第174話

 東京から富士の樹海まで向かっている葵と翠は、転移を使わず空を飛んでいた。日本のあちこちで、魔物たちが暴れているのだ。

 あの人面蛇だけじゃない。グレイの眷属も一緒になって。道中のそいつらを少しでも倒して、それでも決してスピードを緩めることなく塔へ向かっている。


 その道中でのことだった。


「空が……!」

「夜が、晴れていく……」


 世界を包んでいた夜空が、太陽の照りつける澄んだ青空へと変わっていく。

 時間的なことを考えれば、今は深夜。決して太陽の出る時間ではない。つまりこれは、誰かの魔術によるもの。


 今更太陽ごときで力が弱まる二人ではないが、あまりにも突然の出来事に困惑する。

 一体誰が、と考えて。こんなことをできる人は、ひとりしか思い当たらなかった。


 そもそも考えるまでもなく、青空を見れば情報が映される。それは翠も同じ。だから、信じられないと言った風な呟きが。


「まさか、桃瀬桃がこれを?」

「グレイの味方をしてたはずなのに……でも、桃さんなら……」


 魔女の目的は、今になっても分からないままだ。もしかしたら、その目的を達成したから。だからグレイの味方をする理由がなくなって、この青空を作ってくれたのかもしれない。


 ともあれこの情報が正しければ、彼女が味方になってくれたということだ。

 この上なく頼もしい。もう、大切な人たち同士が争う姿を、見なくて済む。


『黒霧緋桜が、逝ってしまったようですね』


 この空と同じ晴れやかな気分になっていた葵の脳に、突然、直接声が響いた。

 聞き捨てならない言葉を届けてきたのは、何の前触れもなく目の前に現れた神鳥。


「ガルーダっ……」

『お久しぶりです、シラヌイ。いや、今は黒霧葵と呼ぶべきでしょうか』

「どういうこと? お兄ちゃんがどうしたの⁉︎」


 葵にとって、浅からぬ因縁のある相手。かつては憎むべき敵としか見ていなかったけど。今はできれば、戦いたくない相手だ。

 この神鳥は、あの日。葵をネザーから救ってくれたのだから。


 その瞳は、紅く染まっていない。狂気に呑まれることなく、グレイの眷属から解放されたガルーダは、残酷な真実を告げた。


『あなたの兄、黒霧緋桜は。先程、魔女を庇って死にました。その力の全てを魔女に託して』

「嘘だっ!!」


 真っ先に叫び返したのは、怒りに表情を染め上げた翠だった。

 葵はただ、その様を見ていることしかできない。現実離れした、あり得るはずのないその言葉を聞いて。

 視界に映る全てが、遠ざかっていく。


「つまらない嘘をつかないでください! 緋桜が、そう簡単に死ぬわけない!」

『私はただ事実を告げにきただけ。あの吸血鬼に頼まれ、あなた方には教えろ、と。なにより、あなた方の異能であれば、私が嘘をついているかどうかは分かるはずです』

「……っ」


 図星を突かれ、翠は言葉に詰まる。

 そう、分かる。ガルーダが本当のことを言っているのも。大好きなお兄ちゃんが、もういないことも。


 でも、どうしてだろう。

 葵の心は、翠のように激しく動かなかった。


 悲しいし、怒りが湧く。けれど葵は、激情に支配されない。


「こんなことなら……一回くらい、ちゃんと大好きだって、言えばよかったな……」


 俯かせた顔。その眦から、静かに涙が溢れた。一度流れてしまえば、もう止めることはできない。


「姉さん……」


 葵よりもよほど涙で顔を歪めさせた翠が、気遣わしげな声を背中に掛けてくる。

 翠の感情は、葵以上に複雑なはずなのに。

 この可愛い妹が、兄に向けていた気持ちを。全てとは言わずとも、ほんの少しだけ察していたから。


 それなのに、今も葵を気遣うことができる。なにより、兄の死に対して、心から泣くことができる。


 それが場違いにも、嬉しかった。

 だってきっと、今の翠の姿こそ。緋桜が望んでいたものだから。

 翠が、自分の感情を爆発させて。その想いのままにあることを。


 葵の周囲で、黒い火花が弾けた。

 何度も飛び散るそれは、やがて稲妻となり体に纏う。翼は黒雷へと変化して、涙を流すその瞳は、真紅に輝いていた。


『行くのですね』

「うん。ありがとうガルーダ。お兄ちゃんのこと、教えてくれて。それとあの日、私を助けてくれて」

『礼を受け取る資格など、今の私にはありません。しかしグレイから解放されたこの身は、本来の役目を果たしましょう』


 神鳥ガルーダ。

 本来ならば人間の味方としてあるその存在は、グレイの手によって吸血鬼の眷属にまで堕とされていた。

 そこから解放されたなら、ガルーダは己が命に与えられた使命を果たすだけだ。


 なら、葵たちも。

 この悲しみを、怒りを、ぶつけるべき相手の元へ。


「跳ぶよ、翠ちゃん」

「……はいっ」


 二人の姿が、その場から消える。

 その次の瞬間に。


 富士の樹海で聳え立つ塔の、頂上に。黒い雷が落とされた。

 轟音を撒き散らし、天井を崩壊させて。

 太陽と青空に晒されたそこに降り立つ二人は、全ての元凶たる灰色の吸血鬼と相対する。


「やはり来たか、黒霧葵、出灰翠。緋桜のことは、残念だったよ」


 その言葉に嘘偽りはないのだろう。

 この吸血鬼は、血と遺伝子を分けた実の子供たちだけではなく。緋桜のことも、なにかと気にかけていた節があったから。


 だからこそ腹が立つ。静かに凪いでいたはずの葵の心が、この顔を見て、声を聞いただけで、爆発する。


「全部……全部終わらせるッ! 織さんたちが来る前に、私たちが!」

「あなたの子である、わたしと姉さんが。あなたの野望を、ここで打ち砕く」


 心を燃やせ、輝かせろ。

 尊敬する、大好きな兄のように。

 怒りや悲しみだけじゃない。未来を求める、私たちの心を。



 ◆



 ロンドンの街で暴れる魔物は、その数を大きく減らしていた。

 その理由は多岐に渡る。そもそも本部にかなりの戦力が集まっていたこと、異世界からの援軍である二人、シルヴィア・シュトゥルムとダンテ・クルーガーの存在、更にそのシルヴィアと相性がいい怪盗や、突如晴れた夜の闇。

 イギリスに現れた巨大な黙示録の獣も、輝龍が倒してくれた。


 そう言った様々な要因が挙げられるが、それでも戦果としては全体の三割だ。

 残り全ては、たった二人の規格外によるものだった。


「一人、力尽きたようですね」

「そのようだな……ただ、そのおかげで魔女が味方についたか……代償としては大きすぎるが」


 アダム・グレイスとイブ・バレンタイン。

 世界という枠に収まることのない、枠外の存在。あらゆる世界の爪弾き者。

 破壊と束縛。

 その両者がここにいるだけで、ロンドンの街から魔物は姿を消していた。


 仲間である若い命がアメリカで散ったことを悟り、アダムは小さく舌打ちする。

 蒼たちのように、長く深い関係を築いていたわけじゃない。短い間ではあるが、アダムも彼とは関わりを持った。同じ敵を相手に戦う仲間だった。


 様々な世界を渡る中で、何度も経験したことだ。何度も何度も、親しくなったものたちが死んでいく様を見せつけられた。

 小鳥遊蒼の前世だって、その一つ。


 慣れるわけがない。気が狂うほどの数、仲間の死と直面しても。慣れてはいけない。


「見つけたぞ、アダム・グレイスッ!!」


 悲しむ暇がないことも、いつもと同じ。

 呼ばれた声に振り返れば、緑の外套を羽織った狩人が。

 ソロモンの悪魔、バルバトス。


 アダムが最初に交戦した相手だ。


「ああ、そういえばお前が残っていたか。ダンタリオンに気を取られすぎたな。お前もあれか? 無駄なプライドに拘って死にに来た口か?」

「バカにするでないぞ。狩人たる我輩に、アモンのような醜いプライドなんぞ存在せん! 我輩はただ、貴様と戦いたいがためにこの場へ来た!」

「ほう?」


 少し予想外の答え。ソロモンの悪魔は人間を見下しがちだ。実際、人間であろうが吸血鬼であろうが、概念的存在の悪魔から見れば格下も格下。


 だが、このバルバトスという悪魔は違う。

 ある文筆家は、こう解釈したのだ。

 バルバトスとは、ロビンフットの変形である、と。


 人に寄り添い、人を守る義賊。

 その解釈がバルバトスを形作る一つの要素として確立され、ゆえに彼は人を見下さない。対等な敵として立つ。


 それもあくまで、一側面に過ぎないが。

 やつが人を喰らう悪魔であること自体は、何も変わりがないのだ。


「いいだろう、本気で相手をしてやる。イブ、この星の補強は頼んだぞ。うっかり壊してしまっては、申し訳が立たんからな」

「あなたという男は、毎回毎回……わたしの身にもなって欲しいものですね」

「お前の束縛に比べれば、いくらか可愛いものだろう」


 ほんの少し不満そうな、彼女の印象とは正反対の稚い表情を残して、イブはどこかへ姿を消した。

 いつも申し訳ないとは思うが、彼女がいてくれなければ本気で戦えない。アダム本人が語ったように、まず最初にこの星が、世界が耐えられないから。


 アダム・グレイスの破壊体質のように、枠外の存在とはなにかしら異常な体質、あるいは性質を持つ。

 魔術や異能とは違う。人間が食べ、眠り、普通に生きていくのと全く同じ機能として。彼らはそこにいるだけで、世界の害となるなにかを振りまく。


 イブ・バレンタインの持つそれは、束縛。

 縛り、捕らえ、自由を奪う。

 ただ壊すだけのアダムより、よほど厄介なもの。今はアダムと出会い、破壊体質と相殺する形で世界への影響は全くないのだが。それ以前の彼女は、いくつもの世界を意図せず支配してしまったと言う。


 しかも代償として、アダム自身が彼女に束縛される羽目になった。

 この身を救ってくれた女だ。恩人でもあるし、好意も抱いている。嫌ではないが、時々勘弁してくれと思ってしまうのが本音。


「やれやれ。独占欲の強い女といると、なにかと大変だな。まあ、今に始まった話でもないが」


 ひとりごちて、青く澄んだ晴れ空に手を掲げる。頭上はあっという間に灰色の雲に覆われ、中では稲光が瞬く。


 異変は空だけにあらず。

 地上には何本もの稲妻が、蛇のように這っていた。どこからか振動と音が響いてきて、雲を引き裂き金属の断面が現れる。


「こんなものを、街中で使うのか……!」

「使わなければ礼を失すると思ってな。周りの心配ならいらんぞ、イブが全部保護してくれる。お前も安心して本気をぶつけて来い」


 地を這い空から降り注ぐ稲妻は、決して自然の現象ではない。この武具を使えば、副作用として必ず生じるもの。

 それだって、誰が使ってもこうなるわけではない。アダムの膨大すぎる量の魔力、戦鎚が受け止めきれないそれの余剰魔力が、稲妻として現れているのだ。


 アダムか、あるいは本来の持ち主であった雷神でなければ、この現象は発生しない。


「いいだろう……それでこそ、我輩は貴様の前に来た甲斐があるというものだ!」


 対するバルバトスは、自身の周囲に四体の小さな使い魔を召喚した。そいつらの手にはそれぞれ、角笛が握られている。


 弓を構え、矢を番える。

 今まで一度たりとも行わなかった、弓を引くための順当な行為。

 たった一本の矢にとんでもない魔力が込められているが、使い魔が角笛を吹き鳴らした瞬間、それが更に跳ね上がった。


 音と魔力を共振させて、一本の矢は頭上の戦鎚と同等のそれを帯びる。

 枠外の存在と悪魔。互いに、およそ人の身では到達しえない力が、激突する。


一矢奏伝・角鳴響叉ギャラルホーン!!」


 放たれる小さな矢が戦鎚とぶつかり合った瞬間、甲高い音を響かせる。

 魔力によって引き上げられた威力もさることながら、この一撃の真価はその音にある。人間が聞けば、ただの甲高い音。しかし特殊な魔力を纏わせた音波は、振動によりあらゆる魔術的事象を内部から破壊する。


 悪魔や狩人、盗賊としてではなく。

 騎士としてのロビンフッドの側面が濃く現れた、音による破壊の一矢。


 だが、それを迎え撃つのは誰だと思っている。世界という枠に収めることができず、その体質ひとつで、いくつもの世界を破壊へと導いてしまった男だぞ。


粉砕せよ、雷神の戦鎚ミョルニルッ!!!」


 バルバトスの渾身の一撃をものともせず、むしろその魔術式ごと破壊しながら、雷を帯びた超質量の戦鎚が落とされる。


 動くだけでも物理的な衝撃を撒き散らすそれは、ロンドンの街など容易く呑み込んでしまうほどの巨大さ。本来の持ち主である雷神に届くほどの威力。

 加えて、アダム・グレイスだけが持つ破壊体質。


 あまりにも圧倒的な破壊の前に。ソロモンの悪魔、その序列八位は、ただ頭上を見上げるしかなかった。



 ◆



 雲が晴れ、頭上には再び青空が広がる。

 アダムがこの世界で暮らしていた五十年間、ずっと見ていた青空だ。親友に呼ばれて再びこの世界に訪れてからは、しばらく見ていなかった空。


 そこへ溶けて消えていく粒子を、敬意を持って見送る。


 本来なら死の概念が存在しないソロモンの悪魔が、それでも死んでしまったら。

 それはもう、完全な消滅を意味する。ひとりの戦士として目の前に現れたバルバトス。敵ではありながらも、彼を貶すことなどしない。


 さて、と周囲を見渡す黒づくめの少年は、広がる光景に少なからず驚いていた。

 毎度同じことではあるが、あれだけやって巻き添えがただの一つもないというのは、果たしてどういう原理なのか。


 束縛。

 つまりは自由を奪い、変化を止めてしまうこと。このレベルで行使可能なのだから、そりゃ世界という枠に収まるわけがない。


「やり過ぎですよ、アダム。少しはわたしのことも考えてください」


 虚空から姿を現したイブは、どことなく疲れた様子を見せている。さすがに申し訳なくなって、悪いと一言謝った。


「ああいう手合いのやつには、どうも加減が出来なくてな。そもそも、本気で相手をしなければ礼を失するだろう」

「男として、というやつですか。わたしには理解できそうにない」

「まあいいじゃないか。実際お前は、守り切ってくれてるわけだしな。信頼してるから本気を出せる」

「ふむ、その言葉は悪くありませんね」


 あっという間に機嫌を直してくれた相棒を見て、心の中で密かにちょろいとか思ってしまう。

 おそらくは、束縛対象であるアダムが相手だからこそ、なのだろうが。


 束縛することでしか愛情を示すことのできないイブ。重すぎると思うことはあるし、たまにその重さでこっちが潰れてしまいそうだが。アダムとて似たり寄ったり。

 壊すことでしか、なにかを表現できないのだから。


「で、これからどうする? 残りはバアルとダンタリオンだが」

「悪魔の方はもういいでしょう。他が相手をしている。あなたは黙示録の獣をやりなさい。いくら龍の巫女とは言え、すんなり倒せるわけもないでしょうから」

「うち一人は、まだ龍神を受け継いだばかりだと言っていたな。有澄の妹なら心配はいらないと思うが」

「修行のために世界中を旅していたのです。それを切り上げさせた。まだまだ完全とは言えませんよ」


 イギリスに現れた黙示録の獣は、シルヴィアとダンテが葬った。二人がこうも早くに獣を倒せたのは、そのコンビネーションがあちらの世界でもずば抜けたものだからだろう。


 単純な力の強さなら龍神や龍の巫女に及ばずとも、あの二人の連携ならば話は別。


 問題は、ここ以外の場所に現れた獣たち。

 アメリカとイギリスの二体が倒され、残りは九体。増援に駆けつけてくれた異世界の者達は五人。そのうちシルヴィアとダンテはセットだから、実質四人。

 龍とルークもデカブツの対処に当たってくれているだろうが、それでも数が足りない。


「俺が全て壊せたら、話は早いんだろうが……」

「これ以上は、さすがのわたしでも抑えきれない。世界の方が先に根を上げてしまいますよ」

「直接叩くしかないか……」


 億劫ではあるが、仕方ない。

 この世界に住んでいた五十年間、世界の危機なんていくらでも救ってきた。いやそもそも、アダムのような存在が直接介入できるということは、つまり放置していても問題ない程度なのだが。


 今回は違う。グレイを直接相手にすることはできない。この世界の問題は、この世界の住人が。

 枠外の存在である二人が、唯一強いられているルールだ。


 だから、そのための露払い程度は引き受けよう。


「最強も楽じゃない」


 どこか楽しそうな笑みすら浮かべ、破壊者は最前線へと向かった。



 ◆



 日本の地方都市、棗市。

 桐生探偵事務所のあるそこは、その他世界中の様子とは少し違った。


 織に愛美、朱音の三人による結界が張り巡らされているのだ。悪魔の襲来が続いてからは、それがさらに強固なものへと変わっている。

 故に人々は魔物化の影響から逃れ、黙示録の獣による被害はゼロと言っていいだろう。


 しかしそれでも、暴れ始めた魔物を完全に遮断できているわけではない。

 ダンタリオンが発動した黙示録の獣顕現の術に、その際起こった人間の魔物化。結界はそれらを防ぐのに殆どの力を使い果たしてしまい、街への侵入を容易く許してしまった。


「朱音! 貴様はグレイのいる塔へ急げ! この街は我とアーサーが守り切る!」

「でもっ……!」


 街の中心である市街地に集中して現れた魔物を、朱音とサーニャの二人が倒し続ける。

 ネザーのアメリカ本部から派遣されてきたゴーレムも加わり、それでもなんとかギリギリで抑えているのが現状だ。


 元々、その他の街よりも魔物の出現が多かった棗市。その最たる理由は、桐生探偵事務所にある。

 つまり、織や朱音たちが狙われているからこそ、その巻き添えとなる形で街に被害が齎されていた。今回もその延長上だ。


 朱音は時界制御が、サーニャは吸血鬼としての力があるから、なんとか二人とプラスアルファだけで抑え切れているが。

 もし朱音ひとりでも離脱してしまえば、その均衡は崩れてしまう。


 銀の炎を纏いながら、時間を置き去りにして動く朱音。瞬きの間に大量の魔物が斬り伏せられるが、どれだけ斬ってもキリがない。


 しかし、状況は着実に動いていた。


 感じたのだ。

 自分の中にある、目に見えない繋がり。その一つが、唐突に消えたのを。


「緋桜さん……?」


 桐原が持つキリの力は『繋がり』。家族、友人、恋人、仲間。誰かとの繋がりを力にする。だから朱音や愛美には、その繋がり自体を感じ取ることができる。


 その中の一つ。あの頼りになる歳上の、葵たちの兄である彼の繋がりが、消えた。


 それが意味するところは一つしかない。

 けれど、認めたくなくて。


 続けて訪れた変化は、目に見えて分かるものだった。

 ずっと夜に包まれていた空が晴れ、青く澄んだ昼の空が広がる。燦々と照りつける太陽は、果たしていつぶりに見ただろう。

 この晴れ空も、魔術によるもの。そこに込められている魔力は、よく知る二人のものが綺麗に混ざり合ったものだった。


「どうした朱音! 緋桜がどうした⁉︎」

「……くっ、ふぅ……っ!」


 涙を堪える。泣いている場合じゃない。でも、耐え切れるわけがなくて。


 もう誰にも、死んでほしくなかったのに。そのために戦い続けていたのに。

 両親だけじゃない。私に優しくしてくれた人たちみんなを、助けたかったのに。


 いつもこうだ。足掻けば足掻くほど、現実は朱音を嘲笑うかの如く、残酷な結果だけを齎す。


「グレイッ……!」


 いつかよりもより暗く黒い、憎しみの炎が瞳に灯る。耐えきれずに頬を伝う涙は、その熱を持ったように熱い。

 短剣を握る手に痛いくらいの力を込めて、無造作に大きく一振り。迫っていた魔物たちがなす術もなく両断され、そちらに見向きもせず、富士の樹海に聳え立つ塔の方面へと鋭い視線を飛ばした。


 抑えきれない魔力が、風となって吹き荒れる。怒りと憎悪に呼応してどこまで増していき、ただそれだけで一部の敵は魔力の粒子となって霧散した。


 絶対に、許さない。

 生まれ育った未来の世界だけじゃなく、この時代でも、私の大事な人たちを殺すというなら。

 あらゆる時代、あらゆる世界から排斥してやる。この世のどこにも存在できないように、死なせて殺す。

 復讐してやる。この怒りを、憎悪を、これまで転生して来た中で積み上げた全てをぶつけて、存在ごと抹消させてやるッ!!


「朱音」


 そんな激情は、しかし。

 優しく響いた声だけで、全てが掻き消された。気がつけばサーニャに抱きしめられていて、急速に頭が冷えていく。


 実際、二人の周囲には氷像と化した魔物が多くいて、地面の一部も凍りついている。気温はかなり下がっていた。


「落ち着け、朱音。貴様が戦う理由は、そうじゃないだろう」

「ぁ……」


 赤子をあやすように頭を撫でられて、吹き荒れていた魔力の風も止む。理性を取り戻して、だけど、怒りや悲しみが消えるわけではない。


「でも、サーニャさん……」

「緋桜のことは……我も、分かっておる」


 なにかを飲み下して、銀髪の吸血鬼は朱音に語りかける。

 きっと、朱音よりもより多くの人たちとの別れを経験して来たサーニャは、感情の制御が上手いんだろう。

 なにも感じていないわけじゃない。ただ、今この場でやることを、しっかりと見据えているだけ。


 感情のぶつけ方を、ぶつけるべき相手を、ちゃんと知っている。


「それでもだ……黒霧緋桜という男を知っているなら、やつが望むことも、分かるはずだ」

「……はい」


 復讐のために戦う。それもいいだろう。彼はそう生きる魔女を否定したわけではなかったし、彼自身もそのような考えを抱いたことがあるはずだから。


 けれどそれ以上に。

 朱音たちの戦いは、過去に縛られたものじゃない。

 未来を求めるためのものだ。


「ごめんなさい……ありがとうございます、サーニャさん」

「分かれば良い」


 サーニャがいてくれて良かった。

 彼女がいなかったら、朱音はここで決定的に道を踏み間違えていた。

 この人には、いつも助けられる。支えられる。両親と同じく。本当に大好きで、この人と一緒にいられる未来を、創りたいから。


 それが、桐生朱音の戦う理由。


「桐生!」

「丈瑠さん⁉︎」


 気持ちを落ち着かせた朱音を突然呼んだのは、異変が起こってからすぐに別れたはずの丈瑠だ。アーサーの背に乗せられ、戦う力を持たない彼が最前線へやって来ていた。


 本当なら今日は、楽しみにしていたクリスマスイブだ。

 丈瑠と二人で遊んで過ごす予定だった。実際、ことが起こる前は、丈瑠の家に招待されて二人で映画を観たり、ケーキを食べたりしていたのに。


 もっと、一緒にいたかったのに。今日という日を、二人で過ごしたかったのに。


「なにしに来たんですか! 早く避難してください!」


 状況が変わった。今この時は、もう、一緒にいるわけにはいかない。

 彼に危険が及ぶから。こんなところに出てきてしまえば、死んでしまうかもしれないから。


「ごめん……でも、今を逃すと、もう二度と桐生と会えない気がしたから……」

「……っ」


 図星を突かれて、言葉に詰まる。

 これからグレイの元に向かって戦う。その結果がどうなれ、元の日常に戻ることは叶わないだろう。


 やつを倒して世界を作り替えたとしても、桐生朱音の存在はどうなるのか分からない。

 存在ごとなかったことになるのか、元の未来に返されるのか。あるいは、新しい世界で生きることが叶うのか。


 どの未来を辿ったとしても、今の丈瑠と会えることはない。


「だから、今のうちに伝えておきたいことがあるんだ」

「私に、ですか……?」

「うん」


 アーサーの背中から降りた丈瑠と、真っ直ぐに向き合う。意を決するように大きく深呼吸。口が開かれるも、形を持たない息だけが吐き出されて。

 首を傾げてみれば、どこか気の抜けたような、柔らかい笑顔が。


「桐生。君に会えて、本当によかった」


 一音一音を大切に、ゆっくりと紡がれた言葉。それがあまりにも、朱音の胸に強く響いて。

 そう言ってくれた嬉しさと、もう会えないであろう寂しさが同時に押し寄せ。自分より少しだけ背の高い彼の体を、ギュッと抱きしめた。


「き、桐生?」

「私も……私も、丈瑠さんに会えて、丈瑠さんと友達になれて、良かったです。あなたは、この時代で新しく出会えた、大切な人……」


 今度は、涙を堪えることができた。でも、声は震えていたかもしれない。


 こういう形のお別れは、朱音にとっても初めてだ。

 いつも死に別ればかり。未来でお世話になっていた人たちとは、この時代でも会えたから。


 丈瑠だけなのだ。唯一、この時代だけで交流を持った、大切な人。


 さよならしたくない。まだ、ずっと一緒にいたい。

 それは叶わないと分かっているけれど。


 名残惜しさを振り切って、体を離す。

 最後は、いつもみたいに気丈な笑みを浮かべていよう。


「丈瑠さん……サーニャさん、アーサー。私、行ってきます。全部を終わらせに。みんなと一緒にいられる未来を、作るために」


 自信満々、大胆不敵。

 ちょっと子供っぽく見えるかもしれないその笑顔は、今までで一番輝いていた。

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