第29話 龍馬と美人な酔っ払いさん

 この低気温にも関わらず龍馬は巻いたマフラーをすぐに取った。

 違和感があったわけでもない。再び首に巻き直すわけもなく……畳んでカバンの中に突っ込んだのだ。


(どんだけ匂い移ってんだよ……。いい匂いしすぎだって)

 匂いには気を遣っていると言っていた愛羅だが嘘や冗談でもないのだろう。桃のような甘い香気を放っていた。


(こうなることを見越してわざと匂い移りさせたわけじゃないよな……)

 なんて疑ってしまうほどに、匂いが変わってしまっている。

 このマフラーは龍馬の私物。匂ってしまったところでなんの非もないが、何故か罪悪感を抱いてしまっていた。


「ふー寒い。早く帰ろう……」

 ここから自宅まで20分以上もあるが、タクシーを使うなんて考えは一ミリもない。便利な交通便ではあるがお金がかかる。今日の出費を考えたら当然である。


(まぁ……今日は楽しかったから良いけどさ)

 あんなに文句を垂れていた龍馬だったが、終わってみれば確かな充実感があった。

 ——また遊びにいきたいという思いも。


「金使うってのに俺らしくないなぁ……」

 渋い顔になっている龍馬だが、声色には高揚があった。

 龍馬には一つ嬉しいことがあった。遊びに行って良かったと思えた。

 愛羅が最後に見せてくれた屈託のない笑み。明るい顔。

 今日は寂しさを感じることなく1日を過ごせるだろうと、勝手ながらに感じていた。


(あんな顔を毎日させられるように……ってのが俺の目標だな。お金も増えることだし)

 後付けのようになるもこれは龍馬の本心。この真意は絶対に変わることはない。龍馬にだって家庭の事情というものがある。

 人間誰だって汚い心を持っているもの。実際は長引かせて長引かせて大金をせしめることも考えの一つにあった。これがお金を効率よく入手する方法であることに違いないからだ。


 しかし、愛羅の実情と最後に見せてくれた笑顔……。大人として汚い真似はできなかった。

「……まぁ訴えられるのが怖いからだけど!」

 なんて誰もいないからいいや、とやせ我慢を発した矢先——

「なんだってえ〜?」

「……ん?」

 不思議なことに返答がきた。

 その声源は龍馬から見て電柱の側面。ちょうど死角になっているところ。


「……おーい」

 確認のために一言。


「ん〜?」

「……」

 次は間延びした声。


(は? なんか……居るんだが……。嘘だろ……)

 もうすぐで23時になる。夜ももう遅く不審者が出ても何の不思議もない。

 目を細まり口元がきつく閉まる。心臓がドクんと跳ねる。警戒心が最大に膨れ上がる。


 足音を立てないよう声源の正体を確認しようとした最中、

『にょき』

「うおッ!?」

 龍馬は頓狂な声を上げて2、3歩後方に引いてのけ反った。

 電柱から唐突に勢いよくヒールを履いた生脚が飛び出してきたのだ。


 ヒールを履き白肌で細長い脚。

 女性だと見抜いた龍馬は警戒心が緩んだ。

 男性と女性では体格、筋力に差がある。もし襲われたとしてもある程度は抵抗できるのだから。


 龍馬は再び足を前に進め——ようやくその相手を確認した。


「ん〜……」

「……」

 龍馬は目を擦ってもう一度見る。


「ふぇ〜」

「…………」

 幻覚なんかでもなく、そこには清楚な女性が1人地べたに座っていた。電柱に体を預けて眠っていたのだ。

 ホワイトのトップスにレンガ色のプリーツスカート。チェック柄のストール。首にはブラックパールのネックレス。そして有名ブランドGUCCIの手提げバッグが地面に転がっている。

 整っていたであろうウェーブのかかった明るい茶髪はぼさついていた。


 服装を見る限りどこかの女性事務員OLだろうか。


「あのー」

「……」

「おーい」

「…………」

 今度は応答がない。

 綺麗な顔立ちをしているからであろうか、はたまた女性らしいおしゃれな服装だからだろうか。こんな場所で寝ているにも関わらず、こんな体勢であるのになぜか気品を感じられる。


 飲み会後のカヤと似た症状を起こしていることから、龍馬はこの女性が泥酔していることを悟っていた。


「大丈夫ですか?」

「だいじょーぶじゃないよぉ〜」

 そこで復活する女性。とろんとした瑠璃色の瞳で龍馬を見つめてくる。


「え、えっと……水とか飲みますか?」

「う〜ん? ほしいな〜」

「分かりました。すぐそこに自動販売機あるので買ってきますね」

「ありがとお」

 酔っ払ったカヤの面倒を見ている龍馬は、お酒に詳しくなくとも酔い覚ましには水という知識を持っている。


 龍馬は目視している自動販売機まで走って向かい、110円の天然水を購入した。

 あの女性の酔いが少しでも覚めたのならお金を返してもらうように言おうと決めて。

 ケチだと思われてもこの女性とは初対面。この先関わることもない。

 龍馬にとってお金を返してもらえさえすればどうだっていいのだ。


「はいお水です」

「あなたはいい人だね〜」

 キャップを開けたペットボトルを龍馬が渡すと、この女性は両手で持ちゆっくりと口に流し込んでいく。


「は〜いあげる」

「……どうも」

 水の減ったペッドボトルを渡される龍馬。

(見た目キリッとしてそうなのに……)

 ここで間接キスをしてもこの女性はなんとも思わないだろう。完全にお酒にやられている。

 もちろんそんなことはするつもりもなく、龍馬は渡されたペットボトルのキャップを閉めてこの女性の前に置く。


「えっと……お名前言えますか?」

葉月はづき……?」

「葉月さんですね。家はどちらに?」

「ん……たわまん」

「ッ!? タワーマンションですか?」

「うん〜」

「あの……。もしかしてあそこですか? 51階建ての……」

「……」

 ぼけーと龍馬が指さす方向を見て、『コクリ』と葉月は頷いた。


「本当ですか? 酔っているからとかではありません?」 

 この時、龍馬は訝しげの視線を葉月に送っていた。『それはないだろ』と言う風に。


 階層で分かる通り、この近所で一番有名なタワーマンションはあそこである。もちろん、お高い場所として。

 葉月は若いのだ。見たところ20代半ば。普通に考えてその年で住めるような場所ではない。


「あそこだよ〜。遠いなぁ……」

「……嘘ついてませんか?」

「じゃあこれあげる……」

 そこで葉月は渡してきたのだ。ハイブランドの手提げカバンを手繰り寄せ、ゴールドのカードキーを取り出して。

 そのカードキーがそのタワーマンションのキーなのかは分からないが、いかにも高級感が漂っている。


 通常のカギでないことは間違いなかった。


「いやいや、それいらないですから」

「じゃああげない〜」

「はい、閉まってください」

 カードキーをもらっても龍馬には使い道がないのだ。それ以前にさっきから狂わせられっぱなし。

 このまま構っていては時間の無駄である。いつ家に帰られるのかも分からない。もう別の力を借りるしかなかった。


「今からタクシー呼びますのでそれで帰ってくださいね?」

「は〜い」

 見た目はキャリアウーマン。しかし、お酒のせいで中身が幼稚園児化したような葉月。

 そのギャップは悪くはない……なんて密かに思っていた龍馬はスマホと取り出し、月の丸タクシーの電話番号を調べてコールする。


『お電話ありがとうございます。こちら月の日タクシーです』

「すみません。タクシーを呼びたいんですけど……女性ドライバーを指名することはできますでしょうか?」

『申し訳ございませんが理由をお伺いしてもよろしいでしょうか』

「あっ、すみません。泥酔した女性を送りたくて……」


 泥酔した女性を送る際に一番に気をつけないといけないこと。特に今回は見ず知らずの相手にタクシーを手配するのだ。

 タクシーは密室の一つ。ドライバーに人通りが少ない場所を目的地にされ、性的問題が発生する可能性もゼロではない。そうなった場合にはこちらにまで被害が及ぶ可能性がある。


 最後まで責任を持つことこそが自己防衛にも繋がり、龍馬の務め。もし断られたのなら、別のタクシー会社に電話をかけるつもりでいた。


『ご事情は分かりました。そう言うことでしたら可能でございます』

「あっ、そうですか。ありがとうございます。では手配の方をお願いします」

『かしこまりました。それではお名前とご住所、ご連絡さきをお願いいたします』

「名前は斯波龍馬です。ここの住所は——」

 受付対応者との手続きを済ます龍馬。


『かしこまりました。それでは女性ドライバーをそちらに向かわせますので。お時間15分少々いただきますがよろしかったですか』

「はい、大丈夫です。ありがとうございます」


 目の前に相手がいるわけではないが、無意識に頭を下げて電話を切った龍馬。そんな龍馬がすることは呼んだタクシーを待つだけである。

 未だ地面に座り首をふにゃんふにゃんさせている葉月の隣に腰を下ろし、ジッと待つ。

 葉月が泥酔している。そもそも初対面であるために話す話題などない。

 防寒着を着せようとしても、セクハラなんて訴えられたら負けである。当てがこんな状態なのだ。濡れ衣を着せられないためにも今できることと言えば、誰かに襲われないように見張ることだけ。


 そうして20分ほど経ってタクシーがやってきた。

 もう時刻は23時を軽く超えている。


「すみません、電話を入れた斯波です」

「はいっ、ご利用ありがとうございますっ! ってわぁ、かなり泥酔しちゃってますねぇ……。お、ものすごく美人さんだぁもう! 彼氏さんダメですよ! 無理やり飲ませちゃあ!」

 龍馬のお願い通り女性のしかも若いドライバーがやってきたが、テンションが頭一つ抜けていた。

 このようなタクシードライバーを見るのは初めてである。


「彼氏じゃなくて全く知らない人ですよ。偶然ここで見つけたんです」

「なるほどなるほど! それはもうラッキーですねっ!」

「……」

『何がラッキーなんだよ』と龍馬はツッコミを我慢する。

 もうここで20分も立ち往生させられているのだから。


「あの……葉月さん。タクシーきましたよ」

「あ、ありがとう……」

 しっかりと礼を言う葉月はゆっくりと立ち上がり、GUCCIの手提げバッグを拾ってタクシーに乗り込んだ。


「あのー、どちらまでですかねっ!?」

「グライアルガーデンGRタワーまでお願いします」

「えぇっ!? あの高級タワーマンションですかっ!!」

「……ですね」

(絶対ツッコミ入れてくると思ったよ……)

 もはや期待通りの反応であった。


「なんか呪い殺したくなりません!? こんなに美人でお金も持ってるとか!」

「なりませんから早く進んでください。後ろから車来たら迷惑になりますよ」

「そうですねっ! それでは斯波さん! 夜遅くまでご苦労様ですー!」

「ご苦労さまです……」

『ガチャン』

 とタクシーの扉が閉まり、ようやく目的地に進んでいった。


「あのドライバーさんクセ強すぎるだろ……」

 なんて独り言を吐く龍馬。

 そして……今になって気づいた。

 あの女性、葉月に110円返してもらっていないと。


「はぁ……やっちゃった」

 分かりやすくうな垂れる龍馬は知る由もない。

 タクシーを待っていた20分という長い時間で葉月が酔いを覚ましていたことなど……。

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