女盗賊、覚悟する Ⅰ

「バルデロさん!」

 非常に珍しいことに。というか初めて夕暮れに森を訪れた少年は、開口一番にバルデロを呼んだ。

「どうしたんだ? 今日は遅かったな。もしかしたら、腹でも下してたのか?」

「今日の晩メシは腹に優しい蕪の肉汁だぞ。丁度良かったな」

「夜風で身体が冷えただろ? こっちに来て焚火に当たれよ」

 などと能天気に笑い、温かな湯気を立ち昇らせる椀をレミーユに差し出したのは、無論部下であってバルデロではない。

 今は夕飯を掻きこむのに忙しいから、レミーユの相手はひとまず手下たちに任せておこう。と空にした器を再び満たした女盗賊だが、今日のレミーユはいつもと様子が違った。

「――生きるか死ぬかの危機が迫っているというのに、呑気に夕飯だなんて食べていられますか!」

 差し出された椀を受け取ろうともせず、男にしては小さな両の手を握りしめた少年の唇には、血が滲んでさえいた。

 彼の頭の出来とこの領地の将来が心配になるほどに能天気なレミーユ。その形良い頭の中では、年中花が咲き乱れているに違いない。とバルデロは勘ぐっていた少年の決死の形相は、彼に負けず劣らず能天気な中年どもをも沈黙させた。

 荒い息を吐いているのに普段は薔薇色をした頬を蒼ざめさせた少年は、匙を置いて黙りこくった面々を注視する。長い睫毛に縁どられた瞳には、うっすらとだが涙の膜が張っていて、ぱちぱちと爆ぜる焔の光に煌めいていた。

「実は、前々からもしかしたらと危惧していたことではあったのです。でもまさか、こんなに早く……」

「村人の誰かが、熊に襲われたのか?」

 手下その三は、このいたたまれない空気を少しでも和らげようとしたが、盛大に滑っただけで終わった。

「ですが、ついに、とうとう……」

 掌からも血を流し始めた少年の顔色は、死人同然の土気色になっている。

 この世に恐れるものなど何もないようなレミーユを、ここまで追い詰めるだなんて。一体どんな大事件が起きたのだろう。

 生唾をごくりと呑みこんだ女盗賊は、程なくして非情な真実を知らされた。

「国王陛下が、盗賊を退治するために、この地に王国軍を派遣すると。ゆえにそなたら諸侯も盗賊退治に協力せよという文書が、僕たち王国中北部の領主に、都から届けられているんです。むろん僕の父上も、今日その文を受け取って。それで、僕は……」

 今は可憐さよりも痛々しさが目立つ唇から発せられた言葉の意味を理解した途端。父の急死の際も揺らがなかった意識が、しばしとはいえ暗黒に呑みこまれそうになった。

 大陸東部北方の公国郡と国交を始め、貿易にて国庫を富ませながら、父祖とは異なり無用な戦は行わない現国王。彼は即位の当初から、自分の国のあちこちで深く根を張る盗賊を根絶すべく、諸侯たちに幾たびか厳命を下していた。

 大陸東部北方の公国郡と貿易を行うために開いた港が存在する王国北部。また動乱治まらぬ南方の国々から、いつ困窮した民が流れ込んでもおかしくはない王国南部には、特に。

 現国王とその異母弟による王位継承戦争の責の一つは、北部貴族の邪なる企みに求められる。病弱で意思薄弱だった庶出の王子を自分たちの傀儡となる国王に仕立てんと、かつての北の諸侯は目論んだのだ。

 いつ何時同じ愚を犯すか分からぬ北部貴族の裏の財源は、断たなければならない。ゆえに王国北部の賊は、悪い虫ですらこうは踏みにじられまいというぐらいに、徹底的に痛めつけられた。これが概ね二十年前、この王国と大陸東部北方の公国が条約を結んだ時点の出来事である。

 その甲斐あって、緩やかながら確実に数を減らした王国北部の賊は、バルデロの父同様に南下する道に活路を見出した。即ち、このルオーゼ王国中北部には北部の盗賊の生き残りが少なからず潜んでいるのである。であればこそ、冷酷非情と名高い国王に目を付けられるのも、時間の問題ではあったのだ。

「国軍を指揮されるのは王太子殿下というお話ですから、陛下はまず間違いなく“その気”なのだと思います」

 塩をかけた蛞蝓を彷彿とさせる声で、レミーユは締めくくった。今回の命令の裏には、王太子殿下の武勇に箔を付けようという、国王陛下の親心も隠されているかもしれませんと。だとしたら、甚だはた迷惑な愛情であった。主にバルデロ達にとって。

「お、親分……」

「俺たち、国王の兵にとっ捕まったら、一体どうなっちまうんですか……?」

 こちらは干からびた蚯蚓を連想させる声で手下その二とその五は呟いたが、答えなど知れている。内乱が平定された後、公開処刑された国王の異母弟の母親同様、二目と見られぬ姿にされた挙句、生きながら犬の餌にされる――とまでは、かかる手間を考えたらいかないだろう。だが言語を絶する苦痛を味わわされた末に処刑されるのは間違いない。そしてそれは、子分たちも重々承知しているはずだ。

「バルデロさん、」

 レミーユの暗い顔からも、己に突き付けられた暗い末路は十分に読み取れる。だが、バルデロはこの盗賊団の頭だ。亡き父から、手下全員の命を預けられたのだから、自分だけは気をしっかりと保たないといけない。若くても四十を越えた手下どもは背後でおいおいと泣き叫び、とうに故人となった親類やバルデロの亡き父に助けを求めているのだから、なおさら。

「バルデロさんっ!」

 自分たちの行く末について考えていたから、美少年の接近を許すのみならず手さえ握らせてしまったと気づくまでには、結構な時を要した。

 間近で眺める美しく愛らしい顔には所々涙の痕が残っているが、大きな灰緑の双眸の涙は既に引っ込んでいた。だが、なおもきらきらと輝く瞳は、一心に自分を見つめていて。照れくさくなって交わっていた視線を逸らすと、武骨な手に回された細い指に込められた力は益々強くなった。

「陛下の命はまだ諸侯しか知らない内々の話ですし、実際に国軍が動かされるまでは、いま少し時間があるでしょう」

 骨が軋むほどに強く、激しい力は、即ちレミーユの想いだ。万が一今回の行動が宮廷に知られれば、彼自身も犬の餌にされてしまうかもしれない。それでもバルデロたちに危機を知らせに来てくれた、心優しく勇気ある少年の。

「ですが、うかうかしていると、逃げ道を塞がれてしまいます。だから、だから……」

 ここまで来ればどんな阿呆だって、レミーユが次に言うことは分かるだろう。

「二人で、僕たちのことを知る人なんて誰もいない所まで行きましょう!」

 予想と寸分違わぬ言葉で、レミーユは絶叫した。大粒の涙と共に、ありったけの想いを。その周りでは部下たちが「俺たちも付いて行くけどな!」と親指を立てている。無意味に輝く歯とこれまた無意味に爽やかな笑顔は、正直癇に障った。

 とうとう筋肉胸に突っ伏した少年の髪と背を、女盗賊は肉刺で堅い手で撫でる。号泣が啜り泣きになるまでには、くたびれた上衣はびしょ濡れになっていた。

「レミーユ」

 泣きすぎて目蓋が赤く腫れていても可愛らしい顔を、両の掌でそっと包んで持ち上げる。

「……もう、ここには来るな」

 この時、バルデロの片方だけの瑠璃色はこの上なく優しく穏やかな光を浮かべていた。が、薄い唇が紡いだのは、少年にとっては残酷極まりない宣告だった。

「僕たちが消えた時に怪しまれないように、今日は誰にも目撃されないように注意してきたんです。あと、路銀も――父上のへそくりを失敬してきましたから、決してバルデロさんたちにご迷惑はおかけしません! だから!」

 レミーユは懐からはちきれんばかりに膨らんだ小さな袋を取り出したのだが、バルデロは穏やかに微笑んで拒絶した。

「俺たちがんな大金持ってたら、万が一捕まった時に面倒なことになるかもしれねえだろ? だから、それはお前の親父のとこに戻しとけ。ただし、ばれたら大目玉食らうことは確実だから、気を付けてな」

 かか、と広がった笑みは不適で、この状況を楽しんでいるようですらある。だが砂色の前髪がかかる隻眼には、強い決意が宿っていた。

「分かるだろ? お前は、ここの領主になるんだ。死なすわけにゃいかねえんだよ」

 なおも諦めきれない様子の少年を、女盗賊は柔らかに諭す。まるで、まだ言葉を覚えたばかりの幼子に対するように。

「でも! 僕は、バルデロさんがいないと……」

「お前のこと、嫌いじゃねえからな。死なせたくない」

 言えばこいつが調子に乗るからと、今まで頑なに秘め隠していた本心を、吐露する時が来るとは思ってもいなかった。だが、レミーユと会うのはこれで最後になるのだから、今生の別れの記念に素直になってもいいだろう。

「泣くな」

「……いやです」

 こんな形で別れ別れになるのは嫌ですと自分に縋りつく少年の頬を、女盗賊はべしりと叩いた。ただし、ほとんど力は入れずに。そして無理やり引き剥がすと、胸元は涙どころか鼻水で汚れていた。

 洟を垂らしていても美少女然とした少年は、元来大きな瞳を更に大きく、丸くしてバルデロを見つめている。

「お前、もうお袋を悲しませるようなことはしねえんだろ? お前がここで俺たちと消えたら、お前のあのお袋は絶対に悲しむぞ。もしかしたら、哀しみすぎて死んじまうかもしれねえなあ」

「……あ、」

 澄み切った瞳は、彼の母に言及した途端、あからさまに翳った。まるで、月が雲に隠れるかのごとく。

「――やっと気づいたのか?」

 これでレミーユも、自分が選ぶべき道はどちらなのか理解できただろう。

「……だったら、さっさと行けよ」

 しかしなおもこの場に留まらんとする少年を、進むべき道に進ませるために、女盗賊は背を向けた。悲痛に歪む彼の顔は見ていられなくて、何よりいつまで普段の自分を貫き通せるか定かではなかったから。

 そうして、どれくらい経ったのだろう。気づけばいつしか、少年の気配は消えていた。

 中天に差し掛かった月は、涙に濡れた髭面と、隻眼を曇らせた女盗賊の横顔を冷ややかに見下ろしている。満天の星の光が沁みるように美しい、よく晴れた夜のことだった。

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