第153話

 棗市立高校の校庭に、甲高い剣戟の音が響く。黒い刀と白銀の大剣がぶつかり合い火花を散らしていた。


 怪我から復帰した葵とカゲロウは、リハビリと称してここ最近毎日のようにこうして斬り合っている。高校に避難している人たちの一部は遠巻きに眺めているが、見ていて楽しいものでもないだろう。

 互いに本気。多少怪我をする程度なら、吸血鬼の再生能力で直ぐに治る。さすがに首を刎ねたりは出来ないけど、腕や脚を斬り落とす程度なら全く問題にならない。


 今だって、カゲロウの攻撃を大きく躱した葵の右足が、素早い追撃で斬り落とされた。鮮血か舞い校庭の土を赤く汚す。

 背中の黒翼で姿勢制御を行い、残った左足を軸に体を捻る。同時に右足の再生が終わり、綺麗な回し蹴りがカゲロウの側頭部に直撃する。


「ふっ……!」


 よろめいた半吸血鬼へ向けて、鎌に変形させた己の得物を振るった。しかし硬質化した右腕ひとつに防がれ、もう片方の腕で力任せに大剣が振るわれる。

 水平の一撃を防護壁で受け止めるが、カゲロウのパワーは葵の予想を遥かに超えていた。勢いよく振り抜かれ、葵の体は大きく後ろへ飛ばされる。


「無茶な戦い方しやがって……」


 小さくボヤいたカゲロウに向けて、青白い稲妻が迸った。一際大きな金属音が鳴る。白銀の大剣が黒い槍を正面から受け止めていた。


 葵が背中に伸ばした雷の翼は長く保つことができず、元の黒翼に戻ってしまう。その翼も得物も消して、不満げに灰色の少年を見上げた。


「まだ出力不足だな」

「言われなくても分かってるし」

「あと戦い方が雑になってんぞ」

「うっ……」


 別に雑になっているわけではなく、葵なりの戦略として考えていたのだけど。やはり許してはくれないか。


 再生のタイミングを使った不意打ち。初見の相手には有効的だろうが、それでもこちらが傷を負うことが前提の戦い方だ。痛みは異能で誤魔化せばいいし、個人的には使えると思ったのだけど。


「さすがにあの人に怒られるかなぁ」

「織のことか?」

「違う違う。織さんじゃなくて……」


 不思議と、続く言葉が出てこなかった。自分は一体、誰の名前を口にしようと思っていたのか。それがわからない。

 たしかに織も怒りそうだけど、あの人だって自分の身を犠牲にしようとして怒られてたじゃないか。


 ──誰に?


「あれ、おかしいな……誰のことだっけ?」

「オレに聞くなよ。まあ、織とか朱音が知ったらバカ怒りするのは間違いねえよ。蓮には泣かれるかもな」

「それは嫌だな」


 まだ敵の元にいる恋人が知ったら、たしかに悲しまれそうだ。すっごく怒られて、すっごく心配させちゃう。泣くことはないだろうけど。


 一瞬よぎったよく分からない違和感は、そんな思考に埋もれていってしまう。


 なんにしても、はやく力を戻さないと。

 血が足りないのはこの際仕方ない。位相の力も使えないし、魔力もかなり落ちてしまっているけど。せめて雷纒くらいはまともに使えるようにしておかなければ。


「二人ともおつかれ」

「はいこれ、トマトジュース」


 校舎の方から近づいてくる二人の少女。イマドキJKと言ったその二人はこの高校の生徒であり、織や朱音の友人でもある花蓮と英玲奈だ。二人はカゲロウとも仲が良く、その上で織や朱音が魔術師であることを随分前から知っていた。

 世界がこうなる前から、なんの偏見もなく魔術師である朱音たちと接してくれていたのだ。


 葵は関わりが薄かったけど、事務所に顔を出した時には何度か会っていたし、ここで一週間ほど過ごす中でなにかとサポートをしてくれている。

 特に、非難している人たちのまとめ役を買って出てくれたのはとてもありがたかった。


「ありがとうございます、英玲奈さん。でもなんでトマトジュース?」

「吸血鬼ってトマトジュース好きなんじゃないの?」

「別に嫌いじゃないですけど……」


 たしかに、フィクションの中での吸血鬼はなぜかトマトジュースを好んでいるか。血の代わりになったりするのかな。

 しかし現実の吸血鬼はそこまで便利なわけでもなく、トマトジュースで喉の渇きが潤うことはない。


 今でも葵の中の本能は、人間の血を求めている。渇きを潤せと、目の前の人間を襲えと叫んでいる。

 それを理性で無理矢理捩じ伏せ、貰ったトマトジュースのストローを啜った。


「お前ら、よくあれ見た後で普通にいられるな。あっちの反応が人間として正しいと思うぞ」


 カゲロウがそう言って目を向けた先には、半吸血鬼の兄妹に向けて畏怖の視線を送る人々だ。

 ヒトが持つには身に余る力。魔術という奇跡の現象を間近にして、それを使った本気の戦いを見たなら。ああいう反応が普通のはず。そのあたり、花蓮と英玲奈の二人は感覚がおかしいと言わざるを得ない。


 最たるは斬り落とされた葵の足だ。ただの人間だったら明らかに致命傷。それでも顔色ひとつ変えることなく武器を振るい、それどころか瞬く間に再生した。

 一般人からすれば常識はずれの光景は、目を覆いたくなるはずなのに。


「なんていうか、慣れた?」

「えぇ……」

「朱音とかが魔術師と戦ってるの何回も見てるけど、腕とか足とかめっちゃ斬れるし。そりゃ最初はちびりそうになったけど」


 金色に染めた髪を指先で弄りながら言う花蓮には、嘘を吐いてる様子などない。本当に慣れたのだろう。慣れるようなものではないし、慣れてはいけないものだと思うけど。


「ていうか、うちらは元々、織に朱音のこと頼まれてたからね。仮に慣れてなかったとしても、それであんたらと距離取る理由にはならないっしょ」


 当然のこととばかりに言うのは、彼女に憧れて伸ばしている黒髪を手で払う英玲奈。

 いい人たちだなぁ、と思うのも束の間、また違和感を覚えた。


 英玲奈が憧れた彼女とは、誰のことだ? 葵の周りで長い黒髪を持っていると言えば朱音だ。葵もツインテールを解けばそれなりに長い方とは言え、普段髪を下ろすことはしない。そしてその朱音の髪も、あの人譲りのもので……。


 まただ。また、頭の中で知らない誰かがよぎる。いや、知らないわけじゃない。本来ならあり得ないはずの名前が、葵の記憶とは決定的に食い違うはずの、彼女の名前が浮かび上がりかけ──。


「お前ら、下がってろ」


 真剣味を帯びたカゲロウの声が耳に届いた。思考の海から浮上して顔を上げた先、そこの空間に孔が開いていた。

 明らかな異常。情報操作による結界と剣崎龍の紅炎に守られたこの場所で、起こるはずのない現象。


 この場所に入れるのは仲間たちだけだ。しかし彼らの中には、こんな風に孔を開く者はいない。ルークが似たような現象を起こすが、あれは空間断裂。孔を開けるのではなく、空間を斬る異能だ。


 高確率で敵の可能性がある。

 それぞれ対照的な色の翼を広げた二人が見つめる先に現れたのは、予想外の組み合わせだった。


「ちょっと栞! 必要以上にくっつかないで! 今のあんた気持ち悪いのよ!」

「気持ち悪いとは酷いな。私は自分のこの姿を気に入っているんだけど」

「鏡見たことないわけ? まんま悪魔みたいな格好してるくせに」

「おかしいな。デーモンコードはそれなりに人気があったはずだったのに」

「生存性バイアスって知ってる?」


 一人は知っている顔。禍々しい二本の角と漆黒の翼、瞳には逆さまの五芒星が刻まれているが、間違いない。魔術学院日本支部生徒会長、小鳥遊栞だ。

 けれどもう一人、長い黒髪を靡かせるのは、敵であるはずの少女。


「なんで殺人姫がいるんだよ!」

「会長、そいつから離れてください!」


 叫ぶと同時に大地を蹴った。翼をはためかせて高速で肉薄。刀を逆袈裟に振るおうとしたが、刃の部分にも関わらず足で踏みつけ受け止められた。

 遅れて上段から大剣を振り下ろすカゲロウ。それも刀の鞘に止められる。


「どういうつもりよ葵」

「馴れ馴れしく話しかけないで! 今日こそ、桃さんの仇を……!」

「は? なにそれ……ちょっとカゲロウ」

「いつもはろくに喋らねえくせして、今日は随分饒舌じゃねぇか!」

「どうなってるの……」


 一度退いて距離を取る。やはり殺人姫相手に接近戦を挑むのは厳しいか。


 カゲロウの言う通り、今日の殺人姫は随分と口を開く回数が多い。これまで何度も戦ってきたが、ろくに会話をしたことなんてなかったのに。どういう腹づもりなのか。


「花蓮と英玲奈、に聞いても分からないわよね……栞、あんた何か分かんないの?」

「黒霧さんを口説き落とすには、桐原さんが嫌われた今しかないな、ということくらいかな」

「聞く相手を間違えたわね」


 分からないと言えば、この二人が親しげに話していることも分からない。

 日本支部の生徒会長であり、人類最強の妹である栞は、間違いなく葵たちの味方だ。なのにどうして、殺人姫と共に現れ、今ああして親しく言葉を交わしているのか。


 まさか、会長は寝返った?

 いや、それはないはずだ。人類最強に身近な人物ということは、常に彼から監視されているのも同然。怪しい動きを見せたその瞬間、栞は命を落としている。


 異能は正常に機能していない。殺人姫の情報はノイズが走って見えず、逆に栞の情報は至って正常だ。


「どうしようかしら」

「いつもの桐原さんなら、とりあえず気絶させるくらいのことは言うけど」

「今の私はそうしたくないの。なにが楽しくて可愛い後輩を傷つけなきゃいけないのよ。そんなの間違ってるでしょ」

「なら、ここは私が引き受けようか? 桐原さんの代わりにお仕置きしておいてあげよう」


 一歩前に出た栞は、明確な害意を向けてくる。逆さまの五芒星を写した瞳が細められ、禍々しい魔力が漲っていた。


 まるで悪魔のような。

 違う、悪魔そのものなのだ。それが小鳥遊栞の異能。天使と悪魔、対の概念として描かれることの多い二つの力をその身に宿す。


 魔天龍まてんろう

 それが彼女の二つ名にして、異能に与えられた名前。


「私は織たちを探しに行こうかしらね」

「行かせると思うか?」


 踵を返した愛美に向けて、緋色の桜が殺到した。咄嗟に飛び退いた殺人姫を、桜は意志を持ったように追いかける。

 舌打ちした愛美が刀を抜けば、次の瞬間には全ての桜が斬り落とされていた。


 おかしい。今のは殺人姫の異能、切断能力じゃなかった。やつが使わないはずの魔術を使っていた。

 それも朱音と同じ、概念強化だ。


「ったく、あんたまで私が桃の仇とか言うんじゃないでしょうね、緋桜」

「ふざけたことを言うなよ殺人姫」


 愛美の行く手を阻んだのは兄である緋桜だ。周囲に桜の花びらが舞い、殺人姫に対して殺意を向ける。

 しかし一方の殺人姫からは、いつもの凶暴な殺気が感じられなかった。


 彼女を殺人姫たらしめる所以。人を殺し、愉悦の笑みを浮かべるのがあの少女だ。

 だというのに、どうして。桐原愛美から殺意はおろか、敵意すら感じられないのか。


 なにかがおかしい。

 具体的にはなにも言えないけど、どこかで致命的に歯車の掛け違いが起きている。


「おや、おや、おや。これはこれは。異常を感じて来てみれば、愉快な現場に遭遇してしまいましたねぇ」


 癪に障る声が、頭上から降りて来た。

 見上げた先に浮いているのは、見間違えようのない相手。殺人姫以上に許せない悪魔と、闇に心を落とした少年だ。


「蓮くん!」

「蓮!」


 名前を呼ばれた糸井蓮は、無感動な瞳で恋人と親友を見下ろす。灰色に染まった髪と黒く堕ちた聖剣。

 その姿を見て、胸が痛む。


「どうだい桐原さん。あれが相手なら、戦う気になれるかな?」

「当然でしょ。うちの大切な後輩はさっさと返してもらうわ」

「どういうことですかなぁ? あなたには小生の術を掛けていたはずですが」

「知るわけないでしょそんなの」


 刀を抜いた殺人姫が、ダンタリオンにその切先を向けた。葵や緋桜たちのことなど、もはや眼中にないと言わんばかりに。


 まただ。また、あり得ないことが起きている。殺人姫はグレイの仲間で、すなわちソロモンの悪魔は彼女の味方であるはずなのに。


「どうなってんだよ……」


 隣に立つカゲロウが苛立たしげに呟いた。状況はこの上なく混沌としている。味方同士だと思っていた敵の二人がなぜか敵対していて、仲間だと思っていた生徒会長は敵の一人に味方している。どういうことだ。

 情報操作の異能があっても理解できない状況。この場はどう動くべきなのか。誰が本当の敵で、誰が味方になるのか。

 慎重に動かなければならない。葵たちの後ろには、この高校に避難した人々がいるのだから。


「最優先はここを守ること。無理に倒そうとは思わなくてもいいから、なんとかしてあいつらを追い返すよ」

「蓮はどうする。今はあいつをどうにかするチャンスだろ」


 たしかにチャンスなのだろうけど。今すぐにでも、彼を解放してあげたいけど。

 ここでそのために動くのは間違っている。可能か不可能かと言う話もあるが、それ以上に。守るべき人たちを危険に晒してまで助けようとするのは、蓮も望まないから。


 刀を強く握り奥歯を噛み締めて、葵は首を横に振った。


 その感情を考慮し判断を尊重してくれたカゲロウは、分かった、と端的に一言。


「ン〜〜〜、どうやらまたしても、魔女にしてやられたようですねぇ?」

「なんですって……?」

「しかし、この程度なら問題にはならない! 小生が見たかったものは見れたのですから!」


 風を、音を、光すらも置き去りにして、殺人姫が駆けた。振るわれる空色の刀は謎の魔導書に防がれ、少年の顔をした悪魔は愉快げに口元を歪めている。


「あなたの持つ狂気的なまでの正しさ! ン〜〜〜、実に小生の好みですねぇ! こんなものが見れるとは、彼女の妨害もたまにはいいものだ!」

「答えなさい! なんであんたの口から魔女なんて言葉が出てくるのよ!」

「あの塔の内部にたどり着き、ご自分の目で確かめてはいかがですかなぁ?」

「あんたを倒してからね!」


 とてつもない速さで何度も交錯する二人。あんなところに介入できるはずもなく、ならば葵たちの相手は自然と決まる。


「蓮くん……!」


 黒い聖剣使いの少年が、葵とカゲロウの前に立ち塞がった。愛美の相手は諦めたのか、緋桜もこちらに合流してくれる。

 生徒会長はどうしたのかと視線を軽く巡らせると、長い詠唱を開始していた。殺人姫の援護をするのだろうか。


「相変わらず状況は読めないが、あいつらが仲間割れしてくれるなら好都合だ。葵、やれるな?」

「うん。でもお兄ちゃん、最優先は」

「分かってる。後の人たちを守ることだろ? 蓮が戻ってきた時、あいつが悲しんでちゃ本末転倒だからな」


 緋色の桜が舞う中で、白と黒の対照的な翼が広がり、闇色の聖剣とぶつかった。



 ◆



「なるほど、こいつはまた厄介なことになってるな」


 ため息混じりにそう吐き出した剣崎龍は、棗市の南側、港町の方で日課となった巡回の最中だった。隣には勿論、パートナーのルークもいる。


 何年、何十年どころか、もはや数え切れない年月を転生と共に過ごしてきた二人。

 昔からずっと、そんな二人が羨ましいと思っていた有澄は、織たちと別れた後にもう一度この場に来ていた。


「厄介なこと? これ以上になにかあるんですか?」


 ここまでの認識の違い、ややこしい状況については、既に二人と話を照らし合わせていた。その上で龍が下した決断は、不干渉を貫くことだ。


 愛美に対する自身の認識が狂っているなら、そこから転じて記憶の齟齬が起きてもおかしくはない。状況の改善に乗り出そうにも、自分の介入で余計な混乱を招きかねない。

 それなら信頼できる有澄とイブに任せた方がいいと判断していた。


 ただ、今の言葉の中には、これから介入せざるを得ない、というニュアンスも含まれていたように思える。


「高校の中に新しい魔力反応が四つ。そのうち二つは俺も分かる。栞と糸井のもんだ」

「栞ちゃんが?」

「蒼が寄越してくれたんだろうね」


 小鳥遊栞。有澄にとっては義理の妹であり、自分を本当の姉のように慕ってくれる子。

 この街が隔離されているとはいえ、彼女の使う時空間魔術と異能があれば、侵入してくるのは容易いことだろう。

 糸井蓮が再びここに現れることも、まあ予想の範囲内。ならば残り二つは一体誰か。


 有澄自身も感知魔術を広げる。覚えのある魔力は、三つ。うち二つは龍の言う通りのもので、もう一つは渦中の人物だ。


「愛美ちゃん……」

「殺人姫が? あいつは魔術なんて使わなかったと思うよ」

「俺らの認識だとな」


 そう、龍やルークが認識している中だと、桐原愛美は魔術など使わない。あの異能と体術だけで、並み居る実力者と渡り合ってきたことになっている。

 普通に考えたらまあおかしい話ではあるのだけど。愛美の戦闘は、そもそも概念強化ありきのものなのだし。


 しかしそれも、元の愛美を覚えている有澄だからこその認識だ。


「どうする龍? ボクらは不干渉って決めたばかりだけど、あの場に来られたとなっちゃ放っておくわけにもいかないよ」

「栞がいるってことは、どうも訳ありっぽいだろ。緋桜もいるんだ。最悪の事態にはならねえよ。それより俺らは、こっちの相手だ」


 龍が顎で示した先に、一人の少女が立っていた。その姿を見て、有澄は僅かに息を飲む。織と別れた際にほんの少し話を聞いていたけど、やはり実際にこの目で見れば驚いてしまう。


 漆黒の髪を靡かせ、凄惨な笑みを浮かべる殺人姫。


 見知った優しい少女の持つ、本当の殺意。


「本物……じゃないんですよね……」

「ボクたちからすれば、あれ以外の桐原愛美なんて知らないんだけどね」


 思わず疑ってしまうほど。偽物にはあれだけの殺気を振り撒けない。しかし本物の愛美は今、市立高校にいるはずだ。


「来るぞ!」


 龍が叫ぶと同時に、愛美の姿は有澄の懐にあった。

 速い。異世界での修行の成果だろうが、素直に喜べる状況じゃない。すでに相手にとっては必殺の間合いだ。


 刀を振りかぶる殺人姫の左右から、氷柱が突き出された。半ば無理矢理な動きで身を捻り躱されるが、続け様に白い炎が襲い掛かる。その隙に離脱した有澄だが、白炎は容易く斬り裂かれてしまう。


 今更ながら尋常ならざる事態に気づいたのか、周囲の人々が悲鳴をあげて逃げ出し始めた。

 いや、遅いわけではない。逆だ。愛美の動きが速すぎる。果たして今のやり取りがコンマ何秒のうちに行われていたのか。それについていけてはいるものの、いつまでもと言うわけにもいかない。


「手を抜こうなんて考えるなよ有澄!」

「分かってますっ……!」


 宙空に出現した幾つもの刀剣が、華奢な少女一人に向けて弾丸のように射出された。その全てを躱し、斬り捨て、ただの一つも命中しない。

 愛美の切断能力が敵に回るとこうも厄介だったとは。分かっているつもりだったが、最強の矛と盾を内包したその力はやはり脅威だ。不用意に近づけば一刀の下に斬り伏せられ、かと言って遠距離からの攻撃も反応されてひとつも当たらない。


 刀剣と共に放っていた氷の刃も全て斬り捨てられ、ならばと魔力砲撃を放った。点の攻撃ではなく、面の攻撃。放射状に放たれるこれならば。


 そんな期待も、淡く打ち砕かれる。

 そもそも愛美の切断能力は、その魔術の術式ごと斬り裂くことが可能なのだから。


「本物が来てくれたら話は早いんですけどね……」


 言いながら、杖を細身の剣に持ち帰る。愛美を傷つけるのは気が進まないが、相手は偽物だと割り切らなければ。

 剣の力を解放しようとして、その直前。


 殺人姫の体を、無数の鎖が襲った。


「師匠!」


 上空に浮かぶイブの姿を認めて、有澄は思わず歓喜の声を上げてしまう。

 彼女の放つ鎖はどれだけ斬っても無尽蔵に生み出され、やがて愛美の体を雁字搦めに縛り上げてしまった。


「今までどこ行ってたんですか!」

「調査ですよ。そして、大体の仕組みは理解した。複数の魔術が絡まり合ってややこしいことになっていましたが、解決自体は至ってシンプル。さっさとこのおかしな騒動を終わらせますよ。丁度犯人の悪魔も、この場に来ているようですし」


 イブが睨む先は、市立高校のある方角。

 あの場に現れた四つの反応のうち、残りの一つは悪魔のものだったか。


「まったく……わたしの知っている魔女とは大違いだ。こんなに優しい人物だとは、蒼やアダムからも聞いていなかった」


 独りごちたイブの言葉に、有澄は目を丸くした。

 まさかという思いが去来するが、首を横に振る。あの人は、もういないはず。


「わたしは織くんたちを呼んできます」

「分かりました。龍、ルーク、わたしたちは高校に向かいますよ」


 このふざけた事件を終わらせるために、それぞれは動き出した。

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