一章ノ肆『時の流れ』
人間の臭い、嫌な臭いだ、男、歳を老いて、歩くのも遅い。
俺は臭いを追い、キリンの住処だった切り株へと辿り着いた。今更人間がキリンの住処で何をしようというのだ、と思いつつ、俺は約数百年ぶりにそこへ足を踏み入れた。
祠はずいぶんボロになってしまっていた。
「ふむふむ、キリンの残骸はやはりないか、だが、コッチは人狼の骨とみる。若い人狼、この骨はどうやら小柄だったようだのぅ、道中木の下にあった骨がメスのようだったが、それよりも小さい、ここで死んだということは、すなわちここの土地に深く関わっていたのだろう」
男は俺の存在に気付くことなく、ブツブツと何かを呟いていた。が、俺の存在に気付くなり目を見開いて言った。
「ヌシ、人狼だの?人狼が生きているのだろうとは思っていたが、どうした?話せんのか?」
俺はその男がただの推測で話しかけていることに呆れつつ、俺は静かに男を眺めていた。
もし男が俺の大切な者の骨に触れようものなら殺そう、そんなことを考えながら俺は祠にいる男を木の影から様子見していた。やたら旅に慣れてそうな老人、そして身体から漂う悪臭は清潔とは程遠く、俺の鼻に刺さるように臭う。その臭いと一緒に、男は俺に無警戒に近寄る。
「な、肉食うか?うまいぞ~小鹿のモモ肉じゃ、焼いて食おうぞ!」
そう言い急に火を焚き、肉を焼き始めた。
それから、俺は男が勝手に話を進めるため、黙ってその話を聴き続けていた。
「南のカルの国では、人狼が狩り尽くされての、キリンの眷属である森の民も魔の物に狩られてしもうた。そして、魔の物が人狼もキリンもいなくなったのだから、人間住む領域へと攻め込むかと思ったが、どういうわけかその後、魔の物は北のキリンを襲うためこのマトを目指した。それはワシとワシの弟子が確認した事実じゃ、人はまだ魔の獣に敵わんからの、もし森から出てきていたのならカルの国は半日ともたんかったろうな。それに比べ北の日の国という国では、森の民と人狼と人間が共存し、人間も鋼という武器を用いて魔の物を退治する」
人間が魔の物を狩る?とてもではないが信じられない話だった。
「日の国の人間は昔からキリンと人狼と知人のように接し、魔の物とどう戦うのかを一緒に考えていたらしい。かと言って、キリンは他の地域と変わらず眷属にも人狼にも人間にもただただ互いに助け合うことを求めた。人狼もメイロウに人を守るように、人間には人狼を頼るようにと言ったらしいのじゃが、マトやカルとはまったく違う人狼の共存にわしは可能性を見た」
可能性?それが事実なら、俺たちにも人間を襲うなと言ったメイロウの真意が何となく分かるような気がする。だが、それを理解できても納得はできない。
「このマトにメイロウがいるかもと思ってきたが、それに人狼の動向が分かれば、人はさらに人狼との共存に近づける……かもしれん」
そう言って男は焼けた肉を俺の前で皿に乗せて置いて言う。
「ワシの名はツナム、人からはツナム・ハジクと呼ばれておる」
男はそう名乗ると肉を一口噛み千切った。
「ハジクとは、探求者・探求家・凶探主と言った意味合を持ち、相応しい者がその通称で呼ばれることが多いが、正直ハジクはワシの一族を除いて他にはおらん」
ツナム・ハジクは俺の前で美味そうに肉を頬張る、それ自体に文句はない。
俺は、肉の焼けた臭いに少しだけ数百年ぶりに、食事というものをしてみたくなった。
匂いを嗅いだら刺激される嗅覚は、基本人間と同じで、生肉を食うと腹を下すし、できるだけ調理して食うのは俺たち人狼も人間と同じだった。
最後に食べたのはリナの焼いた芋だったか、そう考えながら無意識に俺は肉に噛みついた。
俺が肉を食う間、ツナム・ハジクは観察するように様子を窺っている。
しかしどうして、空腹とは無縁の俺が焼いた肉を食べると、次第に森までも喜んでいる気がその時はした。
「やはり、ヌシは人狼なんじゃな、それに巫子の力を持っている様子だの」
俺はどうしてそこまで分かってしまうのか、ツナム・ハジクに興味を持ってしまった。会話をするには人の姿にならなくては話せないが、仕方なく数百年ぶりに俺は人の姿に成った。
驚いた様子のツナム・ハジクは、やはり――と声を上げる。
「……俺の名はロウ、ツナム・ハジク、お前はどうして巫子のことを知っている?」
「ロウ、そうか、ロウと言うのか」
彼は更に焼けた肉を皿に置くと言う。
「北のキリンの一角、名前はバベシと言ったか?それに聞いた」
「キリンが人間のお前に話したのか?」
「キリン以外で、人間に巫子の話をする者がいると?それは人狼のお主が一番分かっておるだろ」
キリン以外、メイロウや人狼が人間に話すはずもない。でも、そうだとしたらどうしてキリンはそんな危険なことをしたんだ?
俺は、キリンがツナム・ハジクに巫子の話をした理由について自分で思考したが、実際その解が得られることはなく、肉を食い終えたツナム・ハジクが理由を語り出す。
「キリンと取引したのだよ」
「キリンと取引?」
「そうじゃ、キリンも初めはだんまりだった、だがの、ワシの裁量で何とかなる物をくれてやると言うたらの、キリンはようやく巫子だの聖獣だの人狼だのを話してくれた」
キリンはバカではない、そんな口約束で巫子の話をするとは思えない。つまり、キリンが要求した物はキリンがそれほどに欲しかった物ということだ。
「キリンに何を要求された?」
「ワシの娘だ……当時は二十一くらいだったかの、まさかキリンが人間の娘を欲するとは思いもせんでの、わしはついつい――食うのんか?とキリンに聞いてしもうたわ」
キリンが人間を欲した?食うためでないのは間違いない、キリンは肉食ではない、子も自分では作らない。
「キリンは笑って言うた、ツナムよお前の娘には巫子の子を孕んでもらう――とな。まだ巫子の話を知らなんだワシは、意味が分からんかったが喜んで娘を差し出した」
「お前正気か?娘に惨いとは思わないのか?」
そう俺が言うとツナム・ハジクは不敵な笑みを浮かべて言う。
「ワシの子はワシの子じゃ、アレもハジク、まさに探求の徒だったからの」
蛙の子は蛙か……。
「娘も知りたがっておった、血は譲れん、ワシと同じで全てを知りたがった。それから、巫子の話を聞き、全てを知ってしまったワシはワクワクした」
「お前の娘と子を成すということは、巫子は女ではなく男だったのか?」
「あぁ、もちろんオスだったの、ヌシの様に若く、人の姿はしているが、腕や足に木々のそれや植物のツタがあった」
わざわざ人間の娘をキリンが要求する理由、それもまた人に近づくためだというのだろうか。
「ヌシも解せぬ顔だの?わしもどうして人間との間に子を成すのかをキリンに尋ねた」
「で、キリンは何て答えた」
「キリンはの、人に成りたがっておった」
その言葉に俺はやはりと納得する。
「キリンは不死、死ねぬのは辛い、だからキリンは人間と子を成すことにした、人に成れば本当の意味で死ねる、そう言ってな」
キリンが人に成りたがった、それはメイロウも同じで、だから人間に危害を加えることを、あれほどまで人狼に言い付けたのか。
「巫子の子を孕んだ人間は間違いなくまた巫子を生み、産まれた巫子は今の巫子と違い獣の姿から人の姿に変わるのではなく、人の姿から獣の姿に変わる、そうキリンは言うた。つまり、人側に少し寄るらしい。そして、その子はやがて巫子ではないし、新たなキリンでもなくなる」
それが聖獣の望みなのか――。
「その人寄りの巫子が新たに人と結ばれるとまた巫子が生まれる、その子もまた巫子でありまた子を生む、そうすればキリンはいずれ人の子として自身が転生すると言うた」
人間に転生することでキリンは死を得られる、死にたいからキリンは人間に成りたい。
「巫子はどれくらいで完全に人に成るのだろう?キリンが人間に成るまでどれくらい」
俺は自分はどれくらいこのままなのか、そう悩んでツナム・ハジクに言葉を求めた。
「巫子は、望めば生まれてきた子に巫子の使命を移行することができる、もし子を成せぬ場合は別の者に使命を託すこともできるとキリンは言うとったが、はたして、それが良い事かは分からん。老けぬ体になり、子の子が新たに子を成さぬ場合は、キリンはキリンとして森の木に成り再びキリンと成るらしい」
つまり、俺の裁量でメイロウはどこかの人狼に成って、また人へ近づくというこという事か。
「じゃが、その場合キリンは巫子となった子を殺し、また新たに巫子を作り人間に子を成させるのだろうな」
「待て、巫子となった子を殺す?それはどういう意味だ?」
ツナム・ハジクは、綺麗な木の枝を選び、それを短剣で削ぎながら言う。
「キリンが人となるには巫子が必要になる、これはキリンの仕組みからも分かる」
「キリンの仕組み?」
細い枝をさらに細く先端を尖らせたツナム・ハジクは、それを口に近付けると歯の間の食いカスを取り除く掃除を始めた。
「ん~シッツツツッツ、キリンがキリンと成るには巫子の体に宿るしかない、が新たに森の中で木の憑代へ転生すると現状の巫子が邪魔になる、それは子を産めぬ巫子が自身の御霊の一部を持ち続けているからだ。そうなると徐々にキリンの魂が巫子の魂との均衡を図って、徐々に人間から離れていく……らしい」
削ぎ木を銜えたままツナム・ハジクは言う。
「キリンから聞いたのはこれくらいだの」
「どうして子を産めないだ?」
「ヌシ、気付いておらんのか?人狼の家系で人の姿に長時間なれる者はその血筋的に人間に近しい、つまりは、人間に近い血筋が巫子の家系になる、産めない巫子はすなわち血筋から遠いという訳じゃ、例え自身の子でも殺さなくてはならなくなる」
確かに俺や母は長く人の姿を保てた、その理屈は理に適っている。いや、キリンは完全なる知恵者なわけだから、それが言うことなら間違いはない。
俺は色々ツナム・ハジクから話が聞けたことに対し、何か礼をと考えるとそれはやはり彼の求める知識でしかありえないと考えた。
「アレはもう数百年も前の話だ……」
長い話を終えた俺は、久しぶりに人間の姿でコップを持ちそれに注がれた酒を飲んだ。
「美味いか?ロウ」
「……いや、不味い、だが悪くはないな」
ツナム・ハジクは不思議そうに。
「おかしいの、人狼はいける口であるはずだが」
そう言って紙の束を取り出して何か記し始めた。
「それは?」
「これは長年の研究成果だ、ところでロウ、ヌシは魔の物のことをどこまで分かっている?」
俺が逆に、どうして今更、魔の物のことを聞くのか、とツナム・ハジクに尋ねたら、彼は重い口調で小声で話し始めた。
「いや、奴らの様子が妙なんだの。魔の物、どうしてキリンを襲いたいのだろうなとな、妙ではないか?人狼や森の民がいなくなれば森からは出放題だ、なのにどうして奴らはカルの国からわざわざ日の国のキリンを狩りたがる?」
そんな事は俺にも分からない、というより、ツナム・ハジクが知りえないことを俺が知るはずがない。
「これはワシの勝手な推測なのだがの、奴らキリンに恨みがあるのではなかろうかとな、キリンが人を作るより前、人狼を作るよりもさらに前、何か奴らとキリンの間に何かがあったのではとワシは考えておるのだ……」
そう言ってツナム・ハジクは俺の言葉を待つでもなく、急に自身の執筆に入り込む。
そう言えば、魔の物が生じる場所、その奥のあの森の最奥の領域、そこにはメイロウの加護を持つ俺のような守杜でさえ入ることができない。入れたとしても肌が焼け、喉が焼け何もできないまま死んでしまう、そんな領域に何か秘密があるのかもしれない……だが、これは守杜としてツナム・ハジクには言う訳にはいかない。
ツナム・ハジクは奇妙な本を俺に手渡した。
それは俺が人を避けているということで、人に人狼と悟られないように、キリンの事や人狼のことを伝えたい時にその人間に手渡せ、そう言っていた。
中を見ると、確かにキリンや人狼や聖獣、それに魔の物について、ちょっとした古い知識も書かれていた。読めはするが書けない俺には、今はありがたい代物だ。
「それじゃぁの、ロウよ人間を嫌ってもいいが、恨んでやるなよ」
そういうお前も人間だろうに、そう俺は思いつつツナム・ハジクが去って行くのを眺めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます