第152話
「どうなってんのよ一体」
棗市の外。隣街との境の一歩手前に立つ桐原愛美は、目の前に広がっている透明の壁を見て、ため息混じりに呟いた。
位相の扉を潜り元の世界に戻って来たと思えば、周りには誰もおらず。なぜか自分一人だけがこの場所に立っていた。しかも街の中には入れない。転移でも、直接自分の足でも同じ。
明らかな異常だ。
「誰かが結界を張ってる、ってわけでもなさそうね……異界化が近いかしら?」
なにかしらの魔術的要因で立ち入り禁止になってしまった区域のことを、異界と呼ぶ。
主な原因は空気中に散りばめられた致死量の魔力濃度だが、当然それ以外の原因だってあり得るのだ。
今回の場合、立ち入り禁止になったというか、むしろ誰かのせいで隔離されて立ち入れなくなった、と言った方が正しい。その隔離自体が異界化の原因となっている。
ただ、恐らくではあるが織たちは中にいるのだろう。もしなにかしらの事件が起きているのだとしても、彼らがいたら安心だ。織も朱音も、余程のことがない限りはさっさと解決してくれるだろう。
だから愛美が問題視すべきは街のことではなく、自分自身のこと。
「全く……なかったら結構不便なものなのね、殺人欲求っていうのも」
桐原愛美の根幹をなすものの一つが、ごっそりと抜け落ちていた。
あれだけ沸き上がっていた欲求が、ただの一つも感じられない。
命を削るほどに想いのぶつけ合いを求めて、その先にある殺人という行為こそをなによりも望んでいたのに。
好きで好きで仕方ない彼を、大切な娘を、手のかかる後輩達を。
ぽっかりと、心に穴が空いたような。
ような、ではない。まさしくその通りなのだ。桐原愛美という少女の大部分を担っていたものが、完全に欠落していた。
いつもの愛美なら、まず真っ先にどうにかして街の中へ向かおうと思っただろう。
織たちが心配だから。街を脅かすやつが許せないから。つまり、敵を殺したいから。
けれど今はそうしようと思わない。思えないわけじゃない。織たちが心配なのは事実だし、敵が許せないのは本心だ。
しかしここに残された愛美の中には、もはや殺人欲求もなく。ただ純粋に、正しくあるだけの少女。
「外から出来ることがあるかもしれないし、まずは情報収集かしら。本部に行って先生と合流するか、抜け道を探してみるか」
選んだのは後者だった。蒼がこの状況を察知していないとも思えないし、だったら向こうからコンタクトを取ってくるのは時間の問題だろう。
刀を肩に担ぎ直して、街の中を練り歩く。そんな愛美の姿を不思議に思う通行人はいない。魔術というものが表舞台に立ち、その上今の世界はこんな状況。世界各地で魔術師たちは魔物を狩るために動いているし、愛美のこともそんな一人だと認識されている。
なんにしてもまずは腹ごしらえだ。腹が減ってはなんとやら。ドラグニアでいいものばかり食べさせてもらったし、久しぶりにジャンクフードを食べたい。
街が一つ隣なだけで、様子は随分と違うものだ。棗市のように壊滅的な被害を受けているわけではなく、店もまばらに開いている。そもそも、飲食店やスーパー、コンビニなどの店は閉めるわけにもいかないのだ。
なにせ食事という生きる上で必要不可欠なものを提供する店なのだから。閉まってたら困る。
チェーンのハンバーガーショップに入って、種類の違うバーガーのセットを四つ購入。店員には怪訝そうな顔をされたが、ひとりでこれだけ頼む客も中々珍しいからだろう。
二つのトレーを危なげなく運びながら程よい席を探していれば、窓際の席に見知った顔を見つけて、思わずげっ、と声が漏れていた。
「相変わらずよく食べるね。太らないのが羨ましいよ」
「……どうして生徒会長様がここにいるのかしら」
セミロングの黒い髪と一房跳ねたアホ毛。身長は低く全体的に華奢なイメージを抱かせる。柔らかい笑みを携えたその少女は、魔術学院日本支部の生徒会長。
人類最強の妹である小鳥遊栞だ。
「久しぶり、桐原さん。元気にしてたかな?」
「おかげさまでね。そっちこそ意外と凹んでないみたいじゃない。自分のお城は崩れてご自慢のハーレムは散り散りだってのに」
「これでも結構落ち込んでるんだよ。愛しの彼女達には会えないし、兄さんはずっと本部に張り付いてるし。有澄姉さんはそっちに付きっきりだし」
ムスッ、と拗ねたような表情は、大人っぽい口調と随分アンバランスだ。
しかもこの少女、
日本支部の生徒会は栞が口説き落とした少女たちで構成されていたし、なんなら愛美にもアプローチをかけて来たことがある。同性愛に偏見を持っているわけではないが、愛美は異性愛者だ。そっちの趣味は持っていないので、当然のように断った。多少鬱陶しかったので実力行使に出たこともあるが、当時の愛美と互角に戦えるくらい強いのだ。
それ以来、愛美は栞に対して苦手意識を抱いていた。蒼経由で何度か関わりがあったものの、出来ればお近づきになりたくなかったのが本音だ。
「で? どうしてあんたがここにいるのよ」
「兄さんに頼まれてね。桐原さんを手伝ってあげてくれ、と」
やはり、蒼は事態を把握していたか。それで寄越してきた増援が栞というのは、嫌がらせなのか気を利かせたのか。
きっと後者だと好意的に解釈して、栞の向かいに腰を下ろした。
「どこまで把握してるわけ?」
「棗市が隔離、桐原さんだけが外に弾かれて、有澄姉さんや桐生くんたちは中に閉じ込められた、ってところまでかな。中にいるのは異世界に向かっていたメンバーの他に、龍さんとルークさん、黒霧兄妹、カゲロウくん、サーニャさんだね」
「ソロモンの悪魔がやったと思う?」
「だから私が来たんだよ」
栞は少々特別な異能を持っている。おまけに小鳥遊家が専門としている魔術は、時空間魔術だ。蒼はあんなのだから家の魔術を継承したりはしていないのだが、その代わりに栞が小鳥遊家の魔術を全て受け継いだ。
戦力としては申し分ない。愛美との付き合いもそれなりのものだし、依頼も一緒にこなしたことがあるから、安心して背中を預けられる。
「それにしても意外だったな。桐原さんのことだから、どうにか棗市に突撃するものだと思っていたけど」
「ああ、それね。ちょっとこっちでも色々あったのよ」
「というと?」
愛美は自分の身に起こっている異変を、掻い摘んで説明した。
殺人欲求が消えている。つまりそれは、愛美が持つ亡裏としての潜在意識が消えているということだ。
変わったのは行動原理だけでなく、最も重要なものまで欠けていた。
「拒絶の力……私の切断能力まで消えちゃってるの」
愛美が真っ先に中へ突撃しようとしなかったのは、それも理由の一つだった。
悉くを問答無用で斬り裂く異能。殺人姫が持つ最大の武器。キリの力の一端である『拒絶』が、機能していない。
いや、使えなくなったとかではない。殺人欲求と同じだ。愛美の中から抜け落ちていた。消えていた。
つまり、愛美が持つ亡裏の因子がなくなっている。
体術の方は問題ない。あれも殺人欲求と同じで亡裏の潜在意識に違いないが、肉体に紐づいているものだから。
馴染んだ体の動きは忘れることがない。
だがかなりのハンデを背負うことになってしまった。これまであの異能にはどれだけ助けられたことか。
真剣に悩む愛美だが、目の前の女はとんでもないことを言いやがる。
「なるほど。つまり、今なら桐原さんを口説き落とせるかもしれない、ということだね」
「違う」
「大丈夫、最初はみんな嫌だと言うものだよ。でも私に身を委ねてくれればいい、気がつけば病みつきさ」
「話を聞きなさい」
これだから栞の相手をするのは嫌なのだ。隙あらば口説こうとしてくる。三年生になってから、織と出会ってからはそもそもの関わりも薄くなっていたから、このノリに付き合わされるのも久しぶりだ。
二度と付き合いたくなかったけど。
肩を竦めた後、一転して真剣な表情になった栞は顎に手を当て、彼女なりの考察を口にする。
「しかし、異能までなくなるほどってことは、相当強力な術のはず。桐原さんがその攻撃に気づかないとも思えないし、可能性があるとしたら同じ位相の力かな? もしくは、棗市の中で起きていることと関係しているのか」
「恐らくは後者でしょうね。私たち以外で位相の力を使えるのは、今のところグレイだけ。やつの力は『崩壊』よ。あんなのまともに食らってたら、今頃私はこの世にいないわ」
あの街でなにが起きているのかは分からないが、亡裏の因子が消えてしまったことに関係あるはず。
まずは中に入る手段を探す。話はそれからだ。外にいる現状では、事件の解決に関わることすらできない。
「とりあえず動きましょうか。ここでジッとしてても始まらないし」
「……いつの間に全部食べたの?」
そんなの、会話してる最中に決まってる。愛美は食事のマナーには煩い方なので、当然口に物を入れながら喋るなんて真似はしていない。
やはり久しぶりのハンバーガーはいいものだ。チーズバーガー最高。
肩に刀を担いで、トレーを二つ持って立ち上がる。ゴミを捨てにいえば栞がてくてくと後ろをついてきた。
「しかしあんた、本当小さいわね」
「それも私の長所、つまり褒め言葉として受け取っておくよ」
愛美は170に届かないくらいの身長だ。女子の中でも背が高い方。大体の女子と並んでいれば大抵愛美の方が大きいけれど。しかしそれでも、栞はまた一段と小さい。
詳しい数字を聞いたことがあるわけでもないが、150前半くらいしかなさそうだ。朱音でも160はあるし、葵も150台とはいえそれより更に小さい。
「まあ、小さくて可愛いからいいとは思うけど」
「いつでも惚れてくれて構わないよ」
「残念、私にはもう生涯一緒にいるって決めた男がいるのよ」
「その振られ方は久しぶりだな」
久しぶりなのか。どれだけ幅広く手を出してるんだこの女垂らしは。
生徒会長の節操のなさに呆れていると、不意に殺気を感じた。
その場から咄嗟に横へ飛ぶ二人。立っていた場所には途轍もない速度で矢が飛来して、店の壁を破壊する。
疎らにいた客や店員たちは悲鳴をあげて逃げ出し、あっという間に店内にもぬけの殻となった。
残されたのは、愛美と栞、そして敵の三人のみ。
「ほう、今のを躱すか。気配は消していたはずだが」
「殺気がダダ漏れなのよ」
店内に現れたのは、緑の外套を羽織り弓を持った狩人。以前愛美が遭遇したソロモンの悪魔。バルバトス。
「アダムさんに軽くあしらわれたやつが、私たちに何の用かしら?」
「軽くあしらわれた我輩にすら手も足も出なかった小娘がほざきよる。なに、ダンタリオンのおかげで今の殺人姫からは牙が抜けたと聞いておるからな。殺すなら今しかあるまい」
舌打ちを一つ。半ば分かっていたことではあったけど、やはりこのタイミングを狙われるか。実に面倒だ。
たしかに今の愛美は異能を使えない。戦場へと駆り立てる殺人欲求も消えている。殺すなら今しかないだろう。仮に愛美が同じ立場でもそうしていたはずだ。
なるべく戦いたくない。
そんな考えを持つ自分に内心で苦笑した。まるで別人じゃないか。こう言う時にこそ、殺人姫は我先にと敵を殺しにいくのに。
「逃してはくれないみたいだけど、戦えるわね?」
「もちろん。そのための私だよ」
刀を抜いた愛美の隣に、栞が不敵な笑みで立つ。
小鳥遊栞はたしかに強く、優秀な魔術師だ。しかしそれは、一般的な魔術師と比較した場合。彼女の兄や義姉にも、今の愛美や葵、織にすら劣る。
以前の愛美と同程度の実力しかない。
ならばなぜ、栞がここに来たのか。
答えは彼女が持つ異能にあった。
「エンジェルコード・エクシア」
華奢な背中から純白の翼が伸びる。頭の上には金色の輪、エンジェルハイロウが浮かび上がって、栞の瞳も金へと変色し五芒星の紋様が刻まれた。
全身から発せられるのは神氣だ。人間が持つことの許されない、神のみに許された力。
「天使どもの再現というわけか……忌々しい力を使いおる!」
バルバトスが弓を構えた。ただそれだけの行為で、無数の矢が放たれる。矢を番える必要もない。狩人たる悪魔の隙がない攻撃。愛美も一度苦渋を舐めさせられた。
しかし、一歩前に出た栞は臆することもなく、淡々と言葉を吐き出す。
「インストール・ラファエル」
右手に炎の剣を持つ。
それを一薙ぎしただけで、無数の矢が全て燃え落ちた。
燃えたのは悪魔の矢だけだ。店内に炎は燃え移らず、邪悪な存在だけを焼く。
「再現ではないよ。今の私は天使ラファエルそのものだ」
小鳥遊栞の異能は、天使の力を使うこと。あくまでもその一端ではあるが、それだけで十分に強力だ。
なにより、対悪魔には絶対の力を発揮する。
天使と悪魔は対の概念としてよく描かれるが、その天使の中でも栞が使ったラファエルは悪魔殲滅の使命を帯びた能天使。
その相性だけで、小鳥遊栞はソロモンの悪魔と互角に渡り合える。
「このような小娘が隠れていたとは……契約者め、情報を出し渋りおったな!」
「栞にばかり気を取られていていいのかしら!」
「チィッ!」
袈裟に振われる刀が弓に受け止められ、濃密な魔力同士がぶつかり行き場のなくなった衝撃が周囲に撒き散らされる。店のガラスが砕け、椅子や机は飛ばされて。
鍔迫り合いの状態から体を無理矢理捻った愛美の回し蹴りが、バルバトスの側頭部を打ち据える。
どのような状況、状態からでも、あらゆる動きに派生できる。それが亡裏の体術だ。
完全に虚を突かれた悪魔は店の外まで吹き飛ばされた。忌々しげに睨んでくるバルバトスを睨み返し、愛美はたしかな実感を覚える。
異世界での訓練を経て、自分は確実に強くなっている。
手も足も出なかったソロモンの悪魔を相手にして、互角以上に戦える。異能や殺人欲求などなくても十分だ。
「これ、私が来る必要あった?」
「背中を任せられる相手がいたら心強いじゃない」
「またそういうことを言う。君は一体、何人の女の子を虜にしてきたんだろうね」
「あんたに言われたくないわよ」
軽口を叩き合いながら、瓦礫を跨いで店の外に出る。どうやら辺りに人はいないらしい。早急に異変を感じ取って避難してくれたようだ。
とは言え、イタズラに暴れ回るわけにはいかない。被害は最小限に抑えて、あの悪魔から話を聞き出す。
「とにかく、あいつをとっ捕まえて色々と吐かせるわよ」
「殺さないの?」
「情報源を殺しちゃダメでしょ」
「……ああ、そうか。今の桐原さんはそういう考えになるんだね」
言われて気付いた。
いつもの愛美なら、容赦なく殺すと宣言していたはず。自然と別方向に思考がシフトしていたのは、やはりこの身を苛んでいた殺人欲求を失ったから。
少しまずいかもしれない。相手を生かしたまま捕まえるのとただ殺すのでは、難易度が段違いだ。突然後者の方が簡単。
生かしたまま捕まえるのであれば、適度に力を抜かなければ。そもそも悪魔には死の概念がないのだから、勢い余って殺すなんてことはないのだけど。
天使の力を扱う栞は例外だ。
殺すのではなく、滅ぼす。悪魔の存在をこの世界から抹消する。
「まあでも、捕まえて情報を吐かせた方が賢いね。いいよ、それで行こう」
「さすがに不利か……ここは退くとしよう」
「逃すわけないでしょ」
バルバトスが動きを見せたその瞬間には、愛美がすでに懐へ潜り込んでいる。振われる刀は弓で防がれ、ゼロ距離から放たれる矢は拳で砕いた。
やはり切断能力がないとどうにも攻めあぐねてしまう。魔術は普通に使えることは幸いだったけど。
激しい応酬を交わす中、頭上に魔法陣が広がった。神氣を帯びたそれは栞が展開したもの。すぐにその場を離れた直後、光の柱が落ちる。
膨大な熱量は神より与えられし聖なる炎によるもの。悪を断罪する絶対の力。
しかし光が晴れた先に狩人の姿はない。焼き尽くしてしまった、というわけでもないだろう。
「ちょっと、逃げられたじゃない」
「相手は狩人だからね。獲物を追い詰める技と同様に、引き際を見定める目も持っていたようだ」
肩を竦める栞だが、彼女を責めたところで意味はない。あのまま愛美が相手をしていても、恐らく逃げられていた。
これで振り出しだ。
得られた情報はほとんどなく、ただソロモンの悪魔の仕業だと確定しただけ。
「この後どうしましょうか」
「私に考えがある」
翼と頭の輪を消した栞。不敵な笑みで見上げてくる華奢な少女は、自信満々にこう言ってのけた。
「これでも人類最強の妹だからね。小鳥遊家の時空間魔術、その真髄をご覧に入れよう。桐原さんでも思わず惚れてしまうほどのね」
◆
織と翠が棗市北の住宅街にある公園まで転移した時、未来視で見た通りの光景がすでに広がっていた。
朱音が振るう短剣を受け止めるのは、紛れもなく桐原愛美だ。
迫る氷柱や銀炎を斬り伏せるその異能も、容赦なく発せられる強い殺意も、他の誰でもない殺人姫が持つもの。
信じられない。信じられないけど、目の前で起きている戦闘は現実だ。
「愛美ッ!」
大声でその名を叫べば、殺人姫の動きが止まった。ゆっくりとこちらを振り向く顔は笑顔に染まっている。
その表情も、同じ。戦いを、その果てにある殺人という行為を、心底から楽しんでいる笑み。
けれど、本人だとはどうしても思えない。
苛烈な正しさと鮮烈な優しさを持つ少女が、家族に殺意を向けている。それはきっと、彼女が最も嫌ったことで、正しさを求める原因となったものだから。
「父さん危ない!」
「……ッ!」
気づけば懐に潜り込まれていて、躊躇いもなく刀が振われる。瞳をオレンジに輝かせ、防護壁で刀を防いだ。シュトゥルムを手元に出現させるが、その一瞬の間にも防護壁は敵の拳に砕かれてしまう。そして銃剣を構えるよりも前に、人体など容易く破壊してしまう蹴りが目前に迫る。
必殺の蹴りを受け止めたのは、二人の間に体を割り込ませた翠だった。
「重い……!」
ハルバートの柄で蹴りを受け、広がった灰色の翼が先端を鋭く尖らせて殺人姫へ突き出される。バックステップで容易く躱されたが、場を仕切り直すことはできた。
「しっかりしてください、桐生織。気を抜けば死にますよ」
「悪い翠、助かった」
魔眼を発動してなお、動きが遅れてしまった。単純に愛美の動きが織よりも早いというのもあるが、それだけなら幻想魔眼の恩恵で問題にはならない。
織自身に、躊躇いが生じたから。
決定的な場面を目撃しても、何かの間違いじゃないかと思ってしまっていたから。
つまり、翠の言う通り気を抜いていたということになる。
殺人姫の前で隙を晒すなど、殺してくださいと言っているようなものだ。
「桐生織、翠、貴様らも朱音と同じだな?」
「ああ。あいつは……愛美は、俺たちの家族だよ」
「わたしも、彼女は仲間だと認識しています」
サーニャからの問いに、迷いなく答える。
愛美は家族だ。大切な相方で、この世で最も愛する女性。だからこんなこと、本当ならあり得ないのに。
「我は朱音を信じると決めている。ゆえに貴様らの言葉も信じる。本来の殺人姫は敵ではなく味方であり、貴様らの家族だとな。しかし、この状況はどう説明する? これでは葵や緋桜たちを説得できんぞ」
「……とにかく、一度退くぞ。その辺りを考えるためにもな」
奥歯を強く噛んで決断を下した。
愛美と戦うなんて間違っている。彼女の求めた正しさに反している。本当なら愛美本人から話を聞ければ早いのだが、それが叶うとも思えない。
事実、殺人姫はまだ刀を構えたままだ。向けられた笑顔は、まるで誰から殺そうかと品定めしているように見える。
「簡単に逃してくれるとは思えません」
「大丈夫、私に任せて」
銀炎が広がった。こちらの意図を察したのか、愛美が風のように駆けるが、時界制御の炎には追いつけない。
次の瞬間には全員事務所の前に立っていて、中から丈瑠とアーサーが出てきた。
「桐生! よかった、無事だった……」
「こちらのセリフですが。ちゃんと逃げれててかったです」
真っ先に朱音の元へ駆け寄る丈瑠。朱音も安心したような笑顔で応じる。どうやら、あの場には元々丈瑠もいたらしい。サーニャと二人というのは少し意外だが。
それにしても、朱音と丈瑠の距離が近すぎないか? そんなことない?
だってほら、ほとんどゼロ距離だぞ。普通に触れられる距離だぞ。やっぱり近いってもうちょい離れろよ。
「どうしたのですか、桐生織。随分複雑な顔をしていますが」
「いや、なんでもない……」
「桐原愛美のことが心配なのは分かりますが、一人で考え込んでいても仕方ありません。中で話しましょう」
「お、おう……そうだな」
どうやらうまい具合に勘違いしてくれたらしい翠だが、ジロリと無感情な瞳が丈瑠を射抜いた。肩を震わせる少年。ソッと朱音から一歩距離を取る。
なんか、今度は逆に可哀想に思えてしまうな……強く生きろよ丈瑠……。
胸中で激励を送り、織も事務所の中へ。
久しぶりに帰ってきた我が家は、意外にも綺麗なままの状態を保っていた。一週間も留守にしていたのだ。机やソファの上に埃が溜まっていてもおかしくないものを。
「貴様らが留守にしている間、我と丈瑠かアーサーの面倒を見ていたからな。ついでに事務所の掃除もしておいた」
「サーニャって、意外と家庭的だよな」
「そうなんだよ父さん! サーニャさんはご飯も美味しいし掃除も上手だし洗濯機は真っ二つにしないの! 意外と家庭的なんだよ!」
「馬鹿にしておるのか貴様ら」
額に青筋を浮かべた吸血鬼に睨まれた。
いやだって、普通に想像できないじゃん。吸血鬼が家事するってだけで中々シュールなものがある。
それと、洗濯機を真っ二つにするのはお前ら親娘だけだから。
織は自分のデスクに、その他の四人はソファに腰を下ろし、アーサーが朱音の足元で丸くなった。丈瑠は朱音の隣に座っていて、やっぱり距離が近いと思う。
いやまあ、何処の馬の骨とも知れないやつよりは、丈瑠の方がいいんだけどさ。
「では、状況を整理しましょう」
切り出したのは翠。なにやら丈瑠に厳しい視線を送っているが、友達を取られたとかで嫉妬してるのだろうか。可愛い奴め。その調子で今後も朱音のセコムをお願いしたい。
「わたしたちが異世界に行っている間に何かが起こり、サーニャを始めこの街に滞在していた仲間たちの認識が改変されていた。桐原愛美は敵であり、魔女を殺した人物として記憶している。間違いありませんね?」
「そうだ。やつはグレイの仲間。魔女のみならず、学院の魔術師を多く手にかけた敵だと、そう認識している」
サーニャの口から改めて語られた言葉に、朱音の表情が沈む。アーサーが足元で心配そうに見上げ、銀髪の吸血鬼は安心させるように表情を崩した。
「だが、どうやら違うみたいだな。先ほども言ったが、我は朱音を信じている。桐原愛美は、貴様らの家族なのだろう」
「はい……私にとってたった一人の、未来で私を産んでくれた母さんです」
全幅の信頼が込められたサーニャの眼差しに、朱音は嬉しそうに破顔した。
サーニャがそこを信じてくれるのはいい。喜ばしいことだ。しかしそうなると、確認しておきたいことがある。
「なあサーニャ。あんたらは朱音の切断能力について、どういう認識でいるんだ?」
「亡裏の拒絶。キリの力が異能の形を持ったものだろう」
「だったら、どうして朱音がそれを持っているのかは?」
「……ふむ、なるほどな。よく分からん、としか答えられんが、随分と杜撰な改変らしい」
矛盾が生じている。
朱音の持つ切断能力は、愛美に転生したことによる恩恵だ。加えて、愛美から亡裏の血を受け継いだことによるものでもある。
愛美が敵だというのなら、そこの辻褄が合わない。
桐生朱音という存在そのものが、その認識を否定する。
「過去には桐原愛美がいなければ全滅していた、というケースの事件もあります。エルドラドとの戦闘がその代表例でしょう」
他にも、怪盗騒ぎの時の玄武なんかもそうだ。織が今ここで生きていられることだってそう。あの夜、愛美に助けられていなければ、桐生織はあの場で命を落としていた。
愛美の存在はあまりにも大きい。彼女がいないだけで詰んでしまう場面はいくつもあった。それは愛美の力もそうだが、主に精神面が大きいだろう。
織も朱音も、葵や翠、他にも多くの人にとって、桐原愛美は精神的支柱たり得ている。
彼女がいなければ、必ず誰かがどこかで心を折っている。
「そこで、先ほど戦闘になった桐原愛美についてです。丈瑠以外の全員は気づいていると思いますが、明らかにおかしな点がひとつありました」
「魔力を感じなかった、だろ」
コクリと頷く翠。
家族に殺意を向けるとか、それ以前の話として。あの愛美からは魔力が感じられなかったのだ。たしかに異能は健在ではあった。しかしそれだけ。
もしも概念強化を使われていれば、この場の全員タダでは済まなかっただろう。
「彼女の情報は視ることができました。結論から言うと、あれも桐原愛美本人である、と言えます」
「あれも? 翠、どういうこと?」
「桐原愛美から抽出された亡裏の因子が人の形をしたもの。そう言うべきでしょうか。あれは彼女が持っていた殺人欲求や切断能力だけを集めたものです。あるいは、殺人姫としての面をより過激にした姿、桐原愛美の本性とも言えるかもしれません」
殺人という行為を本能で求め、そんな自分が嫌で正しさを欲し、その欲求を理性だけで抑え込んでいた愛美。
織たちが遭遇したのは、その理性が外れた状態にある。
いや、翠の言い方からするに、本物の愛美は今もどこかにいるのだろう。彼女から亡裏の因子が分離してこの街に現れている。
紛れもなく愛美の一部であり、だからこそ本人と言える、という言い回しになった。
「幸いなのは、一般人には手を出さないってところかな……あの殺人欲求はより強い相手に向けられるから」
かつては愛美本人でもあり、この中で最も亡裏の殺人欲求に身近な朱音が呟いた。
殺人姫が求めるのは殺戮じゃない。殺人だ。互いの想いや信念をぶつけ、その先にある命の奪い合いを求めている。だから無辜の人々は襲わない。
さてでは、そこまでの情報が出揃ったところで、今後どう動くべきか。
まずは本物の愛美を探したいところだが、恐らく隔離されたこの街の中にはいない。彼女も異変に気づいているはずだし、外からの解決を試みているはずだ。
ならば織たちがやるべきは、中からみんなの認識を元に戻すこと。
具体的にどうするべきかを考えているところで、ぐぅぅ……と音が鳴った。
顔を真っ赤にする朱音。次いで聞こえたのは、吸血鬼のため息。
「貴様はこんな時にも食い意地を張るのだな」
「ち、ちがっ、別に好き好んでお腹を鳴らしたわけではありませんが! これは生理現象だから、仕方ないことですので!」
一気に肩の力が抜けて、織は思わず笑ってしまう。
今日異世界から帰ってきたばかりだ。朱音はあの愛美と真正面から戦っていたし、腹の虫がなるのも仕方ないこと。
「よし、なんか飯でも作るか」
「いや、よい。貴様は休んでおれ。我が作る」
「僕も、お手伝いします。こんなところでしか役に立てませんから」
「ほう、なら頼もうか。そういうことだ、貴様らはここで待っているといい」
二階に上がるサーニャと丈瑠。
残された朱音は赤いままの頬を膨らませていて、翠がそれを宥めている。
事件の最中にあっても平和な光景。
ただ、ここに彼女がいないことだけが、織の心を曇らせていた。
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