第四部

プロローグ

CHAPTER 0-1:トーキング・ウィズ・ヴァンパイア

 濃厚な闇が部屋を充たしていた。


 かすかな照明の光さえない、真正の暗闇である。

 咫尺も定かではないの闇……。

 それは、太陽を恐れ、夜を住処とする至尊種ハイ・リネージュ――吸血鬼にとってはこのうえなく快適な環境であった。


「来たか、サイフィス侯爵――――」


 部屋じゅうに錆びた声音が響きわたった。

 鉄の硬さと冷たさを等しく兼ね備えた男の声であった。

 

 同時に、闇のなかに男の姿が浮かび上がった。

 三次元の奥行きを持った立体映像ホログラフィだ。

 黒い軍服をまとった長身の青年である。

 端正だが表情に乏しい面立ちは、氷の仮面という表現がしっくりくる。


 ディートリヒ・フェクダル。

 十三選帝侯クーアフュルストフェクダル家の現当主にして、先帝のただひとりの養子。

 最高執政官を務める彼は、十三選帝侯の筆頭格として、すべての吸血貴族たちを指揮する立場にある。

 それはとりもなおさず、皇帝亡きあとの実質的な最高権力者ということだ。


 と、暗闇のなかでなにかが動いた。


 一見すると少女と見紛うほどに繊弱な面立ちの少年である。

 こちらは実体だというのに、立体映像よりも頼りなさげにみえる。

 その口が発したのは、あんのじょうと言うべきか、蚊の鳴くような声だった。


「ハ……ハルシャ・サイフィス、お呼びにより参上しました。さ、ささ、最高執政官閣下におかれましては、ご機嫌うるわ……」

「あいさつはいい。時間の無駄だ」

「ご、ごめんなさいいぃ――――」


 突き放すようなディートリヒの言葉に、ハルシャはすっかり恐懼しきった様子で陳謝するばかりだった。


「と……ところで、きょ、今日はどんなご用件で……?」


 ハルシャの顔は蒼白を通り越して土気色に近づいている。

 首から下もひどいありさまだ。ただ立っているだけだというのに、まるでおこりに罹ったみたいに小刻みに震えている。


 それも無理からぬことであった。

 吸血貴族にとって、ディートリヒとの会話ほど緊張を強いられるものはない。

 受け答えに片言隻語でも間違いがあれば容赦なく追及され、正確な回答を出せなければ、やはり徹底的に責められる。

 重罪人を取り調べる刑吏でも、この男に較べればまだしも思いやりを残しているのではないか――。

 言葉を交わした者に例外なくそんな感慨を抱かせる、ディートリヒ・フェクダルとは、そういう男だった。


「まもなくリーズマリアの一行がサイフィス侯爵領に入る」

「ひいっ……」

「貴公の責任において確実に抹殺せよ。むろん、帝都からも充分な増援を送る」


 ディートリヒが言うや、ハルシャはへなへなとその場にくずおれる。


 リーズマリアの配下には、二機の聖戦十三騎エクストラ・サーティーン――ノスフェライドとゼルカーミラがいる。

 その戦力は、いまや大貴族のそれに匹敵すると言っても過言ではない。

 帝都からの増援が加わったからといって、とてもハルシャの手に負える相手ではない。

 ディートリヒの言葉は、ハルシャに死ねと言っているにひとしいのだ。


「む、むむ、無理です!! 最高執政官閣下、そういうことはほかの選帝侯に頼んだほうが……」

「サイフィス侯爵。なぜ自分に地位と権力が与えられているか考えたことはあるか」

「あっ、あっ……それは……」

「”貴族たる義務ノブレス・オブリージュ”を果たせぬなら、ただちに領地と爵位を返上し、どこへでも行って野垂れ死ぬがいい。十三選帝侯クーアフュルストには、おのれの責務を果たせない者の居場所はない」


 温情の欠片もないディートリヒの言葉に、ハルシャはただうつむくばかりだった。

 なにを言ったところで即座に否定され、逆にこちらの非を突かれるだけだ。


 ややあって、ハルシャはひとりごちるみたいに問うた。


「最高執政官閣下、どうして僕に無理難題を押し付けるんですか……? な、なにか気に障ることでも……」

「貴公に恨みはない。――――与えられた役目を果たせ。それができないなら、選帝侯としての特権を享受する資格はない。ただそれだけのことだ」

「そんなぁ……」


 うなだれたままのハルシャを見下ろして、ディートリヒはすげなく言い放つ。


「私からの命令はそれだけだ。増援はすでに向かわせた。こちらも多忙ゆえ、リーズマリアを殺すまで連絡の必要はない」


 それだけ言うと、ディートリヒの立体映像はふっとかき消えた。


 ハルシャは茫然とその場に立ち尽くしている。

 状況は最悪だ。なにしろ、戦いというこの世で最も自分に不向きな仕事を押し付けられてしまったのだから。

 それでも、しばらくのあいだディートリヒと顔を合わせずに済む。


 ただそれだけが、ハルシャにとっての救いだった。


***


「あいかわらず辛辣だねえ、ディートリヒくん。見たかい、サイフィス侯爵のあの顔を?」


 長い金髪を指で弄いながら、白い法服ガウンの男はディートリヒに言った。

 秀麗な面立ちの美青年である。

 瞳の色は、大粒の柘榴石ガーネットをはめ込んだような赤。

 それは純血の至尊種ハイ・リネージュの証だ。


 最高審問官インクイジタークローヴィス・ツァイゼ・ヴィンデミア侯爵。

 裁判と刑罰に関する一切を委ねられ、皇帝に対して正面から異を唱えることが許された唯一の存在。

 十三選帝侯のなかでただひとり領地を持たないヴィンデミアは、それ以上の強権によって諸侯に恐れられているのだ。


 いまディートリヒとヴィンデミアがいるのは、帝都の中心にそびえる皇帝の居城――その中枢である最高執政官の執務室だ。

 立体投影された膨大なデータを忙しなく手繰っていたディートリヒは、ヴィンデミアを見るでもなく応じる。


「べつにサイフィス侯爵を責めたつもりはない。当然のことを言ったまでだ」

「君のそういうところ、最高によねえ」


 ヴィンデミアは嫣然と微笑むと、ふいに低い声で問うた。


「それはそうと、ほんとうによかったのかい」

「何のことだ」

「いくら”アルダナリィ・シュヴァラ”でも、ノスフェライドとゼルカーミラが相手では荷が勝ちすぎるんじゃないかってことさ」


 ディートリヒは手を止め、ヴィンデミアをちらと見やる。

 視線を浴びた者を凍てつかせずにはおかない、それは氷の視線であった。


「ハルシャ・サイフィスでは相手にもなるまい。しかし、奴のであれば、まず敗けることはない」

「さすがはディートリヒくんだ。気難しいの引き出し方をご存知とは恐れ入ったよ」

「べつに難しいことではない。――――ただ口頭で用件を伝えるだけだ」


 しばしの沈黙のあと、ヴィンデミアは「なるほど」と愉快げに呟いた。

 

「ところで、ディートリヒくん……さっきから見ているのは、取り潰したばかりのヴェイド侯爵家とレガルス侯爵家の領地に関する資料だね?」

「貴様も暇を持てましているなら、すこしは手伝ったらどうだ」

「あいにくだけれど、政治とは距離を取るのが僕のポリシーだ。絶対中立を是とする法の番人が、まさか権力と癒着するわけにもいかないだろう?」

「よくも言う――――」


 ディートリヒは例によってにこりともせずに言う。


「選帝侯はあまりに多すぎる。独自の政策、独自の軍、独自の財政……なにもかもが非効率のきわみだ」

「それも妹君リーズマリアのおかげでだいぶ整理されたじゃないか」

「……」

「今回のサイフィス侯爵にしてもそうじゃないのかな。勝ってリーズマリアを始末できればよし。たとえ彼が敗けたとしても、それを口実にサイフィス侯爵領を召し上げ、に組み入れることができる。アルギエバやヴェイド、レガルスにそうしたように……ね」


 ヴィンデミアはにんまりと唇の端を吊り上げる。

 ディートリヒはデータに視線を向けたまま、ぽつりと呟いた。


「つまらん詮索は身を滅ぼすぞ、ヴィンデミア」

「たんなる好奇心さ。君ほどの男が聖戦十三騎エクストラ・サーティーンの逐次投入にこだわる理由が知りたくてね。なにしろ、君は帝都を護る百二十機のブラッドローダーをいつでも動かせる立場だ。やろうとおもえば、リーズマリア討伐のために彼らを動かすこともできたはずだろう?」

「ノスフェライドさえいなければ、とうにそうしている」

「ほう?」

「あれはまだ性能の全貌を見せていない。奴の底力を見極めるまでは、うかつに帝都防衛の主力を動かすわけにはいかぬ」

「正直なところ、僕も危なかったからねえ――――」


 言葉とは裏腹に、ヴィンデミアの声は弾んでいる。

 愛機メフィストリガでノスフェライドとの戦いに臨んだヴィンデミアは、アーマメント・ドレスを破壊され、間一髪のところで離脱するはめになった。


 切迫した死のスリル。骨まで痺れるような戦いの歓び。

 永く退屈な吸血鬼の人生において、いずれも稀有な快楽だ。


 それを味わわせてくれたノスフェライドに、ヴィンデミアは一方ならぬ思い入れを抱いているのだった。


「これを見るがいい」


 ディートリヒは決裁済みの文書を消去すると、べつの立体映像を表示する。

 何機かのウォーローダーの設計図面だ。

 その特異なフォルムは、既存のどのウォーローダーにも似ていない。

 正真正銘、ゼロから設計された新型機であった。


「技術省に作らせたものだ。五百機ほどサイフィス侯爵のもとに送る」

「ふむ、コクピットが見当たらないね。それに、いまさらウォーローダーなど作ってどうするつもりだい?」


 ディートリヒは無言のまま、図面の一点を指差す。

 ヴィンデミアの顔にかすかな驚愕の相が浮かんだのは次の瞬間だ。


「ディートリヒくん、これは――――」

「この計画が成功すれば、もはや人狼兵ライカントループの存在意義はなくなる。わざわざ人間を改造するまでもなく、を望むだけ生み出せるということだ」

「あいかわらず、君は自分以外のだれも信用していないんだねえ。この僕も君にとっては信じるに値しない他人のひとり……というわけかな?」

「当然だ」


 ディートリヒはそっけなく言う。

 ヴィンデミアは怒りも悲しみもせず、それどころか、満足げな微笑さえ浮かべたのだった。


「僕は君のそういうところが気に入っているのさ。これからも変わらない君でいておくれ、ディートリヒ・フェクダル――――」

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