CHAPTER 02:ビューティ・オア・ビースト

 馥郁たる薔薇の香りが庭園を包んでいた。

 帝都でも指折りの名門ザイドリッツ伯爵家が所有する広大な薔薇園ローズガーデンである。

 えもいわれぬ色合いに染まった黄昏の空は、ドームの内側に映像を投影したものだ。


 太陽のもとでは生きられない至尊種ハイ・リネージュ――吸血鬼にとって、自然の光ほど忌まわしいものはない。

 彼らは紫外線を遮断するドームでみずからの住居を覆い尽くし、その内部に人工の自然を再現することに腐心した。

 もっとも、無人の荒野が広がる辺境ならともかく、ここ帝都では限られた面積を多くの吸血鬼が分かち合っている。

 そのような環境においては、個人が無分別に土地を専有することは許されない。いきおいその規模はささやかなものにならざるをえず、爵位をもつ貴族といえども、猫の額ほどのを持つのがせいいっぱいというありさまなのだ。

 広壮な屋敷と庭園を内包する巨大なドームは、三代にわたって重臣を輩出したザイドリッツ伯爵家の富と権力の象徴にほかならなかった。


 薔薇園の中心にはちょっとした湖ほどの池が広がっている。

 岸と岸のあいだに差し渡されているのは、ゆるやかなアーチを描く木造橋だ。

 いま、橋梁上を歩む人影はふたつ。


 どちらも正装に身を包んだ一組の男女である。


 ひとりは桃色ピンクにちかいストロベリーブロンドの長い髪をゆるく巻いた貴婦人。

 牡丹色のイブニングドレスの上からでも、女性らしい丸みを帯びた肢体がはっきりと見てとれる。

 美男美女など珍しくもない吸血鬼の社交界でも、そこに佇んでいるだけで注目を集めずにはおかないだろう美貌の持ち主であった。


 その傍らを進むのは、藍色の軍服に身を包んだ貴公子だ。

 右の胸から肩にかかった金の飾緒モールと、襟と袖口に施された金色の縁取りは、軍人のなかでもひと握りのエリート――将軍位の証である。

 いくつもの厳しい訓練をくぐり抜けてきたのだろう。引き締まった面貌は、いかにも軍人らしい精悍さに充ちている。

 ほんらいなら自信にあふれているはずのその顔は、しかし、ぎこちなく固まっている。


 と、ふいに男のほうが足を止めた。


「エリザ様、今日こそは返事をお聞かせください」

「ザイドリッツ伯爵?」

「エリザベート・シュリアンゼ女侯爵にあらためて申し上げる。このフェルディナント・フォン・ザイドリッツの妻となっていただきたい」


 フェルディナント・フォン・ザイドリッツ伯爵。

 ザイドリッツ家の一人息子にして、にして帝都防衛騎士団の精鋭部隊・Ä戦闘集団カンプグルッペ・アーを率いる俊英である。

 一方の桃色の髪の女――選帝侯エリザベート・”エリザ”・シュリアンゼは、「まあ」と呟くと、戸惑ったように顔を俯かせる。

 

「突然そのようなことをおっしゃられても困ります、伯爵……」

「あなたのご懸念は承知しています。たしかにわがザイドリッツ伯爵家は選帝侯家に較べれば家格は下だ。しかし、私とていつまでも現在の地位に甘んじているつもりはありません。いずれフェクダル公のもとでさらなる立身出世を成し遂げ、あなたの夫に相応しい地位を――――」

「わたくしは爵位や家柄を気にしているわけではありませんわ」

「では、なぜ私の求婚を受け入れてくださらない!?」


 困惑を隠せないエリザに、フェルディナントはなおも語気強く迫る。


「エリザ様。意中の男がいるなら、どうかはっきりそうおっしゃっていただきたい」

「はい……と答えたら、どうするつもりですの?」

「その男に正々堂々と決闘を挑みます。生身だろうとブラッドローダーを駆っての闘いだろうと、私はかならず勝つ。そして、あなたを勝ち取ってみせる」


 決闘――――

 それは吸血鬼同士の争いにおいてもっとも一般的な解決手段であり、貴族の社会におけるほぼ唯一の法律である。

 特筆すべきは、そこに至る経緯がどうあれ、決闘を挑まれた側には拒否権が存在しないということだ。自身に戦闘能力のない女性や幼児の場合には、有志の代理人に全権を委任することになる。

 もし闘いから逃げれば無条件で敗北と見なされ、それまで築き上げた財産や爵位をも剥奪される。


 ただでさえ人口の少ない吸血鬼たちは、八百年にわたる泰平の世にあって、名誉のためにあたらその生命を散らしてきた。

 そればかりか、修復不可能なほどに破壊されたブラッドローダーは数しれず、新規生産が不可能となってからは貴重な戦力をいたずらにすり減らしてきたのである。

 ディートリヒ・フェクダルが最高執政官に就任してからというもの、煩雑な書類申請の義務化によって決闘の数自体は激減したが、制度としてはいまなお存続しつづけている。


 付け加えるなら、ザイドリッツ家が保有するブラッドローダー”デアフリンガー”は、現存する機体のなかでは聖戦十三騎エクストラ・サーティーンに次ぐ性能をもっている。

 凡百のブラッドローダーではÄ戦闘集団カンプグルッペ・アーの指揮官機は務まらないのだ。

 そして、当のフェルディナント自身も、武芸にかけては帝都防衛騎士団でも指折りの実力者なのである。

 並大抵の相手には苦もなく勝利できるという自信が、彼をしてここまで強気な態度に出さしめているのだった。


 一方のエリザはといえば、困惑しきった様子でおろおろと視線を宙に泳がせている。


「あのう……ザイドリッツ伯爵、とっても申し上げにくいのですが……」

「なんなりとおっしゃってください!! 私はあなたの将来の夫になるのですから」

「どうかご気分を悪くなさらないでくださいましね。じつは――――」


 と、こちらにむかって小走りに駆けてくる足音が聞こえたのはそのときだった。

 エリザとフェルディナントは同時におなじ方向に顔を向ける。


 吸血鬼の執事だ。

 帝都の名門貴族では、執事をはじめとする使用人も吸血鬼なのである。

 橋の上で立ち止まった執事にむかって、フェルディナントは苛立たしげに詰問する。


「なにをしにきた!? しばらくこの庭にはだれも近づけないよう言い置いたはずだぞ!!」


 吸血鬼の執事は、恐縮しきった様子で小型の通信端末を差し出す。


「申し訳ございません。ただちにシュリアンゼ女侯爵にお繋ぎするようにとの要請で……」

「ふざけるな!! 人の逢瀬を邪魔しようとは、いったいどこの馬の骨だ!?」

「最高執政官ディートリヒ・フェクダル様でございます」


 執事がその名を口にしたとたん、フェルディナントの顔からさっと血の気が引いた。

 先帝の養子であり、いまや至尊種の最高権力者であるディートリヒに楯突けば、いかに名門といえども取り潰しはまぬがれない。

 フェルディナントの両肩は小刻みに震えはじめている。通信端末がすでにオンラインならば、さきほど口にした「馬の骨」という暴言が本人の耳に入ったかもしれないのだ。


「ごめんあそばせ――――」


 エリザはそんなフェルディナントにはもはや一瞥もくれず、執事の手から通信端末を受け取る。


「おまたせしました。シュリアンゼ女侯爵エリザベートでございます。……」


 エリザとディートリヒは、通信端末ごしに短く言葉を交わす。

 詳細はじっさいに顔を合わせて話し合うのだろう。フェルディナントと執事には、二人の会話の内容まではわからない。


 ほどなく通話を終えたエリザは、


「ザイドリッツ伯爵。失礼ですが、喫緊の用件につき、ここでおいとまさせていただきます。では、ごきげんよう――――」


 それだけ言って、足早にその場から立ち去ろうとする。

 すれ違いざま、フェルディナントはエリザの白く細い手首を強く掴んだ。


「あの……放していただけませんこと?」

「非礼は承知しています。ですが、まださきほどのお返事をうかがっておりません!!」

「ああ、そのことですか。それでしたら……」


 エリザの言葉を、フェルディナントは空中で聞いた。

 手首の間接を極められ、そのまま勢いよく投げ飛ばされたのだ。

 そのまま十メートルも飛ばされたあと、伯爵家の跡取り息子は頭から池に突っ込んだ。

 派手な水しぶきが熄んだ直後、ぷかぷかと水面に浮かび上がったものがある。

 白目を剥いて気絶したフェルディナントだ。


 すべては一瞬の出来事であった。


「――――わたくし、自分より弱い殿方には興味がありませんの」

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