女盗賊、対決する Ⅰ
「若様。奥様はもうお部屋でお待ちですよ」
古参の下女の優しい声を背で受け止め、少年は不作法にならない程度の速さで屋敷を駆けた。下から数えた方が早いぐらいの下っ端とはいえ、レミーユの家は子爵という位を代々受け継いでいる。当然、住まいは庶民のそれとは比較にならないぐらいに広大だった。
毎日母と共に甘味を食べる居間は、屋敷の中でも奥まった所にある。
「今日は早く帰って来てくれたのね、レミーユちゃん。お母さん、嬉しいわ」
ようやく目的の場所に辿りつくと、母の穏やかな声と微笑みが出迎えてくれた。母の足元では、父が横向きにひれ伏している。そして母は、その父の背中に小さな足を乗せていた。
母は小柄なので、普通に椅子に座っていたら身長が足りず、爪先が床に付かない。だから母は時折こうして、父を足置きの代わりにするのである。
母の足元に無言でひれ伏す父は、満身創痍という言葉ではとても形容できない有様であった。昨夜父母の寝室から聞こえてきた悲鳴から察するに、父は性懲りもなく浮気心を起こしたところを、母に見つかったのだろう。いい加減に懲りればいいのに。だいたい、母という神に誓いあった伴侶がいるのに、別の女に言い寄るからそんな目に遭うのだ。
――僕は、生涯バルデロさんだけを愛し抜こう。そして、笑いが絶えない幸せな家庭を築こう。
母に爪先で頭をぐりぐりされる父の、情けないを極めた姿に少年は誓った。自分は決してあのようにはなるまい、と。
眼差しで助けを求めてきた父に蔑みの視線を返し、少年は席に着く。すると側に控えていた下女が、早速今日のおやつを差し出してくれた。甘酸っぱい芳香漂わせる苔桃茶と、卵黄を塗って艶を出した焼き菓子。どちらもレミーユの大好物だ。
「だって母上、大切な話があるって言ってたじゃないですか」
小さな口を大きく開けて菓子に被りつくと、
「ええ、そうね。でも最近、レミーユちゃん一緒にごはん食べてくれないじゃない? だからお母さん、とっても寂しかったのよ?」
母は細い指で茶器を持ち上げ、我が子が菓子を摘まむ様子を、この上なく幸せそうに見つめていた。我が子の成長を喜ぶ母親の瞳は、どこまでも、聖女さながらに慈しみ深い。全てを赦し、受け入れる目だった。ただし、父の浮気は例外である。
「母上……」
「いいのよ。レミーユちゃんももう十六だから、お外に色々気になることがあるんでしょう? でもたまにでいいから、お母さんと一緒にお昼ごはんを食べてくれたら嬉しいな、って」
「……」
自分は最近、愛しい人との時間を優先するあまり、この優しい母を蔑ろにしていなかっただろうか。幼い頃は、レミーユちゃんは私の宝物なの、と子守歌代わりに囁いてくれた母なのに。数年前レミーユが高熱を出した際は、不眠不休で看病に徹するあまり、自分が倒れてしまったような母なのに。
自分は、なんて薄情で不甲斐ない息子なのだろう。明日からは、母と過ごす時間をもっと増やさなければ。でも、バルデロたちと過ごす時間も、何物にも代えがたい宝だ。減らせない。
母親と愛する女性の二択を迫られた少年は、懸命に考えた。考えすぎて、熱が出るくらいに考えた。
「腕が、痺れっ……! ああっ……!」
ついにその場に崩れ落ちた父の、苦痛に満ち満ちた悲鳴はさらりと聞き流して考えた。無断で足置き台の役割を放棄したため、反省の意思なしと見做され妻に折檻されてしまう、と怯える父の無言の哀願も無視して考えた。すると突然、名案が降って来たのである。レミーユがバルデロを屋敷に招待し、母と自分と盗賊団の皆で一緒に昼食を摂るのはどうだろう。
そうと決まれば、早速母に相談しなければ。
「あの、母上」
「それでね、レミーユちゃん」
うきうきと口元を緩めた少年と、貴婦人が唇を開いたのは同時だった。
「母上の方から、どうぞ」
母親を大切にすると誓ったからには、何事も自分より母を優先しなくては。少年は決意も新たに、残った苔桃茶を一息に喉に流し込む。
「あら、悪いわね。ええと、レミーユちゃんも今年でもう十六歳になったでしょう? だから、そろそろ考えないといけないじゃない?」
母がうふふと微笑んだのは、レミーユが甘く爽やかな液体を嚥下しきった直後だった。
「ええと、何についてですか……?」
「もうやだ、レミーユちゃんったら! この時期から考え始める大切なことって言ったら、あれしかないでしょ?」
「あ、あれって……?」
だがそれは、幸運なことだったかもしれない。長い睫毛に縁どられた大きな目をぱちぱちと瞬かせる少年にとっても、その母親にとっても。
「んもう、レミーユちゃんったら。あれと言ったら、結婚に決まってるじゃないの! レミーユちゃんは本当にうっかりしてるんだから」
なぜなら、もしもまだ少年の口内に苔桃茶が残っていたら、衝撃のあまり噴き出してしまっていたはずだから。さすれば今頃、貴婦人の前髪からは赤い滴が滴っていただろう。
「でも大丈夫よ、レミーユちゃん。お母さん、レミーユちゃんには世界で一番幸せになってほしいから、近々めぼしい家のお嬢さん宛てに幾つか手紙を送る予定なの。だから、そのうちきっと良縁が……」
「そ、そんなあぁぁぁぁぁぁぁ!」
少年の澄んだ悲鳴が屋敷中に轟けば、今度は貴婦人が目を瞬かせる。その足元では、相変わらず壮年の男が這いつくばっていた。
◇
珍しくレミーユなしで昼食を平らげた後、女盗賊はお気に入りの木の上で横になっていた。
「バ、バルデロさあぁぁぁぁぁぁん!」
――のだが、一見どころか百見、千見、いや一万見ぐらいしても美少女にしか見えない少年が、バルデロがくつろいでいる樹に突撃してきたのだから仕方がない。しかも、物凄い速さで。
「んだようるっせえな。人が折角いい気分で眠ろうとしてたのに」
頭を掻きながら樹から飛び降りると、早速抱き付かれてしまった。なお、レミーユはバルデロよりも頭一つ分ほど背が低い。なので、現在のバルデロは、太く逞しい首筋や、鋼鉄の筋肉胸で迸る涙を受け止める形となっている。
「バ、バルデロさん! どうか、どうか落ち着いて聴いてください! 実は、実は、じつうっ」
「人に落ち付けと言う前に、まずお前が落ち付いてくれ! あと、離れろ!」
焦るあまり舌を噛んでしまったらしく、レミーユはしばらく口を掌で覆って呻いていた。零れ落ちそうに大きな瞳には、涙が溜まっている。
バルデロは隙を見計らってレミーユから離れた。が、手下どもは地面に落ちた菓子の欠片に集る蟻のごとくわらわらと集まり、項垂れる少年の世話をあれこれと焼き始めたのである。
「大丈夫か? 何があったのか知らねえけど、元気出せよ」
「ほら。お前が来るかもと思って取っておいてた、今日の昼飯分けてやるから」
中年男たちはいずれも、まだ羽も生え揃わぬ我が子を慈しむ母鳥の目をしている。愛情深い中年男たちに励まされ、今日の昼食「猪肉の煮込み――夏野菜の蒸し焼きを添えて」を平らげた少年は、どうにか泣き止んだ。しかし愛くるしい顔には、色濃い憂いと悲しみの影がなおも差している。
普段はこの領地の将来が不安になるぐらい能天気なレミーユが、こうも落ち込んだままでは居心地が悪い。
「まあまずは、何があったか俺たちに話してみろよ、レミーユ。じゃなきゃ、状況が良く分かんねえし」
女盗賊が恐る恐る近づくと、少年は膝の間に埋めていた顔をがばりと上げた。
「バ、バルデロさん……! 実は、実は……っ!」
「じ、実は?」
「な、なんと、なんと、ななななんと―っ!」
「――いいから早く言えよ!」
無駄に引っ張る少年の頭を、女盗賊はべしりと叩いた。
「僕、婚約させられることになったんです! 母上が、僕もそろそろそういう年だから、って……」
「な、何だって―っ!?」
突然の報告の次の絶叫は、部下たちの酒焼けした喉から迸ったものである。しかし、レミーユはバルデロの手をひしと掴んで離そうとしなかった。
「そうでしょう!? バルデロさんも思いますよね!? 愛しあう二人が、引き離されていいはずはないって!」
「生憎小指の甘皮ほども思っちゃあいねえけどな」
「だから、どうか今から僕と一緒に、母上を説得してくださいませんか!?」
指摘はまたしても丸ごと受け流した少年は、うち捨てられ、豪雨に打たれた仔犬の目でバルデロに懇願してきた。無視をしようものなら、良心がひりひり痛むあの眼差しである。
「――ああ、いいぜ!」
女盗賊が答えに詰まっている間に、手下たちは全員、無意味に輝かしい笑顔を浮かべ親指を立てた。ご丁寧に、片目まで瞑ってもいる。下手くそだが。
「や、やったあ! 一緒に僕たちの未来を守りましょうね、バルデロさん」
「お前ら、何勝手に答えてんだ!」
「大丈夫です! 僕たちの仲を見せつければ、母上もきっと分かってくれます」
焦ったバルデロが今更ながら反論しても、この場にいる者たちは、誰一人として聞く耳を持っていなかった。
「ってもよー。俺、領主夫人に会いに行けるような服なんざ、一着も持ってねえぜ?」
どうにか婉曲的に断ろうと試みても、
「ああ。それなら、一ついいのがあるじゃないですか」
部下たちもレミーユも、明後日の方向に勘違いする。
お頭とレミーユの未来のために、と近くの洞窟まで走って行った子分が持ってきたのは、亡き父が偶然見つけた亡骸から剥ぎ取った鎧一式。実は、バルデロが対それなり騎士戦で見つけた篭手も、同じ亡骸が身に着けていたものなのだ。篭手以外は大きさが合わないので、普段は仕舞っていただけで。
「ほら、この鎧。よくよく目を凝らせば所々に細かい傷はありますけれども、作りは確かですもん。お頭にきっと似合いますよ」
「わあ、かっこいい! 僕も、この鎧を着たバルデロさんの姿を見てみたいです!」
「レミーユの母さんだって、これ見りゃ一発でお頭のこと気に入りますって! さあ、お頭。早く!」
「お前ら……」
レミーユと手下どもの双眸は、いずれも期待を灯し、貴石さながらに輝いている。女盗賊は珍しく優しい微笑みを口元に湛え、鎧を受け取った。
鈍く輝く防具が古傷が刻まれた手に委ねられた瞬間は、自然と拍手が沸き起こった。しかし次の瞬間。女盗賊はきらきらとした目で鎧を差し出した部下の脳天に、拳をめり込ませた。
「どこに完全装備して男の家に挨拶に行く女がいるんだ!? 気に入られるも何も、門前払いされるのがオチだろうが!」
あ、と目を見開いた手下全員を、バルデロは蹴り飛ばした。こいつらは心底どうしようもない。
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