第144話

 浮かんでいた。ぷかぷかと、大きな浴槽に黒髪を散らばらせて。桐原愛美は溺死体のように風呂の中で浮いていた。


 ドラグニア城の中で最も大きな大浴場である。そこで今日一日の疲れを癒すことにした愛美は、朱音とシルヴィアに介抱される形でここまでやってきた。


「母さん、大丈夫?」

「だいじょうぶ……」


 くるりと仰向けに浮かぶ愛美の表情からは、未だ疲労の色が消えていない。娘に心配をかけるわけにもいかないから強がってみせるけど、どうにも全身の倦怠感が抜けないのだ。


 体に傷はない。痛みがあるわけでもない。精神的にも問題ないのだ。修行はたしかにきつかったけど、それでやる気が削がれたりしたわけでもなく。

 ただ、体が言うことを聞いてくれないだけ。戦闘中の派手な動きは当然無理だし、魔力を動かすのも、歩くのですらつらい。


 全身の力を抜いてぷかぷか浴槽に浮かび流れに身を任せていると、頭に柔らかい感触が。ふにっ、と弾力のあるそれは、ここまで愛美を運んでくれた人物。宮廷魔導師のシルヴィアが持つ二つのお山だった。

 愛美や朱音には持ち得ないもの。こんなのもはや暴力である。

 朱音は少し落ち込んだ様子を見せていたが、一方の愛美はこんなことで落ち込まない。だってもう諦めてるし。


「イブ様もおっしゃっていたけど、今のマナミは魂が変質した状態なのよ。肉体がまだ馴染んでいないのだから、倦怠感が残っていて当然だわ」

「あまり実感はないけど……」


 起き上がってシルヴィアと朱音の間に移動する。浴槽の縁に背中を預けた。

 試しに、ちょっと頑張って魔力を動かしてみる。適当な術式を構成すれば、浴槽のお湯が波打ち、やがて水がドラゴンの形を作った。愛美がこれまでの人生で見てきた中で、最も美しいと感じたドラゴン。彼方有澄が変化した姿。

 すなわち、龍神ニライカナイ。


 それを見て黄色い声を上げるのは、有澄の近衛らしいシルヴィア。


「すごい、ニライカナイ様じゃない! 魔術というのはこんなことも簡単にできてしまうのね」

「魔導ではできないのですか?」

「できないことはないけれど、やろうとする人はいないわ。術式も確立されていないから、簡単にはできないの」


 曰く、この世界の魔導とは、科学分野の一種として位置づけられているらしい。ゆえに確立されている術式や魔導師が行使する力のほとんどは実用性重視。自由度で言えば、愛美たちの使う魔術の方が高い。


「龍神様や巫女たちみたいに、強い力を持っているならそういう遊びもするのだけれど、宮廷魔導師の中にはわざわざそんな使い方をする人はいないわ」

「勿体ないわね。せっかく魔力を持ってるんだし、こういう使い方もありだと思うわよ?」


 こう言った遊びのある使い方は、ある種心の余裕を生むことにもなると思うのだ。単純な強さや実用性をひたすら追い求めるだけなんてつまらない。

 と、まあ。二年前くらいの愛美なら、そんな使い方は絶対しなかっただろうけど。


「ねえマナミ、他にもなにかできないの?」

「できないことはないけど、これ以上はしんどいわ」

「あら残念。アカネは?」

「簡単な元素魔術ですので、これくらいなら私もできますが」


 愛美が作ったニライカナイの隣に、また別のドラゴンが形作られる。

 おぉー、と感嘆の声を上げるシルヴィアだったが、出来上がったドラゴンを見て眉を顰めた。


「げっ、エルドラドじゃない」

「あら、シルヴィアも知ってるのね」

「当然よ。当時は邪龍教団のトップだと思われてたやつなんだから」


 まるで自分の目で見たような言い方に、愛美は首を傾げる。

 エルドラドが愛美たちの世界で最初に確認されたのは、たしか十六年前だと聞いていたのだけど。シルヴィアはどう見ても同い年くらいに思える。ただの思い違いだろう。


 邪龍教団とやらがなにかは知らないが、結構有名っぽいし。なにより宮廷魔導師であるなら、この国の王女の身に起きたことくらいは把握しているだろう。


「ニライカナイとエルドラドじゃないですか。よくできてますね」


 大浴場に新しい声が響いて、三人揃ってそちらを振り向く。

 やって来たのは有澄だ。タオルを体に巻くこともなく、透き通るように綺麗な白い肌を晒している。同性の愛美であっても思わず見惚れてしまうほど。あとやっぱり大きい。何がとは言わないけど大きい。

 自分は結構筋肉質な体をしてるから、女性らしい体つきの有澄やシルヴィアが羨ましい限りだ。


 ただ、いつもの有澄と違う点がひとつ。


「有澄さん、その髪どうしたの?」

「ああ、この色ですか? わたしの髪は元々白なんです」


 普段は綺麗な水色の髪が、白一色に変わっていた。シャワーを浴びながら梳いている髪は新雪のように真っ白で美しい。


 そう言えば王様の髪も真っ白だったけど、あれは歳のせいではなかったのか。


「いつもの水色は龍神様の影響です。今は接続を切ってるので、元の色に戻ってるだけですよ」

「そんな自由にオンオフできるものなのね」

「巫女の中でもわたしだけだと思いますよ。昔、初めて愛美ちゃんたちの世界に行った時に、一度龍神様との接続が切れましたから。多分その影響ですね」


 シャワーで体を洗い終えた有澄が浴槽に入って、シルヴィアの隣に腰を下ろす。

 はふぅ、と息を漏らした王女様は、年齢よりもかなり若く、というか幼くすら見える。そろそろアラサーも名乗れなくなさそうな年齢なのに。


 蒼もそうだが、三十二歳と言う割には見た目若すぎないだろうか。存在が概念だったり龍神を宿してたり、ただの人間ではないからおかしな話でもないのかもしれないけど。


 いつまでも若さを保てる秘訣はなんなのか。やっぱり魔術か。ズルしてるのか。

 十八歳のくせしてそんなことを考えながら有澄をジッと見ていると、そう言えば、となにかを思い出したように声が上がる。


「わたし、明日は城にいないんですよ。ちょっと他の国に用事ができまして」

「アリス様、そう言うことはもっと早くおっしゃってください……」

「こうして伝えてるんだからいいじゃないですか。それでなんですけど、良ければ朱音ちゃんも来ませんか?」

「私ですか?」


 自分の顔を指差して、こてりと首を傾ぐ朱音。なぜそこで自分が指名されたのか理解できない、と言った顔だ。

 しかし愛美は大体予想できた。


「さしづめ、暇を持て余してる朱音を護衛につけようってところかしら」

「はい。シルヴィアには愛美ちゃんたちを見ててもらいたいですし、もう一人直属の従者がいるんですけど、彼も別の仕事を任せてますから。道中でセゼルという港町の視察を行なって、その後に海の向こうのローグという国に行きます」


 当然なのだろうが、この世界にも海は存在しているのか。となると、愛美たちの世界のようにここは一つの惑星である可能性も高くなって来た。

 なにせ異世界だ。元の世界の常識はなにも通用しない。空に星が見えてたから可能性は低いと思っていたけど、惑星という概念が存在しない可能性も多少は存在していた。


「でも私、父さんと母さんのお手伝いをしないと……」

「別に気にする必要ないわよ」


 手伝うようなことがあるのかどうかも分からない。今日の修行を思えば、織と愛美が一方的にしごかれただけだったし、今後もそうなるだろう。


「ローグは魚が美味しいですよ」

「お魚! 行きます!」


 だからってこの手のひら返しはどうなのだろう……親としてちょっと悲しい。


 さすがに自分でもどうかと思ったのか、ハッとした朱音は愛美に申し訳なさそうな顔を向けて来た。


「ご、ごめんね母さん……でもお魚が私を待ってるから……」

「だったら仕方ないわね。ちゃんと美味しい魚料理食べて来なさい」


 微笑みと共にそう返せば、娘の顔がパァッと明るくなる。

 ご飯が待ってるなら仕方ない。愛美にもその気持ちがとてもよく分かるから、咎めるつもりなど毛頭なかった。


 ところで、美味しいお土産とか、期待してもいいのかしら?



 ◆



 異世界にやってきた三日目。

 不思議と昨日の疲れが殆ど取れていた織と愛美は、今日も今日とて修練場へ向かっていた。

 朱音はどうやら、有澄に同行して別の国へ向かうらしい。一昨日の事件についての調査だとかなんとか。


「しかし、マジで疲れ取れたな。昨日は死ぬかと思ったのに」

「大浴場に行ったでしょ。あの浴槽のお湯、魔法薬が使われてるらしいわ。その影響じゃないかしら」

「そうなのか?」


 尋ねた先にいたシルヴィアが、こくりと頷く。昨日は倒れた後に介抱してもらったとかで、かなり頭を下げた。そしたら何故かすごく嬉しそうに、友達だから! と言っていたけど。

 まあ、本人が嬉しそうならそれでいいか。別にコミュニケーション能力が欠如してるわけでもないのだから、城内の人で友達を見つけた方がいいと思うのだが。


「魔法薬もだけれど、一番はニライカナイ様のお力が大きいわね」

「流れを操る力、だったかしら」


 愛美は昨日にも同じ話を聞いているらしい。

 ニライカナイは、水を司る龍神。転じて、この世に遍く流れを自在に操ることができるのだとか。

 有澄は氷の魔術を得意としているが、それは彼女が『流れを止める』ことに対して抜群の適性を持っているからとのことだ。


「あたしも詳しいところは分からないのだけれど、ニライカナイ様のお力を使ってなんやかんやあって、あの大浴場のお湯はかなり高い治癒効果があるのよ」

「なんやかんやって……」

「どうせ先生も手を出してるんでしょ。あの大浴場、できたのは比較的最近らしいから」


 などと話しながらたどり着いた修練場には、既にイブの姿が。今日は機銃のような道具もなにもなく、他の宮廷魔導師や兵士が控えてる様子もない。


「来ましたね」

「今日はなにをするのかしら」

「早速実戦ですね。二人にはまず、今の魔力に慣れてもらう。そのためにわたしが用意した相手と戦ってもらいましょう」


 昨日シルヴィアから聞いたところによると、織たちの魂は僅かながらであるが変質を見せ、その影響により魔力の質も変化しているという。


 今までの織たちが持っていた魔力は、言わば何年も使ってきた体の一部に等しいものだった。しかし後天的にその質が変化したとなると、直様自在に操れるようになるわけではない。体に馴染ませ、術式構成も一部を見直し、実際の使用感をたしかめなければ。


 本来ならば結構大変なことなのだが、幸いにも織と愛美は魔力の変質を一度経験している。賢者の石を取り込んだ時だ。


「どんなのを用意してくれるのかしら」

「あんまし強くないやつだといいな」

「なに言ってんのよ、せっかくなら歯応えのあるやつと殺し合いたいじゃない」


 殺人姫に同意を求めた自分が馬鹿だった。

 織は愛美と違って好き好んで戦うわけでもないので、相手に歯応えとか求めない。いい感じに自分よりもちょっと弱いくらいの相手でお願いしたいです。


「なら愛美のご期待に応えましょうか」


 イブの眼前、地面に巨大な魔法陣が広がった。

 見たことのない紋様はこの世界特有のもの。織たちの使う魔術ではなく、有澄やシルヴィアが使う魔導の術式だ。

 しかし互いの世界が位相で繋がってるだけあって、ところどころで魔術の構成と似通った部分も見られた。


 やがて魔法陣で姿を形作るのは、全長五メートルほどの黒い巨体。強靭な体躯と鋭い目つき、大きな翼を広げている。

 なんとなく嫌な予感がしていると、魔法陣の光が晴れて全容が明らかになった。


「エルドラドじゃねえか!」


 以前棗市を壊滅させかけた異世界のドラゴン。龍神と変わらぬ力を持つ強敵が、イブの手によって召喚されていた。


「イブ様、これはさすがに……」

「安心しなさい。力はオリジナルの半分ほどしかない、ただの人形です」


 だとしても、織たちが以前戦ったやつよりも強い。あれはエルドラドの力の残り滓。本来の半分にも満たなかったらしいのだから。


「これを殺せばいいのね?」

「ええ、三分以内に」

「三分ね、わかったわ」

「いやちょっと待て!」


 さすがに一度ストップをかけさせてもらった。愛美は普通に受け入れてるけど、これを三分で倒せとか無理がある。

 棗市で戦った時は蒼たちの力も借りてようやくだったのに、たったの二人でこいつの相手をしろと?


「なによ織、怖気付いたの?」

「そういう訳じゃねえよ。ただ、こいつを三分はさすがに無理だろって話だ」

「私と織なら余裕でしょ」


 微塵も疑問に思っていない、自分と織の実力に絶対の自信と信頼を持っている顔。

 困る。めちゃくちゃ困る。だってそんな顔をされてしまえば、織の返答は決まったも同然なのだから。


 形だけのため息を一つ吐いて、織はホルスターから銃を抜いた。


「分かったよ、俺とお前の二人なら勝てない相手はいない。んなもん、俺だってよく分かってる」


 未だ上手くいくとは言えない術式構成。体に馴染まない魔力。倦怠感の抜けない体。


「三分とは言わねえよ。十秒だ。十秒間だけ付き合ってやる」


 それら全てを押して、戦場に立つ織は見様見真似の術式を行使した。


流星一迅ミーティア



 ◆



 織と愛美が黒龍と十秒間の死闘を演じているその一方。

 その二人の娘は頬を蕩けさせて、絶品の魚料理を味わっていた。


「んー! 美味しいですっ!」

「それはよかった。お金はありますし、まだまだ食べて大丈夫ですよ」

「やったー! 有澄さん大好き!」


 抱きついてきた朱音を受け止め、有澄は微笑みを漏らす。

 心底幸せそうに魚料理を食べる朱音は本当に可愛い。見ていて飽きない。どんどん食べさせたくなってしまう。


 港町セゼルを経由し、軽く視察を済ませた後にやってきたのは、ドラグニアから海を跨いだ先にある大国ローグだ。


 ワニと槍の紋章を掲げるこの国の魚料理は、世界的に有名である。城都が海に面している上に、潮の流れが影響しているのかこの国でしか獲れない魚もいる。

 あちらの世界の魚料理も好きだしお寿司は大好きだけど、こちらの世界の焼き魚も負けないくらい大好きだ。


 ローグに入ってすぐやって来たレストランで、有澄と朱音の二人は少し早めの昼食を摂っていた。

 しかし今回の同行者は朱音だけじゃない。もう一人、新米の少年兵士が護衛として同行している。


「ハルト、あなたも座っていいんですよ?」

「いえ! 自分はアリス様の護衛として同行させていただいている身であります! そうでなくとも、王女殿下と同じテーブルにつくなど、一介の兵卒でしかない自分には恐れ多く存じます!」

「硬いことは言いっこなしですが。みんなで食べた方が美味しくなるに決まってますので」

「あ、ちょっ……!」


 セイロンという赤身魚のカルパッチョを食べながら、朱音が魔力を動かす。どこからともなく現れた糸によってハルトの体は捕まり、無理矢理椅子に座らされた。


「せっかく有澄さんが三人分頼んでくれてるんですから、食べない方が王女殿下に失礼だと思いますが」

「た、たしかに……」


 糸から解放されたハルトはつい納得してしまったのか、有澄に一言断りを入れてフォークを手に取った。


 あまり畏まられすぎるのは有澄としても本望ではないので、朱音の存在がありがたい。

 とはいえ、年長者として注意くらいはしておいた方がいいだろう。


「朱音ちゃん、食事中に魔術使うのはお行儀が悪いですよ」

「ごめんなさい……」


 シュンと項垂れる朱音だが、食事の手は止まっていない。どうにもこの子は、この前目が覚めてからさらに食べるようになっている気がする。

 まあ、可愛いからいいんですけどね。


「しかし、こんなところで食事をしていてもいいのでしょうか? この国の巫女に会うのですよね?」


 不安げな声のハルトだが、こちらもしっかりと魚料理を頂いてる。有澄に加えて朱音からも言われてしまえば、ちゃんも食事をしてくれるらしい。

 食は生活における基本だ。腹が減ってはなんとやら、王族に忠実なのは悪くないが、それで倒れられでもしたら本末転倒。

 そもそも本来なら、有澄に護衛なんて必要ないのだし。


「ここで待ち合わせしてるんですよ。城に行ってもよかったんですけど、話を聞いて帰るだけですしね」

「なにか問題が?」

「いつもは勝手に転移して勝手にお邪魔してるんですけど、今回は護衛もつけて、ドラグニアの王族としてお邪魔してる訳じゃないですか。そしたら若干大袈裟なことになっちゃうんですよ」


 それが嫌だから、有澄はいつも特に許可を得ず他国へ入っていた。こういう時は王族の自分が恨めしい。友人に会いに行くだけなのだから、普通に気軽に会いに行きたいのが本音だ。


 とは言え、やっていることは普通に不正入国だったのだけど。龍の巫女だからと大目に見られていただけである。実際にルシアも言っていたように、どうやら苦情はドラグニアに入っていたらしいし。


「それにしても少し遅いですね。そろそろ来てもおかしくないんですけど……」


 店の中をキョロキョロ見渡すが、目的の人物はまだ来る気配がない。ナイン・エリュシオンは有澄と違って王族というわけでもなく、魔導の研究のためにローグ城に詰めているが、普段は街に住んでいる一国民だ。

 巫女に選ばれる前も普通の少女だったから、どこか放っておけないところがあった。


 それも十六年前の話で、今では彼女も立派な大人。ルシアの元に嫁ぐための花嫁修行に日々精を出しているだろう。


 しかし、昨日のうちに有澄が来ることは知らせてある。この時間にこの場所で、とも。兄に頼んでローグの城にも連絡してもらったし、有澄もナイン本人に自分の口で伝えた。連絡の行き違いはないはずだ。


 首を傾げながら焼き魚の残りを口に放り込んでいると。

 一瞬、どこか遠くで。異常な魔力の動きを探知してしまった。


「有澄さん」

「……」


 本当に一瞬だけだったが、朱音も気づいたらしい。遠くとは言っても、探知魔術を使わずに気づける距離。恐らく、この街のどこか。

 わざわざ反応してしまうほどに異常なそれは、アリス・ニライカナイと似た力だ。


「ごめんなさい、朱音ちゃん。手を借りることになります」

「構いませんが。元々私がこの国に来たのは、有澄さんの護衛ですので」

「え、あの、一体なにが……?」


 唯一話について来れていないハルト。彼を連れて行くべきか否か逡巡した後だった。

 今度は、誰にでも分かるレベルの魔力が、地響きと共に撒き散らされる。


 俄かに騒ぎ始める店内。周囲の客たちの声をかき消す程に大きな鳴き声が、どこかから聞こえてくる。

 魔力を伴った振動は大気を震わせ肌まで伝う。まずいことになっているかもしれない。


「ハルト、これを持ってローグ城に向かってください。アリス・ニライカナイが対処にあたると伝えてくれればいいです」

「えぇ!」


 困惑するハルトだが、構わず城へ転移させた。ここで言い合う時間も惜しい。

 テーブルの上にお金だけ置いて、朱音と二人で外に出れば、街の中心に巨大なドラゴンが出現していた。


「まさかあれって……」


 深い緑の体を二つの足で立たせた、翼を持たないドラゴン。頭にある立派な長い二本のツノも含めれば、全長九メートルはくだらない。ニライカナイやエルドラドよりも遥かに巨大だ。


 そのドラゴンの名を、有澄はよく知っている。共に肩を並べて戦ったこともある、友人が宿した龍神。


「エリュシオン……」


 愕然と呟いた有澄が見つめる先、龍神エリュシオンの瞳には理性の色が残されていない。先日の暴走事件と同じだ。まさかこんなにも早く龍神まで手が及ぶとは。


 街の人たちがどこかへ避難を急ぐ中、道のあちらこちらから太い木の根が生えて意思を持ったように暴れ出す。

 エリュシオンの力。自然界に存在する草木を自在に操るそれを十全に発揮するため、この国の地下には巨大な木の根が張り巡らされているのだ。それが裏目に出た。


 逃げ惑う人々に襲いかかる木々を、黒いコートを翻した朱音が斬り裂く。ローグの街に住んでいたドラゴンたちも、人間態のまま応戦を始めている。


「朱音ちゃん! ついてきてください!」


 コクリと頷いた朱音が、空色に輝く短剣で虚空を切った。その瞬間、彼女の視界内に収まっていた木々が容赦なく切断される。愛美と同じ『拒絶』の力の遠隔操作。

 早くも完璧に使いこなしていることに感嘆しながら、二人は上空へ飛び上がる。


 一直線にエリュシオンの元へ向かい、容赦なく氷の刃を放った。しかし地面から伸びた木々に防がれてしまう。

 注意はこちらに引けたけど、やはりオーバーロードしないとかなりキツイか。


「どうしますか?」

「街の外に誘導させたいですね。できれば海の方に」


 それができたら苦労はしないのだが。

 海の方に誘導しようとすれば、必然的に港までエリュシオンが進むことになる。この巨体だ。一歩足を進めるだけでも被害は甚大。しかもこの国の港はかなり栄えているから、街の中心であるここよりも多くの人たちが残っている。


 海の上に直接転移させられればいいのだが、龍神相手に通用するわけがない。おまけにエリュシオンは翼を持たない。空から誘導することも不可能だ。


 考えている間にも、被害は広がっている。見下ろした街ではローグの騎士や魔導師たちが避難誘導を行なっているが、手を出そうとはして来ない。

 状況の把握ができていないのか、あるいはハルトがしっかり城に伝えてくれたおかげか。なんにせよ、邪魔はしてくれないようだ。


「まさか我々の目的が自らこの場に来てくれるとは。これは好都合、ここで捕らえるとしましょうか」


 不意に聞こえてきた声は、エリュシオンの頭上から。二本の長いツノ。その間に、小さな少女が座っている。

 長く白い髪は肩のあたりから三つ編みにされていて、胸には十字架のネックレスが。


 邪龍教団の構成員が持つ十字架だ。


 音もなく飛び降りた少女が、二人の前に立つ。飛行魔術はこの世界でも高度な術だ。転移とは違い、使われるものも限られている。

 それを難なく扱う技量と、感じられる龍神にも似た魔力。


 ただものじゃない。幼い見た目に騙されない方がいい。


「我が名はスノーホワイト。ニライカナイの巫女よ、ヴァルハラ様復活のため、その命をちょうだいします」

「舐められたものですね」


 虚空から取り出すのは、豪奢は意匠の施された細身の剣。二つの世界の最強が宿った、彼方有澄としての新しい力。


「朱音ちゃん、エリュシオンをお願いします。弱点はどのドラゴンも共通して逆鱗です。そこに強い攻撃を当てれば、オーバーロードが解けるはず」

「分かりましたが、ここで戦ってもいいのですか?」

「この際仕方ありません。後でお兄様とお父様に頭を下げてもらいましょう」


 気づけば、吐く息が白くなっている。気温が急激に下がり、晴れていた空は雲に覆われて、氷の結晶が舞っていた。


 有澄が魔力を解放したから。

 それだけではない。有澄だけじゃなく、これはスノーホワイトと名乗った少女の影響もある。

 つまり、有澄と同系統の魔導師。

 その名が示す通り、スノーホワイトは氷の魔導を扱う。


「こういう時、蒼さんの気持ちがよく分かりますよ」


 人類最強も楽じゃない。


 内心で呟いて、ニライカナイの巫女は宙を駆けた。

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