甘くも黒くも

tsumuri

第1話

「いつまで経っても仕事を覚えないな。」

夜半過ぎから降り始めた雨が会社の窓を叩いている。

きっと今、目の前にいる彼女の心の中はこのような空模様だろう。

今年入社の新卒社員に完璧な仕事など期待していないが、部下の成長を考え、叱責するのも僕の大事な役目だと考えている。

ただ、言い方が少し適切で無かったかもしれない。

「すみませんでした。」と頭を下げた後、あからさまに肩を落とし自席に戻る部下に少し申し訳なく思ったが、すぐにフォローしてしまうと威厳が失われそうな気がして自分を戒めるだけに留めた。

我ながら器が小さいな、と思うことは多々ある。

人と接する事が苦手な訳ではないが、社内において役職を頂いた以上、少なからず人の上に立つということの重責を感じている。

理論書やビジネス関連の書籍、自己啓発本まで読み漁り、理想の上司やリーダーシップについて考えてきた。

どこで道を間違えたのか、いや、そもそも間違っているのかさえ定かではないが、自分自身を省みても堅物という言葉がお似合いの人種になってしまっている。

本心を言えば、こんな筈ではなかった。

ただ、この椅子に座るからにはミスをしてはならないという頭が働き、自分の中で「遊び」が失われてしまったように思う。

レーシングカーのように速さを追求し続けるならばそれでいいのかもしれない。

ブレーキやハンドルに「遊び」は無く、僅か1ミリの動作で発進や制動、曲がるといった動きを誤差なく行う。

僕は、そんな完璧人間を目指している訳ではないのに。

勿論人間の行うことだ。ミスは仕方がない。

いくら器が小さいと言えど全てを許せない訳ではないし、寧ろこんなにも不器用になってしまった自分について来てくれる部下には愛着さえ湧いている。


そのミスに気づいたのは会議の1時間程前だった。

午前中のうちに、前日に作成された資料に目を通し、3箇所程の訂正を指示した。

部下の持ってきた訂正済みのデータを確認し、承認のサインをする。

後は印刷して冊子にするだけなので、午後の会議には間に合うだろうと作成を任せ、僕は別の仕事に取り掛かった。

昇進して最初に思ったことは「自分の仕事が捗らない」ということだった。今までは単に自分の仕事を終え、上司に確認をもらった後にまた次の仕事に着手する。そういう流れだったが、今度はその確認をするという仕事が僕の業務に組み込まれる。

これが中々の曲者だ。集中して仕事に入り込むタイプなので、確認の度に集中力が途切れなかなか思うように業務を進めることが出来ない。

これからは仕事をうまく人に任せる力も必要になって来るのだろう。

確認に重きを置き、そこまでの作業は適任の人間に任せるといった仕事に少しずつシフトして行くしかないだろうな。

などと考えながらふと時計を見ると正午を回っていた。

資料の作成を任せた川島に進捗状況を確認したかったが、まだ印刷から戻っていないようだ。

確認は昼食後にしようと思い仕事を切り上げ食堂へ向かう。

オフィスと同じビルにある食堂は、社員食堂にもなっているが、外部の人間も出入り出来る。と言っても表に看板がある訳ではないので一見さんはほとんどおらず、おそらくは会社関係の方ばかりだろう。

食堂は四角いテーブルが並び、両脇に椅子が置いてある場所と、丸テーブルが並びその周りに椅子が並んでいる場所があり、席数は合わせてだいたい100席程度。

社員の総数の何パーセントがここを利用しているかはわからないが、ランチ時はほぼ満席の状態が続く。

空いている席を探す方が大変だが、1人なので決して難しくはないだろう。

トレイを持った列の最後尾に僕も同じようにトレイを持って並んだ。

周りを見てみるとやはりランチ時の食堂は賑わっている。

空腹というマイナスを満たしてあげる作業に興奮を隠しきれないのだろう。

僕はニラレバ定食にしようと決めていた。

食堂ではまず最初に定食や丼といったメインの品物を選ぶ。

メインを受け取ったあと更に進むと、サラダや煮物など、副菜が小鉢に小分けにされ並んでいるので好きなものをトレイに取り、会計へ向かう仕組みだ。

配膳をしてくれるスタッフさんに声をかける。

「すみません。B定食お願いします。」

「はーい!ありがとうございます。」

今日はレバニラ炒めと決めて食堂に来た筈なのに、いざ食堂に着くとBと対をなすA定食のチキン南蛮に心奪われそうになっていた。

しかし、気持ちを噛み締めレバニラ炒めを注文した。

一度決めたことを曲げることにどうにも抵抗が生まれる。その際の葛藤は一度や二度とではない。これはもう性分に違いない。

頭の中での小さじ一杯後悔を宥めていたが、トレイに乗ったレバニラ炒めの湯気と香りでこれで良かったんだと思わずにはいられなかった。

「曲げない正義!」訳の分からない言葉を心で発した後、小鉢のほうれん草のおひたしをトレイに移しお会計に向かう。

これでも千円でお釣りがくるのだから食堂というシステムは実に有難い。まぁこれも福利厚生の一環のようなものだろうか。

やはりここで食べるニラレバ炒め定食は絶品だなと舌鼓をうつ。

ニラにもレバーにも鉄分が多く含まれるため、働き盛りのサラリーマンには必要な栄養素だろう。身体が無意識に欲しがっているのかもしれないが、そんな大層な理由を付けずともこの味が好きなのだ。

満たされる事が幸せなのか、満たされている時に幸せを感じているのか。


昼食を済ませ、デスクに戻ると完成された会議用の冊子が置いてあった。

「なんだ、ちゃんと出来てるじゃないか。」

部下への信頼と、チェックは別物だ。

どんなに信頼の置ける人が作ったものでもしっかりと目を通すことにしている。

パラパラとページを捲りながら不思議なことに気がついた。

この資料は、「1、前年度事業報告及び決算状況」というように大きな項目には数字が振られていて、その後に黒い点によって小さな議題を表しているのだが、「6、来年度予算案」の次に、「8、新規プロジェクト原案」となっている。

よく見ると、企業の紹介の途中で、話が切り替わっている。

「なんだ?まるでページが抜けているみたいに、、、ん?」

ページの下部に記されるページ数が飛んでいる。

僕が確認した際にはそんなことはなかった。恐らく、印刷する際にそのページだけ飛ばして印刷をし、冊子として閉じてしまったのだ。

残り1時間。

「よし。まだ間に合うな。」

大急ぎで該当するページを印刷し、会議室に向かった。

川島の事だから、まだ自分が起こしてしまったミスにも気づいていないだろう。

会議室に飛び込むと茫然自失となった川島がいた。どうやら自分の起こしてしまったミスに気づいたところのようだ。だが、彼女には自分ですぐにリカバリー出来る余裕はまだ無い。

慌てても仕方ない、気持ちを切り替えて素早く作業に移ってもらうにはなんと声をかけたものか。と、一瞬悩んだものの、走ってきた為言葉にも勢いが乗ってしまった。

「とりあえず全部のホチキスを取ってくれ。

部数分のページは印刷してきたから、挟んで閉じるだけだ。まだ間に合う。心配するな。」

言い放った後にホチキスの針を取りながら、どうしてこう偉そうになってしまうのか、心底自分が嫌になる。

自分の言葉についての反省会が頭の片隅で行われる。

「もう少し部下に優しくなれないのか?」

「心配するな。お前は精一杯やっている。」

「いや、そうじゃなくて正解の言葉は何だったんだ。」

「そんなことは後回しだ。作業に集中しろ。」

川島を見ると、先程よりも随分と落ち着いたように見える。ほっと小さくため息をこぼす。

ミスが発生した場合でも現状をしっかり見つめ直し、その時々での最善手を確実に打てるようになれば、慌てなくても対処出来るようになるだろう。

この対処が自分を通じて彼女の経験になるのならこれくらいのフォローなどたかが知れている。

思っていた通り作業はすぐに終わり、会議室は万全の状態に仕上がった。

「川島は、引き続きここで会議参加者の対応を頼む。僕は戻るよ。もう大丈夫だろう?」

「はい。あの、課長申し訳ありませんでした。」

「大丈夫だ。部下の尻拭いも僕の仕事だからね。あ、いや、そういう意味じゃないんだが。すまない。悪いクセだね。川島はよく頑張ってくれてるよ。じゃあ後は任せたよ。」

「え、あ、、はい。ありがとうございました。」

先程の一人反省会が効いたのか、同じ作業を成し遂げた達成感からか、幾分マシな言葉が出てきたように思える。

会議室からデスクに戻る途中、自動販売機で缶コーヒーを買った。

「走ったのも久しぶりだな。悪くないもんだ。」

ネクタイを少し緩め、深く息を吐く。

人と人との繋がりや関係性の中にあって、最も大切なことは思いやりなのかもしれない。

そんなことをぼんやりと考えながら缶コーヒーを傾けた。

川島がこちらに向かっているのが見えた。お互い一仕事終えた後だ、コーヒーでも買ってやろう。財布から小銭を取り出した。

「課長、すみませんでした。」

「次から気をつけろよ。で、何飲む?」

理想の上司というものは未だに分からないが、過ぎた事を責めても仕方ないしヒューマンエラーはどこでだって起きる。起きてしまうことを良しとするつもりはないが、その後のフォローの方がずっと大事な気もする。

こんな気持ちになれたのは、自分が成長出来ているからなのか、それとも、、。

缶コーヒーを手渡しながら笑う彼女を見ていた。


いつものようにオフィスは、鳴り響く電話の音と、書類や会議の確認の声が飛び交い少しの喧騒に包まれている。

しかし、よくよく見回すといつもより少し浮かれているような気もする。

なんだろう?と考えていると、いつの間にか目の前に女性社員が立っていた。

「課長、お疲れ様です。不躾な質問で恐縮ですが、変わらずチョコレートはお嫌いですか?」

合点がいった。

もうすぐバレンタインなのか。

会社の中でも女性社員一同という名目で男性社員に対してチョコレートを渡すイベントになっている。

誰かからの贈り物は嬉しいものだ。その確認の為に少し浮ついた声が混じっていたのかもしれない。

「そうだね。甘いものは苦手なので、今年も僕は気にしなくていいよ。ありがとう。」

「畏まりました。では、失礼します。」

僕は甘いものが苦手だ、コーヒーもブラックしか飲まない。

苦手と言っても全くダメな訳ではない。が、なんとなく遠慮してしまう。去年も一昨年も同じ理由で辞退している。

一年を通して世間では様々なイベントがある。

その1つ1つを掘り下げて行くと、そのイベントの起こりや背景がしっかりと、ある。

バレンタインデーだってそうだ。

大昔のローマ帝国。各地で戦争が行われていた時代、士気が下がることを理由に男女の結婚を認めていなかった皇帝に対し、聖バレンチヌス司教が人間性に反するとして抵抗し、密かに結婚式を行なっていた。ところが皇帝に知られてしまい2月14日に処刑されてしまった。司教の命日を愛の日として感謝を捧げたのがその起こりだそうだ。

背景を知ると、意味が深くなる。

命をかけてまで出来ることがあるだろうか。

現代には命と引き換えに何かを成す人がいるとは正直考えづらい。

しかし、毎日その命と同義である時間を費やしながら僕らは生きている。

その日々の中で、誰かの感謝を辞退してしまってもいいのだろうか。

バレンタインの起こりを知る前は、無理に苦手なものを食べなくていいだとか、相手にも気を遣わせたくない、などと考えていたし、それも1つの考え方だと今でも思う。

ただ、「いつもありがとう。」その言葉を伝える口実すら奪っているのかもしれない。

日本人の国民性の中に潜んでいる義理、人情は一見面倒くさいシステムかもしれないが、その先にはきっと、手間がかかるので、難は有るが感謝をしている「有難う」の交換なのではないか。

それを受け取る、送り合う余裕が日本をここまで豊かにしたのではないのか。

少し飛躍した考えかもしれないし、本心はもしかしたら別のところにあるのだろう。

自分でも薄々気づいているそれを言葉にするのはまだ阻まれた。

どうやらチョコレートの買い出しは川島と立川に任されるようだ。

まだ、間に合うかもしれない。

しかし、また僕の性分が邪魔をする。

出した答えを180度変えるのは如何なものか。

誰にも言えない悩みを抱え、いつも通りの表情でいつも通りに仕事を進める。

時間だけが過ぎていく。

と、川島が僕の元へ確認の判子をもらいに来た。

「課長、こちらご確認お願いします。」

「わかった。」

書類をめくっていると、川島が口を開いた。

「あの、課長は甘いものお嫌いなんですか?」

「ん?あぁ、チョコレートか?嫌いという訳ではないんだが、少し苦手で。そういえば買い出しを頼まれてたみたいだね?」

「そうなんです、課長の欄には辞退とあったのでいいのかな?と思いまして。」

心の中で小さなガッツポーズをしたが、それを言葉には出せなかった。

「あぁ、ありがとう。1つ増えるとそれだけ大変になるだろうし気にしなくていいよ。もうリストを作成してくれた方にも返事をしてしまったしね。」

「あ、じゃあ私が、、。いえ、なんでもないです。」

「気持ちだけ頂いておくよ。こちらの書類はオーケーだ。」

承認の判子を押し書類を手渡した。

自席へ戻る川島の背中を見送りながら、「私が、、」とはなんだろう?その先に何を伝えようとしたのだろう。

と、考えても出ない答えに頭を悩ませるのをやめたところで、仕事が抜けていたことに気がついた。

どうやら浮ついていたのは僕も同じようだ。

やり残した仕事に急いで取り掛かったが終わる頃には20時を回っていた。

もう買い出しは終わったかな?

などと、ぼんやり考えながら会社を後にした。


女性社員が各部署を回り男性社員にチョコレートを渡して回っている。

「いつもお疲れ様です。」

「ありがとうございます。」

毎年ながら賑わう瞬間だ。バレンタインデーもバカには出来ない。チョコレートを貰った後、業績を上げる社員も少なくはない。

たかがチョコレート。されどチョコレート。

「いらない」と言った手前、欲しがるのもおかしな話だがこれほどまでに目の前で盛り上がると貰っておけば良かったと思う。

今年は尚更そう思う。

オフィスの中に充満している野球のリーグ優勝のような熱気が、乗り遅れた僕にいつも以上の疎外感を感じさせる。

去年までは特に何も感じなかったのに。

ふと、疑問が湧いた。どうしてこんなに虚しいんだろう。

チョコレートは苦手だ。それは間違いない。

甘いものが食べたいのか考えても、その答えはノーだ。

では、何故?

もしかして、この祭りに参加したかったのか?それはあながち間違いでは無いようにも思える。

頭の中で様々な思いが浮かんでは消えていく。

理由としておかしくはないが、的を得ているとは言いづらい。

(じゃあ、私が、、、)

頭の中で聞こえたのは、昨日の川島の言いかけた言葉だった。

今さらながら疑問に思う。

なんと言いかけたのだろうか?

言いかけてやめた理由は何なんだろうか?

聞いてみたい。その先を、、。

いつものようにTO DOリストを確認するがまったく気分が向かわない。どうしてしまったというのだろう。

仕事に対して気分という言葉を選んでしまっている時点で、最早通常の自分とは幾分異なった状態にあることは気がついている。

ただ、その理由がわからないのだ。


嘘だった。

自分に嘘をつくのはそんなに難しいことではない。自分の気持ちに気づかないフリをするだけだ、年々それはうまくなるし、そこに向き合うと大変なことを覚えていく。

「成り行きで」をいつまでも待っている。

ただ、それじゃ何も変わらない。

どれだけ仕事が出来ても、部下が出来ても、自分を欺いたまま生きていくのだろうか。

いや、そんなに大それた話ではない。

ただ、彼女からチョコレートをもらいたいのだ。

急に気恥ずかしくなった。

何を大人ぶって、何を格好つけた上司ぶって。

高尚な人種になりたいと思っていた訳ではないが、そんな上辺だけの人間と何が違うんだろう。

気がつくと社内メールを開いていた。

宛先は川島優里。

題名には「おはよう」と入力し、本文には、「黒くて甘いやつは僕にはないのか?」

と入力した。

手が震えている。

当たり前だ。この行動を勇気と呼ばずなんと呼ぶ。

マウスのカーソルを送信ボタンに合わせクリックする。

様子を見ていた川島が狼狽しているのがこの距離からでも見てとれた。

川島から返信が届き、その瞬間心臓が大きく跳ねた。

「黒くも、甘くもないものならあります。」

え?どういうことだろう?

何があるんだろう?

おもむろに立ち上がった川島と目が合った。

手に何か持っているようだがデスクの陰でうまく見えない。

動き出した彼女を目で追いかけた。

こちらへ向かっているようだ。

心臓が普段以上に血液を送り込んでいるのがわかる。そのせいで顔が紅潮していないかどうか心底心配している。

顔色を確認したかったが、手元に鏡はない。パソコンのモニターをちらっと覗いて見たが顔が映りこむようなものではなかった。

そうだ!と思いつき、スマートフォンを持ち上げたとき、僕のデスクの前に川島が立っていた。

「課長!いつもお世話になっています。」

と差し出された包み紙には見覚えがあった。

チョコレートではない事はすぐにわかったがそれ以外のことが理解出来なかった。

え?昨日はチョコレートを買いに行ったんじゃ?そもそも僕は辞退してるのに?え?というかこれチョコレートじゃないでしょ?お世話になっています?

幸い先程のお祭り騒ぎがまだ続いていた為、オフィス内の殆どの人間がこの状況には気づいていなかった。

川島の並びにデスクを構える立川だけが、食い入る様にこちらを見ていた。

震える両手で差し出された包みを受け取り。なんとか「あ、ありがとう。」という言葉を絞り出した。

「こ、これは?」と質問を投げかけると同時に、

「し、失礼します!」

と会釈をし、川島は小走りでオフィスから出て行った。

呆気に取られていると、別の社員から確認要請のメールが入り慌てて包み紙をデスクにしまった。

お祭りはようやく少し落ち着き始めていた。


午前中はワケがわからないまま過ぎて行った。

いくつかの確認、承認と自分自身のデータの整理、提出するプレゼンの資料をまとめたところで空腹に気付いた。

オフィス内の人間はほとんどランチに出ている。

僕は引き出しを開け、包みを取り出した。

やはり、僕がいつもネクタイを買う店だ。

どうして知っていたんだろう?いつ買ったんだろう?

まさかネクタイではないだろうとは思っていたが、なんにせよ喜びは隠しきれない。

包みを開いていくと、中にはハンカチが入っていた。

紺、群青、青がストライプになったシックな柄で、僕が持っているネクタイと同じ柄だった。

飛び上がりたいほど嬉しい衝動をぐっとこらえたが表情までは抑えきれず口角の上昇を止められなかった。

心から嬉しかった。

朝の拙い礼ではなく、しっかりと感謝を伝えたい。

もし彼女が許すなら食事にでも、いや、しかしそれは失礼かも知れない。

断れないような状況になってしまったらパワハラになってしまうかもしれない。

だが、先々の予定として組み込むなら、あるいは。

いや、しかし。

延々と繰り返す、「いや」、「だが」、「しかし」に嫌気が指したのでとりあえず昼食に向かうことにした。

食堂に着き、トレイを持ち列に並ぶと、ちょうど前に並んでいたのは立川だった。もしかして、と思わないでもない。なんとはなしに辺りを見回してみる。

「お疲れ様です。課長も食堂でランチですか?」

「お疲れ様。僕はしょっちゅう来てるからな。立川が来るの珍しいな?ひ、1人か?」

「今はそうですね。後から優里が来るんですけど。」

少し鼓動が大きくなった。

今は居ないことにほっとしたような、残念なような不思議な気持ちが胸の中に渦巻いた。

そうだ。昨日一緒に買い物に行った立川にどこであれを買ったのか聞いてみよう。

「そうだ。ハンカチありがとう。2人で買いに行ってくれたのか?お礼がてら、今度3人でメシでも、、」

「あ、いえ、あれは優里が1人で買いに行ったんです。チョコレートを買い終えて私と別れてから探しに行ったみたいで。健気ですよね。だから、食事は優里と行ってあげてくださいね。」

「え?そ、そうなのか、わ、わかった。」

返事をするや否や、立川は一足先にA定食のチキン南蛮を受け取り先へ進んだ。

僕も慌ててB定食を注文した。

レバニラ炒めを受け取り前を見ると、小鉢を取った後、会計に並んでいる立川が、スマートフォンを操作しているのが見えた。心なしかニヤニヤとしているのが少しだけ気になった。

こんなにも好きなレバニラ炒めを口に運びながら、こんなにも頭を悩ませるのは久しぶりの経験だな。

川島は僕が想像した以上に手間をかけてあのハンカチを用意してくれたのか。

胸の奥がちくりと痛む。

悪いことをしたな。と普段ならそう思うだろうが、今は何故か嬉しくて仕方がない。しかし、そう思ってしまっていることへの罪悪感も少なからずある。

昼食を終え、オフィスに戻る前に自動販売機に立ち寄り缶コーヒーを買った。

その場で半分ほどを一気に流し込んだ後深く深呼吸をする。

深呼吸には不思議な力があると僕は思っている。

肩を上げないように気をつけながら、鼻から空気を吸い込む。限界の少し手前で息を止め、4秒待って口から吐き出す。

これを何度かやると胸のつかえが取れる気がする。自分の中にあったモヤモヤしたものがクリアになる。

それが問題の解決に直結しているかは別問題だが、複雑にしなくてもいい部分が溶け出して行くので本質がわかりやすくなる。もちろん気のせいと言われればそれまでだ。

深呼吸を終え、僕が辿り着いたシンプルな答えは、「川島を食事に誘いたい」だった。

色んなことを考えたが、どうやらそうらしい。と、1人でまた強がってみる。

いや、やめよう。

受け入れよう。

僕は彼女のことが気になっている。

缶コーヒーの残りを飲み干し、ゴミ箱に空き缶を捨てる。

オフィスに戻ろうと歩き出した時、遠くから川島がこっちへ向かって来た。

「課長、すみません。加奈から聞いて、私探してましたか?」

あのニヤニヤの笑みの意味が理解出来た。

立川め。今度ランチをご馳走してやる。

「そうなんだ。まずはハンカチありがとう。大切に使わせてもらうよ。それと、これはとても重要なミッションなんだが、、」

「は、はい。なんでしょう?」

「川島の好きな食べ物を教えてくれ。」

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甘くも黒くも tsumuri @otonarinooto

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