CHAPTER 17:マイ・ドウター

 日の当たらない地下深くにあって、白亜の建物はひときわ輝いてみえた。


 皇帝の陵墓みささぎの最奥部に建つ宮殿である。

 皇后アルテミシアの終の棲家であり、皇帝のとして建設されたこの宮殿には、帝都の居館となんら遜色ない設備がそろっている。

 むろん、すべてが同一というわけではない。

 ここには吸血鬼や人間はむろん、動植物に至るまで、およそ生命と呼べるものは何ひとつ存在しないのである。

 宮殿の管理はコンピュータに委任され、日常におけるさまざまな仕事はすべて自律型ロボットが担当する。

 

 リーズマリアは、宮殿内にある庭園にひとり佇んでいた。

 庭園とはいうものの、樹木や花はすべて模造品イミテーションだ。 

 人口の芝生のうえを優雅に飛び回る蝶さえ、精巧な立体映像ホログラフィにすぎない。

 噴水のへりに腰掛けた銀灰色の髪の少女は、じっと水面に映った自分の顔を見下ろしている。

 雪も恥じらう白皙の肌。これ以上ないほどに端正な目鼻立ち。そして、大粒の柘榴石ガーネットをはめこんだような真紅の双眸。

 美しくも可憐な吸血鬼の姫君のかんばせには、しかし、泣き腫らした跡がはっきりと残っている。


 あのあと――――

 リーズマリア一行は皇后アルテミシアに案内され、地下宮殿に到着した。

 表向きは平静を装っていたものの、みずからの出生の真実を聞かされたリーズマリアが憔悴しきっていることはあきらかだった。

 不安と動揺を隠せないレーカとセフィリアには「心配ない」とだけ言って、リーズマリアはひとり自室へとこもったのである。

 そして、ベッドにうつ伏せになったまま声を殺して泣き、言葉にならない嗚咽を洩らした。ふだんならぜったいに口にしない呪詛の言葉さえ吐き出した。

 そうして何時間か経ったころ、リーズマリアはふらりと部屋を出たのだった。


 べつに目的があるわけではない。

 ベッドで泣いているよりは、歩き回っていたほうがまだ気持ちが楽だというだけのことだ。

 

「アゼトさん……」


 リーズマリアはだれにともなく呟く。

 

 もしいま、彼が隣にいてくれれば……。

 いくら考えたところで意味がないのは分かっている。

 それでも、抱きしめてくれる腕が、頬を寄せる胸が、言葉があったなら。

 心から悲しみを分かち合えるたったひとりの相手がいないことに、リーズマリアはただただ打ちひしがれているのだった。


「わたし、どうすればいいの……」


 ぽつり、ぽつりと、水面に波紋が広がった。

 リーズマリアは真紅の瞳を濡らす涙を拭いもせず、ただ滴るに任せている。


 この身体には、滅び去った旧種族の血が流れている。

 アルテミシアの言葉が真実なら、リーズマリアはこの世に残ったただひとりの旧種族ということになる。

 セフィリアたちとおなじ至尊種ハイ・リネージュでさえなかったということだ。


 幼いころのリーズマリアは、自分を人間だと信じていた。

 吸血衝動のままに育ての親と妹弟たちを手にかけるまで、自分が吸血鬼だなどとは夢にも思っていなかった。

 それからいくつも苦難を乗り越え、ようやく至尊種としての自分を受け入れられるようになったところで、それすらも偽りにすぎないとを告げられたのである。

 人間でも吸血鬼でもないリーズマリアは、この世界において真の意味で孤独な存在ということだ。


 それだけではない。

 至尊種ハイ・リネージュの頂点に立つ者として生まれながら、権力者たちの意に背けばたちまち殺意を向けられる。

 あまりに理不尽な仕打ちも、しかし、出生の背景を考えれば当然といえた。

 アルギエバ大公やディートリヒがリーズマリアに望んだのは、自我を持たない傀儡として生きることなのである。

 皇帝の忘れ形見として尊重されるのも、彼らの意志に従っているかぎりにおいての話なのだ。


 考えれば考えるほど、自分という存在を支える足場が揺らいでいくような気がする。

 はっきりと見えていたはずの帝都への道筋さえ、いまは霧がかかったようにぼんやりと霞んでいる。


「こんなところにいたのですか」


 ふいに背後から声をかけられて、リーズマリアははっと顔を上げた。


 視線の先には、皇后アルテミシアが佇んでいる。

 アルテミシアは立ち上がろうとするリーズマリアを手で制すると、みずからも噴水のへりに腰掛ける。

 隣り合う――というには微妙な距離を保ったまま、は横に並ぶ格好になった。


「先ほどの話、突然のことでさぞ驚いたでしょう」

「いえ……」

「無理に取り繕う必要はありません。本来なら、もっと時間をかけて真実を伝えるべきでした。それをしてあげられなかったのは、ひとえに私の至らなさゆえなのです」


 リーズマリアはなにも答えなかった。

 アルテミシアはそんなリーズマリアを横目で見つつ、ひとりごちるみたいに問うた。


「リーズマリア。あなたの御父上と、生母であるマグダレーナ侯爵夫人について知りたいことはありますか」

「いいえ。……私の両親は人間です。たとえ血は繋がっていなくても、種族が違っても、父と母は私を心から愛してくれました。ほかに親と呼ぶべき人はいません」


 冷たく突き放すようなリーズマリアの言葉にも、アルテミシアは気分を害した様子もない。

 それどころか、唇にはやわらかな微笑みさえ浮かんでいる。


「よい人間たちに育てられたのですね」

「……」

「ひとつだけ教えましょう。あなたを人間に託すよう命じたのは、御父上……先帝陛下なのですよ」


 リーズマリアの目がかっと見開かれた。

 真紅の瞳はにわかに輝きを増し、瞳孔は縦長に収縮している。

 それは極度の怒りや興奮によって引き起こされる、とくに血の濃い吸血鬼に特有の反応であった。 


「私がいずれ吸血衝動に目覚め、家族やまわりの人間を惨殺することを承知の上で――ですか?」

「まったく想定してなかったといえば嘘になります」

「だったら、どうして……!!」

「陛下はもうひとつの可能性に賭けたのです」


 激情を隠そうともしないリーズマリアに、アルテミシアはあくまで静かな声音で語りかける。


「最初の吸血衝動は、人間から吸血鬼へと肉体が変質する兆候なのです。そのような過程を経る必要があるのは、遺伝子操作によって人間の染色体を組み込まれた新種族だけ。生まれながらの純粋な吸血鬼である旧種族には、そもそも起こりようがありません」


 アルテミシアの言葉に偽りはない。

 最初の吸血衝動とそれに伴う肉体の急激な変化とは、言ってみれば人間から吸血鬼への変態ミューテイトなのだ。

 蛹が蝶へと羽化するように、体細胞の配列そのものが劇的に変化する。

 旧種族には胎児の流産・死産率がきわめて高いという問題があった。

 それを克服するため、新種族は最初は人間の部分を多く残したとして誕生し、じゅうぶん成長してから完全体へと変化するように人為的な改良を施されたのである。


「あなたの身体には旧種族と新種族の血が半分ずつ流れています。そのどちらが強く発現するかは、じっさいにが来るまでだれにも分からなかったのです……」

「それならなおさらです。どうして私を人間のなかに置くような真似を――――」

「陛下はバルタザールにあなたを回収するよう命じていました。じっさいにバルタザールも人間たちにあなたの危険性を強く警告したはずです。それでも彼らはあなたが吸血衝動に目覚めない可能性を信じ、覚悟の上でいっしょに暮らしていくことを望んだのです」


 アルテミシアの言葉を耳にしたとたん、リーズマリアの両眼から透明なものがあふれた。

 両親や村長たちは、すべてを知ったうえで自分をシドンの村に置いてくれていたのだ。

 殺されるその瞬間まで、彼らは一縷の望みを信じ、リーズマリアを人間として扱ってくれたのだ。

 それで罪が赦されるわけではない。親兄弟と村人たちの生命を奪った事実が消えるわけでもない。

 そうだとしても、それを知らずにいたなら、リーズマリアはただただ自分を責めつづけることしかできなかったはずなのだ。


 いま、リーズマリアの胸にこみ上げるものはふたつ。

 そんな彼らの思いやりに気付けなかったことへの申し訳なさと、生命をかけて自分を信じてくれたことへの感謝だ。

 言葉にならない想いに胸を詰まらせながら、リーズマリアはただ涙を流すことしかできなかった。


 アルテミシアはそんなリーズマリアをそっと抱きしめる。


「リーズマリア。あなたにはつらい思いをさせました。ほんとうなら、私が守ってあげなければいけなかったのに……」

「アルテミシアさま――――」

「あなたに母と呼んでもらおうとは思いません。それでも、あなたは私の大切な娘です」


 リーズマリアはアルテミシアの胸に顔をうずめ、泣きじゃくることしかできない。

 それだけで充分だった。

 壊れかけた少女の心を暖めるのは、あの日、永遠に失ったはずの母のぬくもりだった。

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