CHAPTER 05:アコレード

 暗く深い淵に沈んでいたレーカの意識に、ひとすじの光明が差した。

 水のなかから引き上げられていくような感覚。

 やがて夢と現実うつつを隔てる水面みなもを抜けた人狼兵ライカントループの少女は、重い瞼を開いた。

 ぼやけた視覚より先に周囲の状況を捉えたのは、持ち前のするどい嗅覚だった。

 濃厚な血の匂い――それも、かなり近い。


「ひめ……さま……!?」


 レーカは弾かれたみたいに上体を起こすと、反射的に駆け出していた。


「姫様、どこに――――」


 言いさして、レーカはおもわず息を呑んだ。

 レーカの数メートル前方では、抜き身の長剣を手にした黒髪の少女が呆然と佇んでいる。

 刃先からは鮮血が滴り、足元に広がった血溜まりへと吸い込まれていく。

 その中心でうつ伏せに倒れているのは、銀灰色シルバーアッシュの髪を血に染めた吸血鬼の姫――リーズマリアにほかならなかった。


「き……貴様ぁっ!! よくも姫様を!!」


 レーカは怒声を放つや、鍔鳴りとともに剣を抜き放つ。

 人狼兵ライカントループにとって、主君を守ることはほかのなににも勝る至上命令である。

 主君に危害を加える者は、誰であろうと抹殺の対象となる。

 たとえ相手が至尊種ハイ・リネージュであったとしても例外ではない。


 ここに至って黒髪の少女――セフィリアはようやくレーカの存在に気づいたのか、はたと我に返ったように後じさる。


「あ……ち、ちがう!! 私はリーズマリア様の……!!」

「問答無用っ!!」


 レーカは裂帛の気合とともに剣を振るう。

 するどい斬閃が闇を裂き、セフィリアの喉元めがけて銀光が迸る。

 あと数ミリで首を断たれるというところでレーカの斬撃を躱しえたのは、吸血鬼の卓越した反射神経があればこそだ。

 セフィリアはとっさに飛びずさりつつ、狼狽しきった様子でレーカに両手を突き出す。

 戦う意志はないということを示す身振りだ。


「ま……まって!! 私の話を聞いて!!」

「だまれ!! よくも姫様のお命を……!! かくなる上は、貴様を殺して私も自害するまで!!」

「だから、誤解だと――――」


 セフィリアの弁明もむなしく、レーカは烈しい斬撃を繰り出す。

 怒りに燃える瞳からは大粒の涙がこぼれ、殺意を宿した剣筋は常にもまして冴えわたっている。

 一方、傷の癒えきらないセフィリアはレーカの鬼気迫る勢いに押され、致命傷を避けるのがせいいっぱいというありさまであった。

 セフィリアが木の根に足を取られ、ほんのわずか体勢を崩した一瞬を、レーカは見逃さなかった。


「姫様の仇、覚悟――ッ!!」


 渾身の力を込めて振り下ろされた刃は、セフィリアの胴体を袈裟懸けに斬り裂く――そのはずであった。


「……!?」


 レーカは剣を掲げたまま、まるで銅像と化したみたいに動きを止めていた。

 むろん、セフィリアへの敵意が萎えたわけではない。

 ふいに足首を掴まれたことで、攻撃のタイミングを見失ったのだ。


「やめ……なさい……レーカ……」


 リーズマリアは、レーカの足首を掴んだまま、消え入りそうな声で告げる。


「姫様!? ご無事だったのですか!?」

「剣を納めなさい、レーカ……すべては……私が望んだこと……」

「どういうことです!?」

「私がその者にのです……」


 血の海に身を横たえたまま、リーズマリアは切れ切れに言葉を継いでいく。


「……セフィリア・ヴェイド、よくやってくれました」

「リーズマリア様――――」

「うまく私の心臓を避け、周囲の骨と血管だけを切断してくれましたね。おかげで私はかぎりなく死に近づくことができました……」


 リーズマリアは苦しげに上体を起こすと、セフィリアに感謝を述べる。

 そして、抜き身の剣を握ったまま茫然と立ち尽くすレーカに、


「そういうことです、レーカ。彼女は敵ではありません……」


 それだけ言うと、咳き込みつつ荒い息を吐いた。

 すさまじい再生能力をもつ吸血鬼といえども、最大の弱点である心臓周辺へのダメージから立ち直ることは容易ではない。傷ついたのがほかの部位であれば、いまごろは傷跡も残さずに治癒しているはずなのだ。

 リーズマリアは、ノスフェライドの内蔵式アーマメント・ドレスを発動させるために、文字どおり生命がけの賭けに打って出たのだった。


「姫様がそう仰せなら、是非もございません……」


 レーカはセフィリアにするどい視線を向けたまま、不承不承ながら剣を納める。

 柄から指を離さないのは、警戒を解いていない証だ。


「ノスフェライドは――――アゼトさんはどうなりましたか」


 肩で息をしながら問いかけたリーズマリアに、レーカとセフィリアは黙したまま視線を俯ける。

 ノスフェライドとザラマンディアの戦いは、はるか成層圏の彼方で繰り広げられている。さらにどちらも極超音速で動き回っているとあれば、地上からその様子を窺い知ることはまずもって不可能だ。

 ときおり天から降りそそいだ轟音も、すこしまえからぱったりと途切れている。

 戦いはすでに終わってるとしても、どちらが生き残ったかはいまなお判然としないのである。


「アゼトは……」


 重苦しい沈黙のなか、口を開いたのはセフィリアだ。


「きっと勝ちます。じっさいに剣を交えた私が言うのですから、間違いはありません。彼は私よりずっと強い――」

「セフィリア・ヴェイド。あなたは純血の至尊種ハイ・リネージュでありながら、人間のほうが自分より優れていると認めるのですか?」

「戦いは結果がすべてです。私はアゼトに敗れただけでなく、生命までも救われました。相手が人間だからという理由でその事実から目を背ければ、私は至尊種ハイ・リネージュとしての最後の誇りまで失うことになります」


 決然と言い放ったセフィリアに、リーズマリアはふっと相好を崩す。


「そう思えるのであれば、あなたはもう私たちの仲間です」

「仲間……」

「人間か至尊種ハイ・リネージュかは重要ではないのです。私はふたつの種族が互いの存在を認め、尊重することができるような世界を作るために玉座をめざしています。あなたもその手伝いをしてくれますね、セフィリア」


 リーズマリアが言い終わるが早いか、セフィリアの瞳からは堰を切ったように涙の粒があふれだした。

 十三選帝侯クーアフュルストの地位も、ヴェイド家当主としての権能と財産も失い、至尊種ハイ・リネージュの社会から放逐された自分にも、まだ居場所がある。その喜びが、われ知らず滂沱の涙を流させたのだった。


「御意――」


 セフィリアは恭しくひざまずくと、リーズマリアにむけて佩剣を両手で捧げ持つ。

 リーズマリアは無言で鞘に収まったままの剣を取り、セフィリアの左肩にそっと押し当てる。

 皇帝と臣下とのあいだで交わされる契約の儀式アコレード

 本来であれば然るべき威儀を正したうえでおこなわれるものだが、その契約の重さに変わりはない。


「ここに主従の契りは成りました。セフィリア・ヴェイド、忠誠の証として、この剣を受け取りなさい」

「畏れ多くもありがたき幸せ――――この生命あるかぎり、血の一滴までリーズマリア・シメイズ・ルクヴァース様に捧げることを誓います」


 感極まったようにセフィリアが言った直後、はるか彼方の空で光がまたたいた。


 ブラッドローダー同士の死闘を制し、ふたたび戻ってきたのだ。

 問題はということだ。

 最悪の事態を想定し、セフィリアはゼルカーミラを呼び出そうと身構える。

 ザラマンディアに勝てる見込みがないことは承知している。それでも、主従の契りを結んだからには、身命をなげうってでも戦うのが臣下の務めなのだ。

 

 リーズマリアがふいに夜空を指差し、「あっ」と叫びを洩らしたのはそのときだった。


「ノスフェライド――――アゼトさんです‼︎」

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