第10話



 辺りが暗くなりきる前に宿にたどり着くことができ、馬車を下りると寒さが身に染みた。スーザも高地にあるため昼夜の寒暖差があるが、さらにのぼってきたこの辺りは、日が落ちると顔まで冷えてくる。

 珍しくリクがシチェックを腕に抱いて、役人が案内する宿に向けて歩く。シチェックはリクの首にがっしりとしがみついて、嬉しいのかときどき奇声をあげていた。

 ぼくたちが乗ってきた馬車の向こうに、セリアとタグが乗ってきた馬車が停められていた。

 二人は疲れた様子だった。それはそうだ、偉いお人が乗る馬車と違って、彼らの乗ってきたのはごく普通の、主に荷物を運ぶためのもの。快適に過ごせるわけもなく、きっと思った以上に速度も出して追ってきたはず。

 ぼくは彼らに近づいて、声をかけた。

「あの、大丈夫?」

 エヴァンスはぼくの近くにいてくれて、その様子を後ろあたりで待ってくれていた。

 タグは不機嫌そうにうなずくだけで、セリアは、

「リーヴは?」

 と逆に訊いてきた。

「先に行ったよ。あ、そうだ、シチェックの靴、持ってない? 靴を履いてなくって」

 タグが無言で荷台に行き、彼らの荷物を持ってきた。しっかり旅支度をしてから追ってきたんだな。

 リクに一途な彼らに微笑ましくなって、思わず笑うと、

「なにがおかしい」

 とタグはさらに機嫌が悪そうに、シチェックの靴を荷物から取り出した。

「ううん、羨ましいなって、思って。ありがとう」

 シチェックの靴を受け取って、リクが入った宿へ小走りで追いかけた。

 宿の一階は食事処になっているのか、食卓と席がたくさん置かれていて、部屋に上がる前にくつろげる場所にもなっているみたいだった。

 リクはその一席を使い、シチェックになにか飲み物を与えていた。食事もできずにお菓子で空腹をしのいでいたシチェックは、自由人なようでもけっこう我慢強い子だ。

 シチェックが座る椅子の横、ぼくはしゃがんで彼に靴を履かせた。

 セリアとタグはヴィイに連れられて宿の中に入ってきた。

 ル・イースはもとより、エヴァンスもしゃべらない。いつもならリクの近くに来るのに、ル・イースにエヴァンス、ヴィイも、リクからは離れたところにいた。さすがの予想外すぎる出来事に、男たちはリクの判断を待っている様子だった。

 そのリクは、とくに怒った態度をしているわけじゃない。シチェックの隣の席に座り、宿の人に子供が食べられそうなものがないかと普通の声で尋ねていた。マンダルバの役人が、このまま夕食をこちらでどうぞとリクに言っていた。この一行の中でリクが筆頭にいることをわかっているみたいだ。

 ヤトゥ商会の大人たちは、持ってきていた荷物をそれぞれ運び入れ、宿の人や役人と短く話をしていたが、それが終わっても、リクやシチェックから離れた場所に立ったまま、誰もなにも発言しない。

 屈強な大人たちが、年若い、まだ少年のリクに、絶対の信頼と畏怖を感じている。

 緊張感の張り詰めたこの場の空気で、それがわかる。

 初めて見る、それは、リクのもう一つの顔だった。

 セリアとタグも動けないようだった。ぼくはどうすればいいのかわからずに、シチェックの隣にしゃがんだままでいた。どうにも、身の置き所がなくて。

 リクは一つ息をつき、シチェックの向こうからぼくを見下ろし、くいと顎で反対側の席に合図を寄越した。そこに座れってことかな。

 リクって、そりゃあ怖い人だけど、言葉や態度で怒りを見せたことはない。それがかえって怖くもあるんだけど。いまは、それほど怒ってないようには見えた。

 立ち上がってからリクの隣に行き、席に座って、リクの顔を横目で見る。

 やっぱり、怒っているというよりも、眉を寄せてはいるけど、考え事をしている顔に見える。

 大人たちのほうを見ると、いまだ動かず、リクの決断を待っている。

 さすがに沈黙が続きすぎていて、どうしたものかと、リクに声をかけようとしたとき。

 リクが宿の外に目を向けた。

 もう外は暗くなっていて、窓から景色もわからないくらい。

「ヴィイ」

 鋭くリクが言うと、ヴィイが無言で外へ向かう。

 いつのまにか、ル・イースがリクのそばに、エヴァンスがぼくの近くに来ていた。

 役人さんたちは、こちらの警戒心の見える行動に、少し戸惑う感じが見られた。

 外から、タグたちが現れる前にも聞いた口笛のような音が聞こえてきた。

 エヴァンスが息を吐いて、緊張感を解いたのがわかった。ぼくにはわからない音を、彼らは合図に使っている。

 なにも知らない宿の係員が、シチェックに子供が好きそうな挽肉の団子と野菜の炒め煮込みを持ってきてくれた。シチェックが喜びの声を上げて料理にがっついていた。

 宿の扉が開いて、ヴィイと、その後ろから、小柄な女性と長身の男性が入ってきた。

 え?

「あんたらか。先に行ったんじゃなかったのか」

 リクが、突然現れたフィジとキースに向けて言った。


「こんばんは。やっと追いついた」

 フィジがにこりと笑う。

 この高地ではやはり寒いのか、フィジはこの前に見たものよりも厚手の服を着ていた。キースはそんなに変わりのない服装だけど、背中から膝裏ぐらいの長さの長細い革袋と、二人分の旅装が入っていそうな大袋を背中に背負っていた。

「お腹すいたー。宿の人はいる?」

 フィジはやってきた宿の係員に部屋は空いているか尋ねていた。

 その間キースは荷物を下ろしながら、ぼくたちのほうに歩いてくる。

「詳しいことは、あとで」

 目線はぼくに向けて言う、男前の笑顔が眩しい。

 キースはぼくたちの隣の食卓に着くことにしたらしい。荷物を下に置き、やってきた係員に葡萄酒をと言った。フィジもあとから席に着き、同時くらいにぼくたちの食事がまとまってやってきた。

 ヤトゥ商会の男たちも、セリアとタグを離れた食卓に連れていっていた。セリアは不満そうな顔だったけど、口を出せる状況じゃないとは理解しているみたい。

「聞いてくれる? アーノルトって奴、初めからいけ好かない男だって思ってたけど、やっぱりでね、契約もしてないのにあたしたちを先にマンダルバに連れて行くつもりだったみたいなの。それはご遠慮申し上げたわけ」

 届いた葡萄酒を一息で飲み干し、フィジが自分の席を隣の卓からこちらの食卓に向けて置き、ぼくの近くに座り直した。

「あら、可愛い子が増えてる!」

 シチェックを見たフィジが歓喜の声を上げ、シチェックは口の中に食べ物をいっぱいに詰め込んだまま笑うという技巧を見せた。

 ぼくは、見たものだけを信じることしか、いまの自分にできることはない。

 子供をこんなにきらきらとした目で見るフィジが、子供を殺せるなんて、信じられない。

「それで?」

 リクが淡々と食事をしながらフィジに先を促す。ぼくはまだお腹が空いていなくて、まだ手をつけていなかった。この状況でものを食べられる図太い胃袋ではないみたいだ。

「アーノルトは最短の海路でマンダルバに戻るつもりで、あたしたちにもそれを伝えていたのね。でも、なんか様子が変だなって思ったから、案内の役人たちに訊いてみたの」

「それは、ちょっと脅してってことだから」

 楽しそうにキースが笑いながら葡萄酒の杯を手にし、補足する。

「せっかくきみと話がしたかったのに、違う道じゃ寂しいじゃない? だから、こっちの道に変えたってわけ。役人たちも、ちゃんと案内してくれたし、追いつけてよかった」

「半ば、強引にだけどね」

 さらなるキースの補足に、ああうん、そうかなと思いました。

「道中、こいつと一緒にいるつもりか」

 リクがぼくに目を向けてからフィジに確認する。

「そうね。楽しい旅にしたいから」

 小首を傾げて笑顔を見せてくれるフィジに、ぼくもやっと笑顔を見せられた。

 リクのほうを見ると、考え顔が少しあらたまっていて、リク自身の力も少し解けたような感じに見えた。

「そっちも馬車も客席ありか?」

「ん? そう、港までは上等なのをと用意はしてくれてたから、そのまま使ってる」

「わかった。ヴィイ」

 少し離れたところで食事をしていたヴィイがこちらに顔を向けた。

「俺とナオはこっちに移る。セリアとタグはそっちに乗せてやれ。シチェックもだ」

「このまま連れて行くんですか」

 リクの決定は覆らないと知っているだろうエヴァンスも、さすがに三人をマンダルバまで連れて行くことに戸惑ってはいるみたい。

「一度こちらに合流したからには単独では帰せない。護衛に誰かが抜けることになるのは避けたい」

「そうですよね。タグ、あとでヴィイの怖ーい説教だから、覚悟しといて。セリアは地中深くまで反省すること。しないだろうけど」

 二人とも返事はない。反省、しないみたい。

「そうねえ、引き返すのはやめといたほうがいいね。気になる視線もあるみたいだし」

 その視線というものは、ぼくはわかっていない。

 でも、ここにいる大人たちは、全員感じているようだった。知っている、というふうに、フィジの言葉にとくに反応を示さなかったからだ。この食事の最中も、ヤトゥ商会の男たちが警戒を解いた感じがしない。

 ぼくがマンダルバに向かう、それだけで、これだけ緊迫感の生まれることになっている。

 どうしてだろう、と思うよりも、なぜここまで、という思いのほうが強い。

 そこまで、ぼくがマンダルバ領主になるということを阻止したいものなのか。

 それとも、他の者を、領主の座につけたいからか。

 アーノルト陣営だけではない。

 管財官だって、信じ切れる人かどうかは不明だ。

 誰を、信じればいい。

「ナオ」

 きっとぼくは浮かない顔になってる。食事に手をつけないぼくに、リクが声をかける。

「うん、食べなきゃ、ね」

 食べて。寝て。

 人が生きるために、毎日しなきゃいけないこと。

 どれも、疎かになれば、まともな思考力もなくなってしまう。

 食欲は湧かないけど、食べなきゃ。

 がんばってじゃないと手が進まないぼくを、フィジとキースは和やかな顔つきで見つめていた。

 食後、一度宿泊部屋に案内してもらい、そのまま寝てもいいとリクに言われたけど、なんだか気持ちが落ち着かなくて、一階に一人で下りた。同じ部屋になっていたリクはとくに止めはしなかった。

 食事処を見ると、外への扉の近くに馬車の御者を務めてくれていた一人が椅子に腰掛けていて、外には出ないでと声をかけられた。それに素直に返事をして、食卓の一つでまだ葡萄酒とつまみを前にした、キースとフィジのほうへ向かう。

「疲れたんじゃない? 眠れないの?」

 灯りは最小限にしてあって、大広間の隅と卓上の燭台のみで、寒さでつけられていた部屋の奥の暖炉の火も、小さくなっていた。

 フィジの問いには首を振った。

 ぼくの胸の中の苦しい塊に、答えが欲しかったんだ。

 二人の前の席に座り、フィジの薄青の眼を見る。

 ゆっくりと瞬き、その大きな瞳はぼくを真っ直ぐに見返してくる。

「聞いたのね」

 なにをとは、言い返さない。

「はい」

「そう」

 フィジは目を閉じて、持っていた杯の中身を飲んだ。

 キースは傍観するつもりなのか、椅子の背もたれにゆったりと背を預けて、長すぎる足を組んだままだった。

「許せない?」

 その言葉に、とくに感情は乗ってはいない。

 フィジ自身、どう思われようと気にしない、そう言っていた。

「ぼくには、あなたを許すなんてこと、思うことだって、できません」

「なぜ」

 それについては不思議そうに尋ねられた。

 それは。

「あなたを、知らない」

 本当は、ぼく自身をだって、知らない。

「その場のことを知らない。なにがあったのか、この目で、見ていない」

 なにも、知らない。

 人の話を聞いただけで、なにを信じればいいのか、それすらわからない。

「知りたいの?」

「それだって、ぼくには、答えることもできない」

 真実なんて、あるのか、ないのか。

 噂が本当なのか、ただの噂なのか。

 判断できるわけがない。

 フィジはふっと笑う。

「不思議ね」

 なにが?

「きみには、話してしまいたくなる」

 目を閉じたまま笑うフィジに、自分を恥じた様子はない。これは自嘲ではないんだ。

「そうだね」

 キースも静かに言った。

「ここだけの話に、しといてくれる?」

 この場に宿の係員はおらず、扉の近くにいる警護人に向けてフィジは言った。

 警護人は余計なことを言わない。ご勝手に、といった態度だ。

「誰に聞かれたとしても、あのことについては、もう払拭できないものにはなってるんだけどね。それが好都合ではあるけど」

 ぼくを見ながらフィジはふっと笑う。

 好都合?

「あれで、仕事依頼の数は増えた。選り好みできるくらいにね。大きな依頼も増えた。きみの感覚で言う、悪人の依頼も」

 それが、好都合ってこと。

「魔法士の、才能ある人間って、この世にそう多くはない。どうしてだかわかる?」

 首を振る。

「力ある者は、戦場で、死ぬからよ。戦場で、争いで、諍いで、駆り立てられ、利用され、使われ、死んでいくの。戦士もそうね」

 キースはぼくを見たまま、ただ笑う。

「この辺りは、まだ平和。自国の領土以外は、あまり頓着していない。余計なことをすれば自国の領地をも失うって、知っているから。この辺りはね、かつては激しい戦闘ばかりで、ムトンも、昔はそんなに寂れたところでもなかったんだけど、民が疲弊しきって、人が寄り付かなくなっていまに至ってる。支配者たちからは見捨てられた土地。マンダルバだって、自分たちの土地を守りたくて、かつては激しく戦った者たちの子孫が、いま残されてる。元のマンダルバ領主は、とても民に慕われた人で、この土地を守るために命をも民のために捧げた。いまマンダルバの領主後継者探しをしているのも、かつて自分たちを守ってくれた人の子孫だからこそ、民は歓迎してくれるから。そして、前領主ザグゼスタも民から慕われていた。血統とは、その人の子供だから信じたい、そういう願いだけで、成り立つものでもある。ある意味信仰のようなものね。人が信じる力って、侮れないから。話が逸れたかな」

 自分の知らないことを知るのは、遠回りとは思わない。

「そう、魔法士。彼らは太古の昔から、人々のために、力を注いできた。魔法士協会に行ったんでしょ? あそこはね、それこそ、ほとんど太古の昔から、組織として存在してる」

 この世界でいう太古。何千年も前、いや、それ以上の話。

「細く細く、記録を残していて、いまの組織の元が出来上がるまでは一本縄ではなかったから、残念ながら途切れているところもあるけど、協会本部があるミリアルグには、巨大な記録保管庫があるくらい、過去の魔法士の歴史を繋いでいる。ミリアルグ自体が、この大陸の歴史すべての記録があるところだけど」

 司法国家、ミリアルグ。そんなところなんだ。

 まだフィジの話が見えてこない。

 すごく、大きな話になっている。

「魔法士協会ってところは、それくらい大きなところ。各国に支部があって、管理する人がいて、魔法士はそこに行き、依頼人の話をし、どんな依頼があったか、情報を提供することもある。基本的に、依頼人の話をしないって契約しない限りは、依頼内容を話してもいいことになってる。表経路はね。裏経路、つまりは協会を通さない仕事もある。これは、人に言えない仕事を依頼したい者がほとんどだから、契約に口外しないことが盛り込まれることが多い。意味がわかる?」

 まだ、わからない。

「ごめんね、あたし、説明は下手だから」

「大丈夫です。聞きます」

「ごめんね。ちゃんと終わるから。そうね、なぜ、魔法士に協会があるかってところかな、大事なのは」

「魔法士のためじゃないんですか?」

「当然、魔法士が仕事をしやすくするため。そして、依頼人にもわかりやすくするためでもある。でも、本当はみんな自由に契約だの仕事だの、したいわけよ、裏経路の仕事だっていまだに多いわけだし?」

 うん。

「自由にしたいんだったら、協会なんて必要ない。自分自身の力で仕事をしていけばいいから。でも、そうじゃない。魔法士協会は、魔法士同士の情報の共有のため、これが根本にある。これは傭兵組合も同じ。目的が、あるの」

 目的?

「傭兵のことで訊きたいことがあれば、こっちに聞いてね」

 フィジがキースを指差し、キースは楽しそうに笑みを浮かべる。

「戦場で、諍いで、人は死んでいく。争う二者があれば、どちらかが。それに巻き込まれる人だっている。争う者同士が決闘でもできればいいけど、誰だって自分の血は流したくないよね、だから他人を雇う。魔法士や戦士は、自分の力を誇示できればいいって人種もいるけど、志のある人だっている。そういう人は、戦場でなにを願うと思う? 支配者は、味方の犠牲がいかに減らせるか苦心をする。それは戦う者だって同じ。きみだったら、誰のために戦う」

 誰の、ために。

「悪人といわれる人種はね、結構な権力を持っていることが多い。それこそ弱者を犠牲にするようなね。そういう組織の中に入ると、自由に動きやすい。やりたいことをやらせてくれるし、なにか事を起こすのも、願えば最前線に行かせてくれる。現場でなにが起きているのか、自分の目で確かめる事だって簡単」

 それって。

「子供は、出来るだけ逃したよ」

 フィジは、小さな声で、穏やかに笑う。

「ほんとに?」

 いまフィジが言っていたこと、たくさん、いろいろあって、それを思い出しながらいろいろ思い、たくさん考えて、だから胸がいっぱいで、目が熱くなったけど、全然関係がない自分が泣くのはおかしいと思って、我慢して。

 なんだか変な顔になっているのは自覚していた。

「俺もその場にいたから。証言できるよ」

 キースに向かう。彼も穏やかな顔でうなずいていた。

 目の前の二人の姿が滲みそうになって、呼吸だって浅くなって苦しいけど、この二人を、ちゃんと見なくちゃ。

「傭兵組合って、有名人を変装させてまで戦場に潜入させてるなんて知らなかったー。黒髪にあご髭の、不自然で変な男だったんだからこの人」

「フィジはいまと同じ美人さんだった」

「当たり前でしょ」

 そうか。

 そうなんだ。

「戦場の犠牲者管理は、傭兵組合の最大の仕事だからね。そのために組合があると言ってもいい。民間の犠牲者をどれだけ減らせるか、本部は毎回頭を抱えてるよ」

「ふうん? だったら戦場に行けばいいじゃない? あたしと一緒になんていないで」

 拗ねたような彼女に、

「いまもやってることは同じでしょ。きみが、それをやってるから」

 彼は目を細めて笑う。

 惚気になってきて、思わず笑った目尻から雫がこぼれて、それを知られないように拭った。




 冷たい空気が体を芯から震えさせ、自然と目が覚めてしまった。

 リクはもう目覚めていたようで、隣の寝台はすでに空だった。

 リクは、窓辺に立ち、腕を組んで外を見ていた。窓辺は、夜闇から明るさを取り戻しつつあった。

 こちらに目は向けなかったのに、ぼくが起きたのを気配で感じたのか、

「まだ、いまなら引き返せる」

 リクはそう言った。

 山の冷たい凛とした空気にも馴染んで、そこにいるだけで、辺りの支配者のように見える。

 厳しくて、冷たいときもあるけど、ときどきあったかくて、そして、きみは優しい。

 いま窓の外にある、自然そのものみたい。

 険しい山のように、厳しい荒野のように、豊かな雨のように、強い日差しのように、闇の中で人を導く灯火のように。

 やっぱり、ぼくにとっては、きみに逢えたことは奇跡なんだ。

 だから。

「行くよ」

 これは、初めからぼくに示された道だ。

 人任せなところは多いけど、唯一、いまの自分が選べる道だから。

 だから、もう少し、きみのそばにいてもいいかな。




 早朝、予定よりも早く一行は出発した。

 昨夜話していた通り、リクとぼくは、フィジとキースの乗る馬車に、他の人たちはぼくたちが乗ってきた馬車にまとまり、タグとセリアが乗ってきた馬車は置いていくことになった。フィジとキースの馬車の御者もここでお役御免となった。

 ヤトゥ商会の男たちは皆真剣な目をしていた。いつもはおしゃべりなエヴァンスも、いまはリクの忠実な部下に徹している。いつもなにかしらを演じている色男じゃない、他の人たちのように、野性味のある男の一人だ。

 昨日以上に緊迫感のある一行の中、フィジとキースだけはいつも通りだった。

「あの子も一緒にいたかったけど、しょうがないね」

 心底残念そうに、フィジはシチェックがこの馬車内にいないことを嘆いた。

 リクは昨日とは違って、本を読んではいなかった。腕と脚を組んで、目を閉じている。

 キースは、長細い皮袋を馬車の客席に持ち込んで、自分の足元から座席に立てかけていた。中身の想像はついていた。

 フィジは、ぼくの気の引きそうな話を自分からしてくれ、ぼくはそれに相槌をうったり、ときどき質問をしたり、彼女はぼくとの会話を本当に楽しそうにしてくれた。

 昼食をとるための集落の一つに入ったときは、まだ朝と同じ感じが続いていて、状況は良くも悪くもないといえた。それもぼくにはわからない感覚だが、周りの人たちの様子からそう感じた。

 昼食後、馬車に乗り込む際、フィジが、

「うーん、身隠しの術、解いたほうがいいのかな」

 そうつぶやいた。

 ぼくにはわからなかったけど、フィジとキースは、いま他の人に魔法の気配を感じさせないようにしているようだった。

 客室に全員乗り込んだあと、リクがフィジに言う。

「いや、そのままにしておいてくれ」

「そう?」

 どうしてだろう?

 強い魔法の力を持つ人がこちらにいると、姿が見えない者たちにわかったほうがいいんじゃ。

「ああ」

 リクは短く言って、また目を閉じた。

 午後も同じような感じで、速度は速めを保ったまま馬車は進んでいった。

 いきなり馬車が止まったのは、まだ明るさを残しながら、日が傾き始めたころ。

 馬車の窓を見ると、ヴィイの馬が前方から近寄ってきた。

「うん、なんか嫌な感じがするね」

 フィジも低く言う。

 リクが客席の扉を少し開けた。

「次の宿が怪しい。確認のために先行したマンダルバ役人が戻らない」

 ヴィイが低い声で報告してきた。

 どういうこと?

「マンダルバ側が怪しいのか、それ以外なのか、まだわかんないね」

 フィジはまだ緊張感のない声で言う。

 マンダルバ側?

 みんな普通の役人さんたちに見えたのに。

 暗くなっていく辺りと一緒に、いま自分たちが置かれている状況も闇が近づいてくるみたい。

 何度も深く呼吸をする。

 この中で、ただ一人なにもわからないという不安に、息が詰まりそうだ。

「このまま、宿の先を行く」

 リクは何事でもないように言う。

 この人は何事にも動じない人だと少しは知っているけど、大人たちがこれだけ緊迫しているのに、どうしていつもと変わらないでいられるのか。

「承知」

 ヴィイはリクの指示を当然のように受け入れ、馬を前方に走らせた。

 ヴィイのあとをすぐに馬車も走り出した。

 後ろが気になった。

 みんなの馬車は、ちゃんとついてきてるだろうか。

 だんだんと外が暗くなってきて、こんな山の中では道側に街灯もない。

「あ、火精魔法、使える人がいるんだね」

 フィジの声に気づく。

 いま単騎にはル・イースも乗っていた。彼だろうか。

 馬車の中からだと外がどういうふうになっているのかわからないけど、暗闇でも馬や馬車が走れるようにしているようだ。

「魔法って、使えると便利でしょうね」

 基礎的な単純なものであっても、生活には役立つはずだ。

 それは、普通の人にとっては、羨望の対象だろう。

「そうね。戦場に行かない魔法士のほうが、多いよ。そういう人は、魔法士とは名乗らない。ちょっと魔法が使える普通の人、そんなふうに暮らしてる。きみも、魔法を使いたい?」

 フィジはそう言ってくれるけど、素質がないと。

「でも、そんな簡単に、精霊を得るなんて、できないんでしょ?」

「精霊召喚なら、いつでもできるけど。呼べば必ず精霊がつくわけじゃないけどね」

 できる?

 暗くなった馬車内で、フィジがぼくの目の前でにっこりと笑う。

「聞いたことなかった? 術者って、普通の人に精霊を与えるための専門職なの」

 よく、わかりませんけど。

「んーとね、魔法士を極めれば術者と呼ばれるわけじゃない。術を使うから、術者。それで、術者は、唯一、人が精霊を手に入れるための術を使える。術者がいないと、魔法士は存在できないわけ」

 そういうことなの?

「納得した?」

「はい」

 術者。

 まだこの目でなにも見てないけど、目の前のこの人は、ぼくが思っているよりすごい人なんだと、やっと思えてきた。魔法士協会の人が、困惑しながらもこの人のことを敬意をもって話していたわけだ。

「仕事依頼は、そっち方面も多いんだけど、魔法士として名を上げている人がいま多くはないから、協会からの直接依頼もあるくらいで……あ、言っちゃった」

 ん?

「それ、協会の機密じゃないの?」

 キースが失笑する。

「もう、きみのせいだ、しゃべりすぎちゃう」

 むすっと、自己反省するように、フィジが窓を向いている。

 えーと、聞いてはいけないことだった?

「タギヤは、協会の仕事だったの。傭兵組合から来てたこの人とおんなじ」

 開き直ったような声でフィジが言う。

「自ら汚名を被れる人は、そうはいないんだよ」

 キースが外を向いているフィジを愛しげに見る。

 支配者の命令は、簡単には覆らない。

 人は、大勢亡くなった。

 だからこその、志ある人の、願い。

 誰かが必ず行う命令なら、少しでも、と。

 その願いによって、救けられた命もあった。

 そういう、ことなんだ。

 目の前の二人は、この世界の中でも、とても高いところにいる人たちなんだ。

 知ることができて、よかった。

 そう思っていると、再び馬車が止まった。

 もうとっくに、泊まる予定だった宿は過ぎていたはずだ。

「ナオ、まだ馬車からは出るな」

 リクがそう言い置いて馬車を下りていく。

 行ってしまうの?

 この場にフィジとキースがいるけど、それでも、リクが隣にいるといないとじゃ、全然違う。

「この馬車が危険な目にあうようなら、あたしたちも自分で火の粉は払うから、一緒にいればいいよ」

 フィジがぼくに目を向けて言ってくれる。

 味方になってとは言ってはいないけど、そう振る舞ってくれている二人も、優しい人たちだ。

「ありがとうございます」

「気にしないで。こんなのはいつものことだから」

 心強い。

 でも、やっぱり。

「ナオ」

 外からきみが呼ぶ声が聞こえた。

 扉が開いて、灯りもないのに金色の目が見えた。

「馬車を捨てる。馬に乗れ」

 なにが、起きてるんだろう。

「そうなったか。でも、きみ、馬は大丈夫なの?」

 全然大丈夫じゃないです。

 フィジの声には答えられなかった。

 急いでみんな外に出て、自分の荷物を手に持つ。

 ぼくは手ぶらで、とても申し訳がない。

 向こうの馬車はみんな機敏に動いていた。セリアでさえも。普段は着飾ることを楽しんでいるけど、彼女も過酷な環境で生きてきた人なんだ。

 シチェックは一番体格のいい、いまのヴィイの相棒さんの背中に紐で手早く括りつけられた。こんな状況なのに、楽しそうにしている。その逞しさが羨ましい。

 馬車の陰で、一度一同が集まる。

「セリア、タグ、おまえたちはエヴァンスの指示には絶対に従え」

 有無を言わさぬリクの声に、二人が硬い表情でうなずく。

「シチェックと、お前たち四人、できるだけ先行しろ。こちらは少し速度を落とす。その間、目一杯走れ。行け」

 リクが話す間も、馬車の馬を道具から外し、鞍や馬銜を手慣れた手つきでつけていた男たちは、リクの言葉が終わると同時ほどに、なにも言わずに動き出した。タグも与えられた馬に乗り、自分の前にセリアを引き上げ、他の男たち二人のあとを追いかけていく。

 暗闇の中を、馬影は小さくなっていく。

「彼はどうするの?」

 フィジが言ったのはぼくのことだ。

「術者フィジ、あんたに訊きたい」

 リクの声はいつもよりも若干早い。

「こいつを守れという依頼は、いま受けられるか」

 そんな依頼、こんな状況でこの人に言っちゃうの?

「報酬は事後交渉でいいんなら」

 あなたもなんでそんなあっさりと。

「じゃあ頼む。ナオ、キースの馬に乗れ。馬の扱いならこの人が一番慣れてるはずだ」

「おいで」

 キースが素早く、ぼくの体を軽々と馬に移動させる。

 待って。

 そう言う間もなく、キースが後ろに乗り込んできて、直後に馬を走らせた。

 待って!

 馬を走らせながら、ぼくが馬に慣れるように、後ろから片手で支えてくれながらもう片手で手綱を操るキースが体の使い方を説明してくれる。

 腕をどう使い、上半身をどの角度で、頭と首の力加減、脚の力の入れ具合はどれくらい、そんなことをそれぞれを聞きながら、別のことを思う。

「上手だ。いまは前を見て」

 キースの言葉は、気持ちが受け入れられなかった。


 後ろを、見たいのに。


 リクが、そこに残っているのに。



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