CHAPTER 10:ロンリー・ソルジャー・ボーイ

「ここまでだな」


 アルギエバ大公は右手でリーズマリアの細い首を掴み上げたまま、冷えきった声で告げる。

 柔肌に深々と食い込んだ指は、リーズマリアの脊椎が完全に破壊され、首と胴が皮一枚でかろうじてつながっていることを物語っていた。

 人間であれば致命的な深傷ふかでだが、至尊種ハイ・リネージュ――吸血鬼にとっては怪我のうちにも入らない。

 それを裏付けるように、切断された神経組織はさかんに蠢動し、早くも再生を開始している。


「小娘め。手こずらせおって――――」


 言って、アルギエバ大公はもう一方の手をみずからの顔面にそっと当てる。

 左目は瞼ごと失われ、ぽっかりと口を開けた眼窩には赤黒い血が溜まっている。

 リーズマリアのするどい爪にえぐり取られたのだ。


 人間とは比較にならない再生能力をもつ吸血鬼だが、痛覚は常人のそれと変わらない。

 とりわけ眼球のように神経の集中した器官を破壊されれば、相応の苦痛を味わうことになる。なまじ強靭な肉体をもつがゆえに気絶することもできず、再生が完了するまで激痛に苛まれるのである。

 にもかかわらず、アルギエバ大公が平然と佇んでいるのは、八百年のよわいを重ねた歴戦の吸血貴族ならではの芸当であった。


 一方、脊椎を砕かれたリーズマリアは、獣のような唸り声を洩らしている。

 吸血鬼としての覚醒を迎えたばかりの少女にとって、失った肉体を再生する過程シークエンスはまったく未知の経験だ。

 皮膚の下を無数の虫が這い回り、血液がはげしく渦巻く感覚にとまどい、苦悶するのも無理からぬことであった。


「心配するな。殺しはせん。――――もっとも、あまり世話を焼かせるようなら、残った手足をもぎとることになろうがな」


 アルギエバ大公はこともなげに言いのける。

 皇后アルテミシアからは傷をつけないようにと厳命されているものの、すでにメルキオル男爵が倒れ、大公自身も片目を失っているのである。

 なにより、皇帝の血の恐ろしさは、彼の伴侶である皇后自身がだれよりもよく承知している。

 リーズマリアの四肢を切断したとしても、危険を冒して捕縛に赴いた大公らが叱責される道理はない。


 アルギエバ大公の左腕がふっと霞んだのと、乾いた発砲音が鳴りわたったのは同時だった。


「……なんの真似だ、小僧?」


 大公の掌から豆粒のような鉄塊がこぼれ、足元で乾いた音を立てる。

 七・六二×五一ミリ口径のフルメタルジャケット弾――そのであった。

 超音速で飛来する弾丸を見切り、指先で受け止める程度は、吸血鬼にとっては造作もない。


 アルギエバ大公のするどい視線の先には、火薬式長銃ライフルを構えた少年の姿がある。


「リズから手を離せ、吸血鬼っ!!」


 ヨハンはせいいっぱい声を張り上げる。

 全身がおこりに罹ったみたいに震えているのも無理はない。

 吸血鬼に銃をむけたばかりか、明確な殺意をこめて引き金を引いたのだ。

 絶対の支配者に刃向かった者を待ち受ける運命はただひとつ――この世でもっとも悲惨な死だけなのだから。


「おろかなやつ。取るに足らない小鼠一匹、隠れてれば見逃してやったものを」

「だまれ!! その娘を助けるまで、俺は逃げも隠れもしない!!」

「おもしろいことを言う――――」


 ヨハンの返答がよほど笑壺に入ったのか、アルギエバ大公はくつくつと忍び笑いを洩らす。

 それもつかのま、大公は凍てつくような声音で告げる。


「あいにくだが、私はいましばらく手が離せん。鼠の始末はまかせたぞ、カスパル伯爵」

「御意」


 メルキオル男爵の亡骸のかたわらで身じろぎもしなかったカスパル伯爵は、愛刀を手にやおら立ち上がる。

 たかが人間ひとりを斬れとは、カスパル伯爵ほどの使い手にはおよそふさわしくないである。

 それでも伯爵が従容とアルギエバ大公の命令に服したのは、朋友ともがらを失い、やり場のない怒りと自責の念に苛まれていたがゆえだ。


 アルギエバ大公とリーズマリアの戦いに加勢することは、ほかならぬ大公から堅く禁じられている。

 憤懣やるかたない思いを抱えたまま、戦いを傍観することしかできない伯爵の無念は、文字どおり筆舌に尽くしがたいものだ。

 敵は取るに足らない小僧ひとりとはいえ、溜まった鬱憤をぶつける相手としてはむしろ好都合であった。


 そうするあいだに、ヨハンははやくも廃墟の奥へと駆け出している。


「どこへ逃げようと無駄なことだ」


 言い終わるが早いか、カスパル伯爵の輪郭シルエットが奇妙に歪んだ。

 おぼろげな残像だけを残し、本体はすでに疾走に移ったのである。


 長銃ライフルからただよう硝煙ガンスモークのにおいを辿り、黒い吸血剣士は瓦礫の山を飛ぶように駆け抜けていった。


***


 教会とその周辺の建物は無残に崩れ去っていた。

 複数のウォーローダー同士が市街戦を展開したとしても、ここまで徹底的に破壊されることはあるまい。

 実際はウォーローダーどころか、メルキオル男爵が拳を突き出しただけで、一帯はたちまち瓦礫の山と化したのである。

 おそるべきは、吸血鬼の想像を絶する能力ちからであった。

 

(まともに戦っても勝ち目はない……)


 ヨハンは長銃を携えたまま、崩壊した家屋のあいだを縫うように駆ける。

 むろん、いつまでも走りつづけられるものではない。

 人間の体力には限界がある。地下都市は閉ざされた檻も同然だ。

 なにより、吸血鬼の脚力をもってすれば、先行するヨハンに追いつくのはたやすい。


(どこか、待ち伏せできる場所は――――)


 ヨハンはすばやく周囲に視線を巡らせる。

 目当てのものはあっさりと見つかった。

 教会の残骸が折り重なって偶然うまれた隙間だ。大人の男には窮屈だが、小柄な体躯のヨハンなら、どうにか入り込めるだろう。

 

 ヨハンは隙間に身体をすべりこませるや、腹ばいの姿勢で長銃をかまえる。

 身体が小さいために、ヨハンはほかの猟師ハンターにくらべると非力で体力も乏しい。

 そんな彼に、祖父である頭領カシラは、遠距離から獲物を仕留めるための狙撃術をみっちりと叩き込んだのだった。

 その甲斐あって、いまやヨハンはシドンⅨでも頭領に次ぐ狙撃手スナイパーと目されるようになった。

 氷点下の寒空の下、何日も根気強く獲物を待ちつづけたことも一度や二度ではない。

 単射セミ・オートかつ伏射プローンの体勢――この条件下であれば、高倍率の照準器スコープを用いずとも、三百メートル圏内の獲物は確実に仕留める自信があった。


「来い、吸血鬼……!!」


 ヨハンはじっと息を殺し、その瞬間ときが訪れるのをいまや遅しと待つ。

 時間はあきらかに粘度を増した。一秒にも満たないまたたきさえ、いまはひどく恐ろしい。

 少年の額を脂汗が伝ったのと、一陣の涼風が廃墟を吹き抜けていったのは、はたしてどちらが早かったのか。


 ふいにあたりが明るくなった。

 覆いかぶさっていた建物の残骸がごっそりと消失したのだ。

 どこへ!? ――――その答えは、次の瞬間、けたたましい破壊音となってヨハンの耳を叩いた。

 のである。


「しょせん人間の猿知恵だな」


 精悍な面差しに殺意を宿したカスパル伯爵は、低い声で呟いた。

 

 あの瞬間――――

 カスパル伯爵が愛刀を抜き放つと同時に、地面を低く這うように衝撃波ソニックブームが走った。

 超音速で飛来した不可視の刃は、崩れた建物や瓦礫をたやすく吹き飛ばし、隠れていたヨハンの姿をあらわにしたのだった。

 もしヨハンが伏せていなければ、衝撃波によって身体を両断されていただろう。

 これから少年が味わう苦痛をおもえば、そのほうがまだであったかもしれない。


「く、来るな!! 一歩でも近づいたら撃つぞ、吸血鬼!!」

「撃ってみるがいい」


 カスパル伯爵が不敵な笑みを浮かべたのと、ヨハンが引き金を引いたのと同時だった。

 発砲音が消えきらぬうちに、ちいんと軽妙な音が鳴った。

 カスパル伯爵の足元に散らばった数ミリの金属片は、むろんヨハンの視力では捉えられない。

 伯爵は刀をあやつって飛来する銃弾を切り刻み、細かな欠片へと変えたのだ。


 生まれながらに卓越した身体能力をもつ吸血鬼が、さらに数百年におよぶ厳しい鍛錬をへてようやく辿り着く剣の神髄。

 天賦の才能と、それを磨き上げる無限の時間を与えられた存在のまえでは、人間が世代を超えて切磋琢磨してきた技術など児戯に等しい。


「大公殿下のご命令とはいえ、人間の首など持ち帰る値打ちもない。いっそ血の霧にしてくれようか。人間を美しく殺すなら、なんといってもあれにかぎる――――」


 カスパル伯爵はどこか恍惚とした表情で刀を見つめる。

 血の霧とは、むろん比喩ではない。

 伯爵がその気になれば、人間の身体を一ミクロン以下の賽の目に切り刻むことはたやすい。

 皮膚も筋肉も骨も、人体を構成する一切の物質はそのかたちを失い、血色のミストへと変わるのだ。

 犠牲者はこの世に存在した痕跡すら残さず、文字どおり霧散するのである。


「せめてもの温情だ。苦痛を感じるまえにこの世から消し去ってやる」


 カスパル伯爵は一歩ずつ、獲物の反応を楽しむようにヨハンへと近づいていく。


 ヨハンはといえば、焦点のあわない瞳で茫然とカスパル伯爵を見つめるばかりだった。

 無理もない。圧倒的な戦闘力の差をあらためて見せつけられたのだ。

 避けがたい死は数秒後に迫っている。

 抗いようのない絶望は、少年の身体をすっかり麻痺させるのに充分だった。


「――――!!」


 カスパル伯爵がふいに足を止めた。

 刀を手にしたまま、伯爵は悲鳴とも嗚咽ともつかない声を洩らす。

 万物の真の霊長を自負してはばからない存在が、誇り高い吸血貴族が、よりにもよって人間のまえでこのような醜態をさらすとは!


 ヨハンはその場にへたりこんだまま、ずるずると後じさる。

 と、ふいに指先に硬いものが触れた。

 はたと顔を向けたヨハンの目に飛び込んできたのは、銀色の十字架ロザリオだ。

 リーズマリアが身につけていたものであることはひと目で分かった。

 

 この十字架と、カスパル伯爵が突然苦しみはじめたことのあいだに、いかなる因果関係があるというのか?

 ヨハンはふつふつと沸き起こる疑問を噛みつぶす。

 考えても仕方がないことは考えるな。祖父が教えてくれた猟師ハンターの流儀だ。

 いま自分がすべきことは、吸血鬼を倒し、リーズマリアを助けることだ。

 迷うことはなにもない。やるべきことはただひとつなのだから。

 

 ヨハンは十字架を掴むと、カスパル伯爵めがけて投げつける。

 十字架が近づいたことで苦痛も増したのか、伯爵がおおきくよろめいた。

 その一瞬を逃さず、ヨハンは山刀マチェットを抜き、両足ではげしく地面を蹴っていた。


「ぐ、ううっ――――」


 呻吟とともに、カスパル伯爵は赤黒い血塊を吐き出す。

 ヨハンが突き出した山刀は、伯爵の心臓を深々とえぐっていた。

 吸血鬼にとっての最大の急所を破壊されたことで、伯爵の生命活動は完全に停止した。

 数百年のあいだ鍛え抜いた肉体と、剣の蘊奥を究めた技術の持ち主が、たかだか十数年を生きただけの少年に敗れ去ったのだ。


 伯爵の死体を見下ろして、ヨハンは荒い息をつく。


「やった……俺、吸血鬼を……」


 安堵しかけて、ヨハンははたと我に返る。


 もうひとりの吸血鬼に捕らえられたリーズマリアを救い出す。

 まだ戦いは終わっていないのだ。

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