二章ノ参『母の記憶』
ある日の夕暮れ時にそれは唐突に訪れた。
ロウが帰ってこない、日が暮れても、朝になっても。
私は寝ずにロウの帰りを待っていたが、とうとう父や母の時の事を思い出すようになると、この一年数か月で立ち入ることがなかった領域へと、私は足を踏み入れる決意をした。
薄暗い森、その中は珍しい草花や上質な薬草の宝庫だった。でも、私にとってはロウがいなくてはそれらは何の意味もないただの物で、ロウの名前を叫びながら当てもなく彷徨っていた。
「ロウ!ロウ!どこにいるの!?」
私は森の中をしばらくロウを探して彷徨っていると、茂みに何か生き物の気配を感じて声をかけた。
「ロウ!そこにいるの?出てきて!」
確かにそこに何かがいて、それが何なのかは分からないが、ロウであろうと声をかけ続けた。
でも、私の予想とは違い、茂みから姿を現したのはクモだった。いや、クモと呼んだけれど、実際には黒い六本の足に黒い胴体、その胴体にはウシかヒツジかの顔が付いていて、その目は虚空の瞳な故に醜い。顔は私をジッと見つめて、大きく口を開くと、「ヒャァァァア!!」と声を上げた。
私は驚いて悲鳴を上げて慌てて踵を返した。でも、そのクモは私と一定の距離を保ってこちらへ走ってくる。これが魔の物のだろうと考えながら、森の中を私は必死に駆けた。
逃げても逃げても、子どもの足で逃げ切れるほど魔の物の足は遅くなかった。
私はとうとう疲れ切って足を縺れさせて転んでしまう。すると、魔の物は一定の距離を開けたまま止まり、その悲鳴を響かせ続けた。
ロウもいない、もう走れもしない、そんな私ができることはロウの名前を呼び続けることだけだった。
「ロウ!ロウ!助けて!ロウ!」
そうしていると、不意に魔の物が叫ぶのを止めた。その理由はすぐに理解できた。
一匹、また一匹と同じ見た目の魔の物が現れ、最初は大きさなど気にもしなかったが、冷静になるとその大きさはロウとほぼ同じ大きさだと分かる。
そして、大きな振動とともにそれが現れると、私は恐怖から失禁してしまった。
ロウの三倍の大きさの魔の物、それの胴に付いている顔は明らかに人の物だった。
「……ば、化け物――」
魔の物はゆっくり私に近寄り、その胴に付いた顔を近付けると、「うまそ」と言う。
「ニンゲンうまそ、ニンゲン食う、ニンゲンうまそ」
魔の物がどうして危険なのか、それは食べた者の顔をその身に表すからだろうか。
その時、私はただただ怖くて何も考えられないまま、「ロウ、助けて」とかすれた声を出していた。魔の物の顔が目の前まで近寄り、その息が私の髪を揺らし体に吹きかかった瞬間だった。
「ウオォォォオオン!!」
その黒い毛並みは薄暗くてもしっかり見える。私が名前を呼ぶ中で、ロウは魔の物たちと戦いを始めた。
「キリン、キリン、ニクイ、メイロウもニクイ」
魔の物はそう言うと、ロウに向かって次々に襲いかかる。
私は、ロウは強くて魔の物など簡単に倒せるから戦っているのだと思っていた。でも、ロウが二体の小さい魔の物を退治したのを見て、そうではないのだと理解した。
大きなクモのような足がロウに突き刺さり、大量に血が口から出ているロウ。
足が震え、人の顔が付いた魔の物の足がその体を蹴ると、ロウは簡単に吹き飛ばされてしまった。いつも返り血のようなものだけで、傷付くことが無いと思っていた私は、その光景を信じられずにいた。
ロウは倒れても倒れても起き上がり、再び魔の物へ立ち向かう。もうやめて、そう思ってはいたけど、その時は声に出すことはできなかった。何度も何度も立ち向かうロウを見ていると、その異変にようやく気が付いた。
ロウの体の傷がいつの間にか治っているのだ。それは見てるだけでも明らかに分かって、私はようやくその事実を知ることになった。
ロウは傷付かないのではなく、傷の治癒が早い。それはつまり、彼は傷付き倒れても再び起き上がり戦い続ける。魔の物が倒れるまで何度でも、そして、ロウが実際に倒れた時にそれは起きた。
『立つのだ、眷属よ、メイロウの命において、死ぬこと叶わず、使命において魔の物を狭間へ送り返せ』
その言葉は森全体に響いているようで、私にもはっきり聞こえて理解できた。
ロウは何らかの力で全ての傷を癒し、その身を起こすと大きな魔の物と戦い、そして傷だらけになりながら全ての魔の物を倒してしまった。
その場で倒れ込むロウ、大きな魔の物の刺が刺さっていたところが塞がらないようだった。
私は、すぐに想像以上に軽いロウを抱え祠へと帰る。常備しておいた止血薬を使うけど、それは一瞬ロウの回復力を助けて、傷口が塞がるように見えたが、塞がり切る前にまた広がって血が噴き出る。
「どうして……」
私は祠の本を再び持ち出して、原因か解決するための何かしらがないか探した。すると、魔の物の付ける傷にはキリン草の根を混ぜた止血薬しか効果が無いと記されていた。
「キリン草!」
どうして忘れていたのだろう、母に何度も聞かされていたのに、どうして。
『よく覚えておいてねカイナ、む~かし昔のお話です。子どもが森で遊んでたとさ、そしたら魔の物に襲われて、慌てた大人はキリンに言う』
それは、私がまだ歩けもしない時から聞かせてくれた、籠り歌のような物語だ。
子どもの傷が治らない、そこで人は知恵者のキリンに尋ねた。するとキリンは、『この草は私の加護を受けた草、弱く単体では生きていけない、だから加護を与えた』
そしてキリンは、キリン草の傍に生えるケジの花を探しなさい、そう言ったそうだ。
何度も母が私に言い聞かせてくれたのに、そんな大事なことを忘れていたなんて。
私は私を責めた、そして、キリン草を求めてケジの花を探した。
「ロウ待ってて!必ず!必ず見つけてくるから!」
森の中を母の言葉を頼りに私は駆ける。母は、ケジを見つけるにはツルの葉を見つけなさい、そう私に教えてくれた。いつでも母は私の為に私を教え導いてくれていた。
そして、それはこれからも変わらず導いてくれている、そう思うと私は勇気が湧いて疲れも忘れ時間も忘れて、ようやくツルの葉を見つけることができた。
淡い紫色のケジの花、その傍に寄り添うように生えた草がキリン草だ。
「これだ!やったよ!母さん!」
キリン草の根を素手で掘り起こし、苦しんでいるであろうロウのもとへと急いで帰った。
今思えば、月明かりしかない森の中を単身でよく無事だった。
そうして、私が持ち帰ったキリン草の根で止血薬を作り、ロウの傷へ塗ると傷はみるみる回復した。それは、ロウの元々の治癒力の高さもあってのことだ。
ロウの置かれた立場を知った私は、ロウが最後の人狼の末裔なのかもしれないと考えるようになった。キリンやその眷属は人に狩られ、人狼も森の奥へと追いやられたとツナム・ハジクさんも記していた。
私はロウと二人きりだけど、これからも母が傍にいてくれている、そう思えた。
その日の朝頃に、ようやく安堵して眠りに付いた私はある夢を見る。
『そんな話、赤ん坊にしても覚えてはいないだろ?』
父の言葉に母が言う。
『大丈夫よ、母の言葉はいざという時に思い出せるようになってるんだから』
二人は笑って私の顔を見るの、二人の笑顔が夢でも記憶にあるものでもいい。
優しい父の笑顔と、母の笑顔が見れて幸福な気持ちになったのは言うまでもない。
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