CHAPTER 02:ミッシング・イン・フォレスト

 とうに陽は昇っているにもかかわらず、森はその内側に青い夜を留めていた。

 光合成の源である太陽を独占すべく、木々が鬱蒼たる枝葉を伸ばし、緑の天井を織りなしているためだ。

 ほかの木を力ずくで押しのけてでも自領テリトリーを拡大していくさまは、まさしく植物同士の戦争とよぶにふさわしい。

 ほんのわずかな間隙にも、樹木に絡みついたツタや寄生植物が入り込み、地上にはひとすじの木漏れ日すら差し込まない。

 ”迷宮の森”に迷い込んだ人間は、極端にとぼしい日照量のために体内時計に変調をきたし、遅かれはやかれ時間の感覚を失う。寝食を忘れて歩きまわったすえに、力尽きて白骨と化すのがお定まりだった。


 いまアゼトが進むのは、昼なお暗い森にあって、ひときわ闇が濃い一帯だった。

 背中には、太い枝とロープを組み合わせた即席の背負子を負っている。

 背負子にくくりつけられたは、アゼトが着ていた上衣ですっぽりと覆われ、外から内部の様子を窺うことはできない。


「……いつまでこうしているつもりだ、人間」


 がアゼトに問うた。

 少女らしく可憐な、それでいてどこか怨めしげな声であった。


「自力で歩けるなら、そうしてくれると助かる」

「侮るな。この程度のかすり傷、人間の力など借りなくても……」


 威勢よく言って、セフィリアはもぞもぞと身体を動かす。

 どさり――と、間の抜けた音をたてて背負子からすべり落ちたのは次の瞬間だ。

 どうにか腕の力だけで立ち上がろうとして、セフィリアは苦悶の表情を浮かべる。

 先の戦闘のダメージで、セフィリアの両足は膝下から潰されていた。

 骨も筋肉も砕かれ、いまや薄皮一枚でかろうじて繋がっているというありさまだ。

 人間ならただちに切断を余儀なくされるところだが、至尊種ハイ・リネージュの再生力ならば、放っておいても自然治癒する。


 もっとも、それも体調が万全であればの話だ。

 破壊されたセフィリアの内臓と背骨は、いまなお完治にはほどとおい。

 人間とは比べものにならない生命力をもつ吸血鬼といえども、不死の存在ではない。

 満身創痍の状態では、自力で立ち上がることさえむずかしいのである。


「分かっただろう。いくら至尊種ハイ・リネージュでも、その身体で歩くのは無理だ」


 くやしげに唇を噛みしめるセフィリアに、アゼトは手を差し伸べる。

 その手をおずおずと取りながら、セフィリアはためらいがちに問いかける。


「人間、ひとつだけ訊ききたい」

「その呼び方はやめてくれ。俺はアゼトだ」

「ならば、アゼト――どうして敵である私を助けるような真似をした? 貴様もリーズマリア・シメイズ・ルクヴァースの下僕なら、主人の生命を狙った私を殺すのが道理ではないのか」


 背負うものと背負われる者のあいだに、しんと静寂が降りた。

 やわらかな苔を踏みしめつつ、アゼトはひとりごちるみたいに語りはじめる。


「ひとつだけ言っておく。俺はリーズマリアの下僕じゃない」

「では、貴様はリーズマリアのなんだというのだ……?」

「正直言って、俺にもよくわからない。仲間とか友達とか、そんなありふれた言葉で説明できればきっと楽だろうな」


 言って、アゼトはふっと相好を崩す。


「ただ、俺はリーズマリアの願いを叶えてあげたいと思っている」

「願い……?」

「帝都ジーベンブルグに行き、至尊種ハイ・リネージュの次期皇帝になることだ。俺はそのためなら、どんな敵とでも戦う覚悟がある」


 決然と言い放ったアゼトに、セフィリアは聞こえよがしにため息をつく。


「願いと言うからなにかと思えば、けっきょく権力が欲しいだけか」

「いや――リーズマリアは、至尊種ハイ・リネージュが人間を支配するのではなく、おたがいが平和に共存できる世界を作ろうとしている。それを実現させることができるのは、至尊種ハイ・リネージュの皇帝だけだ」

「人間と、至尊種ハイ・リネージュの共存……!?」


 驚きのあまり、セフィリアはおもわずうわずった声を洩らしていた。

 しばらく物も言えない様子だったセフィリアは、ようよう言葉を継いでいく。


「狂っている。リーズマリア・ルクヴァースは、われわれ至尊種ハイ・リネージュを滅ぼすつもりなのか……」

「ちがう。こんな荒んだ世界がいつまでも続けば、人間にも至尊種ハイ・リネージュにも未来はない。つまらないプライドのために共倒れになるよりは、どちらも生き残れる道を探したほうがずっといいに決まっている」

「聖戦の勝利を――私たちの先祖が勝ち取った栄光を、みすみす手放せというのか!?」

「この世界だって、最初からこんなふうだったわけじゃない。人間と至尊種ハイ・リネージュはどこかで道を間違えたんだ。いまなら、まだ間に合うかもしれない……」


 セフィリアは「もういい」と言ったきり、縮こまるように身体を丸めた。

 小刻みに震えているのが背中越しにもわかる。声を殺して泣いているのだ。

 無理もないことだった。

 名門ヴェイド侯爵家の子女として幼いころから厳格な教育を受け、若くして当主の座を継承したセフィリアは、選帝侯クーアフュルストとしての誇りに支えられてきたのである。

 人間を支配することに疑問を抱いたことなど、むろんあろうはずもない。

 至尊種ハイ・リネージュにとって人間は生存に欠かせない血液を採取するための家畜であり、それ以上の何者でもないはずだった。

 先帝のただひとりの遺児であり、ゆくゆくは皇帝への即位が内定していたリーズマリアは、そんな人間との共存を願っている。至尊種ハイ・リネージュのなかで最も高貴な血を引く姫は、同胞ではなく、あろうことか人間の味方をしているのだ。

 貴族としてのアイデンティティの根幹を打ち崩されたセフィリアは、とめどもなくあふれる涙を拭うのがせいいっぱいだった。


「さっき、どうして自分を助けのかと訊いたな」


 アゼトは注意深く苔むした岩場を進みながら、問わず語りに語りはじめる。


吸血猟兵カサドレスという名前を聞いたことはあるか」

「知っている。聖戦で私たちの先祖を苦しめた怨敵だ。それとさっきの話にどういう関係が?」

「俺は吸血猟兵――その最後の生き残りだ」


 アゼトの告白に、セフィリアはおもわず息を呑んだ。


「俺は吸血鬼を殺すためだけに生まれた。この手で吸血鬼にとどめを刺したことも一度や二度じゃない」

「……」

「むかしの俺だったら、あのまま君を殺していただろう。相手が何者だろうと、吸血鬼というだけで殺す理由には充分だ。ずっとそれが正しいことだと思っていた。だけど……」


 アゼトはいったん言葉を切ると、深く息を吸い込む。


「だけど、いまはちがう。吸血鬼というだけで殺したりはしない」

「私は殺すに値しない弱者だと言いたいのか……?」

「そう思いたければ好きにすればいい。ただ、どうしてもあのまま放ってはおけなかった。君を助けたことに理由があるとすれば、たぶんそれだけだ――――」


***


 歩きはじめてから、すでに六時間あまりが経過していた。

 背負子に人を載せたままでの密林行は、常人なら一時間と経たずに音を上げるほどハードだ。

 アゼトはここまでほとんど休憩することなく、ハイペースで黙々と足を動かしている。

 一刻も早くリーズマリアたちが待つ合流地点に向かうためだ。

 アゼトも人間である以上、体力は無限ではない。それでも、逸る心が普段以上の力を引き出し、疲労感を麻痺させているのだった。


「人間――アゼト!!」


 背中からセフィリアに呼びかけられて、アゼトははたと我に返った。


「どうかしたのか?」

「すこし休んだほうがいいのではないか。人間は私たちと違って疲れやすいのだろう」

「俺のことなら気にしなくていい。いまは休憩する時間も惜しい……」


 言い終わらぬうちに、アゼトの身体がぐらりと傾いだ。

 手足はにわかに鉛と化したようだ。倒れかけた身体を起こすだけでも体力を消耗するのがわかる。

 アゼトはようよう姿勢を立て直すと、手近な樹洞ほらに転がり込む。

 呼吸は浅く早い。脈拍も乱れている。

 昨晩から蓄積した戦闘のダメージと疲労が、いまになってどっと噴出したのである。


「おい!! にんげ……アゼト、しっかりしろ」


 アゼトが薄目を開くと、大粒の紅い瞳と視線がかちあった。

 セフィリアは必死に平静をよそおっているが、狼狽は隠しきれない。

 無理もない。吸血貴族の令嬢として育てられた彼女には、傷病人を手当てした経験などないのである。

 アゼトが倒れた理由がただの過労なのか、それとも生死にかかわる重病なのか、セフィリアには判断がつかないのだ。


「痛むのか? 苦しいのか!?」

「いや……すこしふらついただけだ。ひと休みすれば問題ない」

「よかった――――」


 安堵の息を吐きかけて、セフィリアははたと口に手を当てた。

 いやしくも十三選帝侯クーアフュルストに列する自分が、下賤な人間、それも忌まわしい吸血猟兵カサドレスの身を案ずるなどあってはならない。

 人間など、至尊種ハイ・リネージュからみれば虫けらやドブネズミと変わらないのだから。

 セフィリアも、以前はそう思っていたはずなのだ。


「……なにか私に出来ることはあるか」


 それが自分の口から出た言葉だとは、当のセフィリアにも信じられなかった。

 アゼトは薄目を開いたまま、セフィリアにむかってうなずく。


「俺の上衣を……」

「上衣をどうするんだ」

「ポケットにちいさな箱が入っている……それを……」

「私が取ってやる。おまえはじっとしていろ」


 セフィリアは不慣れな手つきでポケットをまさぐる。

 こつん、と、指先が金属のケースに触れた。

 緊急用のサバイバル・キットだ。内部には一日分の水と乾燥携行食ドライレーション、固形燃料、粉末消毒剤や包帯といった品々がコンパクトにまとめられている。

 セフィリアはおろおろと蓋を閉じたり開けたりしつつ、助けを求めるようにアゼトに視線を向ける。


「どうすればいい……?」

「水筒……それと、包帯の下にある栄養錠剤をくれないか」

「人間はそんなもので病気が治るのだな」

「機械じゃないんだ。治るかどうかは分からないさ。でも、なにもしないよりはいい」


 アゼトは深く息を吸い込み、ぐっと上体を起こそうとする。

 ぐらりと姿勢が崩れた。

 セフィリアはあわててアゼトの両肩を掴むと、ふたたび樹洞の壁にもたせかからせる。


「病人はじっとしていろ。水と薬なら、私が飲ませてやる」

「ずいぶんやさしくしてくれるんだな」

「か……勘違いするな!! 貴様には借りがある。こんなところで勝手に死なれては、ヴェイド侯爵家の名誉に傷がつくというだけだ」


 薬を水で流し込むと、アゼトはほうとため息をついた。

 効きはじめるまではあと三十分ほどかかる。

 むろん、ほんとうに疲労が回復するわけではない。肉体は変わらず、ただ脳に疲れを感じにくくさせているだけなのだ。

 姑息な手だが、いまは動けるようになることが最優先だった。


「そういえば……」


 樹洞に身を横たえたアゼトは、セフィリアにふと問いかける。


「あのとき、”あねうえ”と言っていたな」

「なぜ、貴様がそのことを――――」

「やはり覚えていないか。ブラッドローダーのコクピットのなかで、たしかにそう言っているのを聞いた」


 わずかな沈黙のあと、セフィリアは顔をうつむかせたまま言葉を紡ぎはじめた。


「たしかに私には姉上がいた。ヴェイド女侯爵の称号も、ゼルカーミラも、ほんとうならすべてあの人が受け継ぐべきものだった」

「……」

「私が至尊種ハイ・リネージュに覚醒してまもなく、両親と姉を乗せた航空艇が墜落した。真昼の機外に投げ出された三人は、太陽を浴びて、そのまま……」


 セフィリアの声に嗚咽が混ざりはじめた。

 アゼトはなにもいわず、ただセフィリアの語るに任せている。


「姉上は……アニエス・ヴェイドは、私なんかよりずっと強くて、聡明で、優しい女性ひとだった。私はいつもアニエス姉上に守られてばかりで、ひとりじゃなにもできない弱い子供だった。自分がお飾りの選帝侯クーアフュルストだということくらい分かってる。捨て駒にされたのも、私にはその程度の値打ちしかないから。私なんかに姉上の代わりができるはずないもの――――」


 セフィリアはもはや外聞を取り繕うこともせず、声を上げて泣いている。

 亡き姉に及ばないことを知りながら、セフィリアはそれでも懸命に選帝侯としての務めを果たそうとしてきた。

 最高執政官ディートリヒとサルヴァトーレ・レガルスに裏切られたことで、最後の心の拠り所さえ失われたのだ。

 泣きじゃくるその姿は、もはや驕慢な吸血貴族ではなく、ひとりの傷ついた少女だった。

 

 そんなセフィリアからあえて視線を外したアゼトは、ひとりごちるみたいに語りはじめた。


「俺にも姉さんがいたよ。強くて優しくて、世界でいちばん大好きな姉さんだった」

「アゼト……」

「その姉さんも、もういない。だけど、俺はあの人の代わりになろうなんて思ったことは一度もない」


 アゼトはセフィリアに顔を向ける。

 泣き腫らした紅い瞳を拭いもせず、吸血鬼の少女はつよく唇をかみしめている。


「誰も誰かの代わりにはなれない。大切に思っている人なら、なおさらだ。姉さんの影を追いかけても、俺は俺にしかなれないのだから」

「私もそうだと言いたいのか……?」

「いいや。俺は自分の話をしただけだ。だれかに押し付けようなんて思っちゃいない」


 言って、アゼトはセフィリアに背を向けると、樹洞の奥へと歩き出した。

 

「薬が効いてきたようだ。すこし眠る。五分経ったら起こしてくれ」


 セフィリアは黙したまま、ちいさく肯んずる。

 やがて、ぽつりぽつりと、雨音が葉を打つ音が聞こえはじめた。

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