CHAPTER 09:ギガンティック・ライジング

「ほんとうに信頼していいのでしょうか……」


 だれにともなく呟いたレーカの言葉は、白い湯気のなかに溶けた。

 

 ガンダルヴァ城の地下に設けられた大浴場テルマエである。

 古代様式を踏襲した石造りの浴場だ。

 楕円形の浴槽は、ざっと三百人は収容して余りある広さがある。

 そのまわりを取り囲むように、太い列柱バシリカや、たえまなく湯を吐出するライオンの彫像が配置されている。

 

 いま、広大な浴場にいるのは、リーズマリアとセフィリア、そしてレーカの三人だけだ。

 ここのところ陸運艇ランドスクーナーに備え付けられた浴室しか使っていなかった三人にとって、久しぶりに身体を伸ばして休らうことができる機会は貴重だった。


 肩まで湯船に浸かったリーズマリアは、レーカに反問する。


「レーカ、サイフィス侯爵のことを疑っているのですか?」

「あまりにも上手くことが進みすぎているような気がするのです。あの黒いウォーローダー部隊がサイフィス侯爵の指示で動いていた可能性も否定できません」

「たしかにそうかもしれませんが……」


 リーズマリアの玲瓏なかんばせに憂いの色がよぎった。

 そんなリーズマリアを見て、セフィリアはちいさく咳払いをして言った。

 

「私も正直なところサイフィス侯爵を疑っていました。しかし、いまは信じてやってもいいのではないかとおもいます」

「セフィリアは、彼のことをよく分かっているのですね」

「べ、べつにそういうわけではありません!! ただ、あまりに不憫なのでときどき助け舟を出してやっただけです。いずれにせよ、さきほどもごらんになったとおり、陰謀を巡らせるほどの度胸も知恵も持ち合わせていないことだけはたしかです」


 しばしの沈黙のあと、リーズマリアはしずかに言った。


「いずれにせよ、明朝にはここを発ちます。サイフィス侯爵が私たちを陥れるつもりなら、今夜じゅうに動くはずでしょう」

「ならば、せめて私のゼルカーミラだけでも城内に――――」

「それには及びません。もし彼に敵意がないのであれば、不用意にブラッドローダーを持ち出すことでかえって反感を抱かせてしまうことにもなります」


 セフィリアは唇を噛みつつ、「リーズマリア様の仰せのままに」とだけ応じる。

 ざば、と湯をかき分ける音が生じた。

 レーガがふいに立ち上がり、ふたりのあいだに割って入ったのだ。


「姫様のおそばには私とヴェルフィンがおります!! 万が一のときには、ノスフェライドとゼルカーミラが到着するまでの時間稼ぎくらいはしてみせます」

「ありがとう、レーカ。たよりにしています。それはそうと……」


 意図せず主人の鼻先に真っ裸をさらけ出していたことに気づいて、レーカは慌てて湯船に頭まで沈みこむ。

 リーズマリアはそんなレーカに苦笑しながら、だれともなくぽつりと呟く。


「……ほんとうに、なにごともなくこの夜が過ぎてくれればよいのですが」


***


 つめたい夜風が庭園を吹き抜けていった。

 

 昼間の酷暑とは打って変わって、砂漠の夜は寒い。

 とくに地面から放射される熱を吸収・反射する雲がない晴れた夜には、氷点下にまで冷え込むことも珍しくないのだ。

 いま、しんと静まりかえった広大な庭園を、ひとりそぞろ歩く人影がある。


 アゼトだ。

 フードつきの戦闘用コンバットジャケットを羽織った少年は、かれこれ一時間もこうして庭園内を散策しているのだった。

 べつになにか目的があって出歩いているのではない。部屋で横になっているよりは、こうしているほうが気が休まるというだけのことだ。

 ハルシャに敵意はないとはいえ、ここが吸血鬼の居城であることに変わりはないのである。

 臨戦態勢を崩さないのは、吸血猟兵カサドレスとしての本能でもあった。


 アゼトはちらと前方を見やる。

 庭園に張り巡らされた小径こみちぞいには、燭台型のライトが立ち並んでいる。

 ところどころにみえる屋根と柱だけの建物は、中世の四阿あずまやに似せた休憩所であった。

 池のほとりに建つ四阿を通り過ぎようとして、アゼトははたと足を止めた。

 

 べつになにかを見つけたわけではない。

 どこからともなく流れてきた妙なる音色――弦楽器の旋律を耳にしたからだ。


 あらゆる芸術文化が滅び去って久しいこの時代、歌舞音曲は至尊種ハイ・リネージュの独占状態にある。

 この八百年のあいだ、人間は楽器はむろんのこと、譜面や歌詞を記した書物の所持さえも禁じられてきた。

 禁令に背いた者は、たとえ女子供だろうと容赦なく極刑に処されたのである。

 いまや音楽を歌い奏でることも、それに耳を傾けることも、支配者たる吸血鬼だけに許された特権なのだ。


 人間から芸術にまつわる一切を剥奪せんとした吸血鬼の思惑は、しかし、完璧な成功を収めたとは言いがたい。

 すばらしい音色は、音楽にかんする知識の有無にかかわらず、いまなお聴く者の胸を揺さぶらずにおかないからだ。

 たとえ演奏者が吸血鬼であったとしても――である。


 アゼトは足音を殺しつつ、ゆっくりと四阿に近づいていく。

 同時にポケットのなかで指を動かし、拳銃の安全装置セーフティを解除することも忘れない。

 むろん、拳銃で吸血鬼を倒せるとは思っていない。それでも、出会い頭の一瞬、銃を抜けるかどうかが生死を左右することはあるのだ。


 相手はとうにこちらの存在に気づいているだろう。

 それでも、いっこうに音色は熄まず、喨々たる弦の響きは夜風に流れていく。


「――――」


 はたして、四阿あずまやのなかにいたのはハルシャだった。

 手にしているのは、ほとんど円形にちかい弓に、細い銀糸を張った弦楽器である。

 かつて竪琴リュラと呼ばれたそれは、いまではほとんど目にする機会もない貴重な古楽器であった。


 紅い瞳がアゼトのほうを向いたのと、音色がふっと途切れたのと同時だった。

 

 アゼトはポケットの拳銃を握ったまま、


「邪魔をするつもりはなかった。俺はもう行く。そのまま続けてくれ」


 それだけ言って、すばやくハルシャに背を向ける。

 そのまま一歩を踏み出すかというとき、「待って」と声がかかった。


「アゼトさん……でしたね。よかったら、すこしお話をしませんか」

「……」

「もちろんお嫌なら無理には引き止めません。ただ、あなたとゆっくり話がしてみたいと思って……」


 アゼトはなにも言わず、四阿のほうに足を向ける。

 そして、ポケットの拳銃から手を離すと、そのままハルシャの横に腰を下ろす。

 それが返答の代わりだった。


 ハルシャは竪琴を抱いたまま、ためらいがちに問いかける。


「アゼトさんは、ノスフェライドの乗り手ローディなんですよね」

「そうだ」

「姫殿下にとても信頼されているんですね。僕たちにとって、ブラッドローダーは自分の生命とおなじほど大切なもの。それをだれかに預けるのは、たとえ血の繋がった親兄弟でもためらわれることですから……」

「まして人間には、か?」


 何気ないアゼトの言葉に、ハルシャはしまったというように目を白黒させる。


「ごめんなさい!! 僕はそんなつもりじゃ……!!」

「いいさ。そのうえ、俺は吸血猟兵カサドレスだ。あんたも名前くらいは聞いたことがあるだろう」

「彼らはとっくに滅んだはずでは――――」

「俺はその最後の生き残りだ」


 重い沈黙が二人のあいだを充たした。


 それも当然だ。

 吸血鬼と吸血猟兵――殺す者と、殺される者。

 けっして相容れない存在が、こうして肩を並べて言葉を交わしている。

 本来であれば、ぜったいにあってはならない光景なのだ。


 ややあって、ためらいがちに口を開いたのはハルシャだ。


「僕のことも殺すんですか……?」

「なぜそんなことを訊く」

「だって、吸血猟兵は吸血鬼を殺すのが使命でしょう。アルギエバ大公やレガルス侯爵はノスフェライドに倒されたと聞きました。僕もあの人達とおなじ吸血鬼だから……」

「あんたとあいつらはちがう」

「で、でもっ」

「俺はたしかに吸血猟兵だ。だが、吸血鬼だからといって相手かまわず殺すようなことはしない。そうでなければ、リーズマリアやセフィリアといっしょにいられるわけがないだろう」


 言い終わるが早いか、ふいにアゼトの表情が険しくなった。


「もっとも、リーズマリアに危害を加えるというならべつだ」

「……」

「そのときは、俺はあんたを殺す。俺が吸血猟兵だからでも、あんたが吸血鬼だからでもない。人間と吸血鬼が共存する道を探しているリーズマリアを、こんなところで殺させるわけにはいかないからだ。憎悪の連鎖を断つためなら、たとえおなじ人間とでも俺は戦う」


 ハルシャはなにかを言おうとして、そのまま唇を結ぶ。

 そして、アゼトから目をそらしたまま、ひとりごちるみたいに呟く。


「あなたは強い人ですね。僕の十分の一ほどしか生きていないのに、自分のなすべきことを理解している。姫殿下が信頼なさっているのもわかります」


 きん――と、澄んだ金属音が鳴りわたったのは次の瞬間だった。


「だけど、吸血猟兵にしては


 ハルシャの白い指がすばやく弦を弾く。

 そのたび、耳障りな不協和音を伴って、弦はまるで意思あるかのように空中を疾駆する。

 それだけではない。ただでさえ細い弦は、その数十分の一の直径のナノ・ワイヤーへとみずから枝分かれしていったのだ。

 アゼトがとっさに飛び退ろうとしたときには、全身を数億本もの銀糸に絡め取られたあとだった。

 

「なんのつもりだ!?」

「安心するがいい。おまえはまだ生かしておいてやる。こんなかたちでノスフェライドの乗り手ローディを始末してしまっては、せっかくの楽しみがなくなってしまうからな」


 手足を縛められたアゼトを見下ろしながら、は邪悪な微笑を浮かべる。


「貴様、サイフィス侯爵じゃないな」

「半分正解で半分不正解とでもいったところだな。俺はアラナシュ。そして、のさ」


 言いざま、アラナシュはアゼトの顔を覗き込む。

 そして、アゼトの心のなかを見透かしたように、にんまりと唇の端を吊りあげる。


「どうした? さっさとノスフェライドを喚べよ。――喚べるものなら、な」

「きさま……なにを……した……」

「この弦は”水銀の蛇メルクール・シュランゲ”を改良した特製品だ。おまえの体内を循環するナノマシンの遠隔信号を上書きし、偽の情報をノスフェライドに送信するようにプログラミングしてある」


 アラナシュはアゼトの赤い髪を弄いながら、歌うように言葉を継いでいく。


「もっとわかりやすく言ってやろうか。その糸が絡みついているかぎり、泣こうが叫ぼうが、ノスフェライドは来ない」

「ふざけるな……!!」

「俺はいたってまじめだよ、吸血猟兵。さっきも言ったように、ノスフェライドとはあくまで正々堂々戦うつもりだ。リーズマリアと邪魔な取り巻きどもを殺したあとでゆっくりと、ね」


 ぱん――と、乾いた発砲音がこだましたのはそのときだった。


 アゼトがポケットのなかで拳銃を発射したのだ。

 ハルシャと会話を交わしているあいだ、ずっと引き金に指をかけていたため、かろうじて銀糸の拘束を免れたのである。

 むろん、銃弾はあらぬ方向に飛び、アラナシュにはかすりもしていない。


 それでかまわなかった。

 吸血鬼の卓越した聴覚は、数キロ先で針が落ちた音さえ聞き逃さない。

 広大なガンダルヴァ城のどこにいたとしても、リーズマリアとセフィリアは、アゼトの身に異変が起こったことを知ったはずであった。


「人間にしてはさかしい真似をしてくれる。気に入ったよ、おまえ――――」

 

 アラナシュは怒るでもなく、感心したようにアゼトを見据えている。


「おかげで先にセフィリアのゼルカーミラを片付けなければならなくなった。機転を働かせた褒美に、おまえにはいちばん最初に見せてやろう。――――わが最強のブラッドローダー、”アルダナリィ・シュヴァラ”をな」


 ハルシャの言葉に呼応するように、地響きを立てて大地が揺れはじめた。


 地震ではない。あきらかに人為的なメカニズムが作動したことで引き起こされた震動だ。

 ようよう頭を動かしたアゼトの目に映ったのは、まるで滝みたいにぱっくりと割れた池の水面だ。

 耳を聾する爆音とともに、深い水底からゆっくりとなにかがせりあがってくる。


 池のなかから出現したのは、異形の巨人騎士だ。

 透きとおった翡翠色ジェダイト・グリーンの装甲が全身を彩る。

 なにより目を引くのは、それぞれ異なる武器と盾をたずさえた六本の腕と、ゆうに十メートルを超える巨体を支える四本の脚だ。

 ブラッドローダーとしては大柄なノスフェライドと較べても、全高・全幅ともに二倍以上はあろう。

 まさしく規格外の巨体であった。


 獣の唸り声みたいな駆動音が夜気を震わせた。

 それに呼応するように、兜の奥で血色の閃光がまたたく。


 サイフィス侯爵家がほこる聖戦十三騎エクストラ・サーティーン――――”アルダナリィ・シュヴァラ”が目覚めたのだ。

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