LAST CHAPTER:リヴィング・デイライツ

 頬を流れる涙の感触が、リーズマリアを眠りの淵から引き上げた。

 周囲は完全な闇に閉ざされている。陸運艇ランドスクーナーの船内の奥深く、リーズマリアの休息のために特別に設けられた寝室であった。

 

「わたし……」


 白い指で触れた瞼は、腫れぼったく熱を帯びている。

 眠っていたのは、ほんの一時間ほど。

 そのあいだにどれほどの涙があふれたのか、リーズマリアには見当もつかなかった。

 

 こうなるのは、決まってあの夢を見たときだ。

 まだ自分を人間だと思っていたころ……。

 シドンⅨの地下教会アンダーグラウンド・チャーチで、父母や妹弟とおだやかに暮らしていた遠い日々。

 けっして裕福とはいえなかったが、家族と過ごした歳月としつきは、あたたかく幸福なものだった。


 それを終わらせたのは、ほかでもないリーズマリア自身なのだ。

 吸血鬼としての本能に突き動かされ、最愛の家族を、罪もない住人たちを無残に喰い殺した。

 その罪は、どれほど時が流れてもけっして消えることはない。


(みんな、私のせいで……)


 あのあと――――

 狂気から醒めたリーズマリアは、ほんらいの生家であるルクヴァース侯爵家ではなく、アルギエバ大公領の屋敷へと移された。

 そこでおこなわれたのは、大公による厳しいだ。

 貴族としての礼儀作法、そして将来必要となる帝王学を徹底的に叩き込まれたのである。


 アルギエバ大公がみずからリーズマリアを養育したのは、むろんゆえなきことではない。

 ひとつには、皇帝の養子であり、次期後継者と目されている最高執政官ディートリヒ・フェクダルから守るため。

 そしてもうひとつは、みずからをしてであると自負する大公が、リーズマリアの傅役もりやくをみずから買って出たのである。

 それはひとえに至尊種ハイ・リネージュの未来を憂いてのことであり、次期皇帝となるリーズマリアを、自分とおなじ選民思想に染め上げようという魂胆があったことは言うまでもない。


 結論からいえば、アルギエバ大公の目論見は失敗に終わった。

 リーズマリアは表向きは大公に従ったふうを装いながら、胸のうちでは神への信仰、そして人間への愛を片時も忘れることはなかったのである。

 自死することさえ許されない厳しい監視下で、リーズマリアはひたすら待ち続けた。

 いずれ吸血鬼の頂点に立ち、この忌まわしい世界を破壊する。それこそが自分に与えられた使命だと信じて、理想的な吸血鬼を演じてきたのだ。

 

 やがて皇帝が崩御するにおよび、選帝侯たちはリーズマリアの即位を承諾した。

 その背後には、アルギエバ大公をはじめとする反ディートリヒ派の入念な根回しがあったことは言うまでもない。

 皇帝の実娘という切り札を得たことで、大公は長きにわたる政治闘争に勝利したのだった。


 そのアルギエバ大公も、もはやこの世にいない。

 長年の薫陶もむなしく、リーズマリアがいまだ人間の心を保ち続けていたことは、大公にとってこれ以上ないほどの屈辱だった。

 彼にとっては皇帝の血筋も、リーズマリアという個人ももはや問題ではなかった。

 すべては至尊種ハイ・リネージュの存続のため。

 種全体の利益を守るためなら、手塩にかけたリーズマリアを殺すことになんの躊躇もなかったのだ。


 そうして、アルギエバ大公は最後まで人間への憎悪を抱いて死んでいった。

 互いに計算ずくの関係だったとはいえ、長い時をともに過ごすうちに、リーズマリアも大公になにかを期待したのかもしれない。

 すべてが終わったいまとなっては、考えたところで栓なきことだった。


 リーズマリアはゆらりと立ち上がると、部屋を出る。

 時刻はとうに夜半を回っている。

 窓のない廊下には、陸運艇ランドスクーナーのエンジン音だけが低く響いている。

 べつにこれといった目的があるわけではない。

 ただ甲板で風に当たり、涙を乾かしたいと思っただけだ。


 廊下の曲がり角にさしかかったところで、リーズマリアははたと足を止めた。

 格納庫の方向から、こちらに近づいてくる足音に気づいたためだ。


「アゼトさん――――」


 赤い髪の少年を認めて、リーズマリアは驚いたような声を洩らす。


「驚かせてごめん。今夜は俺が見張りにつく番だからさ」

「私もごいっしょしてかまいませんか?」

「もちろんいいけど――」


 アゼトはそのさきを言いかけて、ぐっと言葉を呑む。

 リーズマリアの様子からなにかを察したのだ。

 しばらく視線を宙に泳がせたあと、アゼトはぎこちなく手を差し伸べる。


「ありがとう。リーズマリアがいっしょなら心強いよ」


***


 あわい月明かりが甲板に降り注いでいた。

 エンジン音を響かせながら、陸運艇ランドスクーナーは見わたすかぎりの荒野をまっすぐに進んでいく。

 アゼトとリーズマリアは、手すりに身体をまかせ、彼方の地平線を見つめている。


 見張りの必需品である暗視双眼鏡ナイトビジョンは、アゼトの首に下がったままだ。

 高性能の光学機器よりも、吸血鬼の肉眼のほうがよほど広い範囲を明瞭に見通すことができるのである。

 かりにリーズマリアの視力がおよばない超遠距離から攻撃を仕掛けられたとしても、格納庫内で待機している二機のブラッドローダー――ノスフェライドとゼルカーミラが自動的に迎撃をおこなう手筈になっている。

 それでもアゼトやレーカ、セフィリアが夜ごと見張りに立つのは、敵を発見するためというよりも、不測の事態にすばやく対応するためなのだ。


「なにかあったのか?」


 アゼトは視線を外したまま、それとなく問いかける。


「気のせいかもしれないけど……なんだかふだんと様子がちがうように見えたからさ」

「そんなことありません。いつもどおりですよ」

「ほんとうに?」


 わずかな沈黙のあと、リーズマリアはためらいがちに言った。


「夢を見ました。ずっとずっとむかし……まだ、自分のことを人間だと思っていたころの夢を」

「……」

「おかしいですよね。もう何十年もまえのことなのに……」

「泣いてたのはそのせい?」


 リーズマリアは顔をうつむかせたまま「はい」と答えるのがせいいっぱいだった。


「……アゼトさんは」


 顔を隠したまま、リーズマリアは呻くように言葉を絞り出す。


「もし私が見境なく人間を襲う怪物になってしまったら、どうしますか?」

「それは――――」

「自分勝手な願いであることはわかっています。それでも、たったひとこと……”殺す”と、そうおっしゃってくれませんか」


 二人のあいだに重く長い静寂が降りた。

 アゼトは彼方に目を向けたまま、ひとりごちるみたいに呟く。


「悪いけど、約束はできない」

「そうですか……」

「だけど、これだけは約束できる。たとえそうなったとしても、俺は最後までそばにいる。どんなことがあっても、ぜったいに君を独りにはしない」


 その言葉を耳にしたとたん、真紅の瞳から堰を切ったように涙があふれた。

 許されるのだろうかと、リーズマリアは自問する。

 かつて本能のまま血に狂い、すべてを失ったはずの自分が、いまふたたび幸せと安らぎを感じている。


「……ありがとう」


 リーズマリアにできるのは、隣りにいる少年にだけ聴こえる声で、そう口にすることだけだった。


 背後で物音が生じたのはそのときだった。

 振り返れば、甲板へとつながる階梯ラッタルからイヌ科動物を思わせる尖った耳が飛び出し、小刻みに動いている。


「レーカ? それにセフィリアもいるのですか?」


 主人あるじに呼びかけられて、金色の髪の人狼兵ライカントループはおそるおそる顔を出す。

 やや遅れて、黒髪と紅い瞳の少女もそれに倣った。


「あの、ええとですね――――姫様、けっして覗き見をしようなどとは!!」

「わ、私は見張りの手伝いをしようと思い……」


 リーズマリアはレーカとセフィリアを交互に見やると、二人にむかって手招きをする。


「二人とも、こっちにいらっしゃい」


 端正なかんばせに花がほころぶような笑みが咲いた。


 どれほど悔やんでも、すぎさった過去は変えられない。

 かけがえのないものをこの手で壊してしまった罪が消えることも、また。

 喪ったものは二度と還らない。それでも、生きる理由を見つけ出すことはできる。


「ほら、今夜はこんなに月がきれい――――」


 いまこの瞬間ときを生きる歓びは、この胸にたしかにあるのだから。


【END】

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