第4話

 


 高熱が出て寝ていた期間は、丸二日。

 どうりで起きたときの空腹感が強すぎた。

 そのときのことを聞くと、目が覚めている時間もあったみたいだけど、熱に浮かされて覚えてないんだろう、と言われた。その間もあの少年少女や子供たちが来ていたらしく、夢で少女たちの姿を見たのはそのせいだった。

 あとからも短髪のほうの少女スウィンが小さな子供たちを連れて来てくれ、病み上がりのぼくの世話を焼いてくれた。彼女もぼくのことを子供たちと同じような年齢くらいに思っているのか、本当にいろいろとぼくが日常に戻る補佐をしてくれた。

 目覚めた翌日はゆっくりと過ごさせてもらったが、そのあとリクは容赦なく「動け」と言った。そして、どんなに身体が鈍っていて動かなかろうと、できるだけスーザの街中を出歩かされた。

 その理由は、マンダルバ領の資産すべてを管理し、今回の領主後継者捜索の総指揮をとっているというクイン・グレッド管財官が、もう数日のうちにはこのスーザにやってくるということで、リクがぼくを健康的なマンダルバ領主後継者候補としたいから。

 滞在している宿をそのまま活動の拠点として、ぼくたちは本格的に動き出した。

 考えて、動かせているのはリクで、なにも考えずに動かされているのがぼくで。

 とにかく、十四歳という年齢にしては発育不良だというのが周囲皆の意見で、体調管理から整えられた。

 食事による体質改善、状況にふさわしい服装の選別、歩行による適度な運動など、リクが指示することにぼくははいと従順になるしかない。まずは、人目に耐えうる外見作りからだった。

 リクの持ち家に住んでいるという子供たちも、ときおり一緒に街に出た。

 最年少で五歳のシチェック以外は、勉強をしなければいけない年齢で、このスーザにある学校に通っている。女の子は二人、九歳のシースと十歳のサンゼ。男の子は四人。九歳のゴウトとロクレイ、十歳のニキ、十二歳のイチヤ。

 年長組は三人。

 タグという少年は十五歳で、たまに年少者の面倒をみることもあるが、基本的にはリクに意識が向いていて、なにか仕事を振ってくれないかと期待しているふうだった。彼にとってリクは憧れの存在のようだ。

 二人の少女は実姉妹で、自身が着飾ることと、リクのことが大好きな姉セリアは十六歳。その姉とは正反対で、化粧気の一つもなく素顔のままで過ごし、子供たちの面倒を率先してやっている妹のスウィンは十五歳。色々な面で対照的な姉妹だ。

 みんな特徴があって、それぞれ性格が見える行動をするので、観察していると面白い。

 年少の子供たちは、彼らにとってリクが特別な存在であることを認識していて、直接甘えたりはしないまでも動向をいちいち気にし、たまにリクの関心が自分に向けられたりすれば嬉しそうな顔をした。その気持ちはぼくにはよくわかる。

 リクのほうは、子供たちを特別可愛がることはないが、自分の近くで好きなようにふるまわせたり、邪魔に感じたときにはちゃんと態度と言葉に表したりして、子供だからと甘やかして物事を誤魔化したりはせず、子供たちのほうは必ずリクの言うことに従った。

 リクと子供たちの関係性とその結びつきは、単純なものではないことがわかる。

 あの子供たちは、年長二人の姉妹を除いては、みんな赤の他人だと聞かされた。親代わりの人はおらず、リクやセリュフが与える生活費を糧に、年長者が下の子たちの面倒をみる形で共に生活をしている。彼らが家族と共にいない事情を、ぼくは自分からは訊かなかった。

 子供たちとリクは、一定の距離を保ちつつ、よい関係を築いているんだなと思っていたが、彼らがここにいることは、リクにとって予想外なことだったみたい。

「なぜ、ここに来た」

 リクがスウィンに訊いたのは、重大な予定が控える、ある朝。他の子供たちを学校に送り込んだあとのことだ。

 素顔が綺麗な少女は、シチェックが街路の露店などあちこちに興味を示して動き回ろうとするのを、片手で繋いで防止していた。

「セリュフが、リラの村にいても子供たちにはなんの実りもない、社会見学を兼ねた実地勉強だ、と言って。リーヴが来るかもしれないからって、姉さんも乗り気で。結局、誰も止めなかったし、わたしも反対はしなかった」

 スウィンはそう答えた。

 街の繁華街から少し外れた住宅街を歩いていた。まだ体調が万全ではないぼくになにか起きてもすぐに手助けできるくらいの距離を置いてリクがそばを歩き、スウィンがその前でシチェックの手を引いていた。

 ぼくたちの後ろから、金髪の美少女セリアがエヴァンスの片腕にすがっていた。これは美男美女の組み合わせだが、エヴァンスがセリアより年上すぎて恋人同士というより兄妹に見えることと、本当に腕を組みたいのはエヴァンスではなく仕方なしに代役を使っている、というセリアの気持ちが表情や態度に現れているので、人目を引く組み合わせにはなっていない。エヴァンスは“子守”を実践していたわけだった。

 最後尾には、相変わらず無表情のル・イースと、その前には少し不機嫌さが見える少年タグが、一行を見守るような形で追従していた。

「ここは物が手に入りすぎる。社会勉強ならナカタカにでも行け。あっちのほうが現実的だ」

 リクが言うナカタカとはどういうところだろう。単純に疑問が湧いたけど、皆の前では記憶がないということを隠しているぼくは、無闇に質問をすることができない。

「ナカタカはいや! 砂まみれになりたくない」

 後ろからセリアが本当にいやそうな声で言った。

 ぼくは好奇心が隠せなくなり、ためらいながらも小さな声でリクに訊いてみた。

「ナカタカって?」

 リクがすぐには答えず、しばらくしてから「エヴァンス」と言った。

「はいはい。ここからだと南東になるのかな。数ヶ国挟んだ向こうに広大な砂漠地帯が広がってて、その中に水を絶やさないという不思議な泉があって、そのナキーヤの泉に沿うような形で町があるんだ。このスーザと同じほどの大きさで、人口はここほど多くはないって聞いてる。ここは人の往来が激しいし、物品のやりとりで毎日大きく金が動いて莫大な利益が発生しているけど、ナカタカは気候や環境がここよりも厳しくてね、人の往来もそれほど盛んではない。でも、長期滞在できる観光地なんだ。過酷な砂漠地を旅した末にある別天地、という印象が強いんだろうね。砂漠地といっても隣には枯れない泉があるおかげで潤っている面もあるし、旅人の中継地で、裕福な者の道楽的観光地にもなってるわけだ。ただし貧富の差は大きくて、金を町に落とす者、その金を得る者以外に、仕方なく流れてきた者とか、街の波に取り残された者とか、はぐれ者もいる。ナカタカは、世間の表と裏が混在する町なんだ」

 すらすらと澱みなく語るエヴァンスにセリアが言う。

「なんて模範的な説明なの。そこにも手を出すつもりで調べてたんじゃないでしょうね」

 エヴァンスはやりきれないというように、ため息をひとつ吐いてから言葉を返した。

「いくらなんでも、あの町の怪物たちに手出しできるほど、俺たちの手は長くはないよ。目の前にあるご馳走をなんとか手に入れたいと願うので精一杯さ」

 怪物?

「怪物がいるの?」

 振り返って訊いたぼくの純粋な質問に、エヴァンスが笑顔で言う。

「もちろん言葉のあやだよ。あそこは昔から町を統率する組織がある。表と裏を合わせてもいろんな人間がいるから治安が悪いかと思いきや、とっても厳しい町の掟があってね、強者だけが闊歩できるようにはできてはいないんだ。たとえば、悪意をもって女子供に手出しをしたとする。すると、罪状によってはその場で処刑されることもあるわけだ。強者が多いからこそ、弱者を守る法が徹底してる。それができるってことは、町の管理者たちが厳正に法を敷き、取り締まる権力を保有しているからだ。役所はもちろん、商家組合に傭兵組合、魔法士協会と術者組合も共に町を守ってる。そんなところに気軽に手を出したとしたら、すぐに闇に消されちゃうよ」

 いま、聞き捨てならない言葉を聞いた気がする。

 思わずゆっくりと歩いていた足が止まる。

 ぼくの異変に気付いたのか、リクもすぐに足を止めた。

 辺りはちょうど繁華街に差し掛かっていて、シチェックが露店の果物に興味を示して店の人に試食品をもらっていた。

 他の人たちはそれが理由で足が止まったと思っただろう。

 思考力が、働かない。

 考えようとする力を、本能が止めている、そんな感じで。

「魔法って、なに」

 いままでにない、感情のないぼくの声に、エヴァンスが戸惑った。

「え? えっと、どうしたの?」

 リクや、他の人の反応なんて、ぜんぜん考えていなかった。


 魔法って、なに?


 魔法士って、術者って、どこの世界の。


 雑多な人の往来の波に取り残された、動きのないぼくの体をリクが引き寄せ、どこかの建物の脇に移動させた。

「リーヴがそんな子にかまわなくてもいいのに」

 そんなセリアの声は耳を素通りした。

 ぼくの意識は、あるところに向いていた。

 人の集まる街の広場では、なん組かの人たちが大道芸らしきものを人々に披露していた。

 遠目だけど、それはぼくの目に映った。

 ひとりの若い男性が、前方に手をかざすと、その手の先から少し離れたところに頭の大きさくらいの炎がいきなり現れた。

 若い男性の向かいには、もう少し歳上の男性がいて、自分に向かってくる炎になにか語りかけるように口を動かし、片手をその方向にすくい上げると、炎の下方から風が巻き起こり、押し上げられた炎は人々の見守るはるか上空でかき消えた。

 その光景に、周りの人々が拍手を送っている。

「ああ、珍しいな。修行の一環かな」

 エヴァンスが、ぼくが見ている光景に気付いたらしく言った。

「まほう?」

 その言葉は、ぼく自身が言ったのか。

 他を遮断したように、視界と意識が一方向にしか行かなかった。

 広場からゆっくりと顔ごと視線を巡らせると、ぼくと同じように広場を見ている人が多い中、リクがぼくを見ていた。

 初めて見た人物だというように、ぼくを探る目つきで。

 真っ直ぐに。

「ここは、どこ?」

 頭痛が、する。

 片手でこめかみを押さえる。

 誰が、マンダルバ領の後継者候補だって?

 違う。

 ぼくは、違う。

 そんなはずがない。

 だって。


 ここは、ぼくがいた世界じゃない。


 身を崩したぼくを、リクが抱きとめる。

 頭が痛くて、なにも考えられない。

 抱きとめてくれたリクに泣きそうな気持ちで笑いかけ、気絶もできない頭痛に耐え続けた。




 失くした記憶を取り戻すには、なにをすれば有効なのか、誰か教えて欲しい。

「無事か?」

 ひそやかな声でリクが訊いてくれた。

 ぼくの体調の悪さに、近くの飲食店の一つに入って休憩させてもらってから、しばらく経っていた。

 ぼくとリクは四人掛けの食卓についたが、他の人たちは店内に入ってこなかった。リクが指示をしたんだと思う。

「うん。頭痛はなんとか、治まってきた」

 いつもよりも気温が低くて体が冷えたからだとか、そんな言い訳を自分にしている場合じゃなかった。

 気がついてしまった。

 自分の中に、他の世界の記憶があることを。

 それははっきりとしたものじゃなかったし、そう思えたってくらいだったけど、ここは違う、明確にそう感じてしまった。

 自分になにが起こっているのか。

 どうして、これは違うと思う肉体を持っているのか。

 それでも、やはりこれも自分だと、思うこともあったりして。

 混乱しすぎて、頭が痛い。

 全部が、夢なのかな。

 もうひとつの世界のことも、この世界のことも。

 でもこんなに痛い夢は、勘弁してほしい。

「ねえ、ぼくはなんでここにいるんだろうね」

 自分自身への問いかけを言葉にしてしまうのは、リクが答えてくれると期待したからじゃなかった。ある意味自虐のようなものだ。

「おまえが選んだからだろうが」

 リクが言ったのは、リクの提案に乗ってこのスーザの街にやってきたことだが、本当のぼくの疑問についても、なんだかうなずいてしまいそうになる説得力を持った声だった。

「選んだ、のかな。それとも、運命って、ものかな」

 リクが片側の口角を上げた。

 瞳の色は冷ややかだ。

「運命なんて理由づけで自分の身の振りを定めることほど、楽なことはないな」

 どんな道筋が目の前に現れていても、人は自分の足を自ら動かして歩き、道を歩む。

 でも、いまぼくがリクがいなくちゃ生きていけないように、自分の力だけじゃどうにもならないことだってある。

 そんなことは、リクだってわかってる。わかっていても、そう言わずにはいられない、そんな感じだった。

 この世界や人を動かす力を持っている“もの”がいたとして、その“もの”の意思でこの世界が回っているのだとしたら、小さな自分がいまここにいることに、理由はあるのか。

 それを運命だというなら、自分にそれに抗う力があるのか。

 従わざるをえないのか。


 でも、いくら考えても、この世の理など、ぼくにわかるわけもない。


「そうだね」

 考えて考えて考えて、それで答えが出なくても、いずれひょっこり、目の前に答えが現れるかもしれない。

 ぼくはリクに笑ってみせた。

「なにか、思い出したんだな」

 リクの観察眼は侮れない。

「思い出したってほどじゃない。なんだか、そう、違和感があったんだ」

「なにが違う」

 本当に、なにか違うと感じただけで。

「えっと、言葉にするのは難しいや。もう少し具体的に思い出せたら、きっと話せると思う」

 リクはぼくの言うことを信じたのか、そうではないのか、一度ぼくから視線を切った。

 そしてぼくの眼をふたたび見て言った。

「思い出したことは、すべて俺に話そうとしなくていい。お前が必要だと思ったら話せ」

 リクは席から立ち上がり、ぼくを置いて店を出てしまった。

 本当にわからない人だ。

 優しかったり、冷たかったり。

 リクを追いかけ、店の扉を開けると、扉のすぐそばでリクが待っていた。

 とくに目を合わせることなく、リクは他のみんながいた露店のほうへ歩き出す。

 ぼくはリクについていく。

「大丈夫? もっと休めたらいいんだけど、そろそろ時間だからね」

 心配してくれるエヴァンスにうなずいた。

「俺も一緒に行ったほうがいいのかな」

 エヴァンスがリクに訊いたのは、これからいよいよマンダルバ領事館に行くことになっていて、でも今後の具体的なことはなにも決めていないからだ。

 リクがぼくにどう行動して欲しいのかが、ぜんぜんわからない。

「そうだな。来てもいいが、口は出さなくてもいいからな」

「エヴァンスがしゃべらなかったら、なんの役にも立たないんじゃない?」

 リクの言葉にセリアが茶化す。

「セリア……きみはいつか男で痛い目にあうよ?」

 力なくエヴァンスが言うと、

「あたしにはリーヴしか男はいないの!」

 とよくわからない論理をセリアが示した。

 セリアの傍若無人ぶりはいまに始まったことじゃなく。エヴァンスは肩をすくめてそれ以上反論しなかった。

「行くよ。セリュフに報告がいるだろうから」

「好きにしろ」

 セリアが口を挟んだ。

「あたしも行ってもいいわよね?」

「だめだ」

 リクの即答には不満そうな目を向け、セリアは着ている柔らかそうな衣服をふわりと泳がせて無言でしゃがむと、隣にいたシチェックの両頬をつまみ上げた。

 力はさほど入っていないようで、シチェックはセリアが珍しく自分にかまってくれたと思ったのか、頰をつままれたまま満面の笑みを見せていた。

「そんなふうでもいいから、たまにはみんなと遊んであげてよ」

 スウィンがそう言っても、セリアはセリアだった。

「いやよ。あたしは他の人に放っておかれてもここまで成長したわ。あんたもそうでしょ。べつに放っておいたって、あの子たちは勝手に育つわよ」

 きっと、セリアが言っていることは、間違っていないことだと思う。

 でも、幼いときに誰かの愛情が与える影響は、計り知れないものがあるはずだ。

「その通りだな」

 リクもそんなふうに言うってことは、過去のリクもそんなふうだったからなのかな。

 セリアはリクと意見が合ったことで機嫌を直したらしく、行ってらっしゃい、と笑顔でぼくたちを送り出してくれた。


 マンダルバ領事館は、街の中心部にあり、他の建物とは別格の存在感を示していた。

 外から見える壁や軒下の部分までも複雑な彫刻を入れた白い建物で、壁の半分ほどの面積にここではあまり見かけない大きな全面硝子が張られていて、相当な資金を注ぎ込んで造られたことがわかる。聞いた通り、このスーザの街がマンダルバ勢力域にあることを誰の目にもわかるようにしてあるんだ。

 ぼくは建物を目の前にして、心が揺れていた。

 自分で建物に入る勇気が、まだ備わっていなかった。

 リクが隣に立ち、ぼくの背中を片手で押し出して歩き始めた。

 ぼくは逆らわず歩きながら、リクの後押しで、緊張感の中、心を決めていく。

 建物の中に入ると、一階は広場のように吹き抜けて空間を取ってあり、そこにぼくと同じほどや、もう少し歳上そうな少年が大勢いた。

 考えてみれば、記憶を失くしているのはぼくだけだろうし、他の少年たちは、みんなこれまで成長してきた過去の記憶を持っているわけで。

 たった一人、この中にもいないかもしれない人物だけが、本物の捜し人。

 この少年たちは、どういう理由、どういう気持ちで、いまここにいるのだろう。

「マンダルバ前領主の実子であると確信している者よ。告知通り、ただいまからマンダルバ領管財官、クイン・グレッド様直々の面談を受けていただく。ここで諸君らに警告する。検分により、もしも自身を偽るものであったと判明したときには、相応の処罰が与えられるものである。立ち去りたい者があれば、いまのうちにここを出ていくことを許す」

 役人らしき若い男が声を張り上げ始めると、少しざわめいていた人々は押し黙り、言葉が終わると幾人かは建物を出て行った。好奇心だけで来ていた人もいたんだろう。

 残された少年たちとそれに付き添う人々は、全部で十組いたかどうか。

 面接は、受付を済ませて、ひと組ずつ行われることになった。

 別室に次々と呼ばれ、無事面談を終えて自信ありげに帰っていく者や、挙動不審に立ち去る者もいた。

 ぼくは最後のほうで受付をしたので、順番がまわってきたのは太陽が頂点を過ぎて大分時間が経ってからだった。お昼どきをとうに過ぎて、いい加減お腹が空いていて、最初の緊張感が抜けてしまっていたのは、かえってよかったのかもしれない。

「次の者、行きなさい」

 係員の案内で建物の奥へと進み、広い階段を上がった二階の一室で、ぼくはマンダルバ領管財官クイン・グレッド氏と初めて会った。

 その部屋にある硝子窓も大きく、採光で明るく広い部屋の中には十人は席に着けそうな楕円卓があり、楕円の先の一方がぼくのような候補者席、もう一方には面談者であるクイン・グレッド氏と関係者が合わせて四人、すでに席に着いていた。

 部屋に入ってすぐに、マンダルバ領管財官がどの人物であるのかわかった。

 最も知的で、最も物腰が落ち着き、最も眼光が鋭く、最も身につけている衣服の趣味と着こなしが洗練された男が、向かって左から二番目の席に着いていた。

 歳は若い。まだ三十歳前だろう。

 彼の左隣には同年代で彼よりももう少し野性味がある男、反対側には彼の父親ほどの年嵩の男、その紳士の右に一番地味な印象の四十歳代の男がいた。

 ぼくたちが示された席に着くと、先に口を開いたのは、左から二番目に座っていた、その印象強い男だった。

「初にお目にかかります。私はクイン・グレッドと申す者。我がマンダルバ領の前領主、ザグゼスタの実子であると名乗り出られた方は、ここで審査されます。私に主張なさりたい事項があれば、直ちに発言していただきたい。また、あるべき証拠を必ず提示されたい」

 ぼくは右隣に座ったリクの顔をちらりと見上げた。

 彼もぼくを横目で見返してきた。

 少し気持ちが落ち着いた。

 視線を正面に戻すと、ぼくは管財官を真っ直ぐに見つめた。

「ぼくは自分が何者であるのか、判断する手段を持ってはいません。証拠もありません。もし詳しい質問をされても、きっとほとんどを答えられないでしょう。それでもよろしければ、お話を続けてください」

 ぼくの発言を受け、室内の空気がざわめいた。

 向こう側は驚きの空気で、こちら側は呆れと諦めの空気と感じたのは、馬鹿なことを言っていると自覚しているからだろう。

 横を向く勇気がないので、ぼくは正面のマンダルバ関係者のほうから視線を外さないようにしていた。

 場違いな発言をしたこの少年を、いったいどうするのか、といった目線で、年嵩の男が管財官を見つめた。

 野性味のある男は視線をぼくから外すと失笑し、次いで、失礼、と咳払いすると真顔に戻った。

 地味な男は反応も地味で、これといって変わったところは見られなかった。

 管財官は、若干目を細めた。

 ぼくの細部まで精査するように、真っ直ぐに見つめてくる。

 ぼくも彼から視線を外さなかった。

 どんな言葉が返ってきても、受け入れるつもりでいた。

「私は、あるべき証拠があれば提示していただきたい、そう申し上げた。言葉の意味がわからないほど未熟な年齢でもないと思ったのですが、あなたはわからなかったということでしょうか?」

 管財官が冷静な声で、詰問するように言った。

 そんなふうに言われては、もしかしたら大人でも落ち着かない気持ちになるかもしれない。

 でもぼくはある意味開き直っていたので、不思議と平静でいられた。

「あるべき証拠、ですよね。ぼくは証拠を持っていないんです。ですから、いつでも退出を命じてくださってかまいません」

 正面の人たちに対しては平静でいられるけど、隣を見る勇気はますます失せていく。

 リクの顔を見るのが怖い。

 どんな人にどう思われてもかまわないけど、リクに見捨てられるのは、すごく怖い。

 それでも、たとえリクに見捨てられようと、自分がマンダルバ領主の血を引く者ではないと気づいたからでなくとも、嘘をつくという器用なことを、ぼくはできない。

 管財官はなおも冷静だった。

「我々はあるべき証拠を元に、この審査に判断を下さなければなりません。皆さんそれを承知でこの場にいらっしゃった。しかしあなたは、その証拠がないとおっしゃる。わかりました。お望み通り、退出いただきます。のちの事は係員が申し渡しますので、この建物から出ることを禁じます」

 管財官が地味な男に小声でなにか伝えると、男はうなずいて席を立ち、ぼくらに向かってきた。

 ぼくは立ち上がると、同じく席を立ったリクに顔向けできないまま、部屋の扉に向かった。

「ごめんなさい」

 ぼくが謝ったのは、ぼくを見ないリクに対してだ。

 リクがどう思っているのかはわからないけど、隣に立ってすぐにぼくの頭をぐしゃぐしゃとかき回したから、そう怒ってはいないようで安心した。

 リクの眼を正面から見る勇気はまだなかったけど。

 地味な男が先に立って部屋の扉に手をかけたとき、リクが立ち止まった。

 ぼくは乱された髪を両手で直していたので、それを待ってくれたのだと思った。

「証拠の有無は、マンダルバ前領主であっても知らざることだろうと思っていたが、底意地の悪いやり方をするのはマンダルバという土地柄なのか、それとも、あんたの性格か」

 自分のほうを向いて言ったリクに、管財官は初めて表情を変化させた。

 その冷笑は、負け惜しみとも取られかねないリクの発言に対してか。場違いなぼくの出現を、いまになって笑ったものか。

「どうぞ、速やかに退出願います。我々には、まだ仕事が残っていますので」

 どうにも本心が見えない人が多いと思うのは、ぼくがまだ子供なせいだろうか。クイン・グレッド氏も、態度からは心が見えない人だ。

 管財官の反応に、ぼくに背を向けているリクはどんな表情をしただろう。

 その後リクはなにも言わず、ぼくたちは面談の場を去った。

 地味な男は、ぼくたちを一階には戻さず、二階の別室に案内し、係員が来るまで動かぬように告げ、すぐに退出していった。

 歓談室のようだった。

 落ち着けるような色合いの家具や、人を和ます観葉植物が配置され、大きな窓際には座り心地のよさそうな籐編みの長椅子と個椅子、その前に置かれた硝子卓が涼しげで、卓上には焼き菓子と茶道具一式が置いてあった。

「そういえば、一階に戻ってこないのもいましたよね。誰かさんに、とって食われたんですかね。こっちも腹が減った」

 と、エヴァンスがまるで緊張感なく長椅子に腰掛け、菓子に手を伸ばした。ひとつを口に放ると、こりゃ失礼、ともごもごと言い、それぞれ座ったぼくたちに、立ち上がって給仕係のようにうやうやしく茶碗に茶を注ぎ渡した。直前に用意されたもののようで、茶碗からは芳しい湯気が立った。

「さて、これからどうなりますかね」

「向こうの出方待ちだな。あと何人もいなかったから、時間はかからないだろう」

 ぼくはしばらく自分からは発言しないことにした。

 リクを前にとても開き直れないし、今後どうなってもぼくの態度のせいだから。

「それにしても、こんなに肝が据わってるとは思いませんでした。大人物なんですねえ。リーヴに対してもこうだし、あのすかした野郎にもああだし」

 リクがくくっと笑う。

 それを見てエヴァンスがなおも言う。

「本当に。リーヴがこんなに笑うのを、俺は見たことがないですよ。本人はなんにもわかってないようですけど」

 と、ぼくに笑いかけた。

 ぼくのこと?

「ナオ、これから誰か来たら、もうなにも言わなくていい。あとはこっちでなんとかする」

 リクがぼくに笑って言った。

 よかった、怒ってなくて。

「うん、任せた」

「あ、やっぱり大人物だ。知ってます? 一対一でリーヴの正面にいたら、大抵の子供は落ち着きがなくなるんです。すぐに席を立つか、じっと自分を抑えて緊張で我をなくす。動じないのは馬鹿かよっぽどの能天気か、ってなもので、うちの子供たちは馬鹿と能天気の集まりなんですがね」

 くすくすエヴァンスが笑っていると、リクが言った。

「エヴァンス、これからは存分にしゃべっていいぞ」

「よかった。しゃべらないほうが肩が凝るんで。じゃあ、どれでいきます?」

「いつものでいい」

「承知です。さて、どのような結果が出ることやら」

 さっぱりわからない会話だ。

 ひと仕事終え、あとのことをリクに任せて気持ちに余裕ができたぼくは、この時点になってようやく不在者に気がついた。

 ル・イースがいない。いつからいないのだろうと記憶を探ると、この建物に入る直前までは見た気がしたが、いつも気配がわからない人なので記憶に自信がない。でも彼がどこに行っていようと、それはきっとリクの指示に違いない。

 しばらくすると、部屋の扉が叩かれた。

 役人でも現れてぼくたちを罰するのかと、どきりとしたが、現れたのは管財官の隣にいた、野性味のある男だった。

「おくつろぎのところを失礼しますよ」

 と、ずかずかぼくたちのところにやってきて、

「これは美味そうな菓子だ。いただいても?」

 男はどかりと、長細い硝子卓の短いほうの一辺にあたる、空いていた個椅子に座った。向かいの個椅子にはリクが座っていて、無言で手振りされた男は身を乗り出すように菓子に手を出した。

「皆さんもそうでしょうが、こちらも昼飯前でしてね。予想よりも多くって、いやあ、くたびれました」

 男は美味そうに一つの菓子を平らげてしまった。

 鋭角的ですっきりとした顔立ちながら、短くした色濃い茶髪と整えられた細めのあご髭が雄の色気を出しているのに、嬉しそうに菓子を頬張る姿がより魅力的に映る、なんともちぐはぐな男だ。動作はけっして丁寧ではないのに粗野にならないのは、動きが機敏で、知性をうかがえる瞳をしているからなのか。

「私は、管財官補佐、ジョーイ・ハーラット。先ほどはクイン・グレッドが大変失礼し、さぞご不快なことと思います」

 男は長椅子のリクのそばのほうにいたぼくに微笑んだ。

「いいえ、任務のご苦労、お察ししますよ。ところで、我々はいつまでこちらにいればよろしいのかな」

 ぼくの隣の席にいたエヴァンスが、そつのない笑顔と声音で対応する。

「もうしばらくのご辛抱を。じつはただいま昼食の準備中でして。クイン・グレッドが皆さんを招待したいと申しております。のちのご予定がなければ、ぜひ、付き合ってやっていただきたいのですがね」

「こちらは帰宅を禁じられた身です。そちらの指示に従うほかない」

 エヴァンスの嫌味のない声音に、管財官補佐は恐縮したように肩をすくめてみせた。

「もうお気づきでしょうが、すぐに立ち去った者は候補から外された者、そして、いまこの建物内に残っている者こそ、マンダルバ領主一族の血を引いた者である可能性があるのです」

 え? そうなの?

 態度に出しそうなのを、なんとか堪えた。

「昼食前に、もう少し詳しいいきさつをうかがっておこうと、こちらにやってきた次第です。できましたらご当人の呼び名と、付き添いの皆さんの名も知っておきたいところです。なにしろ先ほどはその間もなかったですからね」

 にこりと管財官補佐は笑い、こちらの出方を待つ姿勢だ。

 エヴァンスがリクに一度視線を向け、無言のままのリクの瞳に答えを見たのか発言した。

「こちらはヤトゥ商会出資者のご子息で、リーヴ様。私は、リーヴ様のお世話をさせていただいております、エヴァンスといいます。今回坊っちゃまがこちらの少年と親しくなられまして、不遇な境遇を不憫に思われ、後見となられるのをお約束されたのです。おや、大丈夫ですか?」

 ちょうどお茶を口に含んでいたぼくは、エヴァンスの言葉にぶほりとむせた。

 むせ込むぼくの背を軽く叩くお坊っちゃまは、すかした顔でエヴァンスのしゃべりを聞いている。

「詳しいいきさつは私もまだ存じません。質問などはご当人にお願いできますでしょうか」

 エヴァンスはそうして話の主導権をリクに渡した。

 管財官補佐は関心の視線をリクに移した。

「ヤトゥ商会の名は、このスーザでもよく聞かれるようになりました。創業者は商隊の護衛の仕事から始められて、その後自ら商売をされるようになり、近頃は急速に勢力を伸ばされているとか」

「それは仕事をしている者がやっていることで、出資者の意図するところじゃない。そもそもすねかじりの俺には、まったく関係がない話だ」

「ヤトゥ商会の重役は求心力のある人物と、噂で聞いております。事業が軌道に乗っていらっしゃるようでなによりです。こちらの方の後見になられたのは、その関連のことなのでしょうか?」

「マンダルバ領主後継者だと知っていたわけじゃない。旅の途中で男に暴行されている子供を見かけて、素通りするのも寝覚めが悪いと、子供を助けた。それが彼だ」

 リクがそう言うと、管財官補佐はぼくを見つめながら話した。

「ご本人は自分の素性を他人に簡単には話しますまい。いつお知りになったのです」

「暴行されていた彼を助けた際、加害者を俺の連れが殺害した」

 え?

「なりゆき上、致し方なかったとはいえ、こちらは不用意に人の命を絶ってしまった。ムトンの地域は無法地帯だが、さすがにその者の知り合いにでも事情を知らせようかと思い、荷物を調べてみると、連れ歩いていた子供の素性の覚書があり、彼のことが書かれていた。男は無力な彼を自分の意に従わせ、利益を得ようとしていたようだ」

 人の命を絶ったと、淡々と話すリクの言葉は、どれが真実で、どれがつくりものなのか。

「それまでの彼の過去の詳しいことは知らない。とりあえず保護し、いまこのマンダルバ領主後継者探しを知り、彼の意思を確認した上でここに来た。俺は彼の後見人で保護者としてここにいる。さきほどの、そちらのクイン・グレッド氏に対して、彼は精一杯の行動をし、あの威嚇に疲弊したようだ。しばらくはこのまま俺が彼について知っていることを話そう」

 管財官補佐はとくに驚いた様子もなく、リクが語った内容はまるでたいしたことではないように話を進めた。

「管財官の態度については再度お詫び申し上げます。ご承知でしょうが、自分が後継者であると名乗り出る者があとを絶ちません。そのために、ふるいにかけ、本物の金の粒を見つけ出さなくてはいけないのです」

 しおらしく言う管財官補佐の言葉に、リクは皮肉めいた笑みを浮かべた。

「こんなに大仰なことをやっておいて、そう言われても同情しかねる。苦労を背負い込むのはそちらの勝手だが、偽物をわざわざ呼び込んでいるようにしか見えないな」

「返す言葉もありませんが、なにしろ手掛かりがなさ過ぎましてね。無謀を承知でこの策で行動を起こすしかなかったわけです。なんとか成果あったと、思っているのですがね」

「そもそも、こんな会話は、あの場で管財官自らしなければならないことじゃないのか? なぜいまになって補佐であるあんたがやってるんだ」

「まだこちらの事情を説明することはできませんが、あの場にはクイン・グレッドの意思と関わりのない人物もおりました。すべてのやり取りを、その人物に明らかにするつもりが、クイン・グレッドにはないのです。おわかりいただけるでしょうか」

「前領主が亡くなってから遺言書が見つかるまでは、自分が遺産相続人であると思っていた者もあっただろうな。親族関係者か?」

「あなたはじつに賢くていらっしゃる」

 にこりと、管財官補佐は笑んだ。

 それに対して、リクも口の端を上げる。

 どうにも化け物たちの化かし合いにしか見えない。

「あんたは管財官の信頼が篤いようだな」

「共に、勉学に励んだ仲です。おこがましいことながら、彼の片腕であると自負しております。クイン・グレッドにご意見がありますなら、私がなんなりとおうかがいいたします。ご遠慮なくどうぞ。それでは、本題に戻りましょうか」

 管財官補佐はぼくを見つめて微笑んだ。

「ひとつだけ、質問がございます」

 ぼくはなにも言わず、リクの顔を見上げ、リクは横目でぼくを見た。

「どうぞ」

 視線を戻したリクが促すと、管財官補佐は言った。

「彼の母親の名前は、なんと言われます?」

 その質問の仕方は、答えを知っている者のものだ。

 もしこの答えを間違えれば、きっとぼくたちはこの場で帰宅を命じられるだろう。

 これが唯一の、向こうの手掛かりなのだろうか。

 候補者が物や言葉の証拠を挙げても、向こうには判断する材料がない。

 だから、面談の場を緊張させ、相手の余裕をなくし、自ら間違いを犯させる。

 それがリクが言った、底意地の悪いやり方、なのだろう。

 でも、ぼくは、答えを知らない。

「ルマ、だったな」

 しっかりとぼくのほうを見たリクが、確認するように言った。

「それから、俺は彼のことを通称で呼んでいるが、あんたたちは気にせず、レナン、と名で呼べばいい。それでいいな?」

 笑みを浮かべて言うリクに笑い返すこともうなずくこともできず。

 目の前の綺麗な瞳を。

 ぼくは、ただ見つめた。

 リクはゆっくりと管財官補佐に視線を戻す。

「わかりました。レナン様、ですね。ようやく昼食の席にお呼びできそうです。皆さんもお腹が空かれたことでしょう。さあ、行きましょうか」

 立ち上がった管財官補佐はぼくたちを促した。

 この短期間で人手を使って調べ上げていたのか、もともとスーザの利権のために関係の深いマンダルバ領主の息子探しを知って以前より調査をしていたのか、または、ぼくを連れていたという男が持っていたものに初めから書いてあったのだ。

 管財官補佐の試験問題に、リクは正解を言った。


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