第31話 葉月とのつながり

 二日後になる。

 ここは大手飲食チェーンの商品開発部。暖房の効いたオフィスには、二、三十人ほどのスタッフがいた。


 空気清浄機も稼働したオフィスにはそれぞれの大きなデスク、PCに加え、新機種のコピー機、自由使用できるコーヒーメーカーも置かれている。

 そして、この空間とは別にモニターを使いながらの打ち合わせ、スタッフ同士の団欒、お昼ご飯や休憩等のスタッフが自由に使うスペースまで備えられているこの場所で、とある女性は男性部下の制作した資料に目を通していた。


「……長野くん、この資料よく出来ているわね。栄養バランスも考えられていてとても美味しそうだわ」

「あ、ありがとうございますっ!」

「でも、満点をあげることは出来ないわね」

「えっ!?」

 上げて下げる手法を使うこの女性は頰笑しながら長野という部下と資料の確認を取っていた。意地悪をしているわけでもなく、これが葉月のいつも通りなのだ。


「なんでですかっ!? 自信もあったので実際は満点ですよねっ、葉月、、ちゃん!」

「葉月……ちゃん?」

「あ゛……」

 その女性——葉月は一瞬で真顔に変わる。


「長野くん。今、私のことを葉月ちゃんと呼んだわよね? もっと言うのなら度々たびたびそう呼んでいるわよね」

「……あ、え、っと……」

「長野くんは上の者に対する口の聞き方を知らないのかしら」

「そ、そそそそうじゃなくってですね!? たまたま口が滑ったっていうか!」


 長野から見て葉月がどんどんと大きな存在になっていく。責めるような口調と赤ペンを資料の上から突き刺していることで威圧感が増しているのだ。もちろんペン先は出していない。


「ホントお調子者なのだから……。まぁいいわ。満点ではない理由を説明するわ」

「はい、お願いしますっ」

 葉月も長野も取り行っているのは仕事。すぐに気持ちを切り替え真剣な雰囲気に戻った。


「これが一番の理由になるのだけれど、税抜き1300円は提供価格が高いのよ。いくらその価値に釣り合っていたとしても。まずどのようなお客様層を意識したのかしら?」

「女性全てです」

「かなりざっくりね。出来の良い資料と当てはまっているだけに文句はあまり言えないけれど……なら質問を変えましょう。長野君は女性全体の平均年収を知っているかしら」

「全体の平均年収ですか? 400万とかですかね……?」

「いいえ、300万円を越さないくらいよ」

「そ、そうなんですか!?」

「ええ、女性は給料に昇給の幅が大きくないの。結婚や育児といったライフステージに左右されることが大きな理由ね」

「な、なるほど……」


 葉月は26歳という若さだが、実績と能力が評価されエリアマネージャーという大役を担っている。

 エリアマネージャーの役割は多岐に渡る。

 本部と店舗の橋渡し役。売上アップのための立案・実行。マーケティング。適切な店舗運営のためのサポートなど。


 必要なスキルも役割と同様にたくさんある。

 分析と数字管理。情報収集力に広いアンテナ。業務スキル。

 発想力と創造力。コミュニケーション力。

 この人についていきたい。この人が言うのであれば頑張りたい。そんなヒューマンスキル。

 決めたことをやりきるコミット力。


 業績や売り上げに大きく関わるエリアマネージャーの葉月は当然ながら仕事に対して厳しい。怒鳴ることはないが心に刺さるような発言もある。——が、その分のアフターケアをしっかり行なっているために周りからの信頼や評価は非常に高い。

 不満が少ない分、スタッフの作業効率もかなりのものである。


「女性年収の実情を踏まえたのなら、もう私の言いたいことは分かるわね?」

「1300円の提供価格だと女性は手を出しづらいということです……ね」

「ええ。旬の野菜を取り入れた焼きハンバーグカレードリアは本当に魅力的だと思うわ。だからこそ提供価格を下げることで注文意欲を高め、リピーターをつけることが大事になる。ここに気付いて価格を下げようとした努力が見られたのなら満点をあげていたわね」


「なるほど……。ぐうの音も出ないです……」

「ふふっ、そんなに悲観することはないわよ。何度も言うけれどこの資料は凄く良く出来ているから。私のことを葉月ちゃんと呼ぶだけはあるわね」

「あ、ありがとうございますっ!」


 葉月は指摘するばかりではなく、相手を傷つけすぎないように、モチベーションを下げさせないために良いところはしっかりと褒めるスタイルだ。

 的確な指摘は必要不可欠だが、そこで作業効率を落とせば残業になってしまう。負のループに陥らないためにも一人一人の意欲を削らないようにすることを葉月は重要視している。


「指摘箇所は分かりました! すぐにやり直してきま——」

「——まだ私の話は終わってないわよ、長野くん」

「あっ、すみません!」

 上に立つ葉月に褒められ嬉しかったのだろう。長野は今すぐにでも修正に飛び出したそうである。


「私のことを葉月ちゃんなんて失礼な呼び方をしているから、こんなことを言うのは不本意だけれどこの資料は合格よ。あとは私が手直しをしておくわ」

「えっ!? 葉月マネージャーにも仕事ありますよね!? そ、そんな負担はかけられませんよ!」

「全く……うるさい口を叩くようになったわね。罰として長野くんはコーヒーでも飲んできなさい」


 回りくどい言い方をする葉月だが、『休憩を取ってこい』と優しい言葉をかけているのである。


「そ、そんなぁ……。オレ、葉月マネージャーのためにもっと頑張りたいのに……」

「ふふっ、休憩が終われば次の仕事を振ってあげるから覚悟しておいて。あ、長野くん。最後に右手を出してもらっても良いかしら」

「み、右手ですか……?」


 いきなりこんなことを言われても葉月の目的なのかさっぱりである。

 首をひねりながらも長野は指示に従った。


「はいこれプレゼント」

「……あっ!」

「今回もよく頑張ったわね。お疲れさま」

 葉月は労いの言葉をかけながら長野の手のひらに一つのお菓子を置いた。

 それは小分けにされた丸型のチョコクッキーだ。


「食べずにゴミ箱に捨てたりしたら許さないわよ?」

「うぅぅ……葉月ちゃんの言葉が身にしみるぅ……」

「さて、今日の長野君は残業を命令しようかしら。未だ休憩を取らないで仕事の邪魔ばかりしてくるもの」

「ご、ごめんなさいー!」

「ふふっ、いってらっしゃい」


 残業という言葉は最強にして凶悪である。このワードを聞けば誰もが恐れおののく。

 逃げ出すように休憩室に走っていった長野を微笑ましく見つめていた葉月。


 そんな時にとある声がかかった。


「葉月マネージャー。コーヒーをどうぞ」

「あら、相変わらず気が利くわねカヤさん。ちょうど注ぎにいこうと思っていたところなの」

「それは良かったです。土曜日はお忙しい中、相談ありがとうございました」

「いいえ、私も楽しかったわ」

 空になったコップをお盆に乗せ、新しく注いだブラックコーヒーをコースターの上に置くカヤ。

 上司と部下の関係である2人だが、プライベート時は飲み仲間でもあるのだ。


「一つ気になっていたんですけど、なにか良いことありました? 葉月マネージャー」

「あら、よく気が付いたわね。隠しきれているとばかりに思っていたけれど」

「なんとなくですけどね。もし良かったら聞いてもいいですか?」

「そのためにコーヒーを持ってくるあたり、カヤさんは頭が良いわよね。借りを作られたら断れるものも断れないじゃない」

「葉月マネージャーに比べたら負けますけどね」


 狙いをすぐに見破られるカヤは苦笑いを浮かべていた。

 他のオフィスと比べたらここはかなり緩い雰囲気であるが、商品開発やアイデアはたくさんのスタッフと会話をすることによって進む。シーンとした空気にならない以上は仕方がない部分であるのだ。


「カヤさんも私も仕事が残っているから掻い摘んで話すわね」

「ありがとうございます」

「土曜日、カヤさんと飲みに行ったでしょう? その帰りになるのだけれど……気遣いの出来る男性に助けてもらったの」

「続きよろしいですか?」


 葉月はもちろん伏せる。

 お酒が弱いこと。泥酔して地べたで寝てしまったことを。

 見ての通り会社ではそのようなキャラではない。誰も想像がつかない姿であろう。


「その男性は私を助けた後、連絡先も教えることなくすぐに帰っていったの。だからお礼をしたくてもすることが出来ないのよね。私としては気が済まないわ」

「それはなかなかのヤリ男ですねぇ……。ちょっとキザってる感じがしますけど」

「ふふっ、そうかもしれないわね」


 泥酔したところを助けてもらったという真実を語らなければ、キザっていると思うのも仕方がない。

 葉月は面白おかしそうに言葉を続けた。


「……その男性に関することは一つしか分かっていないから、見つけることも困難なのよ」

「あっ、一つはあるんですね」

『連絡先も教えることなくすぐに帰っていった』


 その言葉を聞いたカヤは何も情報がないと勘違いをしていたのである。


「……そう言えば……その情報の一つだけれどカヤさんと同じ苗字ね」

「アタシとですか?」


「ええ。——斯波、という男性だったわ」

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