなり始めていた。

 エヴァンスはしゃがんで両手で頭を抱えていた。

 誰も気づかなかったのがすごい。

「気配殺せるなんて、お前、戦士に向いてるぞ」

 真顔のヴィイにそれを言わせるシチェック、すごい。

 リクは困惑顔で様子を見ていた役人に近づいて、宿の人数追加を告げると、役人の一人がうなずいて先を行った。怒った顔でも声でもないけど、無表情のリクの言葉にマンダルバ役人たちもなにも言い返せなかったみたい。

 リクはそのまま先に馬車に戻り、また本を読み始めた。

 怖い。

 とにかく、リクが怖い。

 ル・イースは抱えたままだったシチェックを立ち上がったエヴァンスに押し付けた。

「エヴァンス!」

 笑顔でエヴァンスの首に抱きつくシチェック、可愛すぎる。

 ぼくはシチェックに近づいて、彼の柔らかな薄茶の髪を撫でた。翠の目をきらきらと輝かせて、シチェックがぼくのほうに両手を広げた。

「レナン!」

 本当の名前なのか、リクが適当につけたものなのか、聞きそびれているその名前で、リク以外の人がぼくを呼ぶ。

 期待満面のシチェックを、両腕で受け止める。途端に両脚でぼくの胴体を挟むように全身でシチェックが甘えてきて、幼児とはいえ、大きめの男の子である彼の体重は予想以上に重くて、うわあと小さな声を上げながら後ろに倒れそうなところをエヴァンスに支えられた。

 よろよろとしながら、なんとかまず馬車の客席にシチェックを下ろす。

 うわ、靴も履いてない。

 とすんと、シチェックがリクの隣に座って、行儀よくしようとしているのか手足と背筋は揃えつつも、足が交互に踊っていた。むやみに抱きつける人ではないと知っているからか、リクの隣にいるシチェックはおとなしい。

 セリアたちのほうを振り向くと、唇を尖らせたセリアと、不機嫌丸出しのタグが立ち尽くしていたけど、ヴィイに促されて馬車へと戻っていく。

 ぼくはほっと息をついて、客席に戻ってシチェックの隣に座る。

 エヴァンスが続いて、最後にル・イースが戻った。

「困りましたね。戦力分散危機ですよ」

 エヴァンスが小さく息をついた。

 ああ、そうか。

 ぼくの周りは、いま危険なんだった。

 なにも知らずにリクの持つ本を覗き込むシチェックの片手を握ると、シチェックの両脚は嬉しそうにさらに激しくばたついた。


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