CHAPTER 02:グリーン・ラビリンス
ほのじろい月明かりが森をあわく染めていた。
時刻はちょうど夜半を過ぎたところ。
ときおり木々の梢を揺らす風のほかには物音もなく、見渡すかぎりの広大な森林は、不気味なほどに静まり返っている。
夜目の効く者であれば、
ゆうに一○○メートル以上はあろうかという巨木の群れが、先を争うように天へと挑んでいるのである。
それら大木の太い幹には、細い樹木やツタがおびただしく寄生し、どこまでが本来の姿なのかさえ判然としない。
地面に目を向ければ、多種多様な
耳をすませば、ぶん――と、
滋養豊富な植物をめあてに、腹を空かせた昆虫たちがほうぼうからやってきたのだ。
樹木に菌類、昆虫……かつては珍しくもなかった自然の営みも、
正真正銘、荒廃しきった世界に残された数少ない自然の楽園であった。
下草を踏む音をともなって、人影が現れたのはそのときだった。
「たしかにこの方角でまちがいないはずだが……」
金髪の少女は、周囲をひとわたり見渡すと、困惑気味にひとりごちた。
感情に呼応するみたいに、頭頂部のあたりでひょこひょこと動くものがある。
毛髪とおなじ金の
吸血鬼がみずからの忠実な
人狼兵となった人間は、身体能力が大幅に強化されるだけでなく、さまざまな動物を模した外見的特徴を与えられるのが常だ。
少女の耳は、彼女が人間と吸血鬼のどちらにも属さない第三の種族であることの証にほかならなかった。
胸元に引っかけていた
「……レーカ、なにか見つかったか?」
問いかけたのは、まだ幼さをのこした少年の声だ。
ひとわたり周囲を見渡したあと、人狼兵の少女――レーカは首を横に振る。
「だめだ。どこまで行っても森ばかりで、目印になりそうなものはなにもない。アゼト、そっちはどうだ?」
「残念だが、俺もおなじだ。そろそろ
アゼトの言葉に「了解」と短く応えて、レーカは通話スイッチを切る。
「一度足を踏み入れたら二度とは出られない”
誰にともなくひとりごちた言葉には、隠しようのない不安と焦燥とが滲んでいた。
***
イザール侯爵領を発ったリーズマリア一行は、帝都ジーベンブルグめざして西へと針路を取った。
目的地が決まっているとなれば、のこる問題はどのルートを選ぶかだ。
おなじように長い道のりを旅する
沿道には大小さまざまの集落が存在するうえ、交易商人が主催する
むろん、利点ばかりではない。
各地を支配する
領内への
ノスフェライドとヴェルフィンの性能であれば強行突破も不可能ではないが、このさきの長い道のりを考えれば、むだな戦闘は避けるに越したことはない。
けっきょく、一行は大交易路をおおきく外れるルートを選択した。
イザール侯爵領の西南五百キロに存在する広大な森林地帯――”
”迷宮の森”について分かっていることはすくない。
異常繁殖した巨大植物が分厚いヴェールとなって大地を覆い隠し、森の内部がどうなっているかは杳としてうかがえないのである。
一説には破棄された生物・化学兵器プラントの跡地とも言われるが、いまとなっては真実を知る術もない。
いずれにせよ、ひとたび足を踏み入れれば二度と生きて出られない魔の森とは、けっして誇張ではないのだ。
また、その特殊な環境のため、”迷宮の森”の一帯は、どの選帝侯の領地にも属さない空白地帯となっている。
ふつうの旅人であれば候補にも入らないルートだからこそ、人目を忍ぶ旅にはこれ以上ないほど好都合――そのはずだった。
***
「……まいったな」
手元の情報端末には、現在地と周辺の地図、目的地までのガイドマーカーが表示されている。
もっとも、そのどれもが当てにならないとなれば、高性能端末も石くれと大差はない。
”迷宮の森”に入ってしばらくのあいだは、機器類も問題なく作動していた。――というよりは、何度もおなじ場所を通過しているらしいという疑いを抱かなければ、異常に気づくことさえ出来なかっただろう。
(ノスフェライドのセンサーを使えば……)
思いかけて、アゼトは首を横に振る。
ブラッドローダーのなかでも最上級に位置づけられる
上空から森の全域をスキャンすれば、たちどころに正しいコースを導き出すことも可能だ。
問題は、センサーの能力を遺憾なく発揮するためには、一定の高度まで上昇する必要があるということだ。
八百年の永きにわたる支配のなかで、吸血鬼は人類からあらゆる飛行手段を奪い去った。飛行機やヘリコプターは言うに及ばず、グライダーや気球、果ては凧のような遊具さえも、人間が所持することは堅く禁じられているのである。
今日、鳥のほかに空を飛ぶものといえば、吸血鬼が運用する
そのうえ、静止軌道上には、最終戦争で打ち上げられた
地上を移動しているあいだは心配ないが、空を飛んだとあれば話は別だ。
たとえほんの数秒であっても、飛行物体は即座に
こちらの所在を知られてしまったなら、あえて大交易路を避けて”迷宮の
敵の目をかいくぐりつつ、機械に頼ることなく森を抜ける方法を見つけ出す……。
そんな難題をまえに、アゼトはまさに思案投げ首といった様子で立ち尽くしている。
と、ふいに背後に気配を感じたのはそのときだった。
足音が聴こえたわけではない。息遣いや葉擦れの音も、また。
確実に言えるのは、何者かが息を詰めて近づいているということだけだ。
野生の獣によく似た、しかしまるで異質な気配は、なおもアゼトに近づいてくる。
「……レーカ、そこにいるのか?」
アゼトは振り向かず、声だけで
レーカでないことは分かりきっている。
ふつうの人間ではこうまで巧みに気配を消すことはできない。
はたして、そいつはあいかわらず
(まさか、吸血鬼か!?)
アゼトは油断している風を装いつつ、さりげなく上衣のポケットをまさぐる。
指先にひんやりとした金属の感触が触れた。
もし敵が吸血鬼だとすれば、この距離では銃は役に立たない。
それどころか銃口をふさがれ、暴発させられる危険もある。人間が同じことをすれば指を失うが、吸血鬼であれば指の一本や二本が欠けたところで数分と経たずに再生するのだ。
そいつが足音も立てずに疾走に移ったのと、アゼトが身体を反転させたのは同時だった。
刹那、少年の手のなかでするどい銀光が閃いた。
月明かりを反射して輝くそれは、掌にわずかに余るほどの小ぶりな
護身用に携帯していた二本のナイフを組み合わせ、アゼトはポケットのなかで即席の十字架を作り上げたのだった。
いかなる
それも、ただ恐れ嫌うというだけではない。十字架をひと目見た瞬間、彼らの肉体は耐えがたいほどの苦痛に苛まれるのだ。
あらゆる生物種の頂点に君臨し、みずからを
もっとも、はるか天上にあって抗う術さえない太陽に対して、十字架はしょせん人間が作り出した物体にすぎない。
じゅうぶんな執念と敵意さえあれば、この世から痕跡も残さずに消し去ってしまうことも不可能ではないということだ。
最終戦争に勝利し、人類を完全な支配下に置いた吸血鬼たちは、大規模な十字架狩りに着手した。
世界じゅうから集められた大量の十字架はすべて鋳潰され、聖人にまつわる美術品はことごとく破壊されたのである。
並行して聖職者や信徒たちへの無差別殺戮の嵐が吹き荒れたことは、あえて付け加えるまでもないだろう。
それから八百年あまりが経過した現在では、市井の人間たちは十字架が吸血鬼の弱点であることさえ知らずにいる。
「――!!」
もはや気配を消す努力も放棄したそいつは、力強く地を蹴ると、アゼトめがけて飛びかかった。
十字架を突きつけられているにもかかわらず、うめき声も洩らさず、苦痛によろめく素振りもない。
それも当然だ。
ほのかな月あかりに浮かび上がった
「……
アゼトの視線の先に佇むのは、すらりとした体躯の若い女だった。
ほとんどオレンジに近い
顔かたちは人間そのものだが、おおきく裂けた真っ赤な口腔からは、するどい長い牙がのぞく。
その特異な外観は、かつて自然界に生息していたオオヤマネコの特徴にぴたりと符合する。
人狼兵のご多分に漏れず、目の前の女も、すでに絶滅した野生動物を模して作られているらしい。
いつのまに取り出したのか、両手の指は何枚かの
コントロールのむずかしい武器だが、その威力はあなどれない。達人がもちいれば、間合いを保ったまま敵の四肢を切断する程度は訳もなくやってのけるのだ。
(ノスフェライドを――)
アゼトが飛びずさるより疾く、オオヤマネコの人狼兵はおおきく跳躍していた。
ちりん――と、澄んだ音を響かせて、数枚の
おそるべき凶刃の群れは、先を競うようにアゼトめがけて襲いかかった。
「くっ……!!」
アゼトはほとんど無意識に地を蹴ると、横合いの木立へと飛び込む。
転瞬、シャラシャラと軽妙な音が鳴りわたった。
はたして、地面から二十センチほどを残して、壁のように茂っていた木立は幻みたいに消滅していた。
戦輪の音色はしだいに遠ざかっていく。
その機を逃さず、うつぶせの姿勢で地面に這いつくばっていたアゼトは、すばやく左腰のホルスターに手を伸ばす。
いちど投げた
だが、木々を切断したことで軌道が逸れたとなれば話は別だ。
もはや敵の手に戦輪が戻ることはない。
次の一手を仕掛けるためには、あらためて攻撃態勢を取る必要がある。
仕掛けるなら、いまこの一瞬こそが無二の
肉体的には常人と変わらないアゼトにとって、
失敗した場合のリスクは重々承知している。ただ逃げ隠れるだけでこの場をやりすごせるほど甘い相手でないことも、また。
オレンジがかった
隠し持っていた戦輪を指に引っかけた女人狼兵は、二度目の攻撃にむけて予備動作に入ったのだ。
アゼトは銃を構え、すかさず敵の眉間に
と――虫の羽ばたきにも似た奇妙な音が聞こえたのはそのときだった。
ふつうなら気にも留めないごくごくちいさな音。
それでも、アゼトの脳に埋め込まれたチップに宿る歴代の
アゼトはためらいもなく、ともすれば大げさなほどの動作で横っ飛びに飛んだ。
刹那、ほとんど垂直に落下してきたのは、先ほど木々を薙ぎ倒した
いったん標的から遠ざかったように見せかけたあと、戦輪ははるか上空へ舞い上がり、襲いかかるチャンスを狙っていたのである。
猛禽もかくやという挙動を演ぜしめたのは、女人狼兵の卓絶した技量の賜物であった。
「へえ、やるじゃない。アタシの変幻自在の
女人狼兵の言葉には、獲物を仕留めそこねた口惜しさどころか、どこかうれしそうな響きさえある。
戦輪を指先で回しながら、ネコ科特有の細長い瞳でアゼトを見据える。
「殺しちまう前に名乗っておこうか。アタシはザンナ。アタシたちの縄張りに土足で入り込んだのが運の尽きだったね、ボウヤ」
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