CHAPTER 06:リザレクション

 強烈な飢えと渇きがリーズマリアを苛んでいた。

 ほんのすこしまえまで水しか喉を通らなかったのが嘘みたいに、身体じゅうの細胞が飢餓に耐えかねて悲鳴を上げている。


――いますぐ血がほしい。

――無我夢中で喰らいつき、思うままにむさぼりたい……。


 リーズマリアはこみあげる吸血衝動を必死に抑え込もうとするが、そんな努力をあざ笑うかのように、肉体の要求は激しさを増す一方だった。


「わたし……は……」


 リーズマリアは塊を吐くように声を絞り出す。


「人間……吸血鬼なんかじゃ……ない……!!」


 胸のなかで聖句を繰り返し唱えつつ、リーズマリアは何度も何度も自分に言い聞かせる。


 私は人間で、神に仕える修道女で、父さんと母さんの娘だ。

 吸血鬼などであるはずがない。

 神に呪われた邪悪な存在などでは、けっして――と。


 強靭な精神力が肉体を屈服させたのか、リーズマリアの身体を駆け巡っていた凶暴なまでの衝動は、すこしずつ弱まっていく。


 ふいに廊下の軋む音が聞こえたのはそのときだ。

 二人、小走りに近づいてくる。

 軽い足音は、どちらもまだ幼い子供であることを示していた。


「リズお姉ちゃん――――」


 ノックのあとに聞こえてきたのは、ダニエルの声だ。


「あたしもいるよ。お父さんとお母さんにはダメだって言われたけど、リズお姉ちゃんが心配でお見舞いにきたの。病気、だいじょうぶ?」


 アナの不安げな声色には、心底からリーズマリアを気遣う優しさがにじんでいる。


(来て、は、だめ――――)


 リーズマリアは叫ぼうとするが、喉まで出かかった言葉はいっこうに唇を出ていこうとしない。

 幼い弟と妹にいまの自分の姿を見せるわけにはいかない。

 なにより、落ち着いてきたとはいえ、まだが完全に終熄したわけではないのである。

 いまのリーズマリアは、理性と狂気とを隔てるかぼそい綱を渡っているようなものだ。

 二人の姿を目にしたとたん、狂気の淵に転落しないという保証はどこにもない。

 いちど吸血衝動に絡め取られれば、もはや正気には戻れまい。


「リズお姉ちゃん? 入ってもいい?」


 リーズマリアの苦闘などつゆ知らず、アナは扉越しにこわごわ尋ねる。


――だめ……。


 リーズマリアは、たしかにそう口にしたつもりだった。

 震える喉を通り抜けるうちに、はたしてどのような言葉に変化したのか。

 軋りとともにドアがちいさく開いた。アナとダニエルは、二人そろって部屋のなかに足を踏み入れる。


「――――っうぅ!!」


 扉のほうから流れてきたえもいわれぬ香気に、リーズマリアはたまらず悩ましげな声を洩らした。


 ヨハンが残していった血のにおいだ。

 扉を隔ててなお芳しく鼻腔をくすぐった血臭は、室内の空気と混じり合い、リーズマリアの官能を狂わんばかりに刺激したのだった。


 血色の霧がリーズマリアの理性を蝕んでいく。

 家族も、聖職者であることも、いまはなにもかもがどうでもよかった。


 いまのリーズマリアがすべきことはただひとつ――――。

 極限まで飢え、渇ききったこの肉体に、しかるべき糧を与えることだけなのだ。


「リズお姉ちゃん、苦しいの!?」


 アナはベッドに駆け寄ろうとして、数歩と進まないうちに足を止めた。

 ベッドの上にうずくまっているものがと気づいたからだ。

 銀灰色シルバーアッシュの長く艶やかな髪も、白く透きとおった肌も、よく見知った姉にちがいないのに。

 幼児特有の本能は、姉だったものに生じた変化をするどく捕捉したのだった。


「リ、リズおねえ、ちゃ――――」


 それがアナの最後の言葉になった。

 リーズマリアの白い繊手が音もなく伸び、アナの首を切断したのだ。

 吸血鬼の並外れた膂力をもってすれば、武器を用いることなく人間を斬り落とすのはたやすい。


 ごろ――と、床を転がったアナの首は、ダニエルの足元で静止した。

 おなじ赤毛ジンジャーの髪をもつ双子の妹……。

 自分の身になにが起こったのかも分からなかったのだろう瞳は、生前の愛くるしさを留めたままかっと見開かれている。

 ダニエルは後じさろうとして、気死したようにその場にへたりこんだ。


「ぁ……ぅあうう……!!」


 ダニエルはせいいっぱい叫んでいるつもりだが、極度の緊張によって喉が痙攣し、声を出すどころか息を吐くことさえままならない。


「リズおねえちゃん……どうして……」


 ダニエルはそれきり二の句が継げなくなった。

 リーズマリアがアナの首なし死体――血管や脊椎が飛び出た切断面に唇を当て、むさぼるように血を啜るさまを目の当たりにしたためだ。

 完全に絶命しているとはいえ、死後まもない血はまだ

 リーズマリアは吸血行為を通して、アナの遺体に残った生命の一片までも吸い出そうとしているかのようだった。


「お……おまえ、リズおねえちゃんじゃない……」


 いつのまにか、ダニエルの股間のあたりには湯気の立つ水たまりができている。

 恐怖のあまり失禁したのだ。

 用済みとばかりにアナの亡骸を放り捨てたリーズマリアは、床の汚れも意に介さず、ダニエルに一歩ずつ近づいていく。


 その双眸は、ダニエルのよく知る碧眼ではない。

 大粒の柘榴石ガーネットをはめ込んだような真紅の瞳。

 この世のどんな宝石もおよばぬ煌めきを宿した、美しくも恐ろしい狂気の結晶。

 純血の至尊種ハイ・リネージュ――吸血鬼の証にほかならなかった。


「くるな……バケモノ――――吸血鬼!!」


 ダニエルが叫ぶより早く、リーズマリアの爪が閃いた。


「――――」


 リーズマリアはもうけっして動くことのない、しかし、まだぬくもりの残るちいさなふたつの亡骸を抱き寄せる。


 真紅の瞳から透明な液体がひとすじ、またひとすじと流れていく。

 あるいは、それも幻であったのかもしれない。

 本能のおもむくままに血をすすり、やわらかな肉をむさぼる悪鬼には、人間のために流す涙などあるはずもないのだから。


***


 アルギエバ大公らとの会談を終え、司祭マテウスが家路についたのは、もう夜も更けきった時刻だった。

 マテウスの隣を歩くのは、猟師たちの頭領カシラであるベルンハルトである。


頭領カシラ……いえ、ベルンハルトさん。お見送りまでしていただいて申し訳ない」

「なんのこれしき、司祭さまにはいつも世話になっとりますからな。それに、ヨハンのバカタレめもまだ帰ってきとりませんでの。もののついでというやつです」


 すまなげに言った司祭に、老猟師は豪放な笑いで応じる。

 それもつかのま、ベルンハルトの巌のような顔がいっそう険しさを増した。


「リーズマリアのお嬢ちゃんの容態も気になりますでな」

「……」

「司祭さま、今回はそんなに厳しいので?」

「これまで何度か”兆候”らしき発作はありましたが、リズはそのたびに乗り越えてきました。吸血鬼の覚醒は遅くとも十五歳までといいます。今回の発作はかつてないほど激しいものですが、この苦難を乗り越えられれば、彼女はこのさきも人間として生きていくことができるかもしれません」


 マテウスの言葉に、ベルンハルトは「ううむ」とだけちいさく呟く。


「しかし、吸血鬼も酷な真似をするものよのう」

「と、言いますと……?」

「けっきょくのところ、これは吸血鬼に自分を人間だと思い込ませたまま育てればどうなるかという実験。成功するにせよ不首尾に終わるにせよ、あの子リズを騙しつづけることに変わりはない。ちがいますかな?」


 それきり、ふたりのあいだには重い沈黙が降りた。

 ややあって、重い口を開いたのはマテウスだ。


「いまから、私は聖職者にあるまじきことを口にします」

「言ってみなされ。誓って他言はせぬよ」

「私たちはリズに幸せでいてほしい。たとえ偽りの家族だとしても、あの子が幸福であるなら、これからさきも彼女を騙しつづけます」

「では、先ほど言った遠方の教会にやるというのは……」

「その場しのぎの方便ですよ。五日後までにはが出ているはずです。そのとき彼女がまだ人間であったなら、彼らもを継続せざるをえないでしょう。私はリーズマリアが試練を乗り越え、末永く神とともにあることを信じます――――」


 教会まであとわずかというところで、ふいにベルンハルトが前に進み出た。


「待て、司祭さま。どうも様子がおかしい……」


 言いざま、老人は肩紐スリングで吊った火薬式長銃を、すばやく身体の前に回している。

 あざやかな手さばきは、さすがにこの道五十年以上のベテランだ。

 

「ベルンハルトさん、どうしたというのです!?」

「わからん……だが、この臭いはただごとじゃねえ。こいつは……」


 二人は教会の正面玄関を避け、裏の勝手口へと回る。

 教会兼司祭一家の自宅はひっそりと静まりかえっている。

 すでに子供たちは眠っている時間だが、妻はマテウスが帰るまで起きているはずだ。

 それが気配さえ感じられないとは、いったいどういうことなのか。


「まちがいない――人間の血のにおいだ」


 ベルンハルトのそっけない言葉には、隠しきれない絶望と怒りがにじむ。

 あまりにも見通しが甘すぎた。

 恐れていた事態が、ついに現実のものになってしまったのだ。


「お祈りをたのむぜ、司祭さま。いまあんたにできるのはそれだけだ」

「まだリーズマリアの仕業だと決まったわけでは――――」

「静かにしろッ」


 ベルンハルトが叫ぶが早いか、頭上から飛び降りたものがある。

 銀灰色シルバーアッシュの長い髪と白皙の肌。

 どこか人形めいてさえいる端正な顔立ちは、見紛うはずもない。


 よく見知ったはずのリーズマリアの姿は、しかし、ふだんの彼女とはまるで様相を異にしていた。

 身体じゅうに鮮血をまとわせ、唇からはするどい牙が突き出している。

 炯々と血色の光を放つのは、柘榴石ガーネットをおもわせる真紅の瞳だ。

 おさない弟と妹、そして育ての母を喰い殺して、なおも飢餓感をもてあましているのか。

 リーズマリアは血に染まった銀灰色シルバーアッシュの髪を振り乱し、二人にむかって跳躍する。


「司祭さま、下がってろッ!!」


 銃床ストックを肩付けしたベルンハルトは、リーズマリアめがけて躊躇なく引き金を引く。

 装填ロードされているのは、七・六二ミリの徹甲弾である。

 反動はおおきく、扱いには熟練を要するという代物だが、そのぶん威力は折り紙付きだ。

 おそるべき生命力をもつ吸血鬼といえども、心臓に命中すれば無事では済まない。


「うおッ!?」


 ベルンハルトが驚愕の叫びを上げたのは次の瞬間だ。

 リーズマリアが白くたおやかな指を伸ばし、火薬式長銃の銃身バレルを掴んだのである。

 まるで飴細工みたいに曲がりくねった銃身を目の当たりにして、ベルンハルトの顔から血の気が引いた。

 こうなっては二度と発砲することはできない。無理に引き金を引こうものなら暴発し、射手は致命傷を負うことになる。


「なんのッ!!」


 ベルンハルトは大喝するや、腰の山刀マチェットを抜く。

 リーズマリアは倒立の姿勢を取ると、円弧を描くように足を動かす。

 山刀を握った両腕が地面に落ちたのは次の瞬間だった。

 リーズマリアは爪先に真空の刃をまとわせ、ベルンハルトの両腕を肩から切り落としたのだ。

 いかに歴戦の豪傑でも、両腕を失ってはもはやどうすることもできない。


 うめきつつ血の海に沈んだベルンハルトの背中に、リーズマリアは白い指先を潜り込ませる。

 ずるり――と、不気味な水音が響いた。

 少女の手が掴み取ったのは、弱々しく脈打つベルンハルトの心臓だ。

 リーズマリアは心臓に牙を立てると、まるで林檎でもかじるように、じゅるじゅると音を立てて咀嚼する。


「リズ……」


 マテウスは青ざめた顔でリーズマリアを見つめる。

 バルタザール・アルギエバ大公の危惧していたとおりになった。

 人間のあたたかさも、神の愛も、吸血鬼の本能のまえには無力だった。

 すべては最初から分かりきっていたこと。

 それでも、この子ならと、一縷の望みを胸に今日まで育ててきたのだ。


「お父さんは……いいや、私だけじゃない。お母さんもダニエルもアナも、みんなおまえを愛しているよ。おまえは私たちの大切な家族だ。これまでも、これからも、ずっと」


 マテウスはポケットの十字架ロザリオを握りしめる。

 これをリーズマリアの前に突き出せば、逃げる時間くらいは稼げるかもしれない。


 だが、それでどうなるというのだ?


 なにもかもが手遅れだったのだ。

 いまさら自分ひとりが生き残ったところで、失われたものは二度と戻らない。

 

 なにより、マテウスには償わなければならない罪がある。

 皇帝の私生児を引き取ることを条件に、ひそかに吸血鬼の庇護を得てきた罪。

 人間でありながら、吸血鬼に親子としての情愛を抱いてしまった罪。

 ありもしない希望にすがって現実から目を背け、妻と子供たちを死に追いやった罪。

 そして――――愛する娘に、消えない十字架を背負わせてしまった罪が。


「さあ、おいで。リズ――――」


 父の言葉に呼応するように、リーズマリアはするどい爪の一閃を送る。

 薄れゆく意識のなかでも、マテウスはけっして神に祈ろうとはしなかった。

 神に願ったことはただひとつ。


 ねがわくば、この子の罪を背負って地獄に。

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