CHAPTER 07:ジ・インヴィテーション
あわく蒼い光が降り注いでいた。
月光を擬したそれは、
大理石の床も、精緻な彫刻が施された壁も、広壮な室内に存在するあらゆるものが仄青い影をまとっている。
ガンダルヴァ城の中枢に位置する晩餐の間である。
絢爛な内装に対して、調度品は白い大理石のテーブルが置かれているだけだ。
テーブルの上には、さまざまな料理がところせましと並んでいる。
前菜にメインの肉と魚料理、スープといった品々は、中世の貴族の食卓を再現したものだ。
合成タンパク質から作られる
護衛と給仕係を兼任する
いずれも正装に身を包んだ若い男女だ。
壁を背にしたひときわ豪奢な椅子にはリーズマリア。
その左右にアゼトとセフィリア、レーカ。
そして、彼らからすこし離れた位置で窮屈そうに縮こまっているのが、この城の主であるハルシャ・サイフィスであった。
先帝の娘であり、次期皇帝と目されるリーズマリアが上座につくのは当然だ。
ヴェイド侯爵家の当主であるセフィリアがその次席というのも、べつに不自然ではない。
しかし、いやしくも選帝侯のひとりであるハルシャが、人間であるアゼトや、人狼兵のレーカよりも下座に座っているのは、傍目にはひどく奇妙にみえる。
べつにだれが強制したわけでもない。
当のハルシャ自身がみずからの意志でそうしたのである。
いまにも泣き出さんばかりの顔でアゼトやレーカに上座についてくれるよう懇願するさまは、最高の爵位をもつ貴族とはおもえないほど情けなく、また憐れでもあった。
「ハルシャ・サイフィス――――」
リーズマリアに呼びかけられて、ハルシャは「あ」と「え」が入り混じった素っ頓狂な声を上げていた。
「な、なにかお気に障ることでも……? あっ、料理がお気に召さなかったのなら、すぐに作り直させますっ」
「ちがいます」
「ま、ま……まさかみなさんの皿に毒を盛ったとお疑いに!?」
まるで自分が毒を盛られでもしたみたいに、ハルシャの顔からたちまち血の気が引いていく。
言うまでもなく、吸血鬼に通用する毒などこの世に存在しない。
人間をたちまち死に至らしめる強力な神経毒も、彼らにとっては多少舌をぴりつかせる程度の効果しかないのだ。
それは高線量の放射性物質や細菌・ウイルス兵器にしても同様である。
吸血鬼たちが中世の貴族文化を偏愛するいっぽう、人間のそれには必須だった毒見役や銀食器がはやばやと廃れていったのはこのためでもあった。
もっとも、吸血鬼ではないアゼトとレーカにとっては笑い話では済まない。
人狼兵は常人に較べれば多少耐性があるとはいえ、毒の種類と量によっては生命にかかわるのだ。
にもかかわらず、アゼトはあくまで平然としている。
ついさっきも肉料理を平らげたばかりなのだ。
「だれもあんたを疑っちゃいない。もし俺たちを殺すつもりなら、この場所はとっくにめちゃくちゃになっているはずだ」
アゼトが取り込んだ空気中のわずかな匂いの粒子をもつぶさに解析し、毒物を検出したなら即座に警告を発するのである。
ハルシャがほんとうに毒殺を企てていたなら、ガンダルヴァ城は漆黒の巨人騎士によって無残に蹂躙されていたはずであった。
疑いが晴れたことでほっと胸をなでおろしたハルシャに、リーズマリアはしずかに告げる。
「ハルシャ・サイフィス、あなたにお礼を言いたかったのです」
「姫殿下……?」
「ここまで旅をするあいだ、私たちはつねに戦いの渦中にありました。最高執政官ディートリヒが送り込んだ刺客に襲われ、危機に瀕したことも一度や二度ではありません。こうして温かくもてなしてくれたことに感謝しています」
「や、やめてください!! 僕なんかに、そんなもったいないお言葉を――――」
「残念ですが、いまの私にはその忠義に報いる術がありません。それでも、私リーズマリア・シメイズ・ルクヴァースは、けっしてあなたの心遣いを忘れることはないでしょう」
リーズマリアが言い終わるよりまえに、がん――と妙な音が生じた。
ハルシャが勢いよくテーブルに突っ伏したのだ。
肩を震わせてむせび泣くハルシャに、セフィリアは冷ややかな視線を向ける。
「みっともなく泣くのはやめなさい、サイフィス侯爵!!」
「うう……ヴェイド女侯爵……」
「仮にも選帝侯ともあろう者が、人前でそんな姿を見せていいと思っているのですか!?」
「だって、いままで父上からもほかの選帝侯のみんなからもずっとバカにされてえ……こんなふうに言ってもらえたの、百七十八年も生きてきてはじめてで……」
あいかわらず子供のようにしゃくりあげるハルシャに、セフィリアは諦めたようにため息をつく。
そんなセフィリアをちらと見やりつつ、リーズマリアは小声で問いかける。
「セフィリア。あなたもサイフィス侯爵につらく当たっていたのですか?」
「リーズマリア様、誤解なさらないでください!! あまりに不甲斐ないので活を入れたことはありますが、断じていじめのような真似はしておりません!!」
「ヴェイド女侯爵の言うとおりです。それどころか、彼女はいつも僕がいじめられてると庇ってくれました。僕のほうが五十歳も年上なのに……」
申し訳なさげに言ったハルシャに、セフィリアは「ふん」とばかりに顔を背ける。
じっさい、ハルシャがほかの選帝侯から心ない言葉を浴びせられ、時には暴力を振るわれるなかで、セフィリアだけはそうした行為に加わらなかったのだ。
べつにハルシャに好意を抱いていたからでも、可哀想だと思ったからでもない。
集団でひとりの相手を追い詰めるやり方が、セフィリアには許せなかっただけなのだ。
リーズマリアはいつのまにか立ち上がっている。
そのままハルシャのもとに近づくと、そっと手を取って告げた。
「サイフィス侯爵。いまは苦難の時代でも、いずれ新たな転機が訪れます。それまであなたは領民たちを慈しみ、先祖代々の所領を守り抜くことです。私リーズマリアがあなたに望むことは、ただそれだけなのです」
リーズマリアに触れられたことで、ハルシャはしどろもどろになりながら、ようよう言葉を紡ぎ出す。
「わっ、わ、わかり……あ、いや、御意にございます!! このハルシャ・サイフィス、この生命に代えても、かならず姫殿下のご期待に応えてみせますっ!!」
なかば裏返った声で宣誓したハルシャに、リーズマリアはふっと相好を崩す。
「ハルシャ・サイフィス。私たちの近くにおいでなさい。せっかくの晩餐会だというのに、そんな離れた場所では声も届きにくいでしょう」
リーズマリアがそう口にしたとたん、ハルシャはほとんど卒倒しそうになった。
こちらに来なさい――なにげないその一言は、しかし、ハルシャが生まれて初めて同胞からかけられた親愛の言葉であった。
ふたたび声を上げて泣き出しそうになって、ハルシャはとっさに息を呑んだ。
セフィリアが唇に指を当て、「泣くんじゃない」とジェスチャーで示したためだ。
晩餐の時間はおだやかに流れ、やがて終わりを迎えた。
アゼトは部屋を出ようとして、ふとハルシャのほうに視線をむけた。
言いしれない違和感を感じたためだ。
より正確に言えば、それは殺気にちかい。懐中に隠した刃がちらと見え隠れしたような、不吉な予感……。
「―― ――」
その根源であるはずのハルシャは、あいかわらず弱気な顔で立っているだけだ。
アゼトは違和感を覚えたまま、部屋への帰路についたのだった。
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