CHAPTER 05:ジ・インターリュード

 水泡みなわのはじける音がまどろみをさまたげた。


 アゼトは壁に背をもたせたまま、薄くまぶたを開く。

 闘技場コロシアムから戻ったあと、いつのまにか寝入ってしまったらしい。

 それほど長く眠っていたつもりはないが、実際にどれくらい時間が経ったかは判然としない。

 太陽の高さからおおよその時刻を推測しようにも、窓のない部屋ではそれも望めなかった。

 

「おはようございます、アゼトさん――――」


 アゼトの視界の片隅で銀色の長い髪が揺れた。

 顔を上げれば、柘榴石ガーネットのような紅い瞳と目が合った。

 アゼトが目を覚ましていることをたしかめて、リーズマリアはふっと微笑みを浮かべる。

 遮光ゴーグルをかけていないのは、素性を隠す必要がないことに加えて、この場所が太陽光の差し込まない地下室だからだ。

 バスラルでの一行の仮住まいとしてケイトが提供した地下倉庫である。

 もともとは戦前に核シェルターとして建設された地下壕バンカーであった。

 天井と壁面は分厚い耐爆コンクリートで固められ、八百年を経たいまも充分な気密性を保っている。


「……おはよう。すこし眠りすぎたかな」

「いいえ、ほんの四時間ほどですよ。横になってもうすこし休まれたほうがいいのでは?」

「ありがとう。でも、もう大丈夫だ」


 アゼトはこともなげに言って、ぐっと身体を伸ばす。

 吸血猟兵カサドレスの睡眠時間は常人よりも短く、そして浅い。

 必要とあれば、一時間にも満たない仮眠だけで数日は戦うことが出来るのである。

 四時間もすることができたのは、それだけ心身が疲労していたことの証だった。


 アゼトはひとわたり室内を見渡したあと、リーズマリアに問うた。


「レーカは……?」

「すこしまえにケイトさんといっしょに出ていきました。トランスポーターとヴェルフィンを取りに行くと」


 ヴェルフィンを載せたトランスポーターは、昨夜から街外れに置いたままだ。

 荷台をカバーで覆い、車両自体も人目につかない岩陰に隠してあるとはいえ、盗難に遭わないという保証はどこにもない。

 できるだけ早いうちに安全な場所に移動させるのは、なるほど賢明な判断といえた。

 

「そういうことなら、俺も付き合ったのにな」

「レーカがアゼトさんを起こさないようにと言ったのです。あの子なりの気遣いなのでしょう」


 言いかけて、リーズマリアは「あ」と声を上げた。

 テーブルに駆け寄ると、あわてて電熱調理器のスイッチを切る。

 さきほどから沸騰していた湯は、あとすこしで鍋から吹きこぼれるところだった。

 湯気がもうもうと立ち込めるなか、リーズマリアは白い指先を躊躇なく熱湯に浸ける。

 人間ならいざしらず、至尊種ハイ・リネージュ――吸血鬼はこの程度で熱傷やけどを負うことはない。火炎放射器やナパーム弾で全身を焼かれたとしても、熱による組織損傷はせいぜい表皮にとどまり、それすらもたちどころに再生するのである。熱湯に指を浸けた程度であれば、痛痒とも感じないのだ。

 やがてリーズマリアが鍋のなかから取り出したのは、熱せられたことですっかり膨らんだ缶詰だった。

 

「さっきカナンが持ってきてくれたのですけど……ごめんなさい。火が通りすぎてしまったかもしれません」


 プルタブを開けると、脂の香りが立ちのぼった。

 定番の塩漬け合成肉と煮豆ポーク・アンド・ビーンズだ。

 もともと戦時中に人類軍の戦闘糧食レーションとして開発されたものだが、終戦から八百年を経た現在も大量に出回っている品である。

 数年おきに廃墟からまとまった量の死蔵品デッドストックが見つかるとも、あるいは戦火をまぬがれた戦前の自動生産プラントがいまなお稼働し続けているとも言われるが、実際のところはだれにもわからない。

 確実に言えるのは、この時代の食べ物のなかでは比較的上等な部類に入るということだけだ。


「アゼトさん、もし味がおかしかったら言ってくださいね」

「このくらいどうってことはない。せっかく用意してくれたんだし、ありがたくいただくよ」


 合成肉の塩辛さも、気の抜けたような豆の食感も、いまのアゼトには気にならなかった。

 アゼトの意識を占めているのは、ほんの数時間前に闘技場コロシアムで目の当たりにした光景だ。

 傭兵カーヴィルとチャンピオン――レディ・Mの試合は、見る者にそれほど鮮烈な印象を与えずにはおかなかったのである。


 試合開始のゴングが鳴ったあと――。

 カーヴィルの駆るホルニッセは、レディ・Mのツィーゲ・ゼクスにすさまじい猛攻をかけた。

 ホルニッセの武器は、左右の手に携えた長短一対のスピアだ。

 間合いリーチの異なる二本の槍は、それぞれが攻撃と防御を担い、しかもその役割は臨機応変に入れ替わる。

 一対一の戦闘においてこれほど厄介な相手はいない。

 攻めるも守るも、戦いの主導権はカーヴィルが握っている。

 はたして、ホルニッセが繰り出す息もつかせぬ連撃に、ツィーゲ・ゼクスはたちまち追い詰められていった。

 大薙刀グレイブをたくみに操って槍を受け流し、紙一重のところで攻撃を躱してはいるものの、劣勢であることに変わりはない。


 そうするうちに、ホルニッセの挙動にあきらかな変化が生じた。

 いよいよツィーゲ・ゼクスにトドメを刺そうというのだ。

 颶風を巻いて二条の銀光が閃いた。

 二方向からの同時攻撃。

 たとえ一本を捌いたとしても、残る一本がすかさず襲いかかる。

 これまで幾多の強敵を屠ってきた、それはカーヴィルの奥の手だった。


 もはや勝負は決した――観客席の誰もがそう思ったとき、するどい衝撃が闘技場を駆け抜けていった。

 一瞬の間をおいて、ホルニッセの上体がななめに

 なめらかな切断面からは青白い火花スパークとオイル、そしておびただしい量の血しぶきが噴き上がる。

 槍先が触れようかというまさにその瞬間、ツィーゲ・ゼクスは倏忽の疾さで大薙刀を振るい、ホルニッセの胴体を袈裟懸けに両断したのである。

 カーヴィルは自分の身になにが起こったか理解するまえに絶命しただろう。

 レディ・Mは守勢に追い込まれていたわけではなかった。敵の油断をさそい、一瞬の隙を突くために、あえて思うさま打たせていたのだ。

 その証拠に、ツィーゲ・ゼクスは試合開始から決着までほとんどその場から動いていない。

 高度な操縦技術はむろんのこと、必要とあればみずからの生命さえ惜しまない胆力を持ち合わせていなければ不可能な芸当だった。


 闘技場コロシアムの頂点に君臨する絶対王者チャンピオン――。

 美しく気高く、そして悽愴な鬼気を帯びたその佇まいは、いまもアゼトの瞼に焼きついて離れない。

 

「君は食べなくていいのか?」


 無心にスプーンを口に運んでいたアゼトは、ふとリーズマリアに問うた。


「私のことは気にしないでください」

「だけど、しばらくまともに食べてないんじゃないか。こういう食べ物は口に合わないかもしれないけど……」

「そんなことは――これでも子供のころは、人間とおなじものを食べていましたから。とくに豆の缶詰は好物だったんですよ」


 努めてあかるく言って、リーズマリアは視線をそらす。

 紅い瞳が物憂げにゆれる。


「もしかして、血を――――」


 アゼトはためらいがちに言葉を継いでいく。


「食べ物じゃなく、血を吸いたいんじゃないか」

「……」

「リーズマリア。最後に人間の血を身体に入れたのはいつ?」


 アゼトの問いかけに、リーズマリアは俯いたまま唇を結んでいる。


 成人した至尊種ハイ・リネージュ――吸血鬼はきわめて強力な免疫系をもつ。

 体内に侵入した細菌やウイルスはむろんのこと、人間には致死的な劇毒も問題なく分解することができる。

 あまりにも強すぎる免疫系は、時として彼ら自身にも牙をむく。

 定期的に人間の血液を摂取しなければ、免疫細胞の暴走によって肉体が崩壊していくのである。いうなれば人血は一種の免疫抑制剤であり、彼らが吸血鬼と呼ばれる所以でもあった。

 生存競争に敗れた人間がいまも生きながらえているのは、吸血鬼に血液を供給する家畜としての価値を見いだされたからにすぎない。合成血液の研究がさかんにおこなわれていた時期もあったが、それもいまとなっては過去の話だ。

 人血にかぎりなく近い水準レベルに達したサンプルでさえ、その効能は本物の血にとおく及ばなかったのである。


 個人差はあるものの、吸血による免疫抑制作用が持続するのはせいぜい数日から一週間ほどにすぎない。

 それも直接人血を摂取した場合の話だ。

 長期保存がきく冷凍血液パックや、水に混ぜて摂取する乾燥血漿ドライプラズマではさらに短く、早ければ二日ほどで効果が切れはじめる。

 リーズマリアが最後に血液パックを摂取したのは、航空艇エア・シップが撃墜される直前である。

 あれからすでに三日が経っている。肉体への影響が出始めていてもおかしくはない頃合いだった。


「私は平気です。ほんとうに、大丈夫……」


 途切れがちに言ったリーズマリアに、アゼトはだまって上着の首元を開く。


「俺の血を吸ってくれ」

「でも……」

「俺のことなら気にしなくていい。君になにかあったら、この旅を続ける意味もなくなる」


 わずかな沈黙のあと、リーズマリアはアゼトの首筋におずおずと顔を近づけた。


 桜色の唇を割って白くするどい犬歯が覗く。

 その先端が皮膚に触れたのと同時に、アゼトはおもわず眉根を寄せた。

 かすかな痛みと冷たさ、そして甘く痺れるような感覚が神経をくすぐる。

 リーズマリアはそっと犬歯を抜くと、湿った音を立ててすこしずつ血を吸い上げていく。

 アゼトの肉体に悪影響が出ない程度にとどめるために、注意深く吸血をおこなっているのだ。


 ふいにドアが開いたのはそのときだった。

 

「おはよう!! 兄ちゃんたち、起きて――――」


 部屋に半歩踏み入って、カナンはそれきり言葉を失った。

 アゼトはとっさに身体を離そうとして、強い力に押し止められた。

 リーズマリアが肩を掴み、アゼトの動きを制したのだ。


「……動かないで……」


 アゼトの首筋に唇をつけたまま、リーズマリアは湿った声を洩らす。

 吸血行為はまだ終わっていないのだ。

 いま乱暴に牙を抜けば、頸動脈を傷つけてしまうおそれがある。


 カナンはといえば、すばやくドアに半身を隠し、おそるおそる二人のほうを窺っている。


「ご、ごめん……!! オレ、なにも見なかったから!!」

「待て、誤解するな。これは……」

「心配しなくてもだれにも言ったりしないよ!!」


 カナンは顔を高潮させながら、アゼトの言葉を遮るようにまくしたてる。


「その……オレだってなにも知らないワケじゃないし……」

「なにを言っている?」

「兄ちゃんと姉ちゃんも男と女だもんな。恋人同士なら、くらいするよな」


 カナンはひとり合点したように言ったあと、「忘れていた」と最後に付け加える。


「お師匠たちが帰ってきたから起こしに来たんだけど……この部屋にはしばらく近づかないように言っておくから、安心してくれよな!!」


 あっけに取られたアゼトをよそに、ドアが閉まる音とともに、カナンの背中は視界から消えていた。

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