CHAPTER 02:ブラック・オーメン

 紅い月が中天に輝いていた。

 霏々と降りしきる血色の月光を受け止めるのは、地平の果てまでつづく赤茶けた荒野だ。

 彼方には黒い塔が無数にそびえている。奇妙にねじまがったそれは、凄惨な破壊の痕跡にほかならない。

 どこともしれないその場所に、リーズマリアはひとり佇んでいた。


――また、に来てしまった……。


 銀灰色シルバーアッシュの髪の少女は、胸のなかでひとりごちると、素足のまま歩きはじめる。

 行くあてなどむろんない。

 ここがどこなのかも、なぜ自分がここにいるのかも分からない。

 それでも、歩きつづけなければならないことだけは知っているからだ。


 乾いた赤土の地面は、いつのまにかくすんだ白色へと変わっていた。

 土や石ではない。ばらばらに砕かれた人骨が無数に敷き詰められているのだ。

 なよやかな足で髑髏を踏み、肋骨を砕きながら、リーズマリアはひたすらに進んでいく。

 骨で埋め尽くされた道を歩むことに罪悪感を感じたのは最初だけだ。


――だって、これは夢なのだから……。


 十歳になったころから、リーズマリアはときおり悪夢を見るようになった。

 夢の内容はいつもおなじだ。

 紅い月と荒野、そして骨の道……。

 だれもいない恐ろしげな風景のなかを、ひたすらに歩いてゆく。

 終わりは唐突に訪れる。まるで誰かが幕を下ろしたみたいに、はたと目覚めるのである。

 一連の反復を数えきれないほど繰り返すうちに、リーズマリアはすっかり悪夢に慣れていった。

 いまでは寝具が濡れるほどの汗をかくことも、翌日まで尾を引く疲労感に悩まされることもない。

 

 その日の夢は、しかし、ふだんのそれとは違っていた。

 蜿蜒と続いていたはずの白骨の道がふいに途切れたのだ。

 気づけば周囲は濃密な闇に塗りつぶされ、上下左右すら定かならぬ虚空だけが広がっている。

 

 リーズマリアがおもわず後じさったのと、周囲の景色が一変したのは同時だった。

 空間を埋めていたうつろな闇は、いつのまにか壮麗なゴシック様式の大伽藍カテドラルに取って代わられた。

 極彩色のステンドグラスがはめこまれた高窓クリアストリからほのじろい光がさしこみ、整然と堵列した十二体の巨影を浮かび上がらせる。

 蒼、紅、金、銀、灰、菫、橙、翠、黄蘗、深緋、純白……。

 恐ろしさと美しさとを等しくそなえた機械仕掛けの騎士たちは、手にした長剣を一斉に高くかかげ、剣の回廊サーベルアーチをつくる。

 リーズマリアは自分の意志とは無関係に、、交差した剣の下をゆっくりと進んでいく。


――いやだ……。


 どれほど拒絶しても両足は止まることなく、リーズマリアの身体を前へ前へと運ぶ。

 大伽藍の最深部――きざはしの頂点に置かれた玉座へと。

 はるかな高みからリーズマリアを見下ろすのは、貝紫色ティリアンパープルのガウンを羽織ったひとりの男だ。

 容貌は判然としない。冠がつくる濃い影に塗りつぶされているためだ。

 人というよりは、人のかたちに凝結した闇そのものとでも言うべき異様な雰囲気をまとった男だった。


 男の顔面でするどい光がまたたいた。

 固く閉ざしていた両眼をふいに開いたのである。

 切れ長の双眸を彩るのは、柘榴石ガーネットをおもわせるあざやかな真紅――吸血鬼の証であった。

 リーズマリアの全身を金縛りのような緊張が支配していく。


――――殺される!!


 リーズマリアは吸血鬼を間近で見たことは一度もない。

 それでも、絶対の支配者として君臨する彼らへの畏怖は、この時代に生きる人間であれば本能に刻み込まれているのだ。

 たとえ夢のなかであろうと、吸血鬼を前にして怖気づかない者がいようはずもない。

 リーズマリアは胸のなかで聖句を繰り返し唱えるが、震えと悪寒は熄むどころか、玉座に近づくにつれていっそう激しくなっていく。 

 

 男の紅い瞳からひとすじ光るものが流れた。

 そして、男はひどく枯れた、しかしよく通る声でリーズマリアに告げたのだった。


 ”娘よ。おまえはここに来てはいけない”――――と。


***

 

「リズ、どうしたというの――――」


 聞き慣れた声がリーズマリアの意識を現実に引き戻した。

 おぼろな視界に父と母の姿を認めて、リーズマリアは安堵の息をつく。


「お父さん、お母さん、わたし……」

「なにも心配しなくていい。また悪い夢を見たんだね?」

「はい……吸血鬼が私のすぐ近くまで……」


 一瞬顔をこわばらせた父は、自分の十字架ロザリオをリーズマリアの手に強く握らせる。


「恐れることはない。なにがあっても神は私たちを守ってくださる。だからおまえは安心してお眠りなさい」


 力強い父の言葉に、リーズマリアはだまって肯んずる。

 身体じゅうから噴き出した汗のせいか、寝間着も寝具もじっとりと濡れている。

 思い返せば、近頃は昼間でもいやに熱っぽく感じられるときがある。

 頭といわず胸といわず、全身の細胞がどよめくような、言葉にできない感覚……。


「……私、なにか悪い病気なのでしょうか」

「気にしすぎよ。あなたくらいの年頃の娘にはよくあることですもの」

「ほんとう?」

「もちろん。お母さんはリズに嘘を言ったりしないわ」


 言って、母はリーズマリアの頬をやさしく撫でる。

 そのまま寝室から立ち去ろうとした両親の背中にむかって、リーズマリアは意を決したように問いかける。


「ねえ、お父さん、お母さん――」

「なんだい、リズ?」

「私、お父さんとお母さんの子供だよね?」


 父と母は互いに顔を見合わせたあと、いかにもおかしげに笑い声を洩らす。


「当たり前じゃないか。これまでも、これからも、おまえはずっと私たちの大切な娘だよ」

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