LAST CHAPTER:セイ・ピース・アウト
ヴィルトハーゼが放った最後の七五ミリ弾。
文字どおり命運を賭けた一発は、むなしく女吸血鬼の頬を掠めていった。
女吸血鬼の顔は銃口から一メートルと離れていない。発射された弾丸を躱すには充分すぎるほどだ。
――どこまでも愚かな人間……。
いっとき女吸血鬼の端正な
命中しなかった弾丸がほんとうに狙っていたものがなんなのかを理解したためだ。
女吸血鬼がとっさに振り返ったときには、七五ミリ弾は背後の導水管に巨大な穴を穿っている。
「バァーカ――ざまあみろ、クソ吸血鬼」
破壊された導水管から濁った水がとめどなく噴き出すのを認めて、アンジェラは心底からうれしげに吐き捨てる。
女吸血鬼に当たるはずがないことは最初から承知のうえだ。
バビリエが開いたゲートから流れ込む湖水を発電所内にあふれさせるために、最初から導水管を狙って最後の一発を放ったのである。
「あんたはここで私といっしょに溺れ死ぬんだ。無敵の吸血鬼サマも、空気がなけりゃ生きられないのは
言い終わるが早いか、アンジェラはヴィルトハーゼの四肢のなかで唯一残った左腕を女吸血鬼に伸ばす。
もはや使いものにならない
肘を曲げて女吸血鬼を抱きかかえ、動きを封じようというのである。
むろん、一帯が水没するまで拘束しつづけることができないのは分かりきっている。
シクロが発電所から脱出し、外から隔壁をロックするまでの時間が稼げれば充分なのだ。
みずからの読みが甘かったことをアンジェラが思い知ったのは、ヴィルトハーゼの左腕が女吸血鬼を捕らえた次の瞬間だった。
耳ざわりな異音とともに、ヴィルトハーゼの肘関節があらぬ方向に曲がった。
女吸血鬼が油圧アクチュエータの収縮を強引に押し止め、そのまま逆方向にへし折ったのだ。
女吸血鬼はそれを細腕一本で押し返したばかりか、いともたやすく破壊してのけたのである。
かっと見開かれた紅い瞳は爛々と輝き、そのまなざしは骨まで凍てつくような殺意に彩られている。
それも当然だ。生物の頂点に君臨する
(殺される――――)
アンジェラが固くまぶたを閉じたのと、アルキメディアン・スクリューが水をかき分ける音が響きわたったのは同時だった。
「シクロ!?」
自分を守るように立ちふさがったカヴァレッタの背中にむかって、アンジェラは絶叫していた。
その手に握られていた
アンジェラが殺されるかというまさにそのとき、シクロは剣鉈を女吸血鬼めがけて投擲したのである。
女吸血鬼を反射的に飛び退かせることには成功したものの、最後の武器を失ったことで、カヴァレッタの戦闘力は失われたも同然だ。
「なにやってるの!! 私のことはいいから、あんたひとりでも逃げなさい!!」
「アンジェラを置いて逃げるなんてできない」
「ばかっ、ここにいたら二人とも殺されるのが分かんないの!? それに、武器がないんじゃどうにも……」
「だいじょうぶ。――――あたしは
シクロの言葉には静かな自信がみなぎっている。
たんなる虚勢でないことを察して、アンジェラはそれきり口をつぐむ。
吸血鬼が怪物ならば、それを狩る
これほど近くにいながら、シクロはアンジェラの手の届かない領域に足を踏み入れているのだ。
「アンジェラ、ナイフを貸してほしい」
そんなものでどうするつもりなのだ?
喉まで出かかった言葉を飲み込んだアンジェラは、無言でシクロに愛用のグルカナイフを投げわたす。
すべてをシクロに委ねた以上、もはや口を挟む筋合いはない。たとえ死ぬことになったとしても悔いはないのだ。
「ありがとう――――行ってくる」
シクロはちいさく呟くと、おもいきりフットペダルを踏み込む。
導水管からあふれた泥水は発電所の床を覆い、カヴァレッタの脛のあたりまで達している。
歩行の妨げとなる水の抵抗も、アルキメディアン・スクリューにはむしろ好都合だ。
両脚のスクリューが水しぶきを散らし、カヴァレッタは女吸血鬼にむかって轟然と加速していく。
腰まで水に浸かった女吸血鬼が跳躍の構えを取った。
その一瞬を逃さず、シクロはコクピットハッチから身を乗り出していた。
この状況でウォーローダーを捨てるのは自殺行為であることは言うまでもない。
女吸血鬼の面上に凄絶な笑みが浮かんだ。
シクロの真意は計りかねるが、獲物が自分から殺してくれと願い出てきたのである。
躊躇も情けも必要ない。望みどおり息の根を止め、その血を一滴残らず啜ってやるまでだ。
するどい犬歯をむき出しにした女吸血鬼は、しかし、そのまま動きを止めた。
自分の意志で攻撃を中止したわけではむろんない。
いましも飛びかかろうかという姿勢を保ったまま、彫像と化したみたいにその場に固定されてしまったのだ。
女吸血鬼は眼球がこぼれそうなほど目を見開き、まばたきも忘れてカヴァレッタのコクピットから上体を出したシクロを睨めつけている。
より正確に言うなら、その手に握られた銀色の
吸血鬼は十字架を恐れる――――。
シクロが亡き父からその知識を授けられたのは、厳しい修行も最終段階に入ってからのことだ。
とはいえ、八百年のあいだ外界から隔絶された吸血猟兵の里では、その有効性を実証した者はだれもいない。
半信半疑のシクロに、亡父はこうも言った――――十字架のことはだれにも口外するな。けっして十字架を持ち歩くな。十字架に頼るな。
吸血猟兵が持てる技術のすべてを尽くしてなお吸血鬼を倒しえなかったときの切り札なのだ、と。
「……父さんの言ったとおりだ」
シクロはひとりごちると、カヴァレッタの操縦桿から足指を離す。
コントロールを失ってあらぬ方向へ走り出した機体を棄て、シクロは女吸血鬼にむかって跳躍する。
アルキメディアン・スクリューの盛大な水しぶきがグルカナイフの十字架を隠した。ふいに身体の自由を取り戻した女吸血鬼は、本能的に後じさる。
その胸をするどい銀刃が抉ったのは次の刹那だった。
水しぶきのなかから飛び出したシクロは、あやまたず女吸血鬼の心臓にグルカナイフを突き立てたのだ。
「――――!!」
吸血鬼の心臓はたんなる血液ポンプではない。
脳機能をそなえ、半永久的に幹細胞を生産しつづける唯一の器官なのだ。
人間をはるかに凌駕する長命と不老、そして首を刎ねられようと半身を吹き飛ばされようと再生する強靭な生命力は、すべて心臓に依存していると言っても過言ではない。
その重要性ゆえに、心臓を破壊されることは吸血鬼にとって死と同義とされている。
ひとたび不可逆的なダメージを受けた心臓は二度と再生することなく、血流の途絶によって飢餓状態に追い込まれた全身の細胞は、やがて壮絶な共食いを始めるのである。
断末魔も上げずに水底に沈んだ女吸血鬼を見下ろして、シクロはほうと安堵のため息をついた。
そして、戦いの緊張からすっかり青ざめた顔にぎこちない――せいいっぱいの笑みを浮かべて、背後を振り返る。
「……終わったよ、アンジェラ」
***
三人がダムから脱出したのは、ちょうど夜明けを迎えるころだった。
壁の薄い部分を探り、バビリエのアーマイゼに搭載されていた
バビリエが救援要請の発光信号を打ち上げたことで、一時間もしないうちに迎えの車両が到着するはずであった。
「まさか生きてもういちど太陽を拝めるなんてね」
山々の稜線を染める朝日に目を細め、アンジェラは感慨深げに呟く。
ダムは夜どおしの激戦が嘘みたいに静まりかえり、堤体上に佇む三人のほかには動くものさえない。
「それもこれもあんたのおかげだよ。ありがとう、シクロ」
しみじみと言って、アンジェラはシクロの頭を抱き寄せる。
「アンジェラ、ごめん――――」
「足のことなら気にしなくていいよ。吸血鬼に狙われて生命が助かっただけでじゅうぶん。手足の一本くらい安いもんさ」
アンジェラの右足は膝のあたりで失われている。
女吸血鬼の攻撃を受けてヴィルトハーゼが大破した際、歪んだ装甲板がアンジェラの右足をきつく挟み込んだのである。
装甲を取り除くほかに脱出の手はなかったが、沈みゆく発電所のなかではそれも叶わない。
それでも自分を助けようと悪戦苦闘するシクロのまえで、アンジェラはグルカナイフを握り、みずからの足を一刀のもとに切り落としたのだった。
麻酔なしで足を切断する激痛にも悲鳴ひとつ洩らさず、シクロとバビリエの肩を借りながらここまで歩いてきたのは、歴戦の傭兵ならではの剛勇と言うべきだろう。
「……といっても、この身体じゃウォーローダー乗りは
アンジェラはあくまで明るく言いのける。
その言葉には寸毫ほどの後悔も、前途への不安も感じられない。
「どのみち傭兵稼業はこれっきりにするつもりだったもの。未練も後腐れもなくて清々するわ」
「傭兵を辞めて、これからどうするの?」
「片足でも
あっけらかんと言ったアンジェラに、バビリエは「そういうことなら」と身を乗り出す。
「ここからそう遠くない場所に私の生まれ故郷がある。ちいさな集落だが、私が働けば当面の衣食住には不自由しないだろう」
「なーに、バビリエ。べつにあんたまで傭兵辞めることないじゃないの? ”
「冗談じゃない。あんな恐ろしい目に遭うのはもうこりごりだ」
恥ずかしげに言ったバビリエに、アンジェラとシクロはふっと相好を崩す。
それもつかのま、シクロはその場でくるりと踵を返す。
「あたしはもう行かなくちゃ。傭兵組合の救助はもうじき来るとおもう」
「ねえシクロ、あんたも……」
「アゼトがあたしの帰りを待ってる。それに……」
シクロは振り返らず、一歩を踏み出す。
その懐で、アンジェラが託した二振りのグルカナイフが軽妙な音を立てた。
「……あたしは
ふつうの人間のようには生きられない。生きてはいけない。
シクロがあえて口にしなかったその言葉に、アンジェラとバビリエはただうなずくことしかできなかった。
「じゃ、ね。二人とも元気で――――」
朝焼けの空にむかって駆け出したちいさな背中を、二人の女傭兵はいつまでも見つめていた。
【END】
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