龍の世界

第143話

「悪趣味だね」


 背後から聞こえてきた声に、灰色の吸血鬼は眉を顰めた。

 日本支部跡地に建てられた巨大な塔、その頂上の間において。吸血鬼はなにをするでもなく、ただ世界が崩壊していく様を眺めている。各地に放った魔物の視界を共有する形で、この空間にはいくつものモニターがあった。


 ただ、悪趣味だと言われたのはそのことではあるまい。


「ダンタリオンの仕業か……余計な真似をする」

「つれないなぁ。せっかくこうしてまた会えたんだし、多少は感慨に耽ってもいいんじゃないの?」


 声に構うことなく、グレイはモニターの一つを注視する。そこに映されているのは日本の地方都市。探偵どもの本拠地とも言える街だが、奴らは今そこにいない。

 代わりに映されているのは、グレイであっても完全に想定外の存在、黒ずくめの少年だ。


 目下の脅威はアダム・グレイスとイブ・バレンタインか。

 バアルからの報告では、ルーサーも力を手に入れて目を覚ましたと言う。


「くくっ……」

「何がおかしいの?」

「いや、こうでなくては張り合いがない、と思ってな。さて、どこまで足掻いてくれることやら」

「どこまでも。人間を舐めない方がいいよ、吸血鬼。学院祭の時だって、結局それで足元掬われてるんだから」

「貴様に言われれば耳が痛いな」


 元より舐めてるつもりなどない。

 人間の醜さや愚かしさと同時に、秘めた強さすらも。灰色の吸血鬼は理解しているのだから。


 そうなるに至った最たる原因。声の主へ振り返れば、そこにはもう誰もいなかった。

 契約した悪魔の一匹が余計な真似をしたが、果たして吉と出るか凶と出るか。

 それはグレイ本人ですら分からない。



 ◆



 ドラグニア神聖王国の城内にある修練場にて、朱音は植えられた木の影に移り地べたに腰を下ろしていた。膝には眠っている父親を乗せ、この国の宮廷魔導師であるシルヴィア・シュトゥルムが隣に座った。


「この国は暖かいですね。私たちの住んでる国はもっと寒かったのですが」

「一応こちらの世界にも四季は存在してるわよ。ドラグニアは一年通して比較的温暖な気候だけれど、もう少し東の方に行けばハッキリと季節が分かれてくるわ」


 目の前で繰り広げられている地獄の様相を眺めながら、二人は場違いにも思える会話を交わしていた。


 イブ・バレンタインが用意した機銃は、毎秒五百万発の魔力弾を放つ。

 この世界の技術力だけでは、そんな兵器を作り出すことは不可能だ。イブが持つ力によるところが大きいのだろう。


 そんな殺人兵器の前に身を晒している愛美は、時に腕が捥げ、時に腹を抉られ、時に顔の半分を吹き飛ばしながらも、ひたすらに撃ち出される魔力弾を斬り落としている。

 体の欠損は直ぐに復元され、その復元速度だって徐々に上がっている。今では一秒と経たずに元通りだ。


「それにしても、よく追いつくわね。アカネたちの世界にはあんな化け物ばかりなの?」

「あれは母さんがおかしいだけですので。母さんの真似出来る人はなかなかいませんが」


 母親の動きをジッと見る朱音の目には、銀色の炎が灯っていた。

 時界制御。あらゆる時を自在に操る銀炎。その力を使わなければ、今の愛美の動きを捉えることすらできない。

 概念強化の完成度は、もはや朱音では到底叶わぬ領域にまで洗練されている。それは賢者の石やキリの力など、外付けの力によるものではなく、愛美自身の力によるものだ。


 当然、最初からこうだったわけではない。愛美が修行を始めた直後は、見るに堪えない様だった。まともに動きは追いつかず、ただ死の雨にその身を晒すだけ。

 少しずつだが彼女の動きは速度を上げ、被弾率も下がり、今では体の欠損すら気にせず動き回っている。


 肉体を死のギリギリまで酷使することで魂の強度を上げる。

 イブの提唱した修行法は、目に見えて効果を発揮していた。

 愛美は魔力の量と質の増加だけに留まらず、彼女本来の才能により術式の構成はリアルタイムに書き換えられていく。


 では一方で、膝の上に寝かせている父親はどうなのか。


「こっちはこっちで、意味わからないことになってるのよね」


 苦しそうな表情で眠る織を見て、シルヴィアが呟く。

 愛美が肉体的に限界へ追い込まれているのに対して、織は精神的に。彼が深層心理で最も恐れていることが、今夢の中で起きているらしい。


 その術者であるシルヴィア曰く、これは拷問に使われる精神魔術なのだとか。本来なら最後まで見せず、浅いところで術を解くらしいのだが、織はかなり深いところまで潜っている。


「普通ここまで見せられてたら、既に精神崩壊して廃人になっててもおかしくないのだけれど」

「父さんがなにを見てるのか、シルヴィアさんは分かるんですか?」

「ええ。記憶がなくなっていく夢を見てるわ」

「記憶が……」

「所詮は夢だから、無事に起きれたら全部思い出しているけれど」


 朱音にとっては、決して他人事ではない。

 なにせ二十年の時を遡る代償として、いくつかの記憶を失っているのだから。


 最初の自分と、両親に転生した時の記憶。


 転生者として魂に刻まれた記録は残っていても、当時の記憶は消えてしまった。

 凪や一徹、親だった彼らから受けた愛情も、桃を始めとした友人と過ごした時間も、その全てを。


 だから、それを失うことの辛さは理解できるつもりだ。しかし桐生織という人間のことを考えれば、朱音よりも数倍は精神にくるものがあるはず。


 しかしそんなことより、シルヴィアはもっと重要なことを口にした。


「無事に起きないことがあるんですか?」

「あるわ」


 即答。

 もしも織がこのまま起きなければ。あるいは、起きたとしても無事とは言い難い状態だったら。

 考えるだけでゾッとする。

 もしかしたら織だって、ある程度承知の上だったのかもしれないけれど。

 織に限らず愛美だって、こんな無茶な修行をやらされて死なない保証はないのだ。もしも愛美の再生が完全に追いつかなくなったら、先に魔力が切れてしまえば。


 あり得ないことはない。賢者の石があっても、幻想魔眼を持っていても、もしもということがある。


「そう心配しないで、アカネ。あくまでも普通なら、という話よ」

「父さんは大丈夫だと?」

「大丈夫じゃなくなりそうなら、あたしが術を解くわ。でもシキは、負けないよう必死に頑張ってる。そもそも術の中に入ってしまえば、頑張ろうという気すら起きないはずなのだけれど」


 その非凡な精神性こそ、桐生織が持つ最大の武器。両親を亡くし、友人を亡くし、自身の弱さをこれでもかと見せつけられて。それでも、弱いままで前を向けるだけの強さを持っている。

 普通の人間にはまずできない。朱音であっても、愛美ですら。


「あなたたちの世界、余計に興味が湧いてきたわ。アオイ様もそうだったけれど、魔術師というのは強い人ばかりだもの」

「シルヴィアさんもこっちの世界に来てみたらどうですか? 有澄さんが来れるなら、シルヴィアさんもいけると思いますが」

「あたしでは無理よ。アリス様は龍神を宿してらっしゃるから、異世界でも適応できるの」


 はて、と朱音は首を傾げる。その理屈で言うと、


 恐らく朱音には分からないところで、なにかしらの基準が引かれてるのだろう。なにせ異世界間移動なんて、普通なら全く未知の領域。朱音たちは詳しい原理を何も知らないままこの世界に来ている。


「残念です。私の友達に、シルヴィアさんを紹介したかったのですが」


 肩を落として心底残念そうに言う朱音に、シルヴィアは笑みをひとつ漏らした。

 未だ幼い異世界の友人。正直シルヴィア的には織や愛美よりも、朱音の力に一番興味があるのだけど。宮廷魔導師が興味を惹くほどの力を持っているとは思えないほど、朱音は年相応の幼さを見せる。


「おや、意外と飲み込みが早いですね」


 談笑していた二人の頭上に、まだ聞きなれないハスキーボイスが。視線を上げれば豪華な赤いドレスの女性、イブ・バレンタインが立っていた。

 有澄はいない。昨日の事件の対処に追われてるのだろうか。


「イブ様、会議の方は?」

「終わりましたよ。どうにも有澄がやる気になっているみたいですが、そう簡単に終わるとは思えない。他国でも同様の事件が起きているらしいので、その辺りの折衝が上手くいけばいいのですけど」

「お手伝いしましょうか?」


 なんの気もなしに聞いてみれば、イブは首を振った。

 織と愛美の二人と違い、朱音は修行を受ける予定もない。この世界について来たのは、朱音のわがままだ。そもそもイブは朱音を連れてくるつもりはなかったらしいし。

 だから、そのわがままを聞いてくれたお礼をしたいと思ったのだが。


「今はまだ、有澄達に任せておきます。この世界の問題は、この世界の人間が片付けるべきだ。もしそれでも解決が叶わない場合、朱音の力を借りるかもしれませんね。それまであなたは、両親のことを見守っていてあげなさい」


 ごもっともな意見には素直に頷いておいた。

 この世界の問題はこの世界の人間が。有澄も昨日同じことを言っていたし、仮に朱音がその立場だとしてもそう言うだろう。


 それでも解決が見えない、どうしようもなくなってしまえば、助力を請う。

 まさしく朱音たちの世界のような、どん詰まりの状況になってしまってようやくだ。


「とは言え、そろそろ頃合いですね。愛美に関しては殆ど完璧だ。織もそろそろ限界でしょう。本当に廃人になってしまっては笑い話にもならない」


 イブの号令により、愛美へ向けてひたすら弾を撃っていた機銃が止まった。

 愛美からしたら合図もなく急に止められたので、勢い余って斬撃が機銃を真っ二つに。そのままバタリと倒れてしまった。


「ちょっ、母さん!」

「大丈夫よ、アカネ。ただ疲労で倒れただけだから。外傷はないし、体の中身も完全に無傷。問題はこっち」


 シルヴィアが魔力を動かすと、膝の上で寝ていた織がガバッ、と勢いよく起き上がった。全身にびっしょりと汗を掻いていて、ゆっくりと周囲を見渡している。

 やがて朱音と目が合うと、強く抱きしめられた。


「よかった……ちゃんと、覚えてる……」


 呟いた織は、数刻前に比べるとずいぶん弱々しく見えた。

 どんな夢を見ていたのかは聞かされていたけど、まさか自分の父親がこんなになるまでとは。そのまま意識を失った織は、やがてすうすうと寝息を立て始める。


 どうやらこちらも、精神的な疲労が限界だったらしい。


「初日にしては上出来ですね。明日からは早速実戦に入れそうだ。シルヴィア、二人を診てあげなさい。魂の強度が上がるとは言っても、それだって変質に他ならない。どこかで不調をきたしている可能性もある。アダムの時はかなり酷かったですからね」

「承知しました。アカネ、部屋まで運ぶのを手伝ってくれるかしら?」

「もちろんですが」


 朱音が織を、シルヴィアが愛美を担ぎ、修練場から出てあてがわれている部屋へ向かった。道中、城の人たちは慌ただしくあちらこちらを行ったり来たり。

 やはり昨日の事件が尾を引いてるのか。心配ではあるけど、イブの言う通り手出しはしない方がいいだろう。


 忙しなく動き回る人達の中に、有澄を見つけた。

 今の彼女は、普段の日常で見せている優しい表情でも、戦闘中に見せる凛々しい顔でもなく、王女としての威厳を備えた立ち振る舞いをしている。


 色んな人が有澄の命令を受けている中、ふと疑問に思って隣の宮廷魔導師を見やった。


「シルヴィアさんはあちらのお手伝いをしなくてもいいんですか?」

「アリス様から、あなた達の面倒を見てあげてって言われてるのよ」

「わざわざお姫様自らと言うことは、あの人の側近ということですか」

「まあそんなところよ。側近というよりは近衛隊っていう感じかしら。あたしと騎士かぶれの暗殺者の二人だけなのだけれどね」

「騎士かぶれの暗殺者?」


 イマイチ言葉の意味が理解できなくて首を傾げる。しかし近衛に暗殺者がいるとは、なんとも物騒なお姫様だ。

 いや、正面からの実力だとこの世界には有澄に敵うやつがいないからこそ、裏に潜む暗殺者という従者が必要なのか。


「なんにしても、アリス様の方は心配いらないわ。あたし達は、シキとマナミのサポートに徹しましょう」


 こくりと頷いて、再び部屋まで足を進める。元より朱音は、そのためにこの世界へと連れてきてもらったのだから。



 ◆



 昨夜起きたドラゴンの暴走事件に関して、城側が掴んでいる情報は少ない。

 犯人は邪龍教団であること、なにかしらの薬品により暴走したこと、他国でも同様の事件が同じタイミングで起きたこと、龍の巫女を狙っている可能性が高いこと。

 以上である。あまりにも情報が不足している。実行犯が精神崩壊を起こしてしまったのが痛い。本来ならそこから引き出すべき情報を、なにも得られていないのだから。


 こういう場合、あまり焦ってもいいことはないと、有澄は経験上理解していた。

 一つずつ、絡まった糸を解すようにゆっくり丁寧に。


 まずは、事件に使われた薬品についてだ。

 城内にある宮廷魔導師の研究所へと足を踏み入れると、周りの魔導師達がみんな腰を折る。この世界の魔導師にとって、アリス・ニライカナイは頂点に位置する人間だ。

 彼ら宮廷魔導師は、アリスのことを王女としてよりもひとりの魔導師として、尊敬と畏怖を投げている。


 研究所の奥へと足を進めると、老齢の魔導師長オルバに師であるイブ、近衛のひとりでもあり織たちのことを任せていたはずのシルヴィアの三人が。

 有澄に気づいたオルバとシルヴィアが腰を折る。しかし本来なら別の仕事を与えていた近衛の少女が、なぜここにいるのか。


「シルヴィア、織くんたちはどうしたんですか?」

「今日の修行は終えたので、部屋で休んでもらっています」

「無事でした?」

「死んではいないので、大丈夫かと」


 予想通りの返答に思わず苦笑い。

 死ぬことはない。それは最初から分かっていた。イブの修行は絶妙な加減がされていて、死にそうだと思っても死ねない。いっそ死んでしまった方が楽だと思っても死ねない。


 十六年前に繰り広げられた地獄の毎日を思い返して、有澄はつい背筋を震わせた。見れば、イブはニッコリと笑顔。有澄も参加したければいつでもいいなさい、と言いたげな顔だ。


 しかし有澄には仕事があるからして、本当の本当に残念でならないし折角再開できた師匠とまた修行したいと思っていたのだけれど、そういうわけにもいかないのである。

 いや本当残念なんですけどね! 仕方ないですよね! お仕事ありますからね!


「薬品の解析は?」

「全く未知の魔法薬ですな。既存の魔法薬もいくつか掛け合わせておりますが、それも全体の二割か三割と言ったところでしょう」

「魔法薬学はどれだけ研究を進めても、未知の領域というのは存在する。むしろ比例するように多くなっていきます。新種の薬草が使われていてもおかしくはない」


 オルバの報告とイブの補足に、有澄は難しい顔を浮かべる。魔法薬の解析が上手くいけば、ワクチンを作ることも可能となる。国内のドラゴン全員に配布してしまえば、再犯は防げると思ったのだけど。

 そう上手く話は進まないか。


 魔法薬学は有澄にとって専門外だ。基礎的な知識は身に付けていても、未知の魔法薬なんて持ち出されれば力になれそうにもない。


「現状判明している中で、最も危険度の高い薬草は?」

「ガイナドクソウです」

「麻薬の類ですか……」


 この世界で最も毒性の強い麻薬だ。

 有名すぎるゆえに、後遺症の残らない適切な処置法も確立されている。

 闇市場などで出回っているものは数百倍に希釈されたものだが、どうやら今回の魔法薬にはかなりの少量がそのまま混入していたらしい。


 しかし、麻薬を使って暴走というのもおかしな話だ。少なくともこれまで起きたガイナドクソウ関連の事件では、ドラゴンや人間が暴れ回ったという報告を受けていない。


「引き続き解析をお願いします。シルヴィアはあまり無理をしないようにしてくださいね。織くんたちのことが最優先です」

「かしこまりました」


 部下達に指示を出し、研究室を離れる。

 次に向かうのは兵舎だ。転移で一気に移動してしまうと、扉の前に立っていた兵士の二人が頭を下げて来た。


 この世界では色んな人から畏まった態度で接せられる。自分の立場を思えば当然なのだけど、あちらの世界で蒼たちと暮らしていたら、王女という身分を忘れそうになる時があるのだ。

 少し前までは割と定期的に帰ってきてたから、そんな周囲に戸惑ったりすることはないけど。


 兵舎の中はむさ苦しい男たちばかり。修練場から戻ってきた汗まみれの兵士もいれば、休憩中なのか机の上でカードゲームに興じるものたちも。

 賭けもしているらしく、今まさしく負けたであろう一人が悲鳴をあげていた。


 その全員が有澄に気づくと、一斉に立ち上がって敬礼してくる。

 楽にしてくださいとだけ告げれば、各々休憩に戻っていった。カードゲームはやめてしまったらしい。別に気を使う必要はないし、咎めることもしないのに。


「各地区の警備日報を見せてもらえますか?」

「はい! すぐ持ってきます!」


 近くの少年兵士にそう声をかければ、彼はとても嬉しそうに兵舎内を駆けていった。この国で最も美しいと言われる王女からお声がけされたのだから、そんな反応になっても当然である。

 有澄自身もそのあたりの自覚があるから、つい苦笑いを浮かべてしまう。


 蒼が日本支部の学院長になって以降、忙しくて全然こちらに帰ってこれなかったから、あの少年はその間に入隊した子かもしれない。


 少年が持ってきた日報を受け取り、昨日事件が起きた地区とその近辺の地区のものに目を通す。

 しかし、これと言って特筆すべき点はなにもない。精々が酔っ払い同士の喧嘩程度。日付をいくらか遡ってみたが、不審者発見の報告すらなかった。


 半ば予想通りではあるものの、あまりにも手掛かりがなさすぎて殆ど無意識にため息を漏らしてしまう。

 それをどう受け取ったのか、日報を渡してくれた少年はピクリと肩を震わせた。


 怖がらせるつもりはなかったのだけれど、ここでは有澄の一挙手一投足が周囲に影響を与える。良い悪いに限らずだ。

 まだ交流のある宮廷魔導師たちならいざ知らず、城に来て日の浅い少年兵士にとっては、有澄の前に立っているだけでもかなりの緊張を感じていることだろう。


 こほんと咳払いをひとつして、少年に微笑みかけた。


「あなたのお名前を聞かせてもらえますか?」

「は、はい! 自分はハルトと言います!」

「ではハルト、あなたは城に来てからどれくらいですか?」

「本日で三ヶ月と十八日になります!」


 背筋をピンと伸ばし、大きな声でハキハキと答える少年、ハルト。歳の頃は織たちと同じくらいだろうか。それにしても何ヶ月何日、まで言えるとは。根が真面目なのだろう。


 しかしなるほど、三ヶ月前に兵士になったばかりか。丁度有澄が学院の仕事で忙しくきていた頃。城の中で見かけたこともなかったのだろう。

 彼の様子からするに、城都出身というわけでもなさそうだ。城都に住む人たちは、割と有澄を見慣れているから。


「三ヶ月前、城に来るよりも前と兵士になってからで、この国に変わったところはありませんか? ハルトの主観で構いません」

「変わったところ、でありますか……」


 ふむ、と考える様子を見せるハルトは、なにか思い出したように小さく声を上げた。だがなにも言う気配はなく、と言うよりは言っていいのかどうか悩んでいるみたいだ。


「その、アリス様の前で恐れ多いのですが……」

「大丈夫ですよ、なんでも言ってみてください」

「……城都のドラゴンたちはみんな、自分の住んでいた街のドラゴンよりも大人しいかと」

「大人しい、ですか。あなたの住んでいた街とは?」

「セゼルです」


 セゼルとはドラグニアの南端にある港町だ。海を隔てた向こう側にある大国ローグを始めとし、いくつもの国への連絡便が出ている。同時に貿易の拠点でもあるので、城都に次いで大きな街だったはず。


 ドラゴンは非常に賢い生物だ。人よりも高い知能を持った個体だって珍しくない。そんなドラゴンであれば、街中でどのように立ち振る舞えばいいのかは理解しているだろう。

 大人しい、というのはある意味当たり前のことで、そうならなかったドラゴンの極端な例が、昨日の暴走事件。


 けれど、この少年が敢えてそう口にしたことには、なにかしら意味があるはず。

 有澄とて城都のドラゴンしか知らないなんてことはない。十六年前は龍の巫女としてこの世界の各地へ戦いに赴いていたし、あちらの世界に住むようになってからも、ドラグニアに帰って来たら仕事を任されて他国へ渡ったこともある。


 いや、有澄の記憶とハルトの話には、決定的な違いがあるか。

 有澄が街や城都のドラゴンの様子をしっかりと見たのは、年単位で前の話。一方でハルトはたったの三ヶ月だ。となれば、有澄があちらの世界で忙しくしている間に、なにかしらの変化が訪れた。


「ありがとうございます、ハルト。話を聞けてよかったです」

「お力になれたでしょうか……?」

「ええ、もちろんですよ。これからも訓練に励んでくださいね」


 最後に激励の言葉を贈れば、大きな声で感激を隠せない返事が。

 ハルトに背を向けて兵舎を後にしようとし、もう一度だけ振り返ってみれば。なにやら少年が周りからもみくちゃにされていた。

 歳の近い兵士たちが、うらやましいとかよかったなとか、美しい王女であり最強の龍の巫女と話せたことを口々に囃し立てる。


 元気があるようで結構。彼ら若い兵士たちは、この国の未来を担う宝だ。自分と会話した程度でそんなに士気が上がるなら、いくらでもこの場に来てあげるけど。

 残念なことに、今はそんな暇もありはしない。


 兵舎を出て次に向かうのは、王太子である兄の執務室。これまた転移で一気に移動して扉をノック。中からどうぞ、と声が聞こえたので扉を開く。


 執務机に向かっている兄は、どうやら結構な量の書類を捌いている最中のようだった。


「アリスか。なにかあったか?」

「明日、ローグかノウム連邦に行こうと思うので、お兄様に連絡をお願いしようかと」

「ローグにしておけ。連邦の巫女は出払ってるらしい」


 広げた書類から視線を逸らさず、有澄の方をチラリとも見ようとしないで短くやり取りが終わってしまった。

 別に仲が悪いわけではない。

 ルシアはこの歳になっても有澄のことを可愛がろうとするし、下の妹なんて十も離れてるから余計に。兄妹仲はとても良好。蒼とも仲がいい。

 まあ、二人で夜通し酒盛りしていた時はさすがに怒ったが。有澄の子供の頃の話をしていたとか言われてさらに怒った。


 ルシアは現在、王の仕事のいくつかを任されている。順当に行けば来年くらいにはルシアがこの国の王となるから、その時に備えて今から引き継ぎは始まっているのだ。


 問題は、ルシアの婚約者の方だが。


「ローグに行くついでに、ナインのことも見て来ましょうか?」

「ん、そうだな。後で適当に土産を繕っておくから、悪いが渡しておいてくれ」

「本当なら、お兄様が直接行くべきだと思いますけどね」

「そうできない立場だ。アリスも分かってるだろ」


 ナイン・エリュシオン。

 ルシアの婚約者であり、ローグに身を置く龍の巫女の一人だ。龍神エリュシオンをその身に宿した彼女は、有澄の友人であり将来の義姉になる女性。同い年だけど。

 綺麗な深緑の髪が特徴的な彼女とは、数年会っていない。できれば事件とか関係なく会いに行きたかったけど、まあ仕方ないか。


 ナインがルシアに嫁ぐと、この国には有澄の妹も含めて巫女が三人になる。

 一見すると強大な力を持つ巫女をドラグニアが独占しているようにも思えるが、実態は違う。

 そもそも龍の巫女は、国に属さない。

 有澄の場合はたまたま王族に生まれてしまったからで、アリス・ニライカナイとしてはたしかにドラグニアの第一王女だけど。

 龍神ニライカナイを宿した龍の巫女としては、また別だ。


 その役目は世界の均衡を保つこと。

 仮にドラグニアがこの世界にとっての癌となるのであれば、祖国であっても容赦なく敵対するだろう。


 閑話休題。

 ようやく書類から顔を上げたルシアの怜悧な瞳が、有澄を捉えた。近い将来に王となるに相応しい威容を備えた目。絶対的な君臨者のそれは、実の妹であろうと変わらず向けられるもの。


「ああそうだ、国を出るなら何人か護衛をつけろよ。先方から苦情が来るからな」

「苦情?」

「勝手に転移して勝手に入国しないで欲しい、とな。お前は龍の巫女であると同時に、ドラグニア王家の人間だ。もういい歳なんだから、その辺りは弁えろ」

「と、歳の話はいいじゃないですか! ていうか、今日はちゃんとお兄様に許可もらいに来ましたよ!」

「ついでに、セゼルの視察を頼みたい。あそこは貿易の要だ。報告自体は届いてないが、城都と似たような騒動がないとも限らんしな」

「仕事が増えた……」


 ナインからローグで起きた事件の捜査進捗だけ聞いて帰ってこようと思ったのに、セゼルの視察まで任されてしまった。

 暇を見つけて織と愛美の様子を見ようと思っていたのに。


 護衛とは言っても、誰を連れて行こうか。

 有澄直属の近衛であるダンテとシルヴィアには、それぞれ別の仕事を与えているし。

 はたと思い浮かんだのは、先程兵舎で出会った新米兵士。彼はセゼル出身だと言っていたし、丁度いいかもしれない。


 ついでに一応、朱音にも声をかけてみようか。せっかくこの世界に来たのだ。手持ち無沙汰にしているだろうし、どうせなら観光と洒落込んで美味しいものを食べさせてあげよう。


「護衛はこっちで選んでも構いませんよね?」

「好きにしろ。人数も適当でいいぞ」

「分かりました」


 一礼してから部屋を出る。再び書類と睨めっこを始めていたルシアは、ヒラヒラと手を振るだけだった。


 さて、とりあえず明日の予定は決まりだ。

 願わくば、少しでも進展があればいいのだけど。

 そう上手く行くわけないかと思い直して、有澄は憂鬱なため息を吐き出した。

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