CHAPTER 07:ブラッド・ライン

 隧道トンネルは闇の奥へと伸びていた。

 ヨハンは白い息を吐きながら、暗くせまい道を一心不乱に駆けていく。


 シドンナインと外部をむすぶ連絡用通路である。

 もっとも、その存在は地下都市の住人たちにも知られていない。

 いまから七年ほどまえ、街はずれの廃材置き場でに興じていたヨハンがたまたま発見したのだ。


 頭領カシラである祖父にも、トーマを始めとする猟師ハンター仲間にも、ヨハンはこの通路のことを教えなかった。

 正規のゲートには見張り番が常駐し、人の出入りはすべて記録される。外に出るためには、そのつど頭領の許可を得なければならないのである。

 安全のためには致し方ないとはいえ、遊びたいさかりの少年にとって窮屈で煩わしいことには変わりない。

 他人に知られることなく、好きなときに外に出られるこの通路は、ヨハンにとって文字どおり秘密の宝物なのだ。


(待ってろよ、リズ……)


 ヨハンが背負った雑嚢ザックははちきれんばかりに膨らんでいる。

 ほんらいの目的である熱冷ましの薬草だけでなく、滋養強壮や咳止めといった薬効のある植物を片っ端から採取したためだ。

 そのうえ水筒にはつめたい湧き水をたっぷりと汲んである。

 火薬式長銃ライフル山刀マチェットをふくむ総重量はゆうに三十キロを超えているが、いまのヨハンにはまるで苦にならない。

 好意を寄せる少女の助けになるとおもえば、ずっしりと肩に食い込む痛みさえ心地よいほどだった。

 

 出口まであとわずかというところで、ふいにヨハンは足を止めた。

 地下都市からトンネル内へ流れ込む空気のなかに、かすかな血のにおいを嗅ぎ取ったためだ。

 もっとも、血のにおいというだけなら、シドンⅨでは珍しくもない。

 獣を解体する際には大量の血が流れるうえ、地下ということもあって換気も充分とは言いがたい。シドンⅨの空気そのものが血生臭さを孕んでいると言っても過言ではないのだ。

 ヨハンを立ち止まらせたのは、嗅ぎなれた獣の血とはあきらかに異質なにおいだった。

 

(気のせい……じゃない……)


 ヨハンは無意識に長銃ライフルを手に取る。

 一歩進むごとに、血なまぐささはますます強くなっていく。

 舌にじわりと滲み込む潮と鉄が入り混じった味は、ヘラジカやイノシシのそれとはあきらかにちがう。

 人間の血だ。

 それも、ひとりやふたりではない。

 吐き気をもよおすほど濃厚な血臭は、おびただしい数の死体を想起させるのに充分だった。


 ヨハンはボルトハンドルを操作して薬室チャンバーに初弾を送り込む。

 つづいて切替セレクターレバーを単射セミ・オートから連射フル・オートへスイッチ。

 ふつう、猟師は狩りで連射を用いることはない。強烈な反動リコイルが命中率を低下させ、貴重な弾薬を浪費してしまうためだ。

 命中精度よりも瞬間的な火力が優先されるのは、獣以外の敵――人間との殺し合いにおいてのみだ。


「くそっ、くそっ!! なんだってこんなときに!!」


 ふたたび駆け出したヨハンは、だれにともなく叫ぶ。


 ヨハンが生まれてからいままで、シドンⅨが外敵の攻撃を受けたことはない。

 だが、それはあくまで平和な時期が続いたというだけだ。

 かつては盗賊団や奴隷商人との小競り合いが絶えなかったことは、頭領カシラから何度も聞かされている。

 ときにはウォーローダーを駆って襲いかかる敵に、シドンⅨの猟師ハンターたちは多大な犠牲を払いつつ、かろうじて勝利を収めてきたのだ。

 いまも外の世界には賊が跋扈していることをおもえば、十数年のあいだ保たれた平和が突如破れたとしてもなんら不思議はない。


「リズ、チビども、爺ちゃん、無事でいてくれ――――」


 ヨハンは祈るように呟く。

 彼方で立て続けに銃声が響いたのはそのときだった。

 不吉なはずのその音は、しかし、ヨハンをおおいに勇気づけた。

 まだ生きている者がいるのだ。


***


 隧道トンネルを飛び出したヨハンは、出入り口を隠すこともせず、廃材置き場の一角に身を潜めた。

 一帯には赤錆びた重機や作業用ワークローダーの残骸スクラップが無造作に積み上げられている。

 リーズマリアたちの無事をたしかめたいのはやまやまだが、周囲の状況を把握しないことには、自分も襲撃者の餌食になりかねない。

 ヨハンは注意深く足音を殺し、スクラップからスクラップへと移動する。


 廃材置き場の出口まであとわずかというとき、ヨハンはふいに前方で動くものを認めた。


「トーマ!?」


 ヨハンは我知らずにうわずった声を上げていた。

 それも無理からぬことだ。

 昔なじみの喧嘩友達の変わり果てた姿を目の当たりにしたのだから。


「ヨハン……か……?」


 トーマは消え入りそうな声で応じる。

 右腕は肩から失われ、脇腹は肋骨が見えるほど深くえぐられている。

 顔面の三分の一ほどは肉塊と化し、潰れた眼球とこぼれた脳漿が痛々しい。

 これほどの深傷ふかでを負っては助からない。ここまで歩いてきたのが奇跡というべきだろう。


「トーマ、しっかりしろ!! いったいなにがあったんだ!?」


 ヨハンはトーマを抱きとめると、いまにも泣きそうな声で問いかける。


「みんな……に……やられた……」

「あの女!?」

「吸血鬼……おまえだけでも……にげろ……ヨハン……」


 言い終わるがはやいか、トーマの瞳から急速に光が失われていった。

 ここまで精神力だけで持ちこたえたのだろう。

 ヨハンはなにもいわず、開いたままの瞼をそっと閉じてやる。

 

(吸血鬼だって? それに、あの女とは?)


 疑問は尽きない。

 いずれにせよ、シドンⅨに一大事が生じたことはたしかだ。

 遠くで聞こえていた銃声も途絶えている。

 ヨハンの全身を悪寒が走り抜けていく。

 もし敵が吸血鬼だとすれば、盗賊や奴隷商人とはまさしく次元が違う。

 リーズマリアも、頭領カシラも、とうに殺されているだろう。


「ちくしょう――――」


 なかば自暴自棄になりながら、ヨハンは銃を手に駆け出していた。

 敵が吸血鬼ならば、万に一つも勝ち目はない。

 むざむざ殺されに行くようなものだ。

 だが、そうだとしても、いまさら逃げるわけにはいかなかった。

 リーズマリアの無事をたしかめ、もし彼女が殺されていたなら、自分も戦って死ぬだけのことだ。

 愛するひとのいない世界にとどまっている理由などないのだから。


 廃材置き場を後にしたヨハンは、教会にむかって猛然と駆ける。

 道すがら、いやでも目に入るのは仲間の猟師ハンターやその家族の死体だ。

 いずれも手足を引きちぎられ、内臓はらわたをえぐり出されている。老いも若きも、一人として五体満足な亡骸はない。


 吸血鬼は人間をいたぶって殺す――――。

 むかし頭領カシラから聞かされた伝説のとおりだ。

 ただ血を吸うだけではあきたらず、死者をも凌辱する鬼畜の所業。

 ヨハンの双眸に宿ったのは、忌まわしい悪魔への怒りの炎にほかならなかった。

 どんな手を使っても吸血鬼に一矢報いてやる。

 それが無残に殺された仲間たちへのせめてものはなむけになるなら、この身がどうなろうと悔いはない。


 教会につづく曲がり角に差し掛かったとき、ヨハンははたと立ち止まった。

 銀灰色シルバーアッシュの髪が目交まなかいに飛び込んできたためだ。

 こちらに背中を向け、地面にへたりこんではいるが、怪我らしい怪我はしていない。


「リズっ!!」


 叫ぶが早いか、ヨハンはリーズマリアのもとに駆け寄る。

 無事でよかった、早く逃げよう――――。

 喉まで出かかった言葉は、しかし、ついに少年の口から発せられることはなかった。


「そんな……うそだ……」


 ヨハンの唇からいまにも泣き出しそうな声が洩れた。

 

 恋い焦がれた少女の瞳。

 美しく澄みきった碧眼は、血よりもあざやかな真紅へと変じている。

 それは至尊種ハイ・リネージュ――純血の吸血鬼の証にほかならない。

 

「うそだ、うそだよな……リズ……」


 ヨハンは銃を構えることも忘れて、熱に浮かされたように呟く。

 リーズマリアがシドンⅨの住人を皆殺しにした。

 もはや疑う余地はない。目の前にいる吸血鬼がこの地獄絵図を作り出したのだ。

 十四歳の少年が受け止めるには、それはあまりに過酷な現実だった。

 

 そうするあいだにも、リーズマリアはゆっくりとヨハンに近づいてくる。

 これだけの血を貪っても、強すぎる吸血衝動はなおも犠牲を求める。

 いまのリーズマリアは、目の前の人間がヨハンであることにも気づいてはいない。

 血の詰まった肉袋――吸血鬼にとって、人間とは畢竟そのような存在でしかないのだ。


「リズ……」


 流れ落ちる涙を拭いもせず、ヨハンはただ目を閉じる。

 この娘になら殺されてもいい。

 すべては壊れてしまった。もう二度と元の生活が戻ることはないのだ。

 ここで死ぬことを受け入れるのになんの躊躇もありはしない。


「――――!!」


 するどい金属音が鳴りわたったのは次の瞬間だった。

 ヨハンはおそるおそる瞼を開く。

 さっきまでそこにいたはずのリーズマリアの姿はない。

 代わりにこちらに近づいてくる三人の人影を認めて、ヨハンは「あっ」とちいさな悲鳴を上げていた。


「どこまでも愚かな人間ども。素直に我らの忠告を受け入れていれば、死ぬこともなかったであろうに――――」


 先頭を行く青い髪の男は、吐き捨てるようにひとりごちる。

 十三選帝侯クーアフュルストがひとり、大公バルタザール・アルギエバ。

 その両脇に付き従うのは、オーギュスト・カスパル伯爵とフランソワ・メルキオル男爵であった。


 アルギエバ大公は虫けらを見るような眼でヨハンを見やると、ちいさく鼻を鳴らす。


「小僧、下がっておれ。……死にたくなければな」

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