第20話 山下先生の色

 屋上から見る空は真っ青だった。春と夏のちょうど真ん中あたりのこの空気感と風、気温、太陽の暖かさ、全てがここにいる私と七海を優しく包み込んでくれているような気がした。今の私なら、七海がどんなに下手な肖像画を描いても許せるだろうな。


「咲妃ちゃん、今日は珍しく動かないね~」

「うん。いい天気だからね」


この前の七海との変な空気感はいつの間にか消え、いつも通りの空気が流れていた。正直、私の心の中には、この屋上の空気に似合わない、薄汚れた謎のわだかまりが残っている。太陽の方向から来る風がそのわだかまりを消し去ってくれないだろうか。


「ねえ咲妃ちゃん」

突然ニヤニヤしながら私を呼んだ七海の顔は明らかに何かを企んでいる。

「な、なに」

「なんか最近さあ~。咲妃ちゃんおかしくない?」


え、ここでそれ言う?

またあの空気感をつくる気かこの子は。

そう思った矢先、思ってたのと違う風を彼女が吹かせた。


「咲妃ちゃん最近、クラスの男の子とすごく仲良くない?」

「え?」

風向きが変わった。少し安心した自分がいる。

「いつも話してる男の子、なんて名前?」

特に隠したいことではないので、普通にしゃべろうと思った。

「亮太くんって人だよ。クラスで隣の席なの」

「へええええ~」

彼女はそう言いながら、目を細め、頬をそおーっと上げ、ニターっとしながら、私を見つめてくる。

確実に彼女は勘違いをしている。

「いや、別にそういう関係じゃないよ」

「ええ~本当に??」

「うん。お互い部活のリーダーとして、色々話が合うからさ。仲はすごい良いけどね」

「ふう~ん」

「ほら、七海とだって陸上の話とか、美術の話だってするじゃん?それと一緒だよ」

「そうなの?」

「そうだよ。私、野球とかも興味あったりするからさー。色々話聞いてるのよ」

「咲妃ちゃん」

「ん?」

「突然、すごい喋るようになったね」

「え、」

確かに。いつも七海が美術の話で圧倒してくるけど、今日は私が彼女を圧倒していた。急に体が熱くなってきた。少し早めの真夏を感じた。

「しかも咲妃ちゃん、野球なんて興味ないでしょ?」

「え、」

今度は私が七海に圧倒される番になった。確かに私は野球なんて全く興味がなかった。

「野球が好きなんじゃなくて、亮太くんのことが好きだから、いろんな話するんでしょ?」

「い、いや、え、そんなことないよ!!!」

そんなことないよが嘘なのか本心なのかわからなくなってきた。本心だとして、なぜこんなにも興味のない野球の話をするのが楽しいのだろうか。自分に自分で嘘をついている?でも…

「あ、山下先生!!」

半開きだったドアをキキーと音を鳴らせながら入ってきたのは、日本史の授業の宿敵だった。

「お、ここで絵描いてるのか?」

「はい!!それより先生!咲妃ちゃんが亮太くんって子を好きみたいです!!」

「ち、ちょっと!!」

七海は本当にいい意味でも悪い意味でも裏表がない。今は悪い意味の方がにじみ出ている。止めたかったがもう遅かった。先生はこちらを見ている。そういえば山下先生は、工藤先生信者だっただろうか。そんなそぶりは見せたことないが、どちらにせよ教師の間で回りまわって、工藤先生に出回ってしまったら、終わりだ。だからたとえ私が彼のことを好きだとしても、その気持ちには抗わなければいけない。

 今私が一番欲しいものは、100メートルで一番になることだ。神楽西高校陸上部の名に恥じぬよう、一番をとることだ。

———欲しいものは捨てろ

欲しいものは捨てなければいけない。陸上部のためにすべてを犠牲にしなければ。


「石倉いいじゃん。お前だって人間なんだから、恋愛くらいしてみろよ」

山下先生の顔は日本史の授業で見せる顔とは全く違うものだった。授業中に醸し出す圧というものを全く感じない。私を一人の人間として見てくれている気がした。

———お前だって人間なんだから

その言葉が身に染みた。そんなことを言うってことは、先生は私のことを人間だと思っていなかったの?それはそれで衝撃的だったけど、今の私が人間らしくないということを受け入れられてしまう自分がいた。そして初めて陸上以外のことを考える自分を肯定してくれる先生に会った気がした。


「…石倉?」

「あ、はい」

「好きなものを好きって言えるのが、お前らしさだし、人間らしさだと思うぞ」


いつも怒っている先生にそんなことを言われるのが可笑しくてたまらない。七海は「何それ気持ち悪ーい!」といって笑っている。でもなぜか私にはそのおかしな言葉が深く心に突き刺さった。


人間らしさ


そんな言葉が自分の心に突き刺さる時が来るなんて思ったことがあっただろうか。


今まで大好きな陸上一筋でやってきたし、今も現在進行形だ。


私は好きなことをしている。


しているはずだった。


確かに今の私は大好きな陸上ではない、何かに縛られているような気がした。


「さ、もう5限始まるから、教室戻れよー」

「うわ、今日全然咲妃ちゃんの絵、進んでないよお!!」


今日は朝から心に潜む何かが暴れまわっている。七海のテンションはいつもと変わっていないけど、今日のこの時間で、見える景色が一気に変わった気がする。景色を変えてくれたのはまさかの山下先生だった。


別世界の青空と景色を眺めながら、そして心のわだかまりを残したまま、七海と共に教室へ戻っていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る