CHAPTER 04:トゥルー・ヴァンパイア
無秩序に重なりあった枝葉の下で、闇はいっそうその濃さを増した。
いま、文字どおり咫尺も弁ぜぬ暗闇の只中を、おそるべき疾さで駆けてゆく三つの影がある。
先頭を行く大柄な影と、その背に付き従う小柄な影が二つ。
足音はむろん、葉擦れや下草を踏みしだくわずかな物音さえ立てず、三つの影はひたすらに駆けつづける。
と、その姿がふいにかき消えた。
地上十メートルほどの樹上へと垂直にその身を躍らせたのだ。
やはり無音の跳躍は、おそるべき脚力と熟練の
「例の
小声で問うたのは大柄な影だ。
ゆうに二百キロ以上はある巨躯を片腕だけで支えながら、まるで木の幹と一体化したみたいに微動だにしない。
たくましい四肢を鎧うのは、甲冑を彷彿させる灰色の分厚い皮膚である。
ほとんど肩に埋まった太い頸が頂くのは、鼻先に短い角をそなえた
「まちがいない。十時の方向、距離はおよそ五・八キロ……」
「敵の数は? ウォーローダーはどうだ?」
「船外には誰もいない。ウォーローダーもあの機体だけのようだ、コルプ副長」
ふたつの小柄な影のうち、ずんぐりとした一方――シギンが答えた。
コルプ同様、人間とはかけはなれた容姿をもつ男である。
ほとんど起伏のない平坦で丸い顔。その大部分を占めるのは、巨大な薄金色の眼であった。
フクロウの視力を付与された人狼兵シギンには、ぬばたまの闇も、重なりあった枝葉も、なんらの障害とはならない。
皿のような眼をうめつくす視細胞は、外界のかすかな光を数千倍にも増幅し、網膜に鮮明な像を結ぶのだ。
コルプはしばらく考え込むように瞼を閉ざしていたが、
「シギンはここに残って監視をつづけろ。ノイエル、おまえは私と来い――」
言って、シギンの傍らに控えるもうひとつの影にむかって顎をしゃくる。
「
一瞬の間をおいて返ってきたのは、抑揚に乏しい女の声だった。
半人半獣といった風情のコルプとシギンに較べれば、ほとんど人間と見分けのつかない
戦闘服からのぞく首や胸元の皮膚は、しかし、あきらかに人間のそれとは様相を異にしている。
無数の金属板を貼り付けたようにもみえる幾何学模様は、爬虫類の
「ゆくぞ――」
シギンをその場に残し、コルプとノイエルは樹下へとその身を躍らせていた。
***
無紫外線灯の淡い光が降りそそぐ通路も、広々としたラウンジ・スペースも、ひっそりと静まりかえっている。
いま、
所在なさげに細く白い指を弄いつつ、椅子に背中をもたせかけた少女は、ほうとため息をつく。
「アゼトさんも、レーカも、ずいぶん遠くまで様子を見に行ったのですね」
リーズマリア・シメイズ・ルクヴァース。
二人が出ていってからというもの、
もっとも、高度なセキュリティに守られているうえに、彼女も生態系の頂点に君臨する地上最強の生命体――吸血鬼なのである。
アゼトとレーカが出払っているあいだに不測の事態が生起したとしても、自分の身くらいは十二分に守ってみせるという自負が、リーズマリアにはある。
たったひとり留守を守る吸血鬼の姫は、ふたたび長い溜息をつく。
「ふたりとも、早く帰ってくるといいのに……」
二人が出払っているのは、護衛としての職務を果たすためであることは重々承知している。
それでも、たったひとり
二人のうちどちらかでも帰ってきてくれれば、こんな気分もすぐに晴れるのに……。
そう思いさしたとき、リーズマリアの聴覚は、船外でなにかが動く音を察知していた。
「アゼトさんとレーカ――では、ないようですね……」
言い終わるが早いか、リーズマリアはすばやく動き出していた。
時刻はすでに夜半を回っている。吸血鬼にとっての最大の弱点である太陽光をおそれる必要はないということだ。
それどころか、午前零時から日の出までの数時間は、吸血鬼の生体ポテンシャルが最大化する時間帯なのである。
夜が深くなるにつれ、吸血鬼の全細胞は水を得た魚のように活性化し、夜明け前にその
音もなく陸運艇の外に出たリーズマリアは、息を殺して周囲の状況をうかがう。
近づいてくる気配はふたつ。
左右に分かれているところから察するに、どうやら船を挟み撃ちにしようという腹積もりらしい。
(そう簡単に行くと思ったら、大間違いというものですよ――)
心のなかでつぶやいて、リーズマリアは敵の一方に視線を向ける。
サイ型の
ゆうに二メートル半はあろうかという巨体の持ち主である。
手にした大ぶりな
いかにも鈍重そうな外見に反して、その動きはじつに敏捷で隙がない。
かなりの手練であることはひと目で知れた。ほかの選帝侯が差し向けた刺客であるなら、早々に片付けておくに越したことはない。
と、リーズマリアの背中にぞわりと異様な感覚が走り抜けたのはそのときだった。
とっさに首だけで背後を振り返る。
刹那、紅い瞳に映ったのは、身の丈ほどもある
――いつのまにこんな距離にまで接近を許したのか?
疑問は尽きないが、ともかくも、回避しなければ攻撃をまともに受けることになる。
不老不死の
至尊種の心臓は、心臓と脳の機能を兼ね備えた
彼らの頭蓋骨内を充たしているのは、おもに五感と短期記憶を司る巨大な神経塊にすぎず、運動や代謝といった重要な機能は脊椎と心臓に広く分散されている。
そのため、首を切断されても生命維持に支障はないが、心臓を破壊されたとなれば話はべつだ。再生能力と肉体の制御中枢を同時に失うことは、とりもなおさず死を意味するのだ。
「……」
トカゲの人狼兵――ノイエルは、黙したままリーズマリアににじり寄る。
チタン・セラミクス
それは、吸血鬼の肉体に致命傷を与えうる数少ない武器のひとつであった。
「ひとつだけ訊きます。いったいだれの差し金で私を狙うのです?」
「……」
「答えるつもりはない、ということですか
――」
リーズマリアが言い終わるのを待たず、コルプとノイエルは同時に地を蹴った。
コルプは低く、ノイエルは高く。
それぞれ別の軌道を描いて跳んだ二体の人狼兵は、脇目も振らずリーズマリアめがけて殺到する。
進めば蛮刀に両断され、退けば電磁槍に貫かれる……。
あやまたず標的を仕留める絶妙のコンビネーションを用いて、彼らは数えきれないほどの敵を葬り去ってきたのだ。
吸血鬼といえども、この状況に追い込まれたが最期、もはや生き残る術はない――そのはずだった。
「バカな……ッ!?」
コルプの口から驚嘆の叫びが洩れた。
全体重をかけて振り下ろした蛮刀は、リーズマリアの額すれすれで停止している。
むろん、コルプがみずからの意思で刃を止めたのではない。
白い繊手が蛮刀の
コルプはなおも力を込めて
「副長、私が殺る」
言いざま、ノイエルの手元でするどい銀光が閃いた。
すさまじい疾さで繰り出された
吸血鬼の動体視力ならばその軌跡を見切ることもできようが、片手で蛮刀を食い止めた状態では躱しようもない。
首元から突き込まれた穂先は、寸毫ほどの狂いもなくリーズマリアの心臓を貫き、細い身体をそのまま串刺しにするだろう。ノイエルの脳裏には、返り血をあびたおのれの姿までもがありありと描き出されていく。
勝利を確信したその瞬間、ノイエルの視界が反転した。
はげしい衝撃が脳天を揺さぶる。頭蓋骨と背骨がめりめりと軋りを立てる。
ノイエルが自分の置かれている状況を理解したのは、蛮刀の刃に顔面を押し付けられる寸前だった。
蛮刀の脊とノイエルの頭は、どちらも白くたおやかな指に掴み取られている。
リーズマリアがほんのすこし両手に力を込めれば、夜闇にたちまち真紅の花が咲くだろう。
「最後にもう一度だけ、あなたたちに返答の機会を与えます」
リーズマリアは長い溜息をつくと、いつになく低く、そして凄みのある声で問うた。
「だれの命令で私を狙ったのですか。質問に答えるか死ぬか、この場で選びなさい」
わずかな沈黙のあと、コルプが重い口を開いた。
「……だ、誰の命令でもない」
「
「我々は主君を持たないはぐれだ。この森に侵入してきた外敵は、何者だろうと排除する。たとえ
「つまり、私の素性を知ったうえで生命を狙ったわけではないと……」
転瞬、耳を聾する爆音がリーズマリアの声を遮った。
ほんの数秒前まで暗く沈んでいた木々は赤く染まり、幾筋もの白煙が夜空に沖している。
断続的な爆発と閃光のまにまに、アルキメディアン・スクリューの甲高い駆動音がこだまする。
ウォーローダー同士の戦いが始まったのだ。
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