第20話 夏休みの始まり

 いびり散らすように照りつける太陽の日差しが、ビルの谷間で反射する。日光を浴びた身体は体感温度が上昇し、自然と意識を連れていかれそうになる。遠くで構える陽炎は人々を嘲笑った。

 そんな中、僕は亜紀乃ちゃんと二人で涼しげな場所を目指していた。


「はぁ〜……」

「さっきからため息ばっかりですわ、雅人くん。せっかく遊びにきているのにもったいないですよ」

「そうだよなー、そうだよね! よし、今日は遊ぶぞー!」


 そう言って僕は力こぶを作ってみせる。


「そもそも、こんな気分になっているのも元々あの二人が誘いを断ったからで、僕の不満は爆発寸前だよ!」

「爆発したらどうなってしまうのでしょうか……?」


 数日前、僕は春也と宇宙ちゃんと亜紀乃ちゃんを誘って水族館に行こうと提案したのだ。しかし、春也に、「あ、その日は無理だわ。すまん」と、そっけなく断られてしまった。当然、春也とセットの宇宙ちゃんも来ない。今ごろ二人でどこかに出掛けているのだろうか? そんな想像をする度に不満が募る自分が嫌になる。暑さのせいか、僕はいつもより感情を表に出していた。


「今日に限って出掛けるとかツイてなさ過ぎ……」

「二人にとって大切な用事かもしれませんわ」

「僕にとっても大切な日だよ!? 今年の夏休みは今日しか暇がないんだよ……」

「では明日からもう実家の方に?」

「そうだよ、なんだか今年から忙しくてさ、もうちょっと遊びたいのに……」

「それはお気の毒ですわ……」


 限りある休日がこのような形になってしまうのだから落胆の振れ幅はあまりにも大きい。雅人の気は沈み、周辺の空気は暗く淀んでいた。


「そう落ち込んでいるのも今のうちですわよ」

「ん?」

「ほら」


 僕は亜紀乃ちゃんの指差す方に目をやる。そこには、今日の目的地である水族館が目の前にまで迫っていた。


「いつのまに着いたの?」

「さあ? それより、行きますわよ!」

「わっ!」


 僕は亜紀乃ちゃんに手を取られ、真夏日には相応しく涼しげな空間へと誘われた。

 中に入ると程よく薄暗く、エアコンの効いた空間は僕の心を落ち着かせた。


「 雅人くん、見てくださいまし!」

「これは……」


 入り口からすぐの所の水槽に駆け寄った。そこには小さくて細いチンアナゴが砂からひょっこり顔を出していた。


「チンアナゴですって、可愛いですわ〜」

「うん、癒されるね」


 顔を覗かせているチンアナゴは左右に首を振ってみせる。その姿を二人はじっと見つめている。


「次ですわ!」


 そう言って亜紀乃ちゃんは僕の袖を掴んで順路を進んでいく。いつもより積極的な雰囲気に僕はただ呑まれるしかなかった。

 次に目に留まったのはカクレクマノミだった。それはイソギンチャクの周りを元気よく泳いでいた。

 

「ニモですわよ! ニモ!」

「ニモって……亜紀乃ちゃんもそういう映画見るんだね」

「あら? 心外ですわね。あの手の映画は好んで観ているのですよ」

「じゃあ今度は映画でも観に行きなよ。二人を誘ってさ」

「そうですわね。今度はみんなで行きましょうね」

「……そうだね、みんなで行こう」


 僕は肩を落とし、足元を見つめてしまう。相変わらずカクレクマノミは元気よく泳いでいた。


「さあ雅人くん、休んでいる暇はありませんわ! 今日をもっと楽しみましょう!」

「あっ、ちょっと!」


 僕の不安を搔き消すように、亜紀乃ちゃんは僕の背中を押してさらに順路の奥へ進んだ。


「は、速い……」


 ガラスを隔てた向こう側では、ペンギンが水中を高速で泳いでいた。カメラで撮影しようにもこれではピントが合わない。亜紀乃ちゃんは、ぷかぷかと水面で浮かんでいるペンギンと見つめあっていた。声には出さずとも、興奮と高揚が僕には聞こえた気がした。

 その後、館内を一通り回り僕たちは一息ついた。水族館と言えども規模はあまり大きくなく、ゆっくり見て回っても三時間程度で済んでしまう。ふと腕時計を見ると丁度お昼時を指していた。そこで僕らは目に入った館内のレストランで昼食を済ませることにした。僕はきのこのクリームパスタを、亜紀乃ちゃんはトマトのリゾットを食べた。

 今思えば、二人きりでどこか出掛けるなど初めてのような気がする。春也と亜紀乃ちゃんは高校以前からの知り合いだし、僕は高校生になってから初めて会話した相手が春也なのだ。だからこそ、二人の中で春也の存在は大きいものだった。


「さーて! 涼んだことだし、ボウリングでもいかない?」

「良いですわね、今日は遊び尽くしましょう!」


 水族館を出て近くのところにボウリング場があったため、少し駄弁っているうちに目的の場所へと着いた。そこでは、ピンが軽快な音とともに倒され、非常に活気だっていた。僕たちは直ぐに空いてるレーンに通され、何個かボールを持ってきてゲームを始めた。


「やった! スペアだ!」

「お上手ですわ! 次は私の番ですね……」


 無事スペアをとった雅人が安堵する中、緊張の息を漏らしながらゆっくりとレーンに近づいて行く。緊張するのも無理はない。彼女にとって連続三本目のストライクがかかっているのだから。


「――ッ!」


 亜紀乃は力強くボールを送り出す。その玉には回転がかかり、ピンの目の前で大きくカーブして中心を捉えた。次の瞬間、逆三角形に並べられた十本のピンは見事に全て倒された。


「すごいよ亜紀乃ちゃん! これでターキーじゃん!」

「フフン! 私にかかればこんなものですわ!」

「こんなに上手かったなんて知らなかったよ。春也は知っているの?」

「いえ、春くんとは一緒に来たことはありませんね。一度遊んでみたいものですわ」

「水族館もそうだけどさ、ボウリングもまた四人で来ようよ。そしたら春也、亜紀乃ちゃんの上手さにびっくりすると思うよ」

「春くんの驚く顔が目に浮かびますわ」


 それから交互に投げ合い八投目に差し掛かったところで、亜紀乃ちゃんが立ち上がった。僕がちょうどアイスティーを飲み込んだ瞬間だった。


「少々お手洗いに行ってきますわ」

「うん、いってらっしゃい」


 次は僕が投げる番だった。相方のいなくなった席で一人、もう一度冷たいアイスティーを口に含んだ。

 ふと隣のレーンの方を見やると、見慣れない長身の男が一人でボウリングに興じていた。特にすることのない僕はただ黙ってをその姿を眺めていた。スコア表を見てみると、九投目で得点は七〇点だった。

すると、九投目を投げ終わったその男と目があった。長身の男は一度辺りを見渡してから、話しかけてきた。


「どうも、こんにちは」

「こ、こんにちは……」


 ガタイの良さの割には優しく触れるような声に僕は驚いた。


「翠陵学園の生徒さんですよね? 二年生でクラスは確かE」

「そうですけど……」

「やっぱり! 私は文化祭の時にあなた達の出し物をお手伝いさせてもらった者です。私のドリンクやお菓子は気に入ってもらえたましたか?」

「あの喫茶店のマスターだったんですか! その節はどうもお世話になりました。おかげで盛況でしたよ。僕も美味しくいただきました」


 僕は自然と固く構える。


「それは何よりです。実はあなた達の喫茶店にお邪魔したんですが、店内の飾り付けも普段とは何だか新鮮で楽しめましたよ」

「え! 来られていたんですか? 恐縮です」


 僕はさらに肩に力が入り構えてしまう。

 それを見た喫茶店のマスターは笑みをこぼした。


「ふふッ、そんなにかしこまらなくていいんですよ。そいえばまだ名前も名乗っていませんでしたね。私は蓮といいます、あなたは?」


 僕はその笑顔に一瞬たじろいだ。どこか含みのあるような気がしたからだ。今まで色々な人を見てきたが、その誰にも似ていない全く新しいタイプだった。底の見えない恐怖にも似た感情が心のどこかで僕を覗いていた。それと同時に悪い人にはどうも見えないという直感が僕の緊張を飲み込んでしまった。


「僕は寺下雅人です。ボウリングにはよく来られるんですか?」


 気付けば僕は会話を続けようとしていた。普通に考えればこの先縁があるとは思えない男なのだから、簡素な社交辞令だけで済ませるだけでいい。それなのに何故か僕は会話を続けようとしていた。


「いいえ、今日が初めてです。案外難しいものですね。中々スコアが伸びません」


 蓮の言う通り、最後の投球を残して七〇点というのは高い得点ではない。

 すると蓮は、最後の一〇投目を投げ始めた。転がした球はピンを六個倒した。その後の投球でスペアになる事もなくワンゲームが終わった。


「うーん、私にはセンスがないんでしょうか?まあ最初は誰でも低いものですよね。また来て練習したいですね」


 僕は息を呑んだ。緊張は解けても言いようのない違和感は未だ健在だった。


「ゲームも終わったことですし、私はそろそろ帰りますね」

「ち、ちょっと待ってください!」

「うん? どうしました?」


 僕は咄嗟に蓮を引き留めた。この男から受け取った違和感について気になったからだ。訊かずにはいられなかった。

 僕は、この違和感を知っている。

 春也にも、亜紀乃ちゃんにも話したことがない違和感を僕は知っている。宇宙ちゃんと初めて会った時も似た特異的な違和感を覚えた。その正体について僕は知っている。今まさに答え合わせをするためにここにいるとさえ思えた。


「雅人くん! お待たせしました!」


 不意に背中から大きな声で呼ばれて僕は反射的に振り返る。するとそこにいるのは亜紀乃ちゃんだった。


「あ、おかえり」

「どうしたんですの? 何だか顔色が優れませんけど」

「大丈夫だよ、問題ない」


 亜紀乃ちゃんは僕の顔を覗いて心配そうに眉をひそめる。


「そうですか? 無理は絶対に許しませんよ。さあ、ボウリングを再開しましょう!」

「うん、そうだね。あ、そう言えば、――」


 僕は蓮のいる方へと再び振り向く。だが、そこにはもう誰もいない。辺りを見渡しても長身の男の影さえ視界には映らない。モニターに映し出されたスコア表のレンの文字もいつの間にかに消えていた。


「雅人くんの番ですよ? 早くしてくださいな」

「ごめんごめん。よ、よーし! 亜紀乃ちゃんのスコアに追いつくぞー!」

「出来るものならやってみなさい、ですわ」


 結局、重要なことはなにも聞き出せなかった。蓮という男は何者なのか。疑問だけが残ってしまった。

 それと同時に確信していることもあった。


(おそらく、宇宙ちゃんに聞けば蓮の事も多少はわかるだろう。問題はどうやって宇宙ちゃんから情報を引き出すかなんだよな……)


「やりましたわ! 一七〇点は私としては申し分ないですわ!」

「す、すごいよ亜紀乃ちゃん。僕なんか一四五点だよ」

「雅人くんも中々ですわよ。まあ何度やっても負ける気はありませんわ」

「くっそー! 次は本当に追いついてみせるから!」

「ふふ、楽しみにしてますわ。でももう良い時間ですし、今日はお開きにしましょうか」

「是非とも夏休み明けにリベンジしたいね!」

「ええ、その時は四人でやりましょう」


 僕たちはそんなやり取りをしてるうちにボウリング場を後にし、帰路に着いた。電車に揺られ、最寄駅を降りてしばらく歩くと亜紀乃ちゃんの家の前までやってきた。


「ここまで送っていただいてありがとうございます。今日は楽しかったですわ」

「僕も楽しかったよ、次会うときは学校からだね」

「そうですわね。お家のこと、私はよくわかりませんが応援しますわ。ファイト! ですわ」


 亜紀乃ちゃんは胸の位置で両手の拳を軽く握って見せる。


「ありがとう。元気でね、また学校からで」

「ええ、お身体には気をつけてくださいまし」


 その言葉を最後に僕は自宅へと向かった。

 ふと、レンのことを思い出した。


(そういえば、なんで僕のことをすぐに翠陵学園の生徒だどわかったんだろうか? それにクラスまで。ホール担当だったけどあんなに長身の人は見た記憶がないな……)


 文化祭当日、雅人は二日間ほとんど教室にいた。その雅人は蓮という男を見たという事実はない。


(本当にあの蓮という男は文化祭に来ていたのか? まあ、どっちにしろ夏休みが始まった。まずはそこからだ)


「ただいまー」


 アパートの一室で発せられた雅人の言葉に反応する者は誰もいない。雅人は、家に着いてすぐに帰省する準備を始めた。

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