第6話



 目覚めたとき、見ていた夢の感情が胸に残っていて、悲しみでいっぱいで、鼓動がやけに体全体に響き、その痛みに寝ていたままの姿勢でいることができず、ゆっくりと身を起こした。

 瞳に涙が溜まっているのがわかって指を当てると、ひとしずく、パタリと落ちた。涙はそれだけだった。

 まだ薄暗い室内で、夜明け前なのだとわかった。

 一人だった。寝台の横には、誰も寝てはいない。

 ここは、夢に漠然と見ていた世界ではない。

 いつか、すべてを思い出すときがくるだろうか。

 そうして、もうひとつ、この身に感じている、この世界の者でもあるという証も、明らかになるときがあるだろうか。

 夢で見る、自分のものだと思う記憶。

 そんな自分でも、この世界で違和感なく行動できる矛盾。

 辺りは静かで、考え事をするには最適な時間だった。


 ぼくは、この世界の言葉を理解し、少し舌足らずにしゃべる。

 ぼくは、この世界の文字を、あまり認識していない。

 剣を使う人を怖いと思い、誰も傷つかないように願う。

 魔法を不思議なものだと思い、普通の人にはできないことができる人を羨む。

 頭のいい人は尊敬できるし、身体能力が高い人は憧れの域だ。


 夢のことは、いまは考えない。

 自分には家族がいたという、ただそれだけの感情。

 ここには、誰もいない。


 辺りを見渡すが、人の気配がない。

 寝台から身を起こし、風呂場や洗面場も見たが、誰もいない。

 孤独感に拍車がかかりそうになるのを必死で押し留めながら、人を求めた。

 部屋の扉を開け、廊下へと出る。

 各所に置かれた蝋燭の薄明かりの中階段を見つけ、のぼった。

 のぼった先に求めるものがあるような気がしていた。

 裸足に感じる床石の冷たさは、なぜか気にならなかった。

 表通りから見れば窓のない外観から、宿は五階相当と感じるが、天井が高い作りで実際は四階建てだ。階段は、四階の天井部、屋上まで繋がった。

 扉もないのでそのまま屋上に出ると、胸くらいの高さの囲いで建物の端を盛り上げただけの広い空間だった。

 薄闇が世界を覆い、暁はいまだ彼方のようだった。

 建物の二つの階段はどちらもここに繋がっているようで、反対側にも同じような出入り口が見えた。

 その向こうに、人影があった。

 ぼくは無意識に近づいた。

 近づいてくるぼくに気づかないわけはないのに、人影は反応しない。

 屋上の囲い、手すりのような高さのそれに腰掛けたリクは、顔を横向け、明るくなり始める場所の一点に目を向けているようだった。

 まだそこは暗く、昇光の兆しはなかったけれど、だんだんと全体が明るくなり始めていて、それに浮かび上がるリクの姿が神秘的だった。

 世界の静けさを己の力で制し、夜明けを己の力で導いている。

 そんなふうに見えたのは、リクの存在が強すぎるせいか、ぼくの依存心のせいだ。

 こちらに顔も向けないリクのそばまで行くと、その横に黙って腰を下ろした。

 顔の近くにリクの組んだ足先があり、それは微動だにしなかった。

 その足指の形さえ整っていて、誰かが作り上げた彫像のようだ。

 孤独感は、いつの間にか消えていた。

 そばにいるこの人の確かな存在感は、他の幾百、幾千の人に勝る。

 この時間は、なにが作り出したものだろう。

 これから起こる、予測不能な未来の前に与えられた、唯一の静けさみたいだ。

 会話のない時間が流れ、辺りはだんだんと明るさを増していった。

 いつしか、隣の足先が揺れていた。

 聞こえぬ音楽に合わせるように、わずかに踊っている。

 眠れなかったのか、考えごとがあったのか、見上げたけどその顔が見えなくて、リクがなにを思っているのか想像もできない。

「明日にはもう出発だ。かまわないんだな」

 ひとりごとのような声に、

「きみが一緒なら」

 そう答えた。

「思い出したよ、少し。ぼくはきっと、カルトーリじゃない。でも、ぼくは自分ではなにもできないから。きみに、ついていても、いいなら」

 ぼくは、初めて、自分の意見を言ったのかもしれない。

 これからを、どうしたいのかを。

 頭上で、ふっとリクが笑った気配がした。

 声はなかったけど、きっと笑ったと思う。

「好きにしろ」

 リクは、いい、とは言わない。

 容認するけど、肯定しない、ってことかな。

 ひょいと軽く飛び降りたリクは、真っ直ぐに階段へと向かった。

「寝直す」

 両腕を上に突き出して軽く伸びをしながらリクは足を動かしていたが、ぼくが眺めていたら、ぴたりと、その足は止まった。

 足はそのまま、上半身だけ振り向いたリクは、

「まだそこにいる気か?」

 とぼくに訊いた。

 ぼくは身を起こした。

「ぼくも寝直す」

 リクはそのまま待ってくれた。そんな気分だったのだろう。

 リクが動かなかったので、ぼくはそのままリクを追い越して先に階段を下りた。リクはその後ろを下りてきた。

 リクがぼくを気に掛けてくれたのが、とても嬉しかった。他の子供たちと一緒だ。気まぐれな人の気持ちが自分に向くと、それはすごく嬉しいことなのだと、よくわかった。

 リクにとってぼくも、他の子供たちと同じくらい心に留めてもらえる存在ならいいのにと思った。

 部屋に戻り、リクと大きな寝台に横になって、少しだけ優越感があった。

 ぼくがカルトーリ候補で、いまのリクにとって有効な人間であること。

 リクがどんな人であるのかいまだ不明で、たとえば人を死に追いやることを平然とできる人かもしれない。

 そういうことを、なにも考えずに、このときだけは、リクの隣はぼくのものだった。

 リクは薄闇の中、どこを見ているでもなく目を開いていた。

 ぼくはこっそり、その顔の輪郭を瞳に捉えていた。眠気はすっかり飛んでしまっていた。

 さっきまでは感じなかったけど、肌寒さが体に堪えていたようで、掛布に包まっていても少し体が震えた。

 広い寝台で身を離して横たわっていたリクは、それに気づいたのかこちらを見ると、くっと指で手招いた。

 少しためらったあと、ぼくはリクに身を寄せた。

 リクの体温は、いつもぼくに心地よさをくれる。

 普段は近寄り難いところがあるし、いまも甘えられるような雰囲気はまったくない。

 ただ、そばにいるのを許してくれている。

 でも、それを特別扱いされているとは思わない。

 身を寄せたのは、ぼくのほうだ。

 ぼくが、リクを特別視している。

 どんな人とも比べることができない存在だった。

 額をリクの胸に軽く当て、人の温もりに少しだけ甘えた。

 リクはどういう気分だったのか、ぼくの頭を片手で軽く抱えた。

「ひとつ、言っておく」

 リクの声が額に響いた。

「うん」

「おまえがカルトーリではなくても、最後まで付き合ってやる」

「うん」

 そのひとことは、この世界で頼る人がいないぼくを、どれだけ勇気づけてくれたことだろう。

 目が熱くなる。

「覚悟はしておけ。穏やかに過ごしていられるのは、いまだけかもしれない。マンダルバに行くのなら、なにが起こるかわからない」

「うん」

 わかっていた。

 自分がカルトーリであろうと、そうではなかろうと、カルトーリ候補としてマンダルバへ乗り込んで行くのなら、平穏には過ごせない。

 ぼくがマンダルバへ行くのは、カルトーリ候補であるぼくを、リクが必要としているから。

 そのことに、ぼくはとっくに気づいている。


 二人とも、互いを利用している。


 それでも、いま感じているようなわずかな心のふれあいが、偽善めいたものだとは思わない。

 少なくとも、ぼくにとっては。

 その後は互いに言葉に出すことはなく、どちらにも睡魔は訪れぬまま、マンダルバ出発前日の朝を迎えた。




 眠気もないので早くから起き出したぼくとリクが二人で朝食をとっていたときから、慌ただしく時間は進み出していた。

 一番にやってきたのはセリュフだ。

 昨日、マンダルバ領事館を出たあとすぐに別行動に移ったエヴァンスに、すべての出来事を聞いたのだろう。

 そのエヴァンスもすぐあとから部屋に入ってきた。

 エヴァンスの身だしなみは今日も朝からばっちりのようだ。セリュフはなにかと忙しくてそのへんにあったもので適当に、という格好。

 ぼくたちが食事を終えるのを待たずに、話は始まった。

「少しばかり状況が変わったか。二人だけで行くつもりはないんだろう? いまある手駒で足りるか?」

 セリュフは食卓についていたリクの隣に座ると、目の前の新鮮な野菜の盛り合わせや果物の切り身を手でつまんだ。朝食はまだのようだ。

「ル・イースはこっちに。エヴァンスもそのまま。ヴィイはあっちか。他に誰かいたっけ?」

 リクも食べながら話す。

「エヴァンス、追加を頼んできてくれ」

 とセリュフが言うと、エヴァンスは、はあい、といったん部屋を出て、ふたたび戻ってきたときには、ル・イースが一緒だった。いつもと変わらず黒づくめ。

「おまえの隣に座れる人間は貴重でな、なかなか他が出てこないな」

 確かに、いま食卓についた、セリュフ、エヴァンス、珍しく共に食事をしているル・イース、以前に会ったことのあるヴィイ、その人たちはこのリクの隣にいることができるだろう。さっき、セリュフがなにも言わずに勝手にリクの隣に座ったように。

「向かいに座れる人間は、もっと貴重だけどな」

 とセリュフはぼくを見てにやりと笑った。

 ぼくがリクの向かいの席に座っていたからそう言ったのだろうけど、リクは誰が前に来ても拒絶はしないと思う。ただ、他の人がリクとずっと向かい合っていられるかはわからないけど。

 ぼくがリクの向かいにいるのは、リクを見ていられるから。

 ずっと見ていても飽きない人なんだ。

「万全じゃないな」

 リクが言うと、

「他はいままで必要なかったからなあ。接近系で事足りてた。増やすか?」

 セリュフがそう返した。

 なんのことだかさっぱりわからない。

「そうだな。でも、すぐに雇えるか?」

「街の斡旋所じゃ心許ない。協会をあたるしかないが、名目はどうする」

「うーん」

 と上を向いて、珍しくわかりやすくリクが考えごとをしている。

 その間に追加の料理が数人の係員によって運ばれてきた。もともとあったのは野菜と果物は大目に、他にはぼくとリク二人が食べられるだけの分量だったけど、追加されたのは肉料理と魚料理ばかり。さすが体格のいい男たちが求める食事といった感じ。いまから本格的な晩餐かというくらいだ。

「個人的事情?」

 リクが考えるのをあきらめたように言った。

「そんなんでやってくる奴に実力があるもんか。駆け出しの奴しかきっと来ないぞ」

「だよな」

「裏町じゃあ、同じようなもんかな。なんか情報ないか? エヴァンス」

 セリュフに話を振られたエヴァンスは、切り分けていた肉料理に道具を突き刺したまま停止した。

「えっと、いま目ぼしい名前がないんだよね。そんなことになるかと思って調べてたんだけど。火風系って不要だし、地系はどうしてもってほどじゃないだろうし、樹系だとそりゃ医療支援てとこで不要とまでは思わないけど、現場ではねえ。水系って、どうなんですか?」

 リクに問いかけた。

「役立たずだな」

「ですよねえ。よっぽどじゃないとだめなんでしょ? この狭い街じゃ常時いませんよ、そんな実力者。奇跡的な偶然をあてにしないと、あ」

 エヴァンスがなにか思い出したように、言葉を切った。

「なんだどうした」

 セリュフが気のない声で促した。

「ちょっと噂が。本当かなあ」

 煮え切らないエヴァンスにセリュフが急かす。

「いいから言え」

「うーん、あくまで噂なんですけど。金髪碧眼のえらく格好のいい男がいるって話で」

「なんだ、自分のことか」

 セリュフが吹き出して笑う。

「とんでもない。俺くらいは山といますよ。そうじゃなくて、ずば抜けた長身で、ずば抜けて均整がとれた肉体の、ずば抜けた男前の、金髪碧眼って、思い当たりませんかね」

「そりゃあ、傭兵の」

「雹雲の」

「キスリングは、引退したって聞いたぞ」

 少し真剣な眼になったリクとセリュフの言葉はうまいこと繋がった。

「引退したってことは、存在しないってことじゃないでしょ」

「あれは金髪じゃないはずだ」

「でも薄色の髪なら、薄茶も金髪に見えないこともないし」

「でもなあ」

「いま、いくつだ」

 リクがエヴァンスに訊いた。

「まだ若いでしょ。数年前に引退したって噂が流れたときには、まだ三十前だったんじゃないかな」

「その若さで引退か」

「いろんな噂が出ましたけどね。どこかに仕えたって話が有力です」

「そのキスリングが、このスーザにいるっていうのか?」

「それがねえ、昨日なんです、聞いたのが。だから本当かどうかってのが、どうもわかんなくて」

「いますぐ調べろ」

 セリュフの言葉にエヴァンスが肩を落とした。

「そう言うと思った」

「誰か使え。おまえはヤトゥ商会出資者子息の側人なんだろうが」

「タグが暇そうだ。使ってやれ」

「リーヴがそう言うなら。でもあいつは俺の言うことなんか聞きゃしませんよ」

「リーヴの命令なら喜んで尻尾振るぞ」

「ル・イース」

 リクに呼ばれたル・イースが、無言無表情で食卓を離れた。

「助かります。彼からなら速攻でしょ」

 エヴァンスはようやく手の動きを再開させた。

「その話が本当だとしても、雹雲のキスリングが個人の契約で仕事をするとは思えんけどな」

「引退したならなおさらだ」

「じゃあ、なんで調べるんです?」

「敵にまわったら、厄介だ」

 リクが言う。

 敵?

 どうして敵という言葉が出るんだろう。

「それは厄介に違いないでしょうが、でもそれはないでしょ」

 セリュフがにやりとした片頬笑みで、エヴァンスに向いた。

「わからんぞ。真相は不明のままだからな、雹雲の引退については。引退したってこと自体、ただの噂だ。戦場で見かけなくなった、というところから出た話だからな。組合を通さない仕事を傭兵が請け負わないこともない」

 傭兵って、ひとつところに所属しない戦士、ということだろうけど、そんな人が敵にまわると厄介って、どういうことだろう。

「リーヴ、そちらが不思議そうな顔してるぞ」

「そりゃそうでしょ。こんなわけわかんない会話聞いてるだけじゃ、ね」

 隣に座っていたエヴァンスがこっちを向いて笑いかけてくれた。

 案外この人もリクやセリュフと同類だ。個性的なリクやセリュフに従っているようで自己をしっかりと持っていて、根本は他人に左右されるような人じゃない。

「ちゃんと説明したらどうです? 内心疑問だらけですよきっと」

 エヴァンスがそう言ってくれた。

 その通り。

 疑問だらけなんです。

「わからないことがあるなら、自分から訊け」

 リクがぼくを見ずに言った。

「訊いても、いいの?」

「訊けと言ってる」

 ぼくの問いに、そっけなくリクが答える。

 あまり質問をすると、記憶がないことがばれてしまわないかなと思っていたから。

 でもリクがそう言うのなら、無知な子供、ということでいいのかな。

「疑問には自分で歩み寄れ。なにもしなけりゃなにも変わらない。なにもしないなら、馬鹿と一緒だ」

「えー? 俺は賢いお人だと思うけどな。ちゃんと周りを見てる」

「見てるだけでどうする。リーヴの言うことは真理だ」

 そうだ。リクの言うことは正しい。

「じゃあ、訊く」

「なにが知りたい」

 リクの問いに、あらためて考えた。

 そうだな。

「きみは、誰?」

 エヴァンスが口に含んでいた肉を喉に詰まらせたらしく、水を求めて手がさまよっていたので、近くの硝子杯を渡してあげた。

「どうも、げほっ、ごほっ、はあっ、びっくりしたっ」

 とエヴァンスは水を飲み干した。

 エヴァンスの失態にか、ぼくの唐突な言葉にだかわからないけど、セリュフは食事の手を止めてうつむき、笑いを堪えるように腹を波立たせている。

 リクはぼくの唐突さに慣れたのか、全然動じる気配もなくぼくを見た。

「質問の意味がわからん」

 そうだろうな。

「えっと、リーヴだったり、キルリクだったり、ヤトゥ商会出資者のお坊っちゃまだったり、ここにいる誰よりも偉そうだったり、何者なのかなって」

 ぼくにとって、記憶のない自分のことよりも、これは最大の疑問だ。

「いまさらその質問ですか。いままでなんにも説明してないんですね、ほんとに。訊かなかったほうもどうかと思いますけど」

 エヴァンスが呆れたように言った。

 それは当然だ。ぼくがリクと一緒に過ごした日数はもう相当なものだ。

「面倒なことはしたくない。説明はお前に任せた」

 リクは自分のことなのにまるで関心がないように食事を終わらせ、彼の背丈からみれば長い足を組んだ。

「どこまで説明していいんでしょう」

 力ない声でエヴァンスが確認した。

「最低限」

 この返答では、全部説明してくれる気はないらしい。

「わかりました。どんなものでも疑問はどんと俺にぶつけてください」

 胸を張るようにエヴァンスが言った。

「リーヴは名前、キルリクは別称、ヤトゥ商会はセリュフが代表を務めている貿易商社の名で、その出資者といっても実際にはいません。俺たちが立ち上げた商社ですから実績がないんで、ある資産家の名前を借りましてね、その口利きでいままでのし上がってきたわけです。その人はお察しの通りリーヴの父親じゃありません。リーヴはこの通り未成年だから、誰かの庇護下にあるということにしないとなにかと都合が悪い。そういうわけで、ヤトゥ商会出資者の息子ということにして、悠々自適に過ごしておいでなんです。リーヴが偉そうなのは、身分が偉いからじゃありません。実際の出資のほとんどがリーヴですし、それに関しては発言権も大きいんですけど、もともとこんな人です。どんな王侯貴族を前にしても、たぶんこのままでしょうね」

「絶対にそのままだ」

 セリュフも断言する。

「こんなとこで、答えになりましたかね」

「はい、ありがとうございます」

 とりあえず、少しはすっきりとした。まだ疑問はいっぱいあるけど。

「それでいいのか」

 リクの言葉に甘えて、いままでの会話で疑問に思ったことを訊いてみた。

「傭兵の、キスリングって、誰ですか?」

「戦士の中でも相当な実力を誇っていたカドルです。あ、カドル、わかります?」

 首を振った。

「魔法を扱える戦士のことをそう呼ぶんです。どんな武器を扱おうと、魔法を身につけた戦士をカドルと呼びます。遙か太古の伝説的な魔法戦士の名前がそのまま呼称になったと言われてるんですが、本当だかどうだか。それで、キスリングは若くして名を上げた剣使いのカドルで、水精魔法の使い手です」

「水精?」

「そう、水の精霊。あ、その顔はわかってませんね。全部説明させていただきます。魔法を扱うには、精霊の力を借りなきゃいけません。精霊には五つの種類がありまして、火精、水精、風精、樹精、地精、です。力の種類はなんとなく想像できます?」

 うなずく。

「よかった、いちから説明しなきゃいけないかと思った。それで、キスリングは水精を持っていて、その力を相当に極めた実力者です。実力のあるカドルには二つ名がつけられることが多いんですが、キスリングも別名、雹雲、と呼ばれてます。傭兵ですから、なおのこと有名になりまして」

「傭兵だと、有名になるんですか」

「傭兵になるには、傭兵組合の認可が必要です。相当の実力がないと、認可は下りない。ただの自由戦士を信用する人間はいやしません。たとえば、国家やなんらかの組織が傭兵を雇うということは、傭兵組合を信用して実力者を雇う、ということになります。金を払うからには、役に立たないと話になりませんよ、戦さの世界は。ちょっと血生臭い話になってしまいましたね、すみません。キスリングは容姿が端麗なことでも有名で、傭兵界では一、二を競う有名人です。そのキスリングが数年前から戦場に現れなくなりまして、引退説が流れたわけです。戦死したという話もないですし、真相やいかに、と噂が多い人でして」

「そんな人が敵に、なるんですか」

「極端ですけど。いまあなたは、マンダルバ領主の座を争っている。ああ、もちろん、あなたにそんな気がなくても、他の候補者から見ればあなたは邪魔者です。向こうがいまごろどんな人物を手中にしてるかわかりませんよ。実力で排除しようとしてきても、俺は不思議に思いません。それだけの魅力がありますからね、マンダルバ領主の椅子には」

「まあ、確かに極端な話だ。キスリングを雇える個人はいないだろうさ。彼ほどの実力者の報酬を支払うには、一国ならば国家予算を崩す必要があるくらいだからな」

「アーノルトがいる」

「そうだな。まあ、それでも個人には違いないさ。マンダルバ高家を継いでいるとはいえ、前マンダルバ領主の義弟として手に入れた資産を含めても、当の領主には遠く及ばないだろう。キスリングが本当にスーザにいるとも限らない。ここで推測だけしていてもしょうがない」

 みんな平然と話してるけど、

「皆さんも、お強いんですよね」

 貿易商社の関係者のはずだけど、体格がいいし、傭兵の話を恐れることなくしている。

「リーヴ、どこで見つけてきた。こんな人間滅多にいないぞ」

 セリュフが真顔でぼくを見てそう言った。

「山の中に落ちてた」

 ぼくは物じゃないって。

「どういうめぐり合わせだか」

 セリュフはそう言ったけど、それはぼくが言いたい。

「まあ、俺はともかく、セリュフは実際強いですし、ル・イースも相当で、ヴィイは覚えてます? 彼は仲間内では飛び抜けてます。物騒な世の中ですからね。ヤトゥ商会は、初めは用心棒から始めたんですよ。その頃は名前なんてないくらいでしたけど、資金が集まってきてからは、自分たちで物品を売買することにもなった。いまはいろんな事業をしてますけど、商隊の護衛を請け合う部門と、商売をする部門を、二大事業としてます。ヴィイは護衛部を、セリュフは商売のほうを主に見てます。商売敵も多いですし、実力行使で妨害だってあります。このムトンの地域はスーザ以外は無法地ですからね。頼れるのは、仲間と、自分自身しかありません。もともとみんな戦士肌なんですけどね、いまは地に足をつけてるわけです」

 とエヴァンスが説明してくれた。

 納得しかねるところもあるけど、とりあえずは理解した。

「マンダルバへ行くのにこのままじゃ、極端な話、戦力に不安がある、ということなんです。それで、魔法系の人材も必要じゃないかと話をしてたところで、キスリングの噂を思い出したんですよ。やっと、話が戻った」

 長い説明をさせてしまって、ほんとにごめんなさい。

「意外ともの足りない街だな」

 リクがつまらなさそうに言った。

「そりゃ、長く留まるための街じゃないからな、ここは。スーザは他国から見ればただの通過点に過ぎない。マンダルバにしたって、大国から見れば、産物が豊富ってだけで、支配するだけの魅力があるかといえば、広大というほどの土地じゃないし、人材は鷹揚な奴ばっかりで使い物にならん」

「この人の言うことは信じないでください。マンダルバは結構広大です。マンダルバ人は鷹揚で大雑把なところもありますけど、情熱的で身内びいきです。自分たちの土地を守るのに命は惜しみません。だから、他国は生半可に手出しできないんです。セリュフの基準が厳しいだけですからね」

 なにも言わなくてもエヴァンスが説明してくれるようになったので、専属通訳のようでとても助かる。

 こっちを気にせず、リクとセリュフが話を進めた。

「協会まで行くと、目立つよな」

「なんの理由で魔法士を必要としているのか、いらぬ詮索は避けられないな」

「誰か使える奴はいないのか?」

 リクの問いには、エヴァンスが答えた。

「どうもね、うちはそっち系弱いみたいです。いちから育てないといけないんでしょうかね」

「子供らを仕込め。タグはどうだ」

 セリュフが無茶を言い始めた。

「あ、俺の勘ですけど、素質ないと思う」

「イチヤはどうだ? もう十二歳を超えたか?」

「気性が優し過ぎます。戦闘に向きません。第一、スウィンが黙ってないでしょ、絶対に。子供たちを争いごとに巻き込んだら、みんな連れて家出しかねません」

「あいつらが自分から勧んでのことなら、格別なことは言わないと思うぞ。ゴウトあたりは将来有望だ。あの勝気さは素質ありだ」

「それはそうかも。ニキも、あいつは将来強くなりますよ」

「あれは肉弾向きだ。魔法は必要としない性格だな」

 とリクまで参加しだした。

「ロクレイなら精霊から寄ってきそうだが」

「だめです。彼は俺の後継者ですから」

「後継者のほうが優秀になりそうだな。いまでも記憶力だけならロクレイが上だ」

「返す言葉もありません……」

「女子のほうが意外に魔法の才能あるかもしれないぞ」

「サンゼとシース、ねえ。サンゼはただの夢見る女の子ですよ、将来の夢は素敵な殿方との大恋愛の末のお嫁さん、だってさ。シースはひっこみじあんで恥ずかしがりや。将来が見えません」

 なんの話だかわからなくなってきた。

「先に言っときますが、シチェックを持ち出さないでくださいよ。彼が育つまでどれだけ時間がかかることか。それに、あの能天気さは心配なほどです」

「あいつはほっとけ。勝手に育つ典型だ。あいつなりの幸せの形があるだろ」

「ひととおり名前が出たところで、遊びは終わりにしましょ。それで? どうします?」

 遊びだったのか。

「なるようになれ、だな。子供特有の好奇心で見学、目にとまる人間がいたら金を積む」

「それしかないか、ナオ」

「はい?」

 突然話をこっちに振らないでほしい。

「魔法士協会に行くから、そのとき疑問があったら全部訊け」

「はあ」

「気のない返事をするな。おまえ自身のことだぞ」

 そう言われても、直接ぼくに関係がないような気がするんですが。

「魔法士を、ぼくが雇うの?」

「とぼけるな。逆立ちしてもおまえに金なんざないだろうが。俺が欲しいのは、万全な駒だ。魔法を扱える人間がいると見せかけるだけでも相手方に対する牽制になる」

「でも、いま誰かいるんでしょ? 火系か、風系?」

 リクは目を細めてぼくを見る。

「わからないことは訊けと言ったが、わかっていることは無駄に訊くな」

「よく人の話を聞いてらっしゃるのね……すごく賢い方のような気がしてきました」

「標準だ。あれだけの話を聞いていながらわからないようなら、相当の馬鹿だ」

「火系です。ル・イースがそうです。ですが、彼は肉弾速攻派です。滅多に魔法は使いません」

 リクの容赦のない言葉を流すように、エヴァンスがさりげなく言う。

「魔法なんてものは、戦闘時には補助的役割程度でしか役には立たない。呪文を言わさぬ速度で倒せばいいんだからな」

「リーヴは強いですからそんなことが言えるんですよ。まあ確かに、魔法は相当の集中力がないと発動させるのは難しいらしいですし、激しい戦闘時は魔法を使うほうが不利な場合もあるようですね。並の努力だけでは足りない、天賦の才能と想像もできないほどの経験がないと、戦場で生き残れるカドルにはなれないそうですよ」

 エヴァンスはぼくに対して説明してくれたようだ。

 彼らが平然と話をしているのを聞いていると、自分がいまそんな世界にいるという実感がしてくる。

「食べ終わったな」

 リクがぼくに訊いてくれた。

「うん」

 皆の話に圧倒され、ぼくはとっくに手を止めていた。

「支度しろ」

 大人をも従わせるような声でリクが言う。

 その表情、その態度は、誰に対しても変わらないと感じさせる。

 王侯貴族はおろか、たとえば、神を前にしても。


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