CHAPTER 20:ゼア・ディシジョン

 むかしから自分のことが嫌いだった。


 弱虫で、意気地なしで、嫌なことにもはっきり嫌だと言えない。

 つらいときは目を背けて愛想笑いをしていればいいと思っている、どうしようもないクズ――――。


 ハルシャの記憶は、そんな自分への嫌悪感で塗り固められていた。


 嫌いだったのは自分だけではない。

 サイフィス侯爵家の家臣、ほかの選帝侯たち、そして父……。

 表では腫れ物に触れるように扱い、陰では軽蔑と嘲笑のまなざしを向ける

 およそ自分を取り巻くすべてのものを憎みながら、ハルシャは長い長い少年時代を過ごした。


 だから、四十歳を過ぎてようやく吸血鬼の血に目覚めたときはうれしかった。

 ようやく自分の人生が始まったと思った。


 だが、それもしょせんは一時いっときのぬか喜びにすぎなかった。

 ハルシャが吸血鬼として最低の能力しか持っていないことが判明すると、聞こえよがしな陰口は露骨な罵倒へと変わった。


――貴族たる義務ノブレス・オブリージュを果たすこともできない出来損ない。

――選帝侯家の恥さらし。

――おまえなど生まれてこなければよかった……。


 から投げかけられる容赦のない罵詈雑言は、そのままハルシャが自分自身にぶつけたかった言葉でもあった。


 いっそ太陽を浴びて生命を絶とうと思ったことも一度や二度ではない。

 そのたび、ハルシャは自分には自死する度胸さえないことを思い知らされるだけだった。

 父やレガルス侯爵に凄惨な暴力を振るわれても、それで死に至る望みはまずない。

 最低の力しか持っていないというのに、寿命と再生能力だけはほかの吸血鬼と変わらないことが恨めしかった。


 吸血鬼の一生は途方もなく長い。

 自己嫌悪と侮蔑に苛まれながら、いつ終わるともしれない地獄の日々が蜿蜒と続いていく……。

 そんなハルシャの人生に転機が訪れたのは、吸血鬼に覚醒してから百年あまりの歳月が流れたころだった。

 父の命令で実施された手術によって、もうひとりの自分――アラナシュが心のなかに生まれたのだ。


 ハルシャにとって、アラナシュは生まれてはじめて心を開くことができる存在だった。

 自分の心から枝分かれした人格だからではない。

 おなじ身体を共有していても、アラナシュは完全に独立した自我と思考をもつだ。

 彼はあらゆる面でハルシャを上回る能力を持ちながら、しかし、けっしてハルシャを蔑むことはしなかった。

 それどころか、アラナシュはハルシャの苦しみによりそい、挫けそうになるたびに励ましてくれさえしたのだ。


――父上が憎いか。殺したいと思うか。


 アラナシュにそう問われたとき、ハルシャは是非もなく首を縦に振っていた。


――だったら、俺があの男を殺してやる。父上だけじゃない。おまえを苦しめる者は、みんな俺が始末してやる……。


 父を手にかけたのは始まりにすぎない。

 アラナシュは、ハルシャに害をなすものを次々と抹殺していった。


 たとえば――父の弔問に訪れた近隣の有力貴族たちの目の前で、彼らの筆頭格を生きたままなぶり殺しにしたのである。

 見下していた貴公子の豹変ぶりに度肝を抜かれた彼らは、もはやサイフィス侯爵家に逆らおうとはしなかった。

 なおも反抗的な貴族が団結し、ブラッドローダー五機でサイフィス侯爵領に攻め入ったときも、やはりアラナシュがすべて片付けた。

 五機のブラッドローダーが束になっても、アルダナリィ・シュヴァラ一機に手も足も出ず、虫けらのようにひねり潰されたのだ。


 ハルシャはアラナシュの残虐性に戦慄しながら、しかし、けっして彼を止めようとはしなかった。

 アラナシュは、自分が長年溜め込んできたやり場のない殺意と憎悪とを代わりに晴らしてくれる。

 こんなに素晴らしいことを止める理由などない。


 それに、アラナシュは自分勝手に動き回っているわけではない。

 彼はを遂行しているにすぎない。

 それはまぎれもない本音であり、取り繕ったところで敵意や殺意が消えるわけではない。

 アラナシュを止めることは、自分自身の気持ちを偽ることにほかならないのだ。


 ハルシャにとって、アラナシュはこの世でたったひとりの兄弟であり、苦境から救い出してくれた恩人だ。

 幼いころから現在いままで、理不尽な仕打ちにずっと耐えつづけてきた。

 アラナシュだけがその苦しみを理解してくれる。弱く情けない自分を責めも咎めもせず、無条件にすべてを肯定してくれる。

 これからはなにもかも彼に任せて、ただ楽しいことだけに目を向けて生きていけばいい。


 それで万事うまくいく――――そのはずだった。


***


「俺の敗けだ、吸血猟兵カサドレス


 アルダナリィ・シュヴァラのコクピットから這いずりでたアラナシュは、ノスフェライドにむかって薄笑いを浮かべる。


「ひとつだけ頼みがある……」

「なんだ?」

「殺すのはにしてくれないか」


 言って、アラナシュは額を指でこつこつと叩く。


「とっくにご存知だろうが、至尊種ハイ・リネージュは人間のように脳に人格が宿っているわけじゃない。この頭に詰まっているのはただの神経細胞の塊だ。そして、俺はその空き容量を利用して生み出された存在というわけだ」

「脳を破壊すれば、ハルシャは生かしたまま、おまえだけが消滅するということか?」

「察しがよくて助かるな」


 くつくつと笑って、アラナシュはふっとため息をつく。


「おまえたちを殺そうとしたのは俺の一存でやったことだ。ハルシャにはなんの罪もない。奴はギリギリまで俺を止めようとしたくらいだからな」


 アラナシュは、もはや物言わぬ残骸と化したアルダナリィ・シュヴァラをそっと撫でる。


「見てのとおり、アルダナリィ・シュヴァラは二度と動かない。このうえ俺が死ねば、ハルシャがおまえたちに危害を加えることはない……」

「ほんとうにそれでいいのか」

「あいつの代わりに辛いことや嫌なことを引き受けるために俺は生まれた。死ぬのも役割のひとつだ。それに――――」

「それに?」 

に刃を向けたとなれば、どのみち死んで償うほかないだろう」


 アゼトは無言のまま、対人レーザーの照準をアラナシュの額に合わせる。

 対人レーザーとはいうものの、その威力は戦車の正面装甲をたやすく貫通する。

 照準精度に至っては、◯・一ミクロン単位で調節することが可能だ。

 アゼトがその気になれば、ハルシャの脳ごとアラナシュの人格を消し去る程度は造作もないのである。


「し……て……ください……」


 かぼそい声とともに、紅い瞳の一方からひとすじ涙が零れた。

 少年の身体に宿っているのは、もはやアラナシュではない。

 ハルシャは額に当てていた指を胸へと移す。

 吸血鬼の真の中枢――心臓を狙うよう懇願しているのだ。


「おねがいします。僕もいっしょに殺してください」

「ハルシャ――――」

「アラナシュと僕はふたりでひとり。彼の罪は僕の罪だ。それなのに僕だけが生き残るなんて、あってはいけないんです」


 ハルシャのかんばせに苦悶の表情が浮かんだ。

 のあいだでいかなる葛藤が繰り広げられているのか、アゼトには知る術もない。

 それはこの世界でただ二人だけが知る、心のなかの戦いであった。


「僕が間違っていた。つらいこと、嫌なことから目を背けて、僕ひとりだけが幸せでいられるはずがなかったんだ。だから、もうなにもかも終わりにしよう、アラナシュ――――」


 ハルシャが瞼を閉じた直後、真紅の閃光がほとばしった。

 ノスフェライドが対人レーザーを発射したのだ。


「……!!」


 ハルシャの生命を奪うはずだった赤光は、はるか虚空に吸い込まれていった。

 

おもてを上げなさい、ハルシャ。……そして、アラナシュ」


 ノスフェライドから流れたのはリーズマリアの声だ。

 いっぽうのハルシャは、すでにアラナシュの顔に変わっている。


「答えなさい。私を殺そうとしたのは最高執政官の差し金ですね」

「そうだ。最高執政官ディートリヒと最高審問官ヴィンデミアは、あなたの生命と引き換えに、サイフィス侯爵家の所領を未来永劫安堵すると約束した」

「彼らがほんとうに約束を守ると思っているのですか?」

「さあな。しかし、否と答えれば、その場でサイフィス侯爵家は取り潰される。地位と財産を奪われ、身ひとつで外の世界に放り出されれば、ハルシャは生きてはいけん……」


 リーズマリアの問いに、アラナシュはあくまで坦々と応じる。


「どのみち、こうなってはもう終わりだ。ここでおまえたちに殺されるか、最高執政官に殺されるかの違いしかない」

「すべてを諦めて運命に身を委ねる……というのですね」

「仕方ないだろう。アルダナリィ・シュヴァラはあのざまだ。抗おうにも、肝心のブラッドローダーがなければ戦いようがない」

「あなたはどう思っているのですか、ハルシャ?」


 リーズマリアに問われて、


「僕は……」


 ハルシャは声を詰まらせながら、塊を吐くように言った。


「僕は、もう逃げたくありません」

「……」

「つらいことはぜんぶアラナシュに押し付けて、僕だけが楽をするような生き方はもう嫌なんです」


 わずかな沈黙のあと、リーズマリアの声は厳かに告げた。 


「サイフィス侯爵。あなたに最後の機会を与えます」

「姫殿下……?」

至尊種ハイ・リネージュの次期皇帝リーズマリア・シメイズ・ルクヴァースの臣下に加わると誓いなさい。最高執政官ディートリヒはわが意に背いて政治まつりごとを壟断する大逆人。私の下にいるかぎり、あの男を恐れる必要はありません」

「で、でも……ブラッドローダーを失った僕が選帝侯でいつづけることは……」

「家臣たちや周辺の諸侯には、今日の戦いの様子をありのまま伝えるのです。サイフィス侯爵家に剣を向けることは、アルダナリィ・シュヴァラを倒すほどの力を持ったノスフェライドと敵対することにほかならない――と」


 リーズマリアの言葉に、ハルシャはおもわず息を呑んでいた。


 アルダナリィ・シュヴァラは完全に破壊された。

 もはやサイフィス侯爵家が実力で周辺の貴族たちを抑え込むことはできない。

 だが、リーズマリアの臣下に加わったとなれば話はべつだ。

 たとえどこにいようと、ノスフェライドの存在はなにより強い抑止力となるはずであった。


「ですが、これだけは忘れないでください。あなたは暴力で他者を抑圧するのではなく、愛と慈しみによって人々を導く王にならなければなりません」

「僕にそんなことができるでしょうか……」

「あなたが理不尽に踏みにじられる者の痛みと悲しみを知っているなら、きっとできるはずです」


 ハルシャはそれきり黙り込んでしまった。

 ただその場にうずくまり、声にならない嗚咽を洩らすだけだ。

 やがて額を地につけたまま、ハルシャでもありアラナシュでもある少年は、朗々と声を張り上げた。


「畏れ多くも皇帝陛下に申し上げます。、御身に生涯の忠節を捧げんことを――――」

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