第1話 不安の始まり

———オンユアマーク


スターター*¹のおじさんが言った。


おじさんは左手にピストルをもって、両足を肩幅と同じくらいに広げて、台の上で構えている。

 それを見てから、私はピョンピョンと2回ほど軽く跳ね、白いスタートラインまで歩く。それから100メートル先のゴールを見つめる。5秒ほど見つめてから、ようやくスターティングブロック*²に足をかけ、スタートの姿勢になる。これが私のスタート前のルーティンだ。中2の時からずーっとこの流れでスタート位置に着くようにしている。

 

 スタートの姿勢になると、体が地面とより密着した状態になる。タータンのにおいがする。茶色い地面から来るゴムのにおいがフワ~っと香る。私はこの匂いが大好きだ。陸上選手にしかわからないこの匂い。みんなこの匂いのために陸上部に入ったんじゃないかと思うくらい。いや、それはさすがにないか。私が変態なだけか。とにかくこの陸上競技でしか味わえない、レース前の雰囲気、匂い、ピストルの音、すべてが好きだ。


———セット


 選手全員が腰を高く上げる。ピストルがなるまで3,2,1…


 パァァァァァァン!!!


 スタートした。スターティングブロックを思いきり蹴る。

低い姿勢で地面を強く踏み込むように走る。よし、良いスタートだ。


ここからだんだんと上半身を起き上がらせて、前をしっかり向いて走る。既に自分の視界には誰もいない。トップの位置にいることを確信した。後ろから追いかけられている状態だ。ここで慌ててしまったら、終わりだ。


私は体に力を入れず、リラックスすることを意識しながら、腕をしっかりと降る。


よし、良い感じだ。体がどんどんと前に進んでいる。


後半に差しかかる。この後半が私の弱点だ。私は体力がない。

ここでいかに踏ん張れるかで、私のタイムは左右される。


ゴール直前、体がいうことを聞かなくなってきているのがわかる。

私は最後の最後まで、走りのフォームを崩さないよう意識して、ゴールラインに飛びついた。



「さあ、神楽西高の石倉咲妃(いしくらさき)さん、シーズン初戦から好タイムをマークしました!!」

アナウンスが私の走りにビックリしているようだ。


電光掲示板には、私のタイムが表示されていた。


「12.06」


12秒06。自己ベストだ。まさか今シーズン初戦でこんなタイムが出るとは思わなかった。

4月上旬の今日はまだ寒いほうだ。その中で自己ベストが出たのは素直にうれしかった。

でもまだまだこれから。

私は腰のあたりで小さくガッツポーズした。








 「咲妃~!!お疲れ!!すごいじゃん!!初戦から12秒0台!!」


志穂が目を見開きながら、満面の笑みを浮かべて私のところに駆け寄ってきた。

手には水色の氷のうと氷が入ったビニール袋を持っている。

 

 「ありがとう~。でもやっぱり後半ばてちゃうんだよなー」

 「うーん確かに後半きつそうな顔してたかも」


志穂は私のレースの感想を言いながら、小さめのブルーシートを私の目の前にひき、その上に小さめの毛布を敷いた。

 

 私はその毛布の上にユニフォーム姿のままうつぶせになった。


 「でも、去年と比べたら、後半スピード落ちてる感じはしなかったかなー」

 「冬の間、ずっと走りこんでたからね」


 志穂がいきまーすという掛け声と共に、持ってた氷のうと氷が入ったビニール袋を私の裏太ももに押し付けた。


 「ああ~~冷たあ~~~い!」

 「我慢我慢」

まるでお母さんのような落ち着きで志穂が私の足をアイシングする。


レース後、必ずこうしてマネージャーの志穂に足をアイシングしてもらう。

どんなにひどいタイムでも、この氷の冷たさと志穂のお母さんのような包容力に包まれて幸せな気持ちになる。私はこの時間がさりげ好きだ。

この時間がずっと続けばいいのにとさえ思う。

まあ、ずっと続いたら、私の足が凍死するけど。







しばらくしたら、何人かの後輩が私のところにやってきた。


 「石倉先輩!!お疲れさまでした!!」


ドタドタと駆け寄り、深くお辞儀をする。そんなに礼儀正しくしなくてもいいのに。

あと、石倉先輩より咲妃先輩って呼ばれるほうが好きかも。

まあそれがルールだからしょうがないんだけど。

 私は、後輩たちを見上げて、氷の冷たさを我慢しながら、ありがとう~と軽くお礼をした。


 その流れで、今度は顧問の工藤先生が私のところにやってきた。サングラスをしているからか、いつも以上に威圧感を感じた。短髪で髭が生えてて、十分厳ついのに。

 

 私と志穂は先生がこっちに来ることに気が付いた瞬間、アイシングをピタッとやめ、その場で即座に立って、先生にお疲れ様です!と深くお辞儀をする。

 先生はその挨拶に対しては何も返事をせず、私のレースについて話しだした。


「石倉、お前やっぱ後半がダメだな。相変わらず80メートルあたりから一気に失速してるぞ。

12秒06自体はいいタイムだけど、他の高校の奴らも強くなってるからな。今日はただの記録会だからいいけど、地区予選では失敗するなよ。気を引き締めていけ」


「はい!!!!!!!!」


覇気があるいい返事ができた。これもルールだ。こういう返事をしなければ怒られる。


先生はそれだけ言って、どこかへ去っていった。


私もユニフォームの上にジャージを着て、氷やブルーシートを手に持って、志穂とみんながいる所へ向かった。



 




 

 「工藤先生、ほんと部員のこと、褒めないよね」


歩いてる途中、志穂が氷のうを手に乗せながら、言った。


 「うん、まあそのほうが気が引き締まるからいいんじゃない?」

 「そうかなあ~?」


彼女は不服そうな顔をわざとらしく私に見せてきた。何でか聞いてほしそうにしてるから、とりあえず聞いてみる。


 「なんで?先生が褒めない理由他にあるの?」


彼女は不服そうな顔をしたまま、私の質問に待ってました!とばかりに答えた。


 「いや、正直言うとさ、今年の代って県大会優勝できそうなの咲妃くらいじゃん?

5年連続の総合優勝が懸かってるから、先生も慌てちゃってるのかなって」


陸上の県大会では、各種目で選手が8位以内に入賞すると、その高校に得点が入る。すべてを足した総合得点が一番高い高校が総合優勝となる。学校の運動会みたいなものだ。


私たちの高校「神楽西高校」は今のところ4年連続で県大会総合優勝を果たしている。今年も総合優勝することが期待されるが、正直危うい。自分で言いたくないけど、私以外で得点を取れる部員がいない。


だから今年はどうなるのかが不安だ。たぶん部員のみんなも先生も不安になってるのだろう。


私と志穂は「この先どうなるんだろう」という不安感を抱きながら、みんなのところへ向かった。


****



*1スターター…陸上競技のレースの際、スタートの合図としてピストルを撃つ人

*2スターティングブロック…100m走などで、スタートする時に足を引っかけて利用

する道具

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