第19話 百合と姫乃と噂の子

 講義は4コマ目に入っていた。

 皆、椅子に座って講義を受けている中、姫乃は女子トイレの中にこもっていた。

 どの講義も出席率100%だった姫乃は初めてその率を落としてしまった。でも、今はそれ以上のことが起こっている。


「うぅぅ……」

 姫乃は個室トイレの中で顔を両手に当てたまま、三猿さんえんの一つである“見ざる”状態になっていた。

 首元も両耳も顔も火を浴びるように熱い。姫乃は真っ赤っかになっていた。こんなところは誰にも見られたくない。見られるわけにはいかない。


 だからこの個室トイレで——

「ばか……ばか……」

 姫乃は蚊の鳴くような声を何回も、何十回も出していた。

 あの場での失態、18年生きてきた中で一番のドジをしてしまった。この先、こんなミスは絶対に起きない……そう言えるくらいの大ミス。


 亜美の違和感を拭い去るために姫乃は今まで貫いてきた黙秘を破った。自らの口から伝えた。

『彼氏はちゃんといる』と。


 今まで見栄を張っていたなど亜美に言えるはずもなく、恋人代行サービスを利用したなんてことは死んでも言えない。

 見栄を貫くしかなかった姫乃は一生懸命になった。必死になった。だから声も自然と大きくなる。

 結果、亜美にだけ聞かせる言葉が、教室にいたみんなにまで聞こえさせてしまった。姫乃にとって耐えられることではない。

 講義に出席できないくらいに、こうして閉じこもってしまうくらいの羞恥。


 これからどんな顔をしていればいいのか分からず、それと同時に——底の知れない“申し訳なさ”で姫乃はいっぱいだった。


(こんなの、シバに迷惑がかかるよ……)

 亜美から聞いた、この大学に通っているという衝撃の事実……。ありえない偶然。


(こんなはずじゃなかったのに……。シバに謝らなきゃ……)

 龍馬とは連絡先を交換していない姫乃。龍馬がこの大学に通っていても会える可能性はごく僅かなもの。

 確実に会えて謝罪ができる時間を作れるのは恋人代行サービスしかない……。


 姫乃がスマホを取り出し、代行サービスに連絡しようとしたその時——

「はぁー。講義ホンット疲れたー」

「分かる分かる。難しすぎだってね。今回のレポート絶対苦労すると思う」

「……っ!」

 急に女子トイレが開かれ、目を大きくさせた姫乃。

 二人の女子が駄弁りながらトイレに入ってきたのだ。

 大学では時間割を個人個人で組むことができる。既に4コマ目が始まってることから、この女子達はこの時間空きコマになっているのである。


「って、早く化粧直ししないとだね。バイトまであと30分しかないから」

「バイト行きたくない……。サボりたいよぉ……」

 チャックを開ける音が女子トイレに響く。会話の流れから化粧ポーチを開けたのだろう。

 この大学の女子トイレの鏡は化粧をするにあたって不便がないように広くなっている。トイレ内で化粧をする女子も多いのだ。


「……」

 息を潜め身動きを止める姫乃。悪いことをしているわけでもなく、特に理由もないが『ここには誰もいません』なんて行動を取る。


「ね、見て見てこれ。新しく買ったの!」

「うわぁ、これまた高そうな見た目してるなぁ……」

「バイト代で買ったブランド品! いいでしょー?」

「って、シャネルのやつじゃん!」

「そう! シャネルのやつ」


 化粧品の話題で盛り上がる二人。女子同士ではよくあることである。


「アタシも使いたいなぁ……ソレ」

「……本当のこと、言って?」

 ここで何故か一人の声色が艶めしく変わる。


「……えっと、ユリと間接キス……したい、かも……」

「しょうがないなぁ……。特別だからね」

「ホント!?」

「そう。……特別にこの口紅を塗った私の口で、あなたの口を塗ってあげる」

「そ、それはダメだって……。ココ、学校だよ? もし誰かに見られたら……」

「その時はその時……。誰かに見られたらって想像するとドキドキするよね……」

「もぅ……ユリってば相変わらず強引なんだから……」

「ほら、早く塗ってあげるから」

「うん……お願い……」


(んっ……!?)

 姫乃がいることなど知らず、いや、この空間に誰もいないと勘違いしているからだろう。何やらお熱い雰囲気になっている二人。リップ音が大きくなって聞こえてくる……。

 こんな現場に鉢合わせしてしまうのは初めてのことだった。


「はい、できました」

「できましたじゃないよぉ。ユリのキス、激しいんだって……。口紅、はみ出してるから……」

「あなたの唇が柔らかすぎるのが悪いよ」

「ま、またそんなこと言って……もぅバカ」

 仕事の関係上、理解のある姫乃には分かる。この二人が今、10個ほどのハートマークが飛ばしているだろうと……。


「今度はうちがユリの髪を手直ししてあげる」

「手直し? ……本当のこと、言って?」

「わかってるくせにいじわる……。ユリの髪、触りたいの……。ユリのキスでうち、変なスイッチ入っちゃったから……」

「ふふ、素直なあなたも大好き……。はい、どうぞ」

「ん、ありがとう……」


(んんっ……!?)

 仕事の関係上、理解のある姫乃には分かる。この二人が今、20個ほどのハートマークが飛ばしているだろうと……。


「ねー、私面白い話があるんだけどしていい?」

「お! ばっちこい」

 誰にも見られくことなく化粧直しという名の養分補充ができた二人は十分に満足したのだろう。入ってきた時よりも生き生きとした声色で楽しげな会話を広げている。


「じゃあ遠慮なくいかせてもらうけど……1年にさ、ロリリンって可愛い子いるじゃん?」

「——っっ!?」

 不意を突かれた発言。姫乃は口元をすぐに抑えて強く両目を閉じる。


「なんか今、変な声聞こえなかった?」

「気のせい気のせい。それで、ロリリンのことだけど……」

「もちろん知ってるよ! 逆に知らない人少ないんじゃないかなぁ。モテるのに彼氏に興味ないだもん。話題性バッチリ!」

「それがね、新情報が入ってきたんだよ! ついさっきなんだけど」

「新情報って……?」


(言わないで……。もう出てって……)

 新情報がなにか。これを察することができないほど姫乃は鈍くない。というよりも、そのせいで姫乃はこの場にこもっているのである。


「実は彼氏がいて、超好き好き状態なんだって!」

「エエェッ!?」

(なっ、ななななな……っ!?)

 姫乃はあと一人の女子と一緒に驚いていた。

 そんなことをことを言われているだなんて思っていなかったのだ。

 噂が広まれば広まるほど話は大きくなる。曲解される。話に尾ひれがつくとはまさにこのことである。


「じゃあカレシに興味がないって言ってたのは元からカレシを作ってたからってこと!?」

「そう。もう彼氏がいるから別の、、彼氏はいらない的な意味での興味がない。らしい。しかもね、さっき『超好き好きな彼氏がいるんだからー!』って教室で公開告白して教室から飛び出していったんだって」

「うわぁ……。ロリリン凄い勇気……」


「罰ゲームかなんかだろうって言われてるけど……その勇気、見習うべきだと思った」

「ロリリンにカレシいたなんてショックかも……。興味ないって聞いてたからコッチの人かと思ってたのになぁ……」

「あなた……正直、狙ってたよね?」

「ユリだって狙ってたくせにぃ」

「……ふふふ」

「……ひひひ」


 そんな不気味な笑い声を出す女子二人はようやく女子トイレから去っていた……。

「……」

 大げさになっている噂と狙われていた事実。このWコンボに真顔になっている姫乃であった……。



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