第80話 葉月と部下と辛い思い
「だからどうして納期が遅れると連絡をしなかったのかしら。私はそう聞いているのだけど。この量、やるべき仕事が出来ていないわよね」
「……」
定時を過ぎた大手飲食チェーンの商品開発部。このエリアマネージャーである葉月は、このオフィスで一人の従業員に憤りの声を飛ばしていた。
「だんまりは許されないわよ。長野くんのミスで上の仕事に影響する。損害が計り知れないの。長野くんはお金をもらってお仕事をしているのよね。最低限のことも出来ないのなら、社会人として当たり前のことも出来ないのならこの会社には必要ないわ」
「す、すみません……」
「謝罪は要らないのよ。何故この進捗状態になったのか、理由を述べなさい。長野くんには
「…………」
「これ以上、私を怒らせたいのならそのままでも問題はないけれど」
声を荒げるわけではないが、葉月の圧は従業員の長野を萎縮させるほど。目つきも鋭く、他を寄せ付けない怒りのオーラ。まるでもう一人の人格が出てきたかのようだった。
「……か、彼女の持病が悪化して入院することになって……不安で、仕事に手がつけられませんでした……」
長野は震えた声で言う。仕事とプライベートを一緒にしてはならない。怒られるのが当たり前、誰もがわかる理由だった。
「……その事情をどうして私に、他の人間に相談しなかったのかしら」
「皆、忙しそうにしてました、ので……」
「その理由が通用するはずないでしょう。遅れるとの連絡が早ければ早いだけ負担は軽くなったのだけれど。そんなことも分からないの?」
「申し訳ありません……。こ、この件は必ず終わらせます……」
長野は勢いよく頭を下げた。誠心誠意の謝罪を見せるが先を見通す能力がある葉月が許せるはずもない。
「残業しないと終わらないと今になって申告。プライベートに左右されてこの進捗スピード。残業したところで終わるわけないでしょ。サボっていたと言ってもいい仕事状況。そんな長野くんに残業代は出せないわ。本気で言っているのならそれこそ会社に損害を与えるわよ」
「……」
「今日のところはもう帰りなさい。私が上に話を通しておくから」
「ま、待ってください! クビだけは、クビだけは勘弁してください……! 本当にすみませんッ!」
葉月はクビを宣告したわけではないが、今の雰囲気からだとそうも捉えられるだろう。職場が無くなれば収入がなくなる。生活できなくなる。長野は何度も頭を深く下げ許しを
「今日のところは、と言っているのよ。著しく成績が不良であること。評価が公正なものであること。改善の見込みが乏しいこと、改善の機会を与えてもダメだったこと。労働者の能力不足が原因で、業務に支障が生じていること。これが解雇できる条件。今のところ長野くんは当てはまってはいないわよ」
一人一人、過去にどんな仕事に携わったのか、普段の仕事ぶりを頭に入れている葉月。クビにできるほどの人間はこの職場にいない。それが葉月の評価である。
「だから改善の機会を与えるわ」
「改善……」
「そう。……あなたは彼女の元についてあげなさい。普段通りの真面目な仕事ぶりが出来そうなら戻ってくること」
「……っ!」
「それまでは私や、その他の人間が長野くんのカバーをするわ。お給料の件はその後の頑張り次第。帰ってきた時には手足のように使われることを覚悟して。長野くんにしか出来ない仕事があるのよ。私としても長野くんはクビにしたくはないわ」
「あっ、ありがとう、ございます……」
葉月の表情も声色も何も変わっていない。それでも優しさというのは感じるものだ。長野は謝罪ではなく感謝の礼を深々と行った。
「……お話、長くなったわね。長野くんは普段電車で来ているわよね」
「……はい」
そんな返事と共に、長野はチャックを開ける音を耳で拾う。
「彼女さんはどこの病院に入院しているのかしら。教えてちょうだい」
「か、神崎総合病院です……けど」
「電車が通っている距離からは遠いわね。……これをタクシー代に使うといいわ」
「えっ!?」
長野が頭を上げた時、目の前には葉月が1万円が差し出していた。
チャック音は葉月が財布からお金を取り出す音だったのだ。
「それは受け取れません! あれだけの迷惑をおかけして……」
「そうね、本当に迷惑をかけているわ。だから早く彼女のお見舞いに行き、彼女を元気づかせ、早く仕事に復帰する努力をしなさい。これだけ手をかけてもダメなら、長野くんは私の信頼を裏切ったことになる。それ相応の処分が下されることになるでしょう」
葉月は長野の胸元に一万円札を押し付けた。
今回、こんなことが起こってしまったが仕方がないというのが葉月の判断であった。彼女が入院という事情。甘いと言われたらそれまでだが、大切な人がそんな状態にあり、仕事とプライベートを切り離せる人間は一握りでもある。
「このお金を受け取れないなら長野くんはやっぱりクビ。私も職権乱用でクビになる。だから私を助けると思って受け取りなさい」
「……ぐすっ」
「もう、何泣いてるのよ」
「ほ、本当に……本当にすみまぜん……。ありがとうございまず……」
「ダサい泣き顔ね。ほら、彼女さんが待っているわよ」
「はい……。失礼じまず……」
長野は両手でその一万円札を震えた手で受け取った。最後に一度頭を下げ、涙を浮かべながらオフィスを走り去って行く。葉月の言葉通りにいち早く彼女のお見舞いに行くために。
そうして一人になったオフィス。暖房の音以外に何もない寂しい空間だが、葉月は慣れている。
「今日明日、明後日で私が残業して……なんとか期限までには終わりそうね……」
『上に話を通す』なんて言った葉月だが、プライベートの理由は上には通用しない。そもそも遅れるなんてことは絶対に許されないのだ。
「……」
葉月は目を瞑る。
『それまでは私や、その
なんて言った葉月だが、それも嘘。この負担は全部、葉月が背負うのだ。他の人間がこの負担を負わないように。
葉月は誰にも公言することなく誰もいない時間にこっそりと仕事をする。
「辛いわね、本当……」
本音を漏らす葉月は両腕を枕にしてデスクに突っ伏した。柔らかい髪がふわっと下がる。
残業が辛いのではない。葉月にとって部下の長野を叱ったことが辛いのだ。
「私が周りをしっかりと見られていたら、もっと早く気づけたのよね……。怒ることもなかった……」
一人になったからこそ、表の自分が出る。
責任感が強い葉月だからこそ、長野ではなく皆の仕事状況を確認出来ていなかった己を責める。
そんな葉月は手慣れたように引き出しからメモ帳を取り出す。
見出しには何も書かれていないが、次のページには日付と
(……私って本当にダメね……)
反省を記したメモ帳。1ヶ月前にこう書かれていた。
『周りをしっかり見る。状況把握』
この1ヶ月前の反省が生かされていたら、怒ることはなかった。
今日の日付と、今一度この反省点を赤ペンで書き記した葉月はこれからの残業に向けてコーヒーを注ぎに行く。
「このお仕事が終わったら、斯波くんと憂さ晴らし……しようかしら」
葉月は人を傷つけたくないという強い思いがある。
部下を叱ることはやっぱり辛かった。
「頑張れ……私……」
葉月は自分で自分を慰める。
こんな弱い姿を仕事仲間は誰も知らない。たった一度の叱りではあったが、慰めてくれる相手を心の底から求めていた……。
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