二章ノ弐『二人』


 目を覚ますとそこは森の香りがする暗い、でも、優しい空気が漂う、そんな場所だった。

 六日間何も食べていなかった私は、四日間かけてようやく動けるようになった。

 隣にいる狼は、私をこの十日間ずっと世話をしてくれていた。

 優しい狼、……のはずだけど、彼は不自然なところがあり、そう思う度に人なのかもしれないと思ってしまう。

 肉はいつもしっかり処理されて焼かれているし、私の為に服を集めてきたり、体を洗うための溜め湯をしてくれたりする。どれも人でしかできないことで、私は狼を観察していた。

「ね、オオカミさん、私はカイナっていうんだけど、オオカミさんは?」

 黒い毛並みを摺り寄せた狼は、どこからか札を銜えて出てきた。その札にはロウという文字が書かれていて、私はそれが名前だと勝手に思い込んだ。

「ロウって言うのね、ロウ!一緒にご飯の用意しましょう」

 最近は……髪の毛を切っていなかったから、少し長くなってしまい、ハサミでもあれば前髪を整えられるんだけど、今はそんな贅沢は言っていられない。

 私はロウと生きる意志を持ったんだ、父さんも言ってた贅沢は商人の敵だって。

 祠を出ると、周囲の状況からますますロウが狼ではないのでは、と思えてくる。

 毎日どうやって深い井戸から水を汲み上げたのか、水を汲み上げどうやってこの金ダライに水を移し、どうやって運んだんだろうか。

「ねぇロウ、ロウってさ」

 ロウは私が言い終わる前にスタスタと歩いて行ってしまう。

 その後ろをついて歩くと、この大きな幹をくり貫いた切り株であろう場所の奥側に、紐に吊られた乾燥した肉が置いてあった。

「干し肉だ……でもこれって」

 ロウを見る私に、今度は大量の野の菜が入った籠を銜えてロウは持ってくる。

 明らかに不自然なそれを疑いの目で私が見ていると、ロウが私の服を銜えて引っ張る。

 祠の裏へとついて行くと、そこには釜土や水瓶や米櫃が置いてあった。

「傷んでるけど、全然使えそう……でもどうしてこんなところに?」

 釜の蓋を開けると、そこには炊かれたご飯があり、私はまたロウに視線を向けた。

 ロウは優しげな目で私を見ると、体を足元に擦り付けてその場に伏せた。

「ロウが用意してくれたの?でも、どうやって炊いたんだろう……」

 私はますますロウが不思議な存在に思えて、干し肉とご飯と野の菜を使い昼ご飯を食べた。

 生まれてすぐに行商人の子として一所に留まらなかった私は、母に何でも教えてもらっていた。炊事、洗濯、掃除、家事全般に薬草に関する知識、行商人に関しての知識もだ。

 おかげで、十一にしては自分だけでも生活できると思えるほどには、私は色々と行動できた。


 私が森の生活に慣れた頃、マトの国の人狼の森では、細々と暮らしていた森の民が兵士たちによって次々に森から追い出されていた。森の民は古い薬草学を皆が持ち合わせていて、信仰治療の大神官兼大臣のウジの名によって薬草学の使用を禁じ、森からも出るように森の民に強いていた。

 私は森の深くにいたため、人の眼に触れることがなく、そんな状況など知るよしもなかった。

 昼は森で狩りをし、もちろんロウしか動物は捕まえられず、ただ、母について行った薬草採りの知識はとても便利に活用できた。

「美味しいねこのお肉!」

 香草と焼けた肉、野菜を食べている時にまた疑問に思う。

 私はロウが捕らえた小鹿、それの皮の処理や調理をしていないのだ。私がしていないということは、ロウがそれをしたのだろうが、狼であるロウがどうやって?という疑問は尽きない。

 私は火を起こせるけど、火は最初から点いていた、それは誰が?どうやって?

 次の日も、その次の日も、結局、ロウが捕まえた動物はいつの間にか皮を剥がれていて、いつの間にか焼かれていた。しかも私が焼くよりおいしい。

 そうした生活の中で、不意に夜になると唐突に母と父を思い出して私は泣いた。

「お母さん……お父さん――」

 そういう時、ロウは必ず傍で私に寄り添ってくれた。それがとても嬉しいと思ったこと、後になってもはっきり覚えている。

 それから私は、ロウと二人で日々の糧を森から貰って生きていく。

 生活していくだけならこの森は十分暮らしていける、けど、衣類や家具ややはり建物は子どもの私や狼のロウではどうにもできない。

「少しづつでもお金を稼いで、その辺をどうにかしないと――」

 米櫃の中の米も永遠に湧いて出てくるものでもなし、やがては無くなってしまう。肉や魚、野菜などあれば十二分に食べていけるけど、やはりお米は食べたいので。

「母さんみたいに薬草を摘んで煎じて、薬を作って売れれば……」

 その日から母に教え込まれた薬草学で、記憶を頼りに薬を作り始めた。

 お腹の痛み止め、堕熱(風邪)用の熱冷まし、傷薬に季節病の薬、止血薬……。

「止血薬ってどうやって作るんだっけ?」

 何かの花の傍に咲く草と何かの根、そう母がよく小さい私に言って聞かせてくれた。その時は思い出せずにいつかは思い出せるだろうと、私は薬草を乾燥させたり、薬にしたりして保存していった。


 私がロウと暮らし始めて一年ほど経った頃、ロウが突然血まみれで帰ってきた。

「どうしたのロウ!」

 慌ててロウの体を心配する私だったが、その血がロウのものではないのはすぐに分かった。

 赤い血は人の血ではなく、臭いで鼻が痛くなるようなそんな血だった。

「何、すごい臭い……」

 ロウは、祠の奥から見覚えのない本を取り出してきて私に銜えて渡した。

「これを読めばいいの?」

 その本を私が開くとそこには魔の物のことが書かれていて、私はロウの反応から、見て欲しいのだろうとその本を読んでいった。この時にも読み書きを教えてくれた母の思い出が湧くように溢れて泣いてしまったけど、同時に私は母に深く感謝した。

 魔の物、それが記されたところを開くとロウは少し唸り、彼の体に付いた血が戦った魔の物のものであることが分かった。そして、本にはこう記されていた。


 魔の物は人の武器では倒せない、いや、あるいは鋼なる鋼鉄を持ってなら生まれたばかりの魔の物を狩れる。

 奴らは、キリンや人狼やカナムのような神聖な者たちと同じ領域の化け物だ。

 キリンが賢く温厚であり、人狼が忠実で強く、カナムは人の領域から離れた仙の者だ。

 それに比べ、魔の物は知性に欠け、獣を襲い人を襲う。キリンやメイロウなどの聖獣の加護だけが、そんな化け物を退治することができた。しかし、人はおろかにも聖獣を狩り、森の番人である彼らの眷属を追い出した。

 だが、魔の物は人へは向かわず、キリンの命を求めて北へと向かう。ワシの考えでは、キリンが昔魔の物へ何かをしたのかもしれん、そのことを知りたくてワシは眷属と接触した。

 マトの国で今も眷属として生きている者で出会えたのは人狼だけだった。人の言葉を話し、人の姿と狼の姿になれる者たちだ。だが、長い年月の所為で人間の姿は保てなくなっているかもしれんと考えておった。  

 これは明確に人の領域を彼らが犯すことが無いようにする聖獣の思惑が伺える。私はそれらを知り、これに書き記し、人の眼に触れないためにこの祠に残す。もし仮に、人の抗えない獣が現れたなら、それは魔の物に違いない。

 その時は森に住む狼を頼ると良い、彼の名はロウと言う、侵略にはおそらく牙を剥くが、対話には言葉を返してくれるだろう。これを見つけた者は、これを後世に残すため、祠の元の場所へと戻すことを願う。

「ツナム・ハジク……」

 言葉の意味で分からない部分も多かったけど、一つはっきりしたのは再び魔の物が森の内側から外へ出たがっていて、それとロウが戦ってきたのだ。

 私は子どもながらに、人に裏切られても人のために森を守り続けているロウたちがとても愛おしく思えて仕方がなかった。

「ロウ……あなたは、対話には言葉を返してくれるの?」

 その私の問いにロウが言葉を返すことはなく、私はそんなはずないか、そう思い本を元へと戻した。すると、その本の置いてある壁の引き出しの前、丁寧に集められている骨の集まり、それを見て私はどうしてだろう、このままではいけない気がしてそれを拾った。

「近くに埋めて弔いたいと思うの、ロウ、手伝ってくれる?」

 だけどロウは、ただその様子を眺めていただけだった。だけど、何となくその瞳はその骨を悲しく見つめている気がした。


その日からロウは毎日血だらけで帰ってくる。

 魔の物との闘いでロウが傷つくことはなく、それが人狼の末裔だからなのだろうと私は勝手に思い込んでいた。もうずっと森の中の生活で、私がすることといえば料理か狩りの手伝いか採取か、薬の制作に時間を費やした。

 私が効き目の薄い止血薬だけを作り、ちゃんとした止血薬を作りたくて、その後も【何かの根】の形をうろ覚えで探しても、母が教えてくれた在処を思い出すことができなかった。

 それから数か月、ロウが夕方前までには帰ってきていたのに、最近では夕方も過ぎ日が暮れてしまった頃に帰る時も増えてきて、私は不安に想っていた。

「ロウ、あまり遅くならないで、私……心配で待ってられなくなるから」

 日課になりつつあるロウの毛繕いを素手でしながらそう言う私は、彼を仰向けにしようとする。でも、ロウは頑なに仰向けにだけはならない。

「次はお腹ですよ~」

「……」

「お腹の方はいつもさせてくれないのね」

 もしかしたら指が嫌なのかな?やっぱり櫛とか買わないとな。

 後から思えば、ロウがお腹を見せたがらなかったのは、おそらく一物を見せるのを嫌がっていたのだ。ロウは狼で服なんてものは着てなかったから、隠せもしないのだから当然だ。

 次の日、ロウは前と同じように夕方前には帰ってくるようになった。

 それが嬉しかった私は、ただただ純粋に喜んだ。


 そして、私がお金を稼ぐために周辺の人里を探し始めた頃。

「お嬢ちゃん一人かい……」

 人里を探していれば人に出会うのは当然な話だけど、野武士の刀を持った人と出会うのは予想さえしてないことで、私はその男の言葉に返事をすることなく踵を返して逃げ出した。

 森の奥へ逃げれば子どもの私の方が速く進める、そう考えて逃げていたけど、数秒で追いつかれて飛びかかられた。

「いや!」

「暴れるなよ!ちょっと体を借りるだけだぁげへへ」

 私はうつ伏せに両手を地面に押し付けられ、胸を揉まれながらも抵抗した。けど、相手は大人で男で力ではどうすることもできず、お尻に硬い棒状の何かを押し当てられた。

「やだ!いや!」

「若いしベッピンだし!こりゃ大当たりだ!」

 野武士はマトやカルといった国が戦をする時に雇われて戦う者で、それ以外の時は用心棒か森などで生活するか、盗賊や賞金稼ぎとして暮らしている。

 母も昔、野武士に襲われた経験があると言っていたけど、その時は一晩中茂みに隠れて野武士が諦めるのを待っていたと言っていた。

「暴れるなよすぐに終わらせるから――」

 そう言ったかと思うと、男は私の項を舐めて、その瞬間身の毛もよだつ感覚に私は声にならない悲鳴を上げた。

 体が強張って動かなくなり、上着も破かれてしまうとそこには絶望しかなかった。

「こりゃ……んっそそるな」

 喉をゴクリと鳴らす男は、なぜかそう言った瞬間に動きを止めた。

 私は男がどうして止まったのか分からず、身を震わせていると、私を押さえつけていた男の手から力が抜けた。そして、一瞬の間が開いて、男の体が急に私の上から無くなるのを感じ、それと同時に大きな音が響いて私は体を丸めた。

 守ろうと身構えた私は、恐る恐る後ろを確認すると、そこには木の幹に座り込んだ男がいて、その前には黒い毛並みの狼の姿があった。

「……ロウ?ロウなの?」

 振り向いた狼は間違いなくロウで、私にゆっくり近づいてくると私の体を観察して、もう一度座り込む男の方を向くと勢いよく駆け出し、飛び上がって後ろ脚で蹴り飛ばした。

 木の幹がベキっと鈍い音を立てて折れると、おそらくは男の内蔵なんかもグチャグチャになってしまっているのではないだろうか、と私は心配してしまうほどだった。

 ロウは怒っていたのだ、私に手を出した男を許せなかった。もう一度同じように助走をつけるために離れたロウに私は抱き付いた。

「もういいんだよ、私はもう大丈夫、ロウが助けてくれたから――」

 ロウは私がしがみ付くとゆっくりと祠の方へと歩き始めて、私は全身を預けたまま彼の背で体の震えが治まるのを待っていた。

 見知った道へ辿り着くと、ようやく私の体の震えは治まり、ロウの背を撫でて体を離した。

「後は自分で帰れるよ、ありがとうロウ……助けに来てくれて」

 ロウは私の言葉に尻尾がよく見えるように前で振る。すると、何か懐かしい感覚が記憶の奥底で何か既視感を覚えた。

 虚ろな記憶の中、そこに同じようにこの尻尾を追いかけた事があった気がする。

「……ロウ、昔さ、何か同じようなことがあった気がするんだ」

 ロウはピタっと足を止め、一瞬後ろを振り返ると、嬉しそうな表情で私を見た。

 あぁ、そうだ、いつかもこの尻尾を追いかけて、私は森の中を母の元へ帰ったことがあった。

 もうずっと昔に、あなたに助けられたことがあったんだね、ロウ。

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