CHAPTER 10:ジ・エンプレス

「次期皇帝……? 吸血鬼の……?」


 世にも美しい少女が口にした信じがたい言葉。

 アゼトはその意味するところを受け止めかねて、熱に浮かされたみたいにひとりごちていた。

 口を滑らせてしまったことに気づいて、はたと我に返ったときにはもう遅い。

 吸血鬼――それは至尊種ハイ・リネージュが最も嫌う蔑称にほかならない。

 人間が面と向かって呼ばわったなら、その場で八つ裂きにされても不思議ではないのだ。

 

「ちがうんだ。俺、べつにそんなつもりで言ったんじゃ――」

「かまいません。人間が私たちをそのように呼んでいることは知っています」


 リーズマリアはゆるゆると首を横に振ると、ふっと微笑んでみせる。

 秀麗な面貌を一瞬よぎって過ぎたのは、淋しさと哀しみとがないまぜになった複雑な表情だった。


「私たちは人間の血を吸わなければ生きていけないのです。やむを得ないこととはいえ、あなたがたから見れば吸血鬼以外の何者でもないでしょう」


 するどい犬歯を隠すように、リーズマリアは唇をそっと指でなぞる。


 吸血鬼の免疫系は、誕生から十五年ほどかかってようやく完成する。

 長い時間をかけて構築された強力な免疫系は、自然界に存在するあらゆる病原菌やウイルスを寄せつけない。

 利点ばかりではない。あまりにも強すぎる免疫組織は、彼ら自身の肉体にも見境なく牙をむくのだ。

 驚異的な再生能力を以ってしても追いつけない速度で肉体が破壊され、個人によって差はあるものの、長くとも一週間ほどで死を迎えることになる。


 それを回避する唯一の手立ては、人間の血液を経口摂取あるいは輸血という形で体内に取り込むことだ。

 異物をあえて体内に取り入れることで、免疫系の矛先をそちらに向けようというのである。

 とはいえ、それもしょせんは一時しのぎでしかない。人血による免疫抑制効果はおよそ三日ほどで失効し、吸血鬼たちはふたたび死の恐怖に怯えることになる。

 じつに千年にもおよぶ長い生涯にわたって、彼らは生きるために人間の血を吸いつづけなければならない宿命を背負っているのである。


 そのような体質を持った吸血鬼の社会が存続するためには、つねに一定数の人間をとして確保しておく必要がある。

 十三選帝侯クーアフュルストの所有する塔市タワーへの居住を許されているひと握りの人間たちがそれだ。

 彼らは、いうなれば吸血鬼の管理下で飼育されている家畜である。主人が望むときに新鮮な血液を提供することが彼らの唯一の存在意義であり、そのために清潔な環境での生存と繁殖を許されている。

 たとえ気まぐれに血を吸いつくされて死んだとしても、それは家畜としての本分を全うしたというだけにすぎない。

 吸血鬼と人間の関係は、たんに支配者と被支配者というだけでなく、ある一面においてはまさに捕食者と被捕食者エサなのだ。

 人間なしでは生きられないことは、しかし、吸血鬼の弱みにはなりえない。家畜がいなければ一日として社会を維持出来なかったのは、かつて万物の霊長として地上に君臨していたころの人間もおなじだったのだから。


「それで――吸血鬼のお姫様で次期皇帝ともあろう御方が賞金稼ぎを呼びつけるなんて、いったいどういう風の吹き回し?」


 シクロはリーズマリアをまっすぐに見据えると、臆することなく問うた。

 常と変わらず飄々とした声色の裏には、抜身の白刃みたいな冷たさが宿っている。


「あたしたちにお礼を言うだけなら、そこの人狼兵ライカントループの娘に言伝てをするだけでよかったはず。わざわざ人間を自分の部屋に招き入れるなんて、まともな吸血鬼のやることじゃないわ」

「それは……」


 とっさに間に入ろうとしたレーカを片手で制して、リーズマリアはなおも言葉を継いでいく。


「先ほどの戦いは私も見ておりました。いくさのことにはまるで疎い私にも、あなたがたが非凡な技量の持ち主だということは分かります。あれほどあざやかにウォーローダーを操ることが出来るローディは、十三選帝侯クーアフュルストの臣下にもまずいないでしょう」

「……」

「その腕前を見込み、折り入ってお願いします。どうか私の旅に同行していただけないでしょうか」


 言って、リーズマリアは宙空に手をかざす。

 なにもない空間に一・五メートル四方の三次元地図がふっと浮かび上がった。

 こまごまとした地形の起伏まで精密に再現したそれは、実体を持たないホログラムだ。

 どうやら壁面に埋め込まれた投影機プロジェクターから映し出されているらしい。文明が崩壊して久しい人間の世界ではまず目にすることのないものだ。

 

「ここが私たちの現在地です――」


 リーズマリアが指し示したのは、バルタザール・アルギエバ大公の領地のほぼ中心部だった。

 そう遠くない場所には”青の聖塔ブルー・ジグラット”が天高くそびえている。


「東西大交易路をさらに西へずっと進むと、至尊種の発祥の地……帝都ジーベンブルクへと辿り着きます。私はそこで次期皇帝として戴冠する予定でした」

?」

「アルギエバ大公が、私をこの先へ進ませないように刺客を差し向けてきたのです。あの男の目的は私を抹殺し、次期皇帝の選出をふたたび白紙に戻すこと……」


 自分の生命が狙われているにもかかわらず、リーズマリアの語り口はあくまで冷静だった。

 吸血鬼は人間とちがって感情に乏しいのかと思ったアゼトは、それが早合点だったことをすぐに理解した。

 リーズマリアの肩は小刻みに震えている。懸命に怖気をこらえ、努めて気丈な態度を崩すまいとしているのだ。

 月下に咲く一輪の花のように儚げな少女の横顔には、嵐に立ち向かう強い意志がたしかに宿っている。


「おそらくこのさきも襲撃は続くはずです。それでも、私はなにがあろうとジーベンブルクに行かねばなりません。お二人が力を貸してくださるなら、これほど心強いことはありません」

「なにを言い出すかと思えば、バカバカしい――」


 シクロは吐き捨てるように言って、くるりと踵を返す。


「悪いけど、そんなことに巻き込まれるのはまっぴらごめんよ。次期皇帝だろうがなんだろうが、あたしたちには関係ない。吸血鬼同士の内輪揉めなんかに付き合ってらんないわ。……行くわよ、アゼト」


 アゼトはシクロに追いすがり、なんとかその場に足を止めさせる。


「シクロさん、待ってください!!」

「いいえ、待たない。こいつらの権力争いに首を突っ込んでも、あたしたちが得することなんてなにもないもの。殺し合いでもなんでも好きにさせておけばいい。どっちが勝っても、この世から吸血鬼が減るなら万々歳だわ」

「だけど、せめて話くらい聞いてあげても……」

「あんたが優しい子だってことはよく知ってる。だけど、相手が吸血鬼なら話はべつよ」


 アゼトに語りかけながら、シクロは強く拳を握りしめる。

 爪が皮膚に食い込み、うっすらと血がにじむ。それすらも意に介さず、シクロはなおも続ける。


「よく聞きなさい、アゼト。……あんたもあたしも、吸血鬼こいつらに家族を殺されたのよ。あんたはまだ赤ん坊だったけど、あたしははっきり憶えてる。父さんと母さん、それに生まれたばかりの妹まで、あたしたちの一族がひとり残らず皆殺しにされたあの日のことを――」


 アゼトはなにも言わず、ただ唇を噛みしめるだけだ。


 二人の故郷が吸血鬼に襲われたのは、いまから十四年ほど前のこと。

 吸血鬼のなかには、たんなる退屈しのぎのために無辜の人間を殺傷する者も珍しくないが、そのときは別だった。

 吸血猟兵カサドレスの末裔たちが住む隠れ里を突き止めた諸侯たちは、みずから大規模な殲滅作戦に乗り出したのだ。


 吸血猟兵カサドレス――人間でありながら吸血鬼を狩ることを生業とする、異能の猟人かりうどたち。

 もともとは最終戦争当時の人類軍に存在した特殊部隊の俗称である。

 吸血鬼を狩るためだけに理論と技術を磨き上げ、ウォーローダーをみずからの手足のように操ったひと握りの精鋭集団。

 あまりに苛烈な戦いぶりから、人外の鬼をしてなお悪魔と言わしめた伝説の兵士たち。

 生身の吸血鬼だけでなく、投入されてまもないころのブラッドローダーとも渡り合った猛者たちは、人類軍の敗北とともに各地に散っていった。

 歴史の表舞台から姿を消した彼らは、しかし完全に消え去ったわけではなかった。

 山奥や孤島にひっそりと隠れ里を作り、いずれ人類が反攻に転じる日を待ちわびながら、吸血鬼殺しの技術と知識を子孫たちに伝えていったのである。

 

 後世に彼らの存在を語り継いだのは、おなじ人間ではなく、皮肉にも敵である吸血鬼たちだった。

 最終戦争――聖戦の終結から数百年の歳月を経てなお、吸血猟兵は依然として恐怖と憎悪の的でありつづけたのである。

 それは人間の反乱という現実的な懸念よりも、むしろ戦いのなかで植えつけられた拭いがたい心的外傷トラウマによるところがおおきい。

 長きにわたる執拗な追跡と根絶のすえに、かつては三百を数えたという隠れ里も、いまではそのすべてが消滅している。

 からくも虐殺を生き延びたシクロとアゼトは、正真正銘この世に残った最後の吸血猟兵だった。

 

「本当のことを言えば、あたしはその娘だって殺してやりたいと思ってる。太陽の下に引きずり出して、みじめに焼け爛れて死ぬところを見下ろしてやりたい。あたしたちの家族や仲間がやられたみたいにね」


 敵意と憎悪を隠そうともしないシクロに、レーカはとっさに腰の軍刀サーベルに手を伸ばしていた。

 その動作を認めたが早いか、アゼトも懐に手を差し込んでいる。指先に挟んだナイフを投擲するまでには一秒とかからない。

 リーズマリアは身構えたままの二人をそれぞれ見やり、ゆるゆると首を横に振る。

 余計な手出しは無用だと、言外にそう告げているのだ。


「……残念です。ですが、ひとつだけ、お別れのまえに申し上げておきたいことがあります」

「言いたいことがあるなら好きにすればいいわ」

「ご家族を亡くされたことについて、至尊種ハイ・リネージュのひとりとして謝罪させてください。許してほしいとは言いません。ただ、私がそう思っていることは、この場で伝えておきたかったのです」

 

 シクロはその場に立ち尽くしたまま、首だけで振り返る。

 憎悪と疑念が相半ばする苛烈な視線を向けられても、リーズマリアはたじろぐ素振りもない。


「吸血鬼が人間にお礼を言ったかと思ったら、今度はお詫び? 明日は砂漠に雪が降るかもしれないわね」

「私はそんなつもりで言ったわけでは……」

「人間のことなんか虫けら程度にしか思っていないくせに、心にもないこと言うのはやめなさい。それとも、あたしたちをおちょくってるつもり?」

「ちがいます!」


 先ほどまでの落ち着いた口調とは打って変わって、リーズマリアは語気強く言い切った。

 シクロとアゼトだけでなく、レーカまでもが驚いたように身体を強張らせている。


「私は、至尊種――あなたがたの言う吸血鬼も、そして人間も、生命の価値に差はないと思っています。私たちに人間の生命をいたずらに奪う権利などありません。私は次期皇帝として、吸血鬼が人間の上に君臨する現在いまの世界のあり方を正さねばならないと思っています」 


 一言一言、まるで重い塊を吐き出すみたいに言葉を継いでいくリーズマリアに、シクロはあらためて問いかける。


「あんた……自分がなにを言ってるか分かってるの? 自分だって吸血鬼のくせに、本気で吸血鬼の支配をぶち壊すつもり?」

「そうでなければ、私の最大の庇護者だったアルギエバ大公に生命を狙われるようなこともなかったでしょう」


 自嘲するみたいに言って、リーズマリアはふっと寂しげな微笑みを浮かべる。

 それも一瞬のこと。まもなく少女の玲瓏なかんばせを占めたのは、覚悟に満ちた表情だった。


「たとえ同胞から裏切り者と罵られ、生命を狙われようとも……この歪んだ世界を変えるために、私は吸血鬼の玉座に就かねばならないのです」

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