第5話 転落
時とは非情で残酷で、時が過ぎれば過ぎる程、心拍数は次第に増幅してゆく。
俺は昼休みに屋上に行かなければならない。
なぜなのか。それはもう明確であった。一時限目と二時限目の間の休み時間に三年生がやってきて、昼休みに屋上に来いと、言われたのだ。
俺は心底行きたくはない。なにせ嘘で塗り固められたただの噂のせいで暴力を受けなければならないというのだから。
「ここはこれで――この式が――おっと、チャイムが鳴りましたね。今日の授業はこれで終わります」
いつもと同じ時間に授業終了の合図となる鐘の音がひびき渡った。そして、このチャイムは同時に昼休み開始を告げるものでもある。
いつもと同じ、その日の日直が挨拶をし、直ぐに友達としゃべり出すやつもいれば、友達と一緒に弁当を持って教室を出て行くやつもいる。
そんな中、雅人は俺を心配してのことか、直ぐに振り返り話しかけてきた。
「春也、ここで問題起こしたらあれだし、仮病を使って逃げた方がいいのかもしれないんだ」
あれと言うのはきっと、俺に対する教師たちの評価の事だろう。自分で言うのもあれだが、俺はこの学園の教師たちに高評価をいただいている。
学力は上の中あたり、しかも提出物は一度たりとも忘れたことがない。それらは全て自分自身の平穏な日常を得るためこそのものなのだ。
だが、既にこいつが居候しているせいで平穏ではないのだがな。
そう思いながら、宇宙の方へと視線をずらすと、俺の視線を感じ取ったのか、宇宙までもがこちらを見つめてきた。
すると宇宙は少し不機嫌そうな顔をして、
「また何か失礼な事考えてない?」
この一言だった。
全く、勘が鋭いというか第六感が冴えているというか。どういう思考回路をしたらこちらの思考まで読み取れるのだろうか……。
俺はそこまで約二秒程で考えた後、宇宙に返す言葉を言うことを思い出し、焦り口調で返事をする。
「い、いや。別に何も考えてないよ。うん」
「本当に?」
「本当です」
急いで言ったせいで余計怪しまれてしまった。いつ何をされるか検討もつかないので、返事の返し方次第ではまた鳩尾に拳が入る可能性があるのだ。
それに、あのトラックを真っ二つにする程の力を持っているとなれば、もしかしたら意識が飛ぶくらいでは済まない程の威力を持つ衝撃が来るだろう。
ここまで優秀な戦力はなかなかいないと思われる。
俺は軽く現実逃避気味の思考をここで宇宙の一言によって揉み消された。
「……まあ、いいや」
その返事は余りにも簡潔で、余りにも簡素だった。
「……へ?」
俺は何か言われるのではとばかり考えていたので、軽く流されたことに驚き、拍子抜けした声を上げてしまった。
そんな俺に宇宙は続けて話続けた。
「別にもうどうでもよくなったし、それに、今はそっちの話が優先でしょ? だから、さっさと雅人と話して屋上に行って三年生をぶっ飛ばしちゃえば?」
宇宙の口から予想もしない言葉が出てきた。宇宙が人のことを優先したのだ。……まあこっちとしては優先されたくない内容なんだが。
それはともかく、宇宙が人のことを優先した事実は変わらない。
確かに、最後の方はおかしな事を言っていたような気がするが、それはいつもの事なので無視することにした。
裏に何かあるのかもと深読みしてしまう前に雅人が話の続きをした。
「でさ、春也は屋上に行く気なの?」
雅人の質問に正直俺は困った。雅人は俺のことを心配してくているので、行かないことを勧めているのだ。でも、だからと言ってここで逃げてしまうと、ずっと逃げ回らなければいけない生活をしないといけなくなる気がするのだ。だから、ここで逃げてはいけないのだ。
幸い、俺の隣には宇宙がいる。もし、何か危険なことがあったら宇宙がなんとかしてくれるだろう。
雅人には悪いが俺は行かせてもらう。
「悪い、雅人。俺は行くよ」
俺の返事を聞いた雅人は目を見開き、驚いた顔をして、反発した。
「なんで!? 春也に危険が迫ってるかもしれないんだよ!」
「それでも俺は、行かなくてはいけない。ここで逃げたら全てがうまく回らなくなる気がする」
俺ははっきりと、自分の意見を口にした。
「そう……春也がそこまで言うんなら僕はもう留めたりしないよ。でも一つだけ約束して」
意外にも雅人が早くも了承してくれた。
雅人は誰の言葉を待たずに、話し続けた。
「絶対にもう無茶だけはしないこと。分かった?」
「了解。無茶はしない。で、俺はもうそろそろ屋上に行くよ。彼を待たせちゃってるだろうからな」
そう言って俺は少し笑みをこぼした。
俺はどうやらここに来て危険が自分に迫ってるというのにも関わらず、興奮しているらしい。
さっきまでの恐怖感が嘘みたいに全て消え去っていた。
「分かった。でも無茶だけは絶対にしないでよね」
「ああ、分かってる」
俺はそう言いながら席を立つ。
そして、ここで俺は一つの案が閃いた。
「おい、宇宙。お前も一緒来てくれ」
「ん〜、いいよ。行く行く」
そう言いながら宇宙が立ち上がろうとすると、
「ちょっと待ってよ! なんで星波さんまでついて行くの!?」
雅人に疑われてもおかしくはない。他人から見れば、この場面で俺が女子である宇宙を連れて行くのはマナー違反、と言うより常識知らず、と言うやつだ。
だがそれも宇宙が普通の女の子であるのが前提での話だ。
俺の思考を邪魔するかのように宇宙が俺……ではなく雅人にこう言った。
「大丈夫。陰で見ているだけだから」と。
「ん〜…….まあ、いいかな別に。もともと星波さんに対する春也の態度によって引き起こされたことだし」
いいのかよ。
俺は心の中で瞬時にツッコんでしまった。
すると宇宙はあまり間をおかず、少し急ぎ目に俺を連れて廊下へと出ていった。
今は昼休みなので、廊下がたくさんの生徒で溢れかえっていて、とても活気があった。
俺と宇宙はその中を早歩きで人を避けながら屋上へと歩いた。
俺はふと先程思いついた案を言うべく、宇宙に視線を向けた。
すると、俺が視線を向けた瞬間、宇宙もこちらを向いていたのがわかった。
そして、俺が話しだす前に宇宙が話し出した。
「春也、今から言うことをよく聞いていてね」
「ああ……」
顔を向けた瞬間に話しかけられたので言葉が詰まってしまった。
「この後屋上で春也がその三年生の先輩とやらにもし、命の危険に関わることがあったら私が記憶をいじって意識を失わせるから」
俺は心の中で赤面し、安心した。
なぜなら、俺も宇宙と全く同じことを考えていたからだ。あのまま話していたら俺にとっては少々気まずい空気になっていたかもしれない。
俺ははやる気持ちを抑え、宇宙の話を聞く。
「でも、本当に命の危険があった時だけだからね?そういうこと以外にあまり無闇に力を使いたくないから」
「……分かったよ。なるべく口論だけで済ませるよう善処する」
こっちとしてはあまり、大きな事件にしたくないし、かといって一方的に殴られたりするのは嫌だ。
ここは大人の対応でなんとかするしかない。
そうこう考えたり、話したりしているうちに約束の場所に着いてしまった。
俺と宇宙は屋上に出る扉の前で止まり、宇宙が小声で俺に囁いて来た。
「どうやら春也を待ってる三年生がいるみたいだね」
少し開いた扉から両手をスボンのポケットに入れて、屋上に設置されている緑色のフェンスに寄りかかっている三年生の姿が確認できた。その先輩は、身長はそこそこあり、スリムな体型をしていて、顔立ちもある程度整っている。イケメン……とまでは言えないが、イケメン予備軍と言う言葉が似合いそうな顔だ。
ここからではあまり表情がよく見えない。
だが、その顔からどこか俺に対する怒りが滲み出ているような気がした。少々怖気付いた気もしたが、ここまで来たならしっかりと話すしかない。
俺はそこで決心し、立ち上がる。
「ここで見ていても埒が明かない。行ってくる」
俺はそれだけ言い、宇宙の返事を待たずして扉のドアに手を伸ばした。
扉は重く、ギシギシと音を立てながらゆっくり開いた。扉が完全に開いたとき、相手側がこちらに気付きいたのか、ポケットに入っていた手を出し直立した。
俺は三年生の所までゆっくりと歩み寄った。そして、あと数歩という距離になったところで止まる。
俺はただ相手の顔をじっと見つめた。三年生は俺が何も言わないことを察したのか、先に喋り出した。
「鈴村くんー? よく来たね」
三年生は俺の名前を知っているので、姓名で呼ばれるのは当然だ。
喋り方としてはとてもふわふわと浮いているような口調だ。
そして、三年生は話を進める。
「正直、ちゃんと来るとは思ってなかったなー。俺の名前はまだ言ってなかったよねー? 俺の名前は、小渕一輝(こぶちいっき)だよー。まあ、どうせ意識を飛ばす勢いでやるつもりだから忘れるかもだけど」
小渕先輩は長々と喋り、挙句の果てには、聞いてもいないことを言い始めた。先輩の名前などこの際、どうでもよかった。誤解を解けさえすればそれで良いのだから。
こちらから何も喋り出さないのは失礼に値し、何よりも相手の機嫌を損ねない。なので今度はこちらから話しかける。
「では小渕先輩、この件ついてなのですが、俺とそ――んごふっ⁉︎」
突然、腹に衝撃が走った。それは最近よく感じるようになった打撃の衝撃だった。
小渕先輩は俺が話している途中にいきなり、腹を殴ってきたのだ。
俺は突然過ぎたその行動に身体がついていかなかった。
「ゲホゲホッ! ……せ、……先輩。何をするんですか……」
「何って、当たり前のことだけどー? そもそも、君が先に手を出すから悪いんじゃないのー?」
そう言いながら小渕は俺を殴り続けている。
先に手を出すとは宇宙のことだろう。それだけは確信できる。
しかし、誤解も甚だしいところだ。
だが、俺はそれよりも気になることが一つあった。
俺がここに危険を顧みず来たのは、宇宙が守り神という存在があるからだ。
もし、俺に危険なことがあるならば小渕の意識を飛ばすのが宇宙の役目。それなのに俺は先程から数発殴られている。
俺は決してこいつの目の前から逃げ出すようなことはしたくはない。なぜか俺は心の中でそう思った。
だが、俺は虚しくも自分の身体を動かすことはできない。誰かが助けてくれると思い込んでいるのだ。自分でなんとかしなければならない時なんて山程ある。
でも、俺はまた、自分で対処しようとしなかった。
すると、突然小渕が俺の胸ぐらを掴み、フェンスにもたれるようにして俺をフェンスに叩きつけてきた。錆びれているフェンスはギシギシと、音を立てて揺れる。
そこに、今までとは威力が桁外れの一撃が俺の腹部に襲いかかる。
「これで、最後……だっ!」
言葉の通り、本当に最後だった。俺は激しい衝撃に身を震わせ、フェンスも大きく前後に揺れていた。
すると、後ろの方で金属が千切れる音がした。
今の一撃で古びたフェンスが崩れてしまったのだ。
俺は相当の打撃をくらい、声を上げることすらも難しい状態になっていて、逃げることができない。
始めに、外れたフェンスが倒れ、下に落下していく。
バランスが取れていない俺は、ゆらりゆらりと足場のない屋上へと足を運ぶ。
それらの一連を見た小渕は焦り出した。
「う……うわぁあああああ! お、俺は……俺は何も悪くないんだぁあああああああ!」
焦りで我を忘れ、奇声を上げて階段を降りて行く。
そして、俺は遂に足場のない空中に足を踏み下ろす。すると、たちまち俺の身体は落下していく。俺は最後の力を振り絞り、右手を伸ばし、屋上のコンクリートの床を掴み、かろうじて留まる。
俺は先程の疑問が脳裏をよぎった。
…………宇宙が出てこない。
本来ならとっくに出て来るはずの宇宙はまだ出てこないでいたのだ。
「……そ……宇宙……」
俺は精一杯の力で彼女の名前を呼んだ。だが、出てこない。宇宙が俺を助けるための条件は、この状況下において全てクリアしている。
……はずなのだが、それでも宇宙は出て来る気配すらない。
何度も名前を呼んでいるうちに、身体を支えている右腕が悲鳴を上げきている。俺は既に限界を感じていた。
右手の力が抜けていく。だんだんに手が開き、そして屋上の床から手が離れてしまった。
俺の身体は地面めがけて落下してゆく。
屋上がどんどん遠ざかってゆく。
前にもこんなことがあったかと、トラックに轢かれそうになったことを思い出す。
あの時いた宇宙は今は目の前にはいない。理由は知らないが、宇宙はいないのだ。つまり、自分でどうにかするしかない。だが、この状態で、しかも落下中における人間の力など無力に等しい。
俺は落下してゆくとともに、意識が薄れていく。
そして、俺は地面に着地する前に、意識を完全に失った。
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