CHAPTER 09:インセイン・ドライヴ
「ぬう――――」
飛び退きざま、カスパル伯爵は驚愕の声を洩らす。
リーズマリアの両足を薙ぎ払うはずだった抜き打ちの一太刀は、むなしく空を裂いた。
むろん、カスパル伯爵が手加減をしたわけではない。斬撃を送った
にもかかわらず、刃が触れるかという瞬間、リーズマリアの姿は幻みたいにかき消えていた。
「よもや、おんみずから屋根を蹴破られるとは……」
カスパル伯爵はだれにともなくひとりごちる。
あのとき――
リーズマリアは
もし上空への跳躍を選んでいたならば、すかさずメルキオル男爵の追撃を受けていただろう。
正真正銘、これがはじめての実戦であるにもかかわらず、リーズマリアは瞬時に的確な判断を下したのだった。
(我が剣を躱すとは、さすがは皇帝陛下の娘御であられることよ――――)
感慨に浸ったのも一瞬、カスパル伯爵はメルキオル男爵に目配せをする。
初撃で決着をつけるという二人のもくろみは失敗に終わった。奇襲による短期決戦はもはや望めないということだ。
「伯爵閣下。僭越ながら、二の太刀はこのメルキオルにお譲りねがいたい」
「おう」
ぽつりと呟いたメルキオル男爵に、カスパル伯爵はやはり短く応じる。
おなじく皇帝の親衛隊に身を置いていた二人のあいだには、無言の信頼関係が構築されている。
互いに手柄を争うことも、相手を出し抜こうと策を弄することもない。
戦場においてはあくまで恬淡と、機械的におのれの役割を果たすだけなのだ。
メルキオル男爵はもうもうたる粉塵に覆われた教会に向き直ると、
「姫殿下、失礼つかまつる――――」
それだけ言って、両足をおおきく開いた構えをとる。
魁偉な巨体がゆっくりと動き出した。
およそ戦場には似つかわしくない優雅な挙動は、武術というよりは舞踊を彷彿させた。
強烈な震動が一帯を揺さぶったのは次の瞬間だ。
やや遅れて響きわたった轟音は、メルキオル男爵の拳が極超音速に達した証左にほかならない。
突き出した拳から放たれた不可視の
その余波はなおも熄まず、地下都市の壁面に深い穴を穿ったのだった。
超硬質の
超常の猛者がひしめく
凄惨な情景を目の当たりにして、カスパル伯爵の背筋を冷たいものが伝った。
「メルキオル男爵、まさか!?」
「心配は無用。……姫殿下はご無事でおられる」
転瞬、粉塵にけぶる廃墟の奥でなにかが動いた。
からみつく塵埃を引っ切り、矢のように飛び出した影はひとつ。
血色の眼光がまたたき、
秀麗な
「御免!!」
叫ぶや、メルキオル男爵は手刀の構えをつくる。
狙いはリーズマリアの右手足だ。
あえて先制攻撃を仕掛けさせ、
それどころか、ごく狭い範囲に全力を集中するぶん、その破壊力は必殺の正拳さえも凌駕するのである。
「――――ッ!!」
音もなく鮮血がしぶき、白く細いものが宙を舞った。
ゆるやかな放物線を描いて瓦礫の山に落ちたのは、肘のあたりで切断されたリーズマリアの右腕だ。
メルキオル男爵が渾身の力をこめて振り下ろした手刀は、リーズマリアの右腕をたやすく斬り落とした。
そうだ。――――右腕だけを。
リーズマリアがわざとそうしたのだと気づいたときには、メルキオル男爵はすでに進退窮まった状況に追い込まれていた。
「お見事にございます……!!」
どこかうれしげに呟いて、メルキオル男爵はその場にくずおれる。
リーズマリアが左手で握っているのは、いまなお鼓動をつづけるメルキオル男爵の心臓だ。
右腕が斬り落とされた瞬間、リーズマリアは左腕を男爵の胸に突き立てたのである。
するどい爪は分厚い胸板をたやすく貫通し、あやまたず心臓をえぐりとった。
驚異的な再生能力を有する吸血鬼といえども、最大の弱点である心臓を破壊されればたちまち死に至る。
それはメルキオル男爵のような剛勇の士であっても例外ではない。
四肢を餌に心臓を奪いあう吸血鬼同士の戦い、人間には理解しがたいその駆け引きを、リーズマリアは誰に教わるでもなく体得してみせたのだった。
リーズマリアはメルキオル男爵の心臓に食らいつくと、音を立てて咀嚼する。
だが、同族の血肉の味は、もとより人間のそれとは較ぶべくもない。
もはや原型をとどめぬ肉塊を吐き出した吸血鬼の姫は、血にまみれた唇を左手の甲でぬぐう。
「メルキオル、すまぬ……」
よもやリーズマリアがこれほどまでの力を秘めていようとは。
皇帝の血を見くびっていたわけではない。その強さが予想を上回っていただけだ。
その天賦の才を見誤ったがために、みすみす歴戦の勇者を失うことになった。
「カスパル伯爵、もうよかろう――――」
ふいに呼びかけられて、カスパル伯爵はとっさに背後を振り返る。
「大公殿下!?」
「忠告はしたはずだ。獅子の子は生まれながらに獅子だということが、貴公にもよくわかっただろう」
”
その異名にふさわしい、聴くものの心までも凍てつかせるような、おそろしくも威厳ある声。
歳
「リーズマリア姫。ここからは配下に代わって、このバルタザール・アルギエバがお相手しよう」
***
ヨハンは愛銃を抱きしめたまま、気死したように虚空を見つめていた。
もっとも、虚空とは、人間にはそう見えるというだけだ。
吸血鬼同士の熾烈な戦いは、常人の動体視力をはるかに超越した領域で展開されるのである。
「リズ……」
ヨハンはうわ言みたいにその名を口にする。
ひそかに恋い焦がれた少女はもうどこにもいない。
いまのリーズマリアは、みずからの家族を、そしてヨハンの祖父や仲間たちを喰い殺した忌まわしい怪物だ。
あまりに残酷な真実と、自分だけが生きながらえてしまったことへの罪の意識……。
重くのしかかった現実は、少年の心を打ち砕くには充分だった。
三人の吸血鬼たちは、ヨハンにはなんの興味も示していない。
いまならこっそりと逃げ出すこともできるだろう。
一刻も早くここから離れるべきだということも、むろん承知している。
それにもかかわらず、ヨハンはけっしてその場から動こうとはしなかった。
(俺にもまだ出来ることがあるはずだ――――)
ヨハンは自分自身に言い聞かせるように心中で呟く。
前方で耳を聾する破壊音が上がったのは、それから数秒と経たないうちだった。
目の前に現れた光景に、ヨハンはおもわずちいさな悲鳴を洩らしていた。
青い髪の吸血鬼がリーズマリアの首を掴み、華奢な身体を高々と持ち上げているのを認めたためだ。
右腕は肘のあたりで切断され、全身いたるところに深い裂傷が走っている。
リーズマリアの痛々しい姿を目交に捉えた瞬間、ヨハンの腕は意識より早く動いていた。
火薬式
そうして
自分がなにをしようとしているのか理解したのだ。
人間が吸血鬼に刃向かうことは、とりもなおさず死を意味する。
九死に一生を得た生命を、この先の長い一生を、自分から投げ捨てようというのか?
(関係ない……)
かたかたと震える歯を食いしばり、ヨハンは
(吸血鬼でも、リズはリズだ)
ヨハンは呼吸を整え、引き金にかかった指に力をこめる。
「俺が守るんだ――――」
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