八章ノ弐『中学年クラス』
カロナが薬学院に入ってもうひと月が経つ。
白猫は相変わらず、カロナを見守っていた。
ただ、平穏に薬学を学んでいるように見えるカロナだけど、少しづつ、少しづつ環境が変わりつつあった。
始まりは教諭の言葉から。
「これがハシノテツ、主に解毒作用のある薬草だ」
教諭の言葉に香りを嗅いだカロナは、ノノの隣で手を上げる。
「先生、それはハシノテツではなく、アカイツノソウですよ」
「何を言ってるんだカロナ院生、アカイツノソウ……のはずがない……」
手に持つ薬草を凝視する教諭は、確かにハシノテツではないな、そう呟いた。
「……アカイツノソウとハシノテツは間違い易い、皆も注意するように――」
教諭は自身の間違いをそう誤魔化した、だが、そのカロナの指摘はその後も何度か間違いを指摘する場面があり、指摘に対して腹を立てた教諭は、カロナに対して敵意を向けた。
だが、その敵意は子ども染みていて、せいぜいカロナに対する嫌がらせに留まった。
難しい問題を出したり、意地悪な手伝いをさせたりするも、カロナにはあまり効果が無く、ただそれらは、ノノやトスルにはかなり不満を募らせる出来事になる。
「何なんですか!あの教諭は!」
「確かに、カロナに対して意地悪ばかりしているね、大丈夫かい?カロナ」
二人の心配に、カロナは首を傾げる。
「あの先生は別におかしいことしてないよ、私に問題出したり課題を出すのは、教諭としての務めだもん」
他人の非道に無関心なのではなく、無警戒であるが故のカロナの言葉に、ノノとトスルは呆れた笑みを浮かべて、彼女が匙を口に運ぶのを見守る。
食べる微笑む、食べる微笑む、食べる微笑む、それを繰り返すカロナを見てノノもトスルも微笑む。
「カロナちゃん美味しい?」
「うん!」
「食べることが大好きなんだねカロナ」
「うん!」
カロナのその天真爛漫な様子を見ていると、白猫は昔のリナの頃の自分の友人を思い出して少しだけ懐かしんだ。そんな、憩いの場である食事の最中に、不意に三人の席に割って入って来るのは、彼らより年上の中学年の院生たちだった。
「やっぱりカロナだよ、単頭のカロナだ~カワイイ」
「ほ~近くで見るとさらに可愛い気がする」
男三人がいて、二人が向かい側に座り、一人がカロナの右側に座る。
ノノとトスルは上級生ということもあり、早く席を開けようとする。
「カロナちゃん、もうそろそろ行こう」
「そうだねノノちゃん」
カロナが席を立とうとすると、一言も話していない男が、カロナの手を掴んで耳元で囁く。
「座ってろ」
「……何でですか?」
カロナに席を立たせないように手を掴んで、もう一方の手で束ねている髪を勝手に掴んで鼻に直付けして匂いを嗅ぐ。
「止めて下さい!」
トスルが珍しく声を上げるも、その男はカロナの髪の毛から手を離さない。
「座っていなよ、ゼンノは怖いんだぜ、中学年のボスなんだ」
「そうそう、カワイイ子の髪の毛を嗅ぐのが趣味なんだぜ」
取り巻き二人がゼンノと呼ぶ男は、カロナの四つは年が上であり、体格もガッシリしている。
ゼンノは、カロナの髪の毛を放すと、耳元に口を近付けて言う。
「いい匂いがする、お前、こんど俺の部屋に来ないか?色んなこと教えてやるからよ」
「……遠慮します」
カロナがそう言うと、取り巻き二人がノノを立たせ、自身らの間に座らせてぴったり身体をくっつける。
「いいのか?お友だちが大変な目に遭うぞ」
いつもは強きノノのも、年上の男二人に挟まれえて泣きそうになる。
白猫は、もしカロナに何かしてら手を貸すつもりで見守っていた。
「いい加減にしろ!」
トスルがノノを席から引っ張って自身の隣に立たせると、カロナの腕を握って、その場から離れようとする。
「行こう二人とも」
「……はい」
「うん」
ノノは震えながらトスルの腕を掴み、カロナはノノを心配しながらトスルの手を握った。
「待てよ!」
「よせ……教諭が来てる」
教諭の目を気にしたゼンノは、それ以上カロナ達を追うことはなかった。もしも、追ってきていたなら、この爪の餌食にしたのに、惜しいことをしたニャ。
白猫もそう思いつつ、三人の後をついて行った。
トスルは食堂から離れてすぐ立ち止まると、二人の様子を確認する。
「大丈夫かい?ノノ」
「……ご、ごめんなさい、ダメかもです、でも、泣かないです!泣かないと決めてます!」
ノノは怖くて仕方がなかった様子だが、カロナは平然としている、そうトスルは思っていた。
「カロナは大丈夫かい?」
「……うん、大丈夫だよ」
そう言うカロナの手は少し震えていて、トスルは自身の認識を改める。
そうか、カロナは怖くても、周りを心配させないように怖くないと虚勢を張る娘なんだ。
「もう、心配ないよカロナ、こう見えても僕は男だからね」
そう彼が言うと、カロナもようやく震えが止まる。
カロナはロウの子であり、その身体能力は人狼で、守杜の加護があるが、心は少女でしかなく、絶対に傷つけられることがなくとも、恐怖を覚えることもあるのだ。
白猫は、トスルの意外な漢気に関心しつつ、同時にカロナの可愛さに自身の娘の如き愛情を感じていた。
そして、そのトスルへの白猫の感覚と同等の想いをノノは彼に感じていた。
三人は食事後、午後の授業に向かう前に、教諭から言われていた教材を取りに学院の南西にある倉庫へと向かった。
教諭が持ってくるように言われた教材は、絶滅した薬草の、または希少な薬草の標本。
年中鍵のかかっていないその倉庫の内、一番北側の二つの東側の倉庫にあると聞いて三人は入って行く。
「ほ、埃っぽいね」
「ですね、それにカビ臭いです」
「く、臭いね、ちょっと私、気分が悪くなってきたかも」
カロナの嗅覚は人の姿でも常人の何倍はニオイに敏感であり、彼女が苦悶の表情を浮かべるのも無理はないほどに、その倉庫は臭っていた。
その理由が、アンモニアであることは白猫は知っていたが、ノノやトスルは常人の嗅覚であるため、その少量のアンモニア臭には気が付かないでいた。
しばらく探していた三人だったが、カロナが我慢の限界を迎えて外へと飛び出す。
「も、もう無理~」
「か、カロナちゃん?」
そうして飛び出したカロナは、ドンっと誰かにぶつかって、白い安紙がその場に広がった。
「きゃっ!」
「あ、ごめんなさい」
カロナがぶつかって立っていられるのは、その身体能力の高さ故であり、体格的に大きな倒れた女は少し疑問に思い呟いた。
「あ、あなた小さいのに頑丈なのね」
「ほ、本当にごめんなさい、ルナイ先生」
彼女はルナイ女性教諭、学院長の愛人である彼女は、教諭という立場でありつつも、倉庫番のような扱いを受けていて、その事実はカロナたちにはまだ理解の及ばない事柄だった。
「本当は教諭と呼ばなければならないのだけれど、先生でいいわ、で、そんなに慌ててどうしたのかしら」
カロナが経緯を話ながら紙を拾い上げると、ルナイも同じように紙を拾っていて、互いの尻がぶつかり、何故かまたルナイだけ転ぶ。
「きゃ!ま、また私だけ?何でかしら」
「ご、ごめんなさい」
そうしていると、ノノとトスルも心配して倉庫から出てくる。
「大丈夫カロナちゃん?」
「ん?ルナイ教諭?大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ、あなたたちも標本探し?でもごめんなさいね、その標本は倉庫にはないの。最近破損個所の修理で私の部屋にあるのよ、取りに来てくれる?」
そう言われて、三人はルナイの部屋へ向かう。
倉庫の南側にひっそりと建つ建物は、まるで、隠れ家のように建っていて、その中が彼女の部屋になる。
ルナイは、待っててと言うと、その建物に入り、次に出てきた時にはその手に標本を手にしていた。
「どうぞ、持って行って」
「ありがとうございます」
カロナが受け取ろうとそれに触れると、その一瞬にルナイは彼女に耳打ちする。
「あなた、綺麗だから気を付けなさいよ」
「?……はい」
訳も分からずそう返事したカロナ。トスルとノノはその時の返事の意味を理解できず、カロナに声をかける。
「どうしたの?カロナちゃん」
「……う、うん、なんでもない」
こういう時、周囲を心配させまいとするカロナの行動は良くもあり、悪くもあると、後々自覚していくのだった。
標本を手にしたカロナとノノとトスル。
低学年の教室へ向かうと、そこには誰もいない、標本を教壇に置いて、最前列の定位置に座った三人は授業開始時間になっても誰も来ないことに困惑していた。
「遅いね」
「そ、そうだね……でもこんなこと今まで」
「……カロナ、ノノ、僕の勘だけど、今日はここじゃないんじゃないかな?」
そのトスルの言葉は彼らにとっての経験から基づくもので、今までも教室ではなく、特別な場所で授業が行われることがあったからだ。
「きっと、誰かが教室の移動の紙を剥がしたんだよ、普段なら目につくところに張ってある紙を、意図的に外しているんだよ」
「そ、そうですね!それが一番可能性が高いです」
カロナは、鼻をクンクンと動かして、ようやくアンモニア臭が消えたからか、あることに気が付いた。
「メイナル先生が来たみたい、香水の匂いがする」
「メイナル教諭が来たなら、たぶん、野外だよ」
教室の南のちょっとした広場で、天気や気分で授業をするのがその教諭の特徴だ。
三人は急いで南側を確認しに行くと、そこには授業中のメイナル教諭と、学友たちがいた。
「先生、三人が来ました」
院生に言われて三人の存在に気が付いたメイナル教諭は、男ながら香水の香りを漂わす教諭で、随分ご機嫌斜めな様子だった。
「あらあら、単頭に次頭に末頭の三人様じゃ、あ~りませんか。遅れて来たの理由を聞かせてもらいましょうか?」
メイナル教諭に対し、トスルが、口を開こうとするも、カロナが先んじて理由を話す。
「教室に入るといつまでも教諭が来ないため、もしかすると、ここではと思い慌てて来ました。移動教室なら連絡を入れてほしいです、メイナル教諭」
カロナの言い方は、まるでメイナル教諭に非があるようなもので、ノノとトスルはカロナの意図が分からず、ノノはカロナの腕を掴み、トスルは困惑した表情を浮かべた。
「……おかしいですね、私はちゃんと貼り紙を出したはずですが、フ~ム、これは誰かが意図的にその貼り紙を剥がしたようですね。誰か!教室の紙の行方へ知っている者!前にでなさい!ここへ来ているということは、紙を見て来た者の中にいるはずですよ!」
メイナル教諭がそう言うと、その場にいた院生は困惑する。
カロナは困惑していた二人に小さく、「大丈夫、私たちは間違ってないよ」と囁く。
ノノもトスルも笑みを浮かべて頷くと、カロナの考えに任せることにした。
それからメイナル教諭は、しつこく誰が~と騒いでいて、誰も貼り紙を剥がした院生が出てこないまま、一人の女子がカロナたちが嘘を吐いているのではと言い出す。
「三人が気付かなかっただけで、本当は紙が落ちていたんじゃないんでしょうか?三人が教室にいたところを誰も見てはいないんですよね?もしかすると、そもそも遅刻した言い訳を言っている可能性もありますよね?」
メイナル教諭は、三人の視線を向けて、反論は?と問いかける。
「教壇の周囲に紙はありませんでした」
トスルの言葉にノノが言い加える。
「標本をルナイ教諭から受け取って教室へ事前に向かったので、ルナイ教諭に聞けば私たちが教室へ時間前には到着したことが分かるはずです!」
二人の言葉に、メイナル教諭は沈黙し、その場にいる者たちに向けて言う。
「誰かが、嘘を吐いていますね、誰か貼り紙を剥がした者、もしくは紙が無い時のを見た者はいませんか?」
その言葉に、一人の男子が手を上げて言う。
「僕が教室に行った時には、紙はもうありませんでした」
「なら、あなたはどうやってここへ来たんです?誰かに教えてもらったりしたのですか?」
その男子は一人の女子を指すと、彼女に教えてもらったと言う。メイナル教諭がその女子に事情を聞くと、扉の前で別の女子から移動を知らされたと言い始めると、もうそれはイタチごっこになる。
「……埒があきませんね、しかたがないです、次からは一度教室に集まらなければならなくなったようですね。実に不服ですが、この中に私の嫌いな人間が混ざっているようです、嘘つきの卑怯者がね」
その言葉に対して、集団が互いに見る目が変わる。互いに嘘つきを探そうとしている様子で、空気が急に重くなった。
その後、授業は再会して、カロナたちも咎められることなく参加した。だが、授業の雰囲気は最悪で、院生同士でギスギスしていた。
授業が終わると、メイナル教諭は一言残しその場を去る。
「嘘つきにはかならず、キリンの罰かアンジャの呪いがかかると思いなさい」
子どもに向けるセリフではないが、そもそも彼は嘘を吐く者を子どもの枠には置いておかない人柄なのだろう。
白猫は、寮へと戻る三人の後について行く中で、カロナがどうしてメイナル教諭にあんな言い方をしたのか、その理由を聞くことになる。
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