第二部

第一話:プロローグ/選帝侯会議

CHAPTER 01:ナイト・オブ・ラウンド

 濃密な闇が空間を充たしていた。


 部屋と呼ぶには、あまりに奇妙な場所だった。

 空間の全体像を把握しようにも、周囲はぬばたまの闇に塗りつぶされて、本来あるはずの天井も壁も見えないのである。

 かろうじて目につくものといえば、しっとりと光沢をおびた大理石の床だけだ。それもたちまち闇に呑み込まれ、どこまで続いているのかは判然としない。

 いったいどれほどの広さがあるのか。

 ひたすら歩きつづければ、いずれ闇を抜けられるのか。

 あるいは――のかもしれなかった。


 光も風もなく、音すらも絶えはてた無限遠の暗黒……。

 まともな神経の人間がここに足を踏み入れたなら、一日と正気を保ってはいられまい。

 それも無理からぬことだ。にとって最も心安らぐ理想の環境は、人間には耐えがたい地獄にほかならないのだから。

 

 と――

 漆黒の紗幕ヴェールをかき分けるように、闇の一角に気配が生じた。


 ゆらりと姿を現したのは、ひとりの青年だった。

 この世のものとは思えぬ美貌の持ち主である。

 生まれてから一度も陽光に晒されたことのない雪色の皮膚はだえ……。

 いかなる名工も手の加えようがないほどに整った目鼻立ち……。

 つややかな濡羽色の長髪は、なめらかな頭骨に沿って撫でつけられ、端正な顔貌をいっそう引き立たせている。

 切れ長の双眸の奥で炯々と輝くのは、柘榴石ガーネットをはめ込んだような真紅の瞳――純血の至尊種ハイ・リネージュの証であった。


 二メートルちかい長身を包むのは、随所に金糸銀糸の縁飾りパイピングが施された黒褐色の軍服だ。

 胸や四肢には甲冑よろいを簡略化したとおぼしい金属製の装飾品があしらわれ、きらびやかな宝石が華を添えている。

 なかでもひときわまばゆい輝きをはなつ白金プラチナの肩当てには、あざやかな貝紫色ティリアンパープルに染め抜かれたマントが留められている。

 至尊種ハイリネージュの頂点に君臨する十三選帝侯クーアフュルストのなかでも、皇帝とその妻子だけに使用が許される禁色であった。

 

 マントの裾をひるがえしながら、男は悠然と歩を進める。

 ふいに白い手袋に包まれた右手が上がり、しなやかな指先が宙空にうつくしい弧を描いた。


 奇怪な物体が忽然と現れたのは次の瞬間だった。

 ほのじろい燐光をおびた巨大な円盤である。

 直径はおよそ十メートル。なんらかの金属で作られているとすれば、重量は三十トンを下るまい。

 脚も支柱も持たない円盤は、まるで見えざるかいなに支えられているがごとく、男の目の高さにふわりと浮遊している。

 男がふたたび右手をかざすと、円盤を囲むように十三の椅子が出現した。

 椅子の背もたれには、それぞれ異なる動物や幻獣を象った紋章レリーフが彫り込まれている。


 すべての準備が整ったことを確かめて、男はおのれの椅子――”鷲獅子グリフォン”の座に腰を下ろす。

 円卓ラウンドには上座も下座もない。

 年齢や爵位にかかわらず、十三選帝侯クーアフュルストは全員が対等であるという意味合いを込めて、亡き先帝がそのように定めたのだ。

 聖戦から八百年あまりの月日がながれ、選帝侯たちのほとんどが子孫こまごに代替わりした現在でも、その伝統は連綿と受け継がれている。

 

 円卓に異変が生じたのはそのときだった。

 椅子の背もたれに乳白色の霧がたちこめたかと思うと、みるまに精緻な人形ひとがたを形作ったのである。

 正装に身を包んだ七人の男女がにわかに出現したのは、それから数秒と経たぬうちだった。

 各自の年齢や性別、身体的特徴はさまざまだ。

 むろん、全員が至尊種ハイ・リネージュであることは言うまでもない。

 いまだ空席が目立つとはいえ、円卓を囲む十三の座のうち、これで半分以上が埋まったことになる。

 男はふっと息を吸い込むと、するどい視線を一座に巡らせる。


「本日は予定外の召集にもかかわらず、よく集まってくれた――――」


 沈着な佇まいを裏切らず、鉄のように重々しく錆びた声色であった。


「水臭いことを仰せになりますな、ディートリヒ・フェクダル様。最高執政官である貴公のお召しとあれば、私はたとえ陽光の下であろうと馳せ参じますぞ」


 いかにも冗談めかしたふうに言ったのは、”火炎竜サラマンダー”の座に腰かけた男だった。

 ほとんど赤毛にちかい金髪と、濃い銅色すずいろの肌をもつ青年である。胸から右肩を覆う甲冑よろいと、左腰に佩いたサーベルは、軍事貴族の証だ。

 一見すると十八、九歳ほどに見えるが、外見から年齢を推し量ることはできない。

 純血の至尊種ハイ・リネージュ――吸血鬼は、最晩年まで老化の兆候が現れることはなく、生涯にわたって若々しい外見を保ちつづけるのである。


「それにしても、何事も念入りに段取りをされるフェクダル公が、今日になって突然の召集をかけられるとは。さては我らの忠誠心を試しておいでか?」

「レガルス侯爵――――」


 ディートリヒはそれだけ呟くと、ちらと”火炎竜”の男――レガルス侯爵ことサルヴァトーレ・レガルスに視線を向ける。

 抜身の刃よりもなお冷たい眼光に射すくめられて、ようやく彼も冗談を口にできるような状況でないことを悟ったらしい。

 いかにもばつが悪そうに顔をうつむかせたサルヴァトーレにはそれきり一瞥もくれず、ディートリヒはゆっくりと言葉を紡ぎはじめる。


「無理を押して諸卿を呼び集めたのは、むろん戯れや酔狂ではない。われら至尊種ハイ・リネージュの存立にかかわる重大事件が出来しゅったいしたゆえである」


 ディートリヒの言葉にただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、選帝侯たちは一様に表情を強張らせる。


 わずかな沈黙のあと、細くしなやかな手が挙がった。

 濃紺ネイビーの軍服を品よく着込んだ黒髪の少女だ。

 外見こそ若々しいが、その貫禄は並み居る選帝侯たちに引けを取らない。

 椅子に彫り込まれた紋章は”天馬ペガサス”。

 聖戦において航空騎兵団を率い、その功績によって選帝侯に列せられた名門ヴェイド侯爵家の家紋であった。

 先だって三代目当主に就任したばかりのセフィリア・ヴェイドは、物怖じするそぶりも見せず、ディートリヒと真っ向から向き合う。


「お言葉ですがフェクダル公、それほどの重大事ならば、なおさら我らだけで審議してよいものでしょうか? 過半数は揃っているとはいえ、これではとても選帝侯の総意とは言えません」

「ヴェイド侯爵、事態は寸刻を争う。召集に遅れるような者を待っている余裕はない」

「せめて皇太后陛下やアルギエバ大公殿下、そして皇位継承者たるリーズマリア姫殿下のご来臨をお待ちになるべきでは……」


 ディートリヒは表情ひとつ変えず、坦々とセフィリアにむけて言葉を返していく。


「貴卿も知っているように、わが義母はは――――皇太后アルテミシア陛下は、先帝陛下の崩御とともに政治まつりごとから身を退かれた。そして、大公バルタザール・アルギエバ殿がこの場に出席されることは


 ディートリヒがその言葉を口にするや、全員の視線が一点に集中した。

 ”蝙蝠ムルシエラゴ”の紋章が刻まれた椅子には、本来そこにあるべき主人の姿はなく、うつろな沈黙だけがわだかまっている。


「おやおや。会合と聞けばまっさきに飛んでくるが欠席とは、珍しいこともあるものだと思っていたけれどね――――」


 どこか愉しげな声色で呟いたのは、純白の法服ガウンをまとった青年だ。

 女と見紛う美貌の持ち主である。

 ゆるやかにウェーブした金髪と、よく磨きあげられた滑石を思わせるなめらかな肌理は、いずれ劣らぬ麗姿をもつ至尊種たちのなかにあってひときわ目を引く。

 頭上に刻まれた紋章は”天秤をたずさえた女神ユスティティア”。

 ほかの選帝侯たちの家紋がなんらかの獣であるのにたいして、彼ひとりだけがいかにも異質なモチーフであった。

 口辺にやわらかな微笑みを漂わせながら、青年はディートリヒに問いかける。


「しかし、”二度と”とはおだやかではないね。皇太后陛下に次ぐ長老であるバルタザール・アルギエバ殿下の御身に異変が生じたとあれば、僕も至尊種ハイ・リネージュの法の守護者としては黙っているわけにはいかない。ぜひともくわしい話をお聞かせいただけるかな、フェクダル公?」


 言いざま、長いまつ毛の奥でするどい赤光がまたたいた。

 温和な佇まいはそのままに、青年の双眸は苛烈な審問官インクイジターのそれへと変じている。

 ディートリヒはそのおそろしげな視線に臆することも、容疑者を取り調べるような不躾な質問に激昂することもなく、あくまで泰然と答える。


「よかろう、ヴィンデミア公。私も最高審問官である貴公の判断を仰ぎたいと思っていたところだ」

「ほう?」

「これを見るがいい――――」


 ディートリヒが言ったのと、円卓の上に透きとおった球体が出現したのは同時だった。


 一見すると透明な粘液に充たされた水槽のようにもみえるが、もちろんただの水槽ではない。

 ナノマシン技術を用いた立体スクリーン装置だ。

 装置内に封入された数十兆個のナノマシンは、外部から入力された電気信号に合わせて離散集合を繰り返すようにプログラミングされている。無数のナノマシンはきわめて精巧なミニチュアをリアルタイムで作成し、装置のなかで実際にそれらを動かすことで映像を再生するのである。

 言うなればだけあって、その解像度と質感は、旧時代のブラウン管や液晶ディスプレイとは比較にならない。


 ふいに選帝侯たちの視界が灰色に塗りつぶされた。

 そのように見えたのは、元々の映像データが暗い場所で撮影されたためだ。

 カメラが移動するのに合わせて、画面もじょじょに明るさを増していく。


「ひどいな……」


 選帝侯たちが眉をひそめ、嘆息を洩らしたのも無理からぬことであった。


 スクリーンに映し出されたのは、塔市タワーに刻まれたむごたらしい破壊の爪痕だ。

 超高熱に晒されてほとんど炭化した壁、数十メートルに渡ってめくれあがった床、原型を留めぬほどに損壊したメイン・シャフト……。

 選帝侯たちが住まう塔市タワーは、きわめて頑強な構造をもつ。

 どれほど過酷な事故や災害に見舞われたとしても、これほどの惨状を呈することはぜったいにない。

 もし核兵器が直撃したとしても、せいぜい外壁に煤が付着する程度なのだ。


 スクリーンに奇妙な物体が浮かび上がったのはそのときだった。

 みにくく溶けた鉄の塊としか表現しようのないそれは、しかし、たんなる鉄屑とはあきらかに様相を異にしている。


「これは……まさか……」


 最初にを理解したのは、はたして誰だったのか。


 四肢は跡形もなく失われ、頭部もほとんど溶け崩れているものの、胸から腰にかけてのなまめかしい曲線シェイプはかろうじて見て取れる。

 よくよく目を凝らせば、装甲の随所に彫り込まれた縁取りエングレービングに気づくこともたやすい。

 おなじ二足歩行型兵器でも、劣等種人間どもの下品なブリキ人形――――ウォーローダーにこれほど繊細な美的センスがあろうはずもない。


「ブラウエス・ブルート――――」


 選帝侯たちは、ほとんど無意識にその名を口にしていた。

 幾多の伝説に彩られた聖戦十三騎エクストラ・サーティーンのなかでも、その美しさは並ぶものがないと讃えられた蒼きブラッドローダー。

 乗り手ローディであるアルギエバ大公とともに、八百年の永きにわたって至尊種ハイ・リネージュの栄光を護りつづけてきた不朽の名機。 

 いま無残な姿でスクリーンに横たわっているのは、あのブラウエス・ブルートにほかならなかった。


「フェクダル公……もしや、アルギエバ大公殿下は……」


 先ほどまでの冷静さはどこへやら、動揺を隠せないセフィリアに、ディートリヒはしずかに肯んずる。


「いかにもそのとおりだ。大公バルタザール・アルギエバ殿下はすでにこの世にはいない。

 否――――殺されたのだ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る