第35話 葉月と龍馬の再会

「ふぅ……。まさかここまで時間がかかるなんて……」

 今日は恋人代行の予約をした日曜日。

 外に悠々と浮かんでいる月に問いかけるように葉月は疲労の息を吐いていた。


 電子時計に記されている時間は19時55分。

 弱の暖房がついた会社のオフィスには葉月一人だけしかいない。

 皆、早めに退勤したわけでなく今日は元々休日なのだが……葉月には出勤する理由があった。


 今週の水曜日、葉月には売り上げ分析に関するプレゼンを予定されている。

 そのプレゼン資料をPCでまとめ、一人発表会を行うために会社に足を運んでいたのだ。

 エリアマネージャーの地位に就いている葉月だからこそ、ここで働くスタッフに見せなければいけない姿がある。


 それは——分かりやすく、堂々としたプレゼンを見せること。


 分かりにくく、自信のない様子でプレゼンをしてしまえば周りに不安が伝染し、事業成績に影響する。

 発表という場では特に緊張してしまう性格の葉月。一人発表会の1回目は本当に酷いものである。

 説明中に何度も噛んだり、声を上擦うわずらせたり、『えっと』『その』『あの』などの次に何をしたら良いのか分からない時に発生する言葉が出る。


 当然、ここで働いているスタッフ皆、葉月がこんな人物だとは想像だにしていない。

 こうして実際のプレゼン場所で一人何時間も練習し、完璧なプレゼンを行えるよう心がけていることで“物怖じしない人間”だと思われている面もあることだろう。


「……あとは自宅で練習すれば問題はなさそうね」

 会社のH D Dハードディスクドライブにデータを保存した後に、クラウドスレテージにもデータを保存する。

 そのクラウドストレージとは、インターネットを通じて様々なファイルデータを保存しておけるデータ保管庫のサービスである。

 これでクラウド上のデータに自宅からアクセスすることが出来るのだ。


 ここでようやく葉月の仕事スイッチが切れ、次に考えるのが例の件である。


(……この一杯を飲み終わったら準備を始めましょう)

 カップに入っているキリマンジャロコーヒーは、時間が経ってしまっていることもう冷めてしまっている。


 しかし、今はこの温度が葉月には丁度良かった。


「本当、楽しみだわ」

 もしかしたら、今日の代行者はお礼し損ねた彼かもしれない。そんな彼に会えるのかもしれない。

 そんな待ち遠しさを少しでも抑えるために冷えた飲み物は一番であったのだ。

 空になったコーヒーカップをデスクに置き、葉月はお気に入りであるGUCCIのバックから化粧ポーチを取り出す。


(代行まであと1時間……)

 これからは身だしなみを整える時間、待ち合わせ場所に向かう時間である。

 ブランド物のプラムピンクの口紅を塗りながら妖艶な笑みを浮かべる葉月であった。



 ****



「待ち合わせ場所はここか……」

 時刻は20時50分。バイト先から約15分ほど歩いた場所にある中央銀行の駐車場に着いた。当然、この時間にはもう銀行は閉まっているため誰もいない。

 人気ひとけがない場所にポツンと一人立たせることで、代行人だと分かるように依頼者はこの場所を選んだのであろう。

 

 龍馬はこの場所に来る前から十分な気合を入れていた。恋人代行を楽しむぞー! なんて軽いものではなく、ベテランキラーの女王、神城かみしろ葉月はづきにやられっぱなしにはされないという意気込みである。


 会社からあのような注意喚起が来るほどの要注意人物なのだ。気を引き締めなければ呑まれるのは間違いなく……それでも経験値の差は埋められるものではないと情けないながらも理解していた。理解しているからこそ、姉のカヤからもらったアドバイスを生かす時でもあった。


 その1、たくさん褒める。

 その2、変化に気付く。

 その3、話をじっくり聞く。

 その4、清潔感を求める。


 しっかりと復習してきた龍馬。日曜日が来るまでの間、やれることはやったのである。


 ——21時まで残り数分。


「良し……いつでも来い」

 バシッと冷えた頰を叩き、気合を入れ直した瞬間だった。

「もう来ているわよ? ふぅ」

「うおあッ!?」

 出鼻をくじかれるような先手を背後から打たれる龍馬。

 背後から突と耳元で息を吹かれ、猫の背後にきゅうりを置いた時のような反応をしていた。


「ふふふっ、そこまで驚くことはないじゃない。代行人さん?」

「あ……え……」

「ど、どうしたの? 私の顔に何かついてるかしら」

「す、すみません。少し頭の整理をさせてください」

「あら? 挨拶を焦らすのね。21時まであと1分だからそれまで待っててあげるわ」

「……ありがとうございます」


 なんて落ち着いた口調を見せる龍馬だったが、頭の中はもう8人で大乱闘スマッシュブラザーズをしているかのようにこんがらがっていた。


(こ、この人……いや、間違いなく電柱のとこで泥酔してた人なんだが!? ってこの人の素の口調がこれ!? 前は『だいじょーぶじゃないよぉ〜』とか言ってたじゃん!)


 恋人代行会社が注意喚起をするほどの、ベテランの代行者を次々と落としただけある美しい容姿。今まで感じたことのないほどのしとやかさもある。

 本来ならば確実に見惚れていたであろう龍馬だが、あの泥酔の時とのギャップが激しすぎなのだ。


「もう大丈夫です……。21時になりましたので遅れましたが自己紹介をさせてください」

「ふふっ、さっきの驚きようがウソのようね。取り繕い方が上手じょうずなのかしら」

「少しだけ自信はあるかもですね」

「流石は代行者さんね」


 すぐに正気を取り戻す龍馬は仕事のスイッチを入れ直す。利益を得るためにこの依頼者、葉月にマイナス印象は絶対に与えるわけにはいかない。

 金銭という力が龍馬を立ち直らせたのである。


「では自分から自己紹介を……。初めまして、斯波しば龍馬と申します。今日は宜しくお願いします」

神城かみしろ葉月はづきよ。年上相手に砕けた口調を使うのは厳しいでしょうから斯波くんの好きなようにお願いするわ」

「分かりました。それでは口調はこのままで」


 口調は好きなように。と、こちらがやりやすいようにさりげない気遣いをしてくれる葉月。

 流石はベテランキラーの女王。こういったところから気を惹かせているのだろう……なんて冷静な分析を行う龍馬。


 緊張状態の時にこんなことを言われたら安心ができる。

 今の龍馬がそうであるように……。


「さて、斯波くん。本当に『初めまして』かしら? 私はあなたのこと見覚えがあるのだけれど」

「……そ、そうですかね? 葉月さんの気のせいだと思いますよ」

「……本当にそう言っているの?」

「はい」


(泥酔していたことをツッコんでほしいのか……? いや、あんなでろんでろんだったんだし、恥ずかしいに決まってるよな……)

 もう既に葉月から『口調は好きなように』と気遣われているのだ。

 仕返しと言わんばかりの龍馬の気遣いである。


「残念ね。私その人に助けられたからどうしてもお礼がしたいのよ。……どこの誰かが名乗り出てくれたりはしないのかしら」

「……美人な葉月さんにそう懇願されたのなら嘘でも本当だと言ってしまいそうですね」

「び、美人だなんていきなり褒められると恥ずかしくなるわ。女性を褒める時はムードを大事にしなきゃダメなのよ?」


 緩みそうな口元を片手で隠す葉月。


「え、えっと……冷静な指摘をされるとこっちが恥ずかしくなりますよ……」

「いきなり褒めてきたり恥ずかしくなったり忙しい人ね。……実際は恥ずかしそうに取り繕っているだけでしょうけど」

「ははっ、そんなことはないですよ」


 自然な笑いを上げる龍馬だが、心の奥底では———

(助かったぁぁ……)

 なんて、アンジャッシュのすれ違いコントで出てくるような安堵の声が漏れていた。


 これは『取り繕いに自信がある』との会話をしたからこその葉月の勘違い。


 事実、龍馬は本気で羞恥に駆られていた。

 葉月のレベルが違うことが分かっている分、少しでも対抗できるように……と、『たくさん褒める』を付け焼き刃で実行しているだけ。龍馬は慣れないことをしているのだから。


「それじゃあ、本当に斯波くんは私を助けてくれた男性じゃないのね?」

「……違いますよ」

 この返事をすることによってタワーマンションに住む葉月からお礼を貰うことはできないが、一度違うと言った以上は貫き続けるしかない。

 本当に勿体ない……と悔いに悔いる龍馬。しかし、今回の代行で大金をもらえるわけである。我慢はすることは容易であった。


「本当に違うの? もう聞くのはこれで最後よ」

「はい。自分は違うので本当に助けてくれた人にあげてください」

「ふぅん……。そうなのね」


 葉月はそこで意味深な顔を向けてくる。

 泥酔していたところを助けてくれた彼、斯波龍馬。そう確信しているからこその気遣いは心が温まる。

 そんな龍馬から褒められるのは人並みから褒められるよりも嬉しく感じるものである。

 それと同時に……意地でも吐かせたいという気持ちが前に出る。


「話は変わりますけど……葉月さん。今日はどこに行くんですか?」

「Barに行こうと思っているわ。斯波くんも20歳だし少しくらいは飲めるわよね?」

「全然詳しくないですけど……はい。Barには初めて行くんですがこの身なりで大丈夫ですかね」

「ええ、何も問題ないわ。それに私の行きつけのお店でもあるから」

「行きつけ……ですか」

「ええ、だから安心してちょうだい。マナーとかも気にしなくて大丈夫だから」


 当たり前のように言ってのけている葉月だが、龍馬からしたら経験値の差を身をもって体感した瞬間でもある。


「そのBarはここから近いんですか?」

「ここから歩いて10分から15分くらいかしら。——【Shineシャイン】って言う隠れ家のようなBarなの」


 そうして葉月は龍馬に歩くよう促す。

「楽しみましょうね」と微笑みながら。


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