CHAPTER 06:シークレット・ベース

 アゼトはひたすらに夜の森を駆けつづけていた。

 身体のそこかしこにうっすらとにじむ赤い色は、大小さまざまの擦過傷だ。

 行く手をはばむ邪魔な枝葉を払うたび、傷は際限なく増えていく。

 その手に拳銃とナイフはない。いまや少年はまったくの丸腰だった。 


 樹木に付着した血の匂いを追跡トレースしながら、ザンナはあざけるようにささやく。


「まだを続けるつもりかい? ――せいぜい楽しませておくれよ」


 オオヤマネコの人狼兵ライカントループであるザンナは、人間をはるかに凌駕する走力をもつ。

 その気になればアゼトに追いつく程度はわけもない。

 あえてそうしないのは、久々の狩りをすこしでも楽しみたいという遊び心からだ。

 逃げる者を追い詰めることは、狩猟者の本能を刺激する最高のゲームなのだ。

 戦輪チャクラムで五体を切り裂くのは、獲物が体力のすべてを使い果たし、抵抗する気力も失せたあとでも遅くはない。

 逃げる元気があるうちは走り回らせておくほうが、ゲームを長く楽しめるというものだった。


(バカな人間。同じところをグルグル回っているとも知らずにさ……)


 輪形彷徨リング・ワンダリング――

 方向感覚を失った人間が、ちょうど円を描くようにおなじ場所を巡回する現象だ。

 周囲は夜闇に閉ざされているうえに、目印になるような建物や石もない。

 そのうえ、背後から敵に追い立てられているとなれば、歩測や木の幹に傷をつけるといった初歩的な遭難対策も取れないのである。

 知らず知らずのうちに、アゼトは逃げ場のない死の円環デス・サークルのなかに迷い込んだのだった。

 

 と、ふいにアゼトの足が止まった。

 なかばくずおれるように膝をつき、苦しげに肩を上下させている。

 ”吸血鬼殺し”のために作られた吸血猟兵カサドレスといえども、肉体的にはふつうの人間と変わらない。当然、その体力には限界がある。

 足場の悪い森林を、ここまで息も切らさずに駆けつづけたことこそ驚くべきであった。


「アンタ、人間にしてはなかなか根性があるね。だけど……」


 ザンナは一歩ずつ踏みしめるようにアゼトに近づいていく。


「追いかけっこはここでおしまいさ」


 戦輪チャクラムをアゼトの首めがけて振り下ろそうとしたまさにその瞬間、まばゆい閃光と炸裂音がほとばしった。


「ぐ……ああっ!!」


 戦輪を取り落としたザンナは、両手で顔を覆ったまま呻吟する。 

 人狼兵ライカントループの五感は人間よりはるかにすぐれている。

 それは同時に、予期せず強烈な刺激を受けた場合のダメージもおおきいということだ。

 至近距離で生じた閃光はザンナの網膜を焼き、炸裂音は聴覚と平衡感覚を奪った。

 どちらも一時的なものだが、傷ついた神経系が回復するまで身動きが取れないことに変わりはない。


「動くな」


 アゼトはザンナの背後でつぶやく。

 右腕でザンナの首を固め、左腕で握ったナイフをに押し当てる体勢である。

 強靱な肉体をほこる人狼兵といえども、脊椎と脳幹部を破壊されれば絶命はまぬがれない。

 アゼトがほんのすこしナイフを握る手に力を込めれば、するどい切っ先はたやすく脳へと達するだろう。

 

「キサマ、何をした……!!」

「曳光弾の燃焼薬フラッシュパウダーを使った即席の目くらましだ。準備するのにすこし時間はかかったが、どうやら効果はあったようだな」

「まさか、わざとおなじ場所を回っていたのか!?」

「そのほうが疲れずに済む――」


 アゼトはナイフの尖端をほんのわずか前進させる。


「言え。おまえの主人は誰だ? どこから指示を出している?」

「主人? ……そんなもの、どこにもいやしないよ」

「とぼけるな。人狼兵が吸血鬼の命令もなしに動くはずがない」

「信じるも信じないも勝手にすればいいさ」


 ザンナは嘲るみたいに鼻を鳴らす。


「尋問ごっこはもう終わりかい? さっさとトドメを刺さないと、あんたが死ぬことになるぜ。人狼兵を相手にいつまでもこうしていられないことくらい、よく分かってるんだろう」


 アゼトは何も答えず、ナイフを握る手にぐっと力を込める。

 切っ先がほんの数ミリ皮膚に潜ると同時に、ザンナのうなじに赤いものが流れていく。

 刃が頸骨に触れるかという瞬間、アゼトの顔面すれすれを何かが掠めた。


「――そこまでにしてもらおう」


 声は頭上から降ってきた。

 とっさに顔を上げたアゼトは、樹上に立つ奇妙な人影を認めた。

 首から下は小柄な人間だが、黄金色の巨大な眼と平たい顔立ちは、まさしくフクロウのそれだ。

 クロスボウを構えたまま、フクロウの人狼兵は凝然とアゼトを見据えている。


「シギン!! こいつはあたしの獲物だ。余計な手出しは無用だよ!!」


 ザンナは首筋にナイフを突きつけられていることも忘れ、フクロウの人狼兵――シギンにむかって吠える。


「ザンナ、おまえもだ。ただちに戦闘を停止しろ」

「なんだって?」

「ユヴァ隊長からじきじきの命令だ。……彼らは敵ではない」


 言って、シギンは音もなく樹上から舞い降りる。

 そのままクロスボウを地面に置くと、アゼトにむかって慇懃に一礼したのだった。


「聞いてのとおりだ。我々に敵対の意思はない。武器を収めてもらえないか」


 アゼトは答えず、二人の人狼兵を交互に見やる。

 わずかな沈黙のあと、ふいにアゼトはザンナから身体を離した。それが返答の代わりだった。


「納得いかないね――この人間はあたしたちの縄張りを侵したんだ。そんな連中は、いままでは一人残らず殺してきたじゃないか。ユヴァ隊長はどういうつもりなんだ!?」


 ザンナは眉を逆立て、殺意のこもった目でシギンを睨めつける。

 返答如何によっては、仲間同士で戦うことも辞さないつもりなのだ。

 シギンはふっとため息をつくと、聞き分けのない子供を諭すみたいに語りはじめた。


「聞け、ザンナ。……この人間は、十三選帝侯クーアフュルストリーズマリア・シメイズ・ルクヴァース姫殿下の護衛だ」

「なんだって?」

の血族に手向かうことは許されん。たとえ配下の人間であっても、だ」


 ザンナはそれ以上なにも言わなかった。

 ただ茫然とうなだれ、唇を噛むのが精一杯なのだ。


「どういうことだ? おまえたちはいったい何者なんだ」


 困惑気味に問うたアゼトに、シギンはちいさく肯んじる。


「まずは我々のまでご同行ねがおう。姫殿下もそこにおられる――」


***


 地下へと降りるトンネルは、木立のなかにひっそりと佇んでいた。

 トンネルといっても、大人ひとりがやっと通れる程度の幅しかない。

 周囲は木々に埋めつくされ、背の高い雑草が朽ちかけたコンクリートを緑に染めている。

 上空はむろん、地上からも発見することは困難だろう。数十メートルの距離に近づくまでは、アゼトさえその存在に気づかなかったのだ。


 ザンナを先頭に、シギン、最後尾にアゼトという並びでトンネル内に入る。

 ほんのすこしまえまで殺し合いを演じていただけあって、ザンナとアゼトのあいだにはいまなお戦いの余塵がくすぶっている。

 シギンが間に入ったのは、そんなふたりの緊張をやわらげ、万が一の暴発を阻止するためだった。

 

「この道はどこまで続いているんだ」


 アゼトは誰に問うでもなく口にした。

 トンネルに足を踏み入れてから百メートルあまり。

 周囲は完全な闇に閉ざされ、三人の足音だけがむなしく反響している。

 地下水が染み出しているのか、足元は乾いたコンクリートと湿った泥とがまだらに入り混じっているようだ。

 逃げ場はなく、足場も悪い。もし罠だとすれば、きわめて危険な状況であった。


「隠れ家だと言っただろう。ついてくればわかる」


 ザンナは前を向いたまま、いまいましげに吐き捨てる。

 

「心配しなくても、罠にはめて殺そうなんて思っちゃいないさ」

「……」

「おや、図星だったかい? あたしだけなら遠慮なくやってるが、あいにくお目付役がいるんでね」


 ザンナの乾いた笑い声がトンネル内にこだました。


「静かにしろ、ザンナ。……しばらくその場を動かないように」


 シギンは足を止めると、かたわらの壁面に手を当てる。

 どうやら隠し扉の操作パネルらしいが、アゼトの目にはほかの部分と同様、闇一色に塗り込められた壁としかみえない。

 重い駆動音とともに地面が揺れたのはそのときだった。

 より正確にいえば、三人の立っている床面がいったん浮き上がり、それから下降をはじめたのだ。

 三人を乗せた床は、垂直の竪穴シャフトをすべるように、地底へと沈んでいく。


「……っ」


 床が停止したのと、周囲が明るくなったのは同時だった。

 あまりに急激な明暗の変化に、アゼトはとっさに両目をかばう。

 ようやくまぶしさに慣れ、薄目を開いたアゼトは、そのまま言葉を失った。


 目の前に広がっているのは、高さ三十メートル、幅と奥行きはそれぞれ一キロ以上はあろうかという広大な地下空間だ。

 耐爆コンクリートで固められた壁面には、地上につながるエレベーター・シャフトが何基も備えつけられている。小型のものは人間用、大型のものは戦車や垂直離着陸VTOL機、そしてウォーローダーを発進させるためのものだろう。

 あたりに整然と並んだ兵舎らしき建物の屋根には、人類軍のエンブレムがうっすらと残っている。

 最終戦争の末期、劣勢に追い込まれた旧人類軍がひそかに建設した地下基地であった。


「あれは――」


 兵舎のむこうに陸運艇ランドスクーナーを見つけたとたん、アゼトは脇目もふらずに駆けだしていた。

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