CHAPTER 05:メタモルフォシス

 狩りから戻った猟師たちは、休むまもなく獲物の解体と保存作業に移った。

 逆さ吊りにして体内に残っている血を完全に抜き、腐りやすい内臓を取り出してから、毛皮と食肉とに分解するのである。


 とりわけヘラジカのような大型草食動物の解体は大仕事だ。

 腐敗するまえにすばやく処理を終えるためには、大人の男が数人がかりで朝から晩までつきっきりの作業をおこなう必要がある。

 そうして得られた獣肉は貴重なタンパク源に、毛皮は防寒着や寝具に、骨と角は乾燥させたうえで粉末カルシウム剤として食品に添加されるか、あるいは漆喰として住居の補修などに用いられる。さらに脂肪は薬草と混ぜ合わせることで凍傷よけの軟膏となり、腱や軟骨から抽出したゼラチン質は有機接着剤として重宝される。

 動物のほとんどの部位を余すことなく利用するのは、厳しい環境を生き抜いていくなかで培われた知恵だ。

 今回ヨハンたちが持ち帰った収穫によって、シドンⅨの住人はむこう一ヶ月は食いつなぐことができるはずであった。


 明け方から解体作業に従事していたヨハンが解放されたのは、夜の八時を回ったところだった。

 もっとも、地下都市であるシドンⅨに昼夜の概念はない。

 頭上は分厚いコンクリートの天井におおわれ、時報のブザー音だけが時間を知らせてくれる。

 ヨハンは頭領カシラである祖父と同居する家ではなく、教会へと足を向けた。

 

 今回の狩りはかなり遠くまで足を伸ばしたため、リーズマリアとはもう一週間ほど会っていない。

 解体作業の最中も、ヨハンははやく教会に行きたい一心で気もそぞろだったのだ。


――俺、臭くねえかな?


 ヨハンは自分の身体のにおいを嗅いでみる。

 狩りの最中は着替えることも身体を拭くこともできず、頭領カシラに殴られた鼻血の跡もそのままだ。

 そこに解体処理で獣の血と内臓に触れたとあっては、臭わないほうが不自然なのだ。

 だが、汗と垢と血と硝煙のにおいが混じり合ったひどい悪臭も、何年も嗅ぎつづけていれば、自然と慣れるものだ。

 ヨハンは防寒コートと装甲ジャケットを脱ぐと、くるくると丸めて小脇に抱える。

 身体を清めている時間はないが、これで多少はになるだろう。

 

 処理場を出てから教会に到着するまでは五分とかからなかった。

 教会とはいうものの、建物自体は古い資材置き場を改装したものだ。

 飾り気のない無骨な外観が、入り口に掲げられた十字架をいっそう際立たせている。


――トーマのバカにでも見つかると面倒だからな……。

 

 ヨハンは周囲に人影がないことをたしかめると、おそるおそる扉に手をかける。

 ぎい、と軋りを立てて扉が開いた。鍵はかかっていなかったのだ。

 

 背後から声がかかったのはそのときだった。


「あー、チビのヨハンだ」

「こんなとこでなにやってんの?」

 

 ヨハンがとっさに振り向けば、すぐ後ろに立つ赤毛ジンジャーの兄妹と目が合った。


「ダニエルとアナか。おどかしやがって……」

「いまはお祈りの時間じゃないよ。お父さんは頭領さんとお話に行ってるの」

「そっか……」


 ヨハンはしばらく逡巡したあと、あくまでそっけなくダニエルとアナに問うた。

 

「リズはどうしてる? 元気か?」

「ううん……リズお姉ちゃん、元気じゃないかも……」

「どういう意味だ?」

「ちょっとまえから熱を出して寝込んじゃってるんだ。それに食欲もなくって、もう何日もお水しか飲んでないんだよ」


 ダニエルとアナのたどたどしい説明に、ヨハンは不安げに眉を寄せる。


「風邪かな?……このあたりに医者はいないし、こじらせなけりゃいいが……」


 それからしばらく考え込んだあと、意を決したように口を開いた。


「なあ、たのむよ。ひと目だけでいいから、リズに会わせてくれないか」


***


 リーズマリアが病に臥せってから五日が経とうとしていた。


 発作が起こったのは、日課である晩の祈祷を終えたあとだ。

 目の前がふいに暗くなり、手足に力が入らなくなったのである。

 呼吸は浅く早く、心臓は早鐘のように乱暴な鼓動を打ち鳴らした。

 そして、まるで身体の芯に焼けた鉄棒が刺さっているような、おそろしいほどの灼熱感……。

 そのまま意識を失ったリーズマリアは、両親の手でベッドに運ばれたのだった。


 その後も熱はいっこうに下がらず、倦怠感はいや増すばかり。

 貴重な薬を服用してもみたが、まるで効果はなかった。

 一昨日からはとうとう食事も喉を通らなくなり、いまでは水以外のものはいっさい受け付けなくなっている。

 前触れもなく襲うはげしい動悸と吐き気は少女の神経を摩耗させ、眠ることもままならない身体は日に日に衰弱していった。


「私、死んじゃうのかな……」


 朦朧とする意識のなか、リーズマリアはふとひとりごちた。

 死。

 ほんらい十四歳の少女には縁遠いはずのそれが、いまはやけに生々しい響きをともなっている。


 だが、考えてもみれば、死はずっとリーズマリアの身近にあった。

 この時代、生まれてきた子供の何割かは、母体の栄養失調や先天性疾患によって生後まもなく死ぬ。

 祭壇のまえでわが子の亡骸を抱きしめ、慟哭する母親の姿を見たのも一度や二度ではない。

 たとえ幼児期を乗り越えたとしても、無事に成人できるのは全出生数の半分にも充たないのである。

 人間本来の天寿を全うできるのは、よほどの幸運に恵まれた者だけなのだ。

 

「主よ。どうか最後まで私を悪から遠ざけ、私の罪をお許しください――――」


 リーズマリアはか細い声で呟くと、枕元の十字架ロザリオに左手を伸ばす。

 白く細い指が銀の十字架に触れた瞬間、リーズマリアの全身を稲光のような痛みが駆け抜けていった。

 おもわず十字架を振り落としたリーズマリアは、愕然と左の指を見る。


「うそ……」


 十字架に触れた左の指先は、ほんの数秒前とはまったく様相を異にしていた。

 なめらかだった皮膚は黒紫色に腫れ上がり、腐敗臭すら漂わせている。

 指の肉がずるりと剥がれ落ち、白い骨があらわになったのは次の瞬間だった。


 あまりに凄絶な光景。

 それ以上にリーズマリアを驚愕させたのは、傷がすさまじい勢いで治癒しはじめたことだ。

 増殖した肉はそれ自体が独立した生命であるかのようにうごめき、みるまに傷を塞いでいく。

 あれだけの外傷にもかかわらず、表皮には瘢痕ケロイドや引きつれの形跡さえ見当たらない。シーツの上に落ちた肉片がなければ、怪我そのものが存在しなかったと言っても通用するだろう。

 本来ならば数ヶ月はかかるだろう自然治癒のプロセスが、わずか数分のうちに完了したのだった。


 茫然と指を眺めていたリーズマリアは、はたと我に返り、床に落ちた十字架を拾おうとする。

 その形を視界に捉えたのと、眼球に火箸を突きこまれたような激痛が走ったのは同時だった。

 もう一度たしかめてみようにも、瞼は固く閉ざされたまま、自分の意志ではどうすることもできない。

 いくらリーズマリアが望んでも、本能がのだ。


「うくっ……――――」


 リーズマリアがちいさな叫びを上げたとき、ふいに扉をノックする音が響いた。


「だ……れ……?」


 努めて平静をよそおいながら、リーズマリアは誰何すいかする。

 きっと両親か弟妹たちだろうという推測に反して、扉のむこうから返ってきたのは少年の声だった。


「俺だ。ヨハンだ」

「ヨハン……? どうして……」

「狩りから戻ってきたら、リズが病気で寝込んでるっていうからさ。お見舞いってわけじゃないけど、声だけでも聞ければと思って」


 リーズマリアは「ありがとう」と言いかけて、声にならない呻吟を洩らす。


「病気、そんなにひどいのか?」

「だいじょうぶ……すぐに治るから……」

「ダニエルとアナから聞いた。もう何日も水しか飲んでないらしいじゃないか」

「それは……」


 ヨハンの問いかけに、リーズマリアは消え入りそうな声で呟くのがせいいっぱいだった。


「俺、熱冷ましの薬草が生えている場所を知っているんだ。すぐに採ってくるから、もうすこしだけ辛抱してくれ」

「いいの……私のことは放っておいて……」

「放っておけるわけないだろ――――」


 少年の声には、どこかさびしげな響きがあった。

 好意を寄せる少女が苦しんでいるのを座視するのは、単身雪のなかに飛び出すよりずっとつらいのだ。

 ヨハンは扉のむこうで踵を返すと、足早に駆け去っていった。


 いまのリーズマリアには、


「ヨハン……私は、もう……」


 ひとりごちて、リーズマリアは枕に顔を押しつける。

 薄桃色の唇を割ってするどく突き出たのは、獣のようなするどい犬歯だ。

 リーズマリアは荒い息を吐きながら、喉と胸をかきむしる。

 扉ごしに漂ってきたを嗅いだとたん、身体じゅうを猛烈な勢いで血がかけめぐり、狂わんばかりの興奮に陥ったのだ。


 吸血鬼にとってこのうえなく甘美な芳香――――ヨハンの身体に染みついた血のにおいであった。

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