第21話 緋色の少年

 トンネルを抜けたばかりで、生欠伸が漏れて口に手をあてた。バスの窓から見えるのは、山間にひっそりと佇む集落や棚田と畑地。水田の稲は青々と大きく成長していた。分厚く広がる雲は山頂に引っかかっていて動きそうにない。

 春也と宇宙はバスを降りて大きく息を吸い込んだ。


「それで春也、滝に行くにはどっちに進めばいいの?」

「えーっと、地図だとこっちかな」


 春也は観光雑誌を片手に実際の道と見比べていた。少しして、「こっちみたい」と指差し、山に向かって歩き出した。


「あっ! 川だよ春也。大きい川!」


 ミカン畑を抜けると、大きな河川が現れた。川にかけられた橋には、稲美川・二級河川と書かれていた。


「んー、どうやらこれの川上に白糸の滝があるみたいだな」

「白糸の滝って今から見に行くやつ?」

「そう、それ」

「ふーん……ねえ、ちょっと遊んでいかない? 流れもゆっくりだし、いいよね?」

「別にいいけど、俺は泳がないからな」

「私は泳ぐつもりは……あ、もしかして」


 宇宙の口角が徐々に吊り上がるのを見て春也は、「しまった」と思った。


「もしかして春也さんは〜、泳げなかったりするんですか〜?」

「…………」


 言われて春也はそっぽを向いた。


「あれぇ〜? もしかしなくても図星ですかあ〜? 十七年も生きてるのに泳ぎが不得意なんてかわいい……ッて! 置いて行かないで〜」


 春也は一人、土手を降りて河岸の石を踏み鳴らした。自動車もろくに通らない、たまに軽自動車のトラックが走るだけ。途切れることのない川のせせらぎに二人の小さな足音が混ざり、土手に並ぶ桜の木々は音もなく青々とした葉を揺らしていた。

 春也は扁平な小石を手に取り、回転を加えて川に投げた。小石は何回か水面を跳ねてから沈んだ。


「おー、八回くらいかな? 春也すごいじゃん!」

「そんな珍しいものじゃないと思うけど。小さい頃はよく川で遊んだからな、それなりにはできるよ」

「泳げないのに?」

「……帰ってからクレープでも買ってやろうと思ってたけど、やっぱりやめた」

「冗談ですごめんなさいお願いします許してくださいもう二度と言いませんから」


 春也が、冗談だと言うと、宇宙は表情を一変して笑みを隠しきれなくなった。「可愛い奴だな」と春也が小声で洩らした。


「何か言った?」

「いいや、何も言ってないよ」


 そう言って春也は小石をまた拾って川へと投げた。最初より多く跳ねた小石は、川の中に呑み込まれた。

 宇宙も真似して石を投げ入れた。石は三回ほど跳ねて沈んでいった。


「むぅー、上手くいかない」

「あんまり水切りやったことない?」

「うん、そもそも川で遊ぶこともそんなになかったかも」

「そうなんだ……ってか宇宙たち神さまの世界にも川とかあるんだな」

「川くらい普通にあるよ! 春也は私たちのことどういう風に思ってるわけ?」

「いやー、なんか暗くて霧がかかってそうなとこに住んでるのかと」

「酷いッ⁉︎ そんな昔のロンドンみたいなとこじゃないですぅー! こっちの世界よりもうちょっと華やかなとこですぅー!」

「こいつナチュラルにロンドンをディスりやがったぞ。ちゃっかり自慢も入ったな」

「いいもんッ! こっちの世界よりは良い暮らししてるから!」

「はいはい、私が悪うございました。お嬢様、申し訳ありませんでした」

「フフッ、分かればいいのよ」


 今のところは高貴なお嬢様が偉そうにその慎ましやかな胸を張っていた。

それを見た春也は謀らずも小声が漏れた。


「……フッ……」

「何か言った?」


 今の今まで高飛車を気取っていた表情が一変、先ほどとは別の言葉なんじゃないかと思わせるくらいにどす黒い圧力を覚えた春也はとっさに、


「イエ、ナニモ……」


 と、答えるしか出来なかった。


 それから、充分に遊んだ二人は川を後にした。

 特に話すこともなく歩いていると、宇宙が自販機の方を指差した。


「ねえ春也、喉乾かない?」

「なんか買っていくか」


 すると、自販機の横で小学生くらいの男の子がゴミ箱に缶を投げ入れようとしていた。その男の子が投げた缶はキレイな放物線を描き、見事に縁に当たり入らなかった。空き缶は金属音と共に地面を転がった。


「……くそッ」


 その少年は軽く舌打ちを鳴らし、踵を返した。何もかもが面白くないという様な表情で下を向いて歩いていた。


「ちょっと、そこのきみ」

「……ンだよ」


 春也は咄嗟に声をかけた。

 少年は怪訝な顔で足を止めた。


「空き缶はちゃんとゴミ箱に捨てなきゃダメだぞ」

「うるせーな、お前には関係ないだろ」

「ポイ捨ては大きくなってから癖になるし、今のうちにちゃんと捨てる習慣をつけないと」

「お前はオレのオカンかよ! そんなこと言われる筋合いはないね」


 地面に横たわる空き缶を拾った宇宙は、ゴミ箱の中に入れた。しばらく睨み合い、それを宇宙は黙って見ていると、突然大きな怒鳴り散らす声が響いた。


「こらァ! あんたこんな所で何してんだい!」


 春也と宇宙が振り向くと、そこには買い物袋を持った老婆が急ぎ足で近づいて来ていた。

 

「げッ!」

「あ、ちょっと待って–−」


 元気のいい老婆に呆気を取られた二人は少年から目を離した。その隙に少年は全力で逃げ出した。


「はぁ、はぁ……」

「お婆ちゃん、大丈夫?」


 息を切らした老婆に宇宙が声をかけた。

 無理をしたのかその老婆はよろけて宇宙にもたれかかった。


「すまないねぇ、ウチの小僧が迷惑をかけたかい?」

「いいえ、そんな。お孫さんなんですか?」と春也は訊いた。

「そう、健太っていってな、可愛い孫なのよ」

「そうなんだ! ここで話すのもあれだし、お婆ちゃん疲れてるみたいだから、お家まで付き添うね!」

「ありがとうねぇ」

「持ちますよ」


 春也は老婆の買い袋を受け取り、三人はゆっくりと歩き出した。

 しばらくして老婆の家に到着した。瓦屋根の古風な家である。老婆は着くなり二人を居間に座らせて台所の方へと消えた。


「粗茶ですが」


 そう言って老婆は三人分のお茶を運んできた。出された緑茶は色合いも良く、喉が渇いた二人にはとても粗茶という言葉は似合わない品物に見えた。

 春也はお茶を飲んで一息ついた。


「ありがとうございます。このお茶とても美味しいです」

「そうかい? これはこの辺で作っているお茶でねぇ、そう言ってもらえると嬉しいよ」


 ふと春也は辺りを見渡した。奥の部屋にはちゃぶ台に広がったノートや鉛筆が散乱していた。その横には汚れてヨレヨレになった緋色の帽子が寂しそうに潰れていた。


「あの、お孫さんとこちらで暮らしているのですか?」

「いいや、健太は都会に住んでてね、両親が出張で留守だから少し間こっちで面倒を見ることなったのよ」

「そうだったんですか。健太くん、機嫌が悪そうでしたけど何かあったんですか?」


 それを聞いて老婆は湯呑みを静かに置いて目を閉じた。そして、ゆっくりと目を開けて話し出した。


「あの帽子が何か分かるかい?」


 そう言って老婆は、奥の部屋に転がっている緋色の帽子を指差した。

 宇宙は静かに真剣な眼差しで見つめ、春也は思い出したかのように口を開いた。


「もしかして野球、ですか?」

「そう。あの子はね、野球が好きで地元の少年団に入ってほぼ毎日練習するくらいには大好きなのよ」

「いいですね、そういうの」


 春也は生まれてこのかた真剣なスポーツに没頭したことなど一度もなかった。少年時代に何かに熱中できることが羨ましく思えた。


「それで、健太くんはどんな活躍を?」


 春也が訊くと、老婆は首を横に振った。


「少し前まではピッチャーとしてプレーしていたそうなんだけど、最近は上手く投げれなくなったらしくてな、練習もサボり気味になって試合に出してもらえていないらしいのよ」

「そうなんですか……それで健太くんは不機嫌に」


 老婆はまた、首を横に振った。


「あの子が怒っているのは私が原因。夏休みの宿題をやってる最中につい、最近練習を休んでいる理由を訊いてしまっての。あまりにしつこく言ったもんだから怒って出て行ってしまっての。野球が嫌になったのかねぇ」


 老婆はため息をつき、居間は神妙な空気が漂っていた。


「ごめんねぇ、辛気臭い話して。ただの独り言だと思って聞き流してくれて構わないよ」


 静かにしていた宇宙は奥の部屋で緋色の帽子を拾い上げてホコリを払い落とした。


「でもお婆ちゃん、健太くんは野球が嫌いになったわけじゃなさろうだよ。じゃなきゃ帽子を持って来たりなんかしないよ」


 宇宙は続けた。


「この帽子、汚れているけど大事にしてるのは見て分かるもん」


 春也は少しの間考え、立ち上がった。


「俺、健太くんを探してきます。お婆さんはゆっくり休んでてください。宇宙、お婆さんをよろしく」

「うん、お婆ちゃんは私とゆっくり待ってよ?」

「なにもそこまでしなくてもいいのよ」

「いいんですよ、俺がしたいことですから! じゃあ、いってきます!」


 そう言って春也は健太を探しに駆け出した。

 探しに出たはいいものの、春也には土地勘がない。来た道を忘れぬよう慎重にならざるを得ない。


「一体どこに行ったんだ」


 探し始めてから数十分は経ったが健太はなかなか見つからない。姿が見えないまま先ほどの自販機まで来てしまった。

 セミの鳴き声が大きく聞こえた。

 それから歩き回って、またミカン畑を抜けて河川へたどり着いた。


「ん? あれは……」


 春也がふと河岸に目をやると、小さな人影が一つ見えた。注意して見ると、健太であることがわかった。

 健太は川辺に降りて近づいて来る存在に気づいてはいたが、今度は先ほどのようには逃げなかった。


「……何しに来たんだよ」

「水切りしに来ただけだよ」

「あっそ」


 どうやら健太はあまり機嫌が良くないらしい。お婆さんのせいだろうか? などと考えを巡らせながら、春也は川へ石を投げた。石は七回ほど跳ねて沈んだ。

 その様子を健太はまじまじと見つめていた。


「やってみるか?」

「はァ? オレはいーよ」

「やってみなって」

「やんねぇーって!」

「いいから、いいから!」

「うるさいな! やったって上手くいかねーよ!」

「いいから一回だけ!」

「あーもう! わかったよ一回だけだからな?」


 少年は足元にある石ころを拾い上げ、春也と同様に、いやそれ以上に綺麗なフォームで投げた。しかし、石は三回しか跳ねなかった。


「だから言ったじゃん! 全然いかないって」

「じゃあこっちの石を使ってみな」


 そう言って春也は扁平な石を拾い上げ、少年に手渡した。

 受け取ったものの、少年は眉を潜めた。


「何が違うんだよ」

「まずは投げてごらん」


 少年は不思議に感じながらも、同じフォームで平らな石を投げた。

 先ほどと違うのは水面を跳ねた回数だった。


「十回!? すげェ! 十回もいった、何で?」


 少年は声を上げて喜んだ。初めて見せた歳相応の笑顔だった。


「石だよ。平らな方が長く跳ねるんだ。水切りに向いた石ってのがあるんだよ」

「へー、そういもんなのか」

「案外楽しいだろ?」

「うん、確かに奥が深いかも」


 少年は足元の石を見つめ、打って変わって真剣な視線を送る。


「健太くん、投げるの上手いから練習すればもっと回数いくと思うよ」

「そ、そうかな……?」


 少し恥ずかしそうに頬を掻いた。

 そして、春也は意を決してあることを訊いた。


「君のお婆さんから聞いたよ。野球でなにかあったの?」

「…………」


 健太は神妙な面持ちで考えに耽っていた。


「別に何も言わなくていいし、嫌なら謝るよ」

「…………」


 健太はまだ黙ったまま。


「俺はさ、特にスポーツとかやったことなくてさ、ちょっと羨ましかったんだ。お婆ちゃん家に帽子を持って来るくらい野球が好きなんでしょ? 何か悩んでるなら誰かに話してみるのも悪くないと思うよ」


 それからしばらく沈黙が続いた。川は相変わらずざわめいていた。

 何分か経ったのち、健太はゆっくりと語り出した。


「オレ、ずっとピッチャーだったんだ。誰よりも早く投げれるし、コントロールも自信があった。調子が悪い時もあったけど試合ではそれなりに守れてた。でも、あいつが来てから全部終わったんだ」

「あいつ?」

「うん、水原秀一みずはらしゅういちって奴。そいつ、オレより完璧に投げて正直、完敗だった。チームのみんなもだんだんそいつ中心になっていって面白くなかった」


 健太は近くの小石を蹴飛ばして川にぽちゃん、と音をたてて沈んだ。


「ただの嫉妬だってわかってる。勝手に羨んで勝手に腐ってるだけだって」

「自分より出来る奴が近くにいるのって悔しいよな。俺の場合はちょっと違うかもしれないけど、いつも助けてもらってばかりの奴らがいるんだ。俺もそいつらのために何かしてやりたいとは思うけど全然上手くいかなくてさ、悔しいんだ」


 春也は健太の隣でしゃがみ、小さな石を放物線を描いて川に投げた。


「オレたち似たもの同士かもな!」

「そうだな」


 二人は目を合わせて笑い合った。


「じゃあさ、オレはピッチャー復帰! えーっと、名前なに?」

「鈴村春也だよ」

「そっか、じゃあ春也は恩返しがしたいって事になるか?」

「そういう事になるな」

「よし! 改めて、オレはピッチャー復帰! 春也は恩返し! どっちが先に実現できるか勝負しようぜ!」

「ああ、いいぜ」

「あっ、そうだ! このままじゃどっちが勝ったかわかんないから、これ!」


 そう言って健太は、ズボンのポケットからケータイを取り出した。


「連絡先交換しようぜ!」

「おお、今の時代は小学生でもスマホを持っているのか……」

「そうだよ、スマホ持ってる奴結構いるの知らないのか? まあ、オレは親の車呼ぶ時と野球の動画見るくらいにしか使わないけどな」

「そっか––––はい、これで交換終了っと」


 二人は手早く交換して、拳と拳を合わせた。


「早くピッチャーとしての活躍を教えてくれよな」

「ああ! 今度はチームの誰にだって負けないから、約束する!」


 二人の男が堅い約束を結んだ頃、太陽はちょうど真上から見下ろしていた。

 それから、春也は健太から野球の話をお婆さんの家に着くまで飽きる事なくずっと聞いていた。

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