第134話

 意識が覚醒して真っ先に、違和感と喪失感が蒼を襲った。


 あるはずのものがない。これまでの日常で当たり前のように存在して、生活を送る上で使っていたものが。

 つまり、左腕が。肩からごっそりなくなっている。


 瞼を開いてその事実を確認、気を失う前の記憶と照合してみる。

 そう、たしか。魔力が抑えられなくなって、暴走してしまった魔力が左腕から溢れ出たんだ。その時に弾け飛んでしまった。


「おや、目を覚ましましたか」


 耳に届いたのは凛としたハスキーボイス。聞き慣れない音に首を巡らせる。

 知らない部屋のベッドに寝かされていた蒼の傍に、赤いドレスを着た女性が座っていた。セミロングの黒髪は重力に任せ下ろしており、黒縁のメガネをかけている。膝の上には文庫サイズの本が。

 本を閉じたのと同時にメガネを外したのを見るに、普段から掛けているわけではないのだろう。


「初めまして、小鳥遊蒼。私はイブ・バレンタイン。アダムやアリスから名前程度は聞いているでしょう」

「あなたが……」


 アダムの恩人にして、アリスの師匠。


 しかし、聞いていた話と違う。たしかイブ・バレンタインは、位相に弾かれて蒼たちの世界には来れないはず。それが原因でアダムとはぐれ、アリスの世界に漂着したと聞いている。

 こうして蒼の前にいること自体、あり得ないはずだ。


 いや、まさか。


「気づきましたか」


 起き上がってベッドから出る。片腕がないため多少もたついたが、構わず部屋の窓へ駆け寄った。


 窓の外には、全く知らない景色が広がっていた。あらゆる時代、あらゆる国に生まれた転生者の蒼でも知らない、完全なる未知の景色が。


 見渡す限りに背の低い建物が立ち並び、その先には街を囲うように巨大な壁が聳えている。壁の広がり方を見るに、蒼のいるここは街の中心部なのだろう。

 視力を強化してみれば、電気や水道などのインフラは整っているし、大通りには車も走っている。いつだかアリスから聞いた通りだ。

 多少レベルは落ちるだろうが、こうして見る限り蒼の世界と科学技術は遜色ない。

 一方で壁の上に立っている見張りであろう兵士は、身軽とは言え鎧を纏っている。しかし手の持つのは銃。壁の上には等間隔にタレットのようなものも設置されていた。


 改めて部屋を見回してみると、どこか時代錯誤にも感じられる豪華な内装。それで今身を置いている場所を悟る。


「ここが異世界……アリスが生まれた世界か……」


 イブが蒼たちの世界に来たのではない。蒼が、アリスの世界に来たのだ。


 いや、それにしたって疑問は残る。位相の扉はどうやって開いた? アリスやアダム、龍にルークはどうした? そもそも、蒼の意識が途切れた後はどうなったのだ?


「まだ困惑しているでしょうが、ひとまずはようこそ、と言っておきましょう。ここがドラグニア神聖王国。龍と人が手を取り合う世界において、最大最強を誇る国です」



 ◆



 イブから渡されたスーツ(隻腕用)に着替え、彼女に連れられて部屋を出た。

 どこへ向かっているのかは知らないが、その道中で状況の説明が。


「私があなたの世界に無理矢理でも訪れることが出来たのは、アダムのおかげです。彼の体質の影響により、位相に綻びができたから」

「ならもっと早く来れたはずじゃ?」

「アリスの修行が本来の目的です。さすがに心配だったので来てみればあの騒ぎ。とりあえずあなたから溢れた魔力は、私があなたの体に戻しておきました」

「戻したって……あれを?」

「ええ。ですが油断はできない。しばらくは魔術を使わない方がいい」


 特に気取った様子もなく言ってのけたイブだが、あれを蒼の体に戻すとか、殆ど不可能に近い所業だと思うのだけど。

 僅かに覚えている記憶を辿ってみても、あの時の魔力は人の手に負えるものとは思えない。


 自分よりも更に規格外なイブ。その忠告には、素直に頷いておいた。


 通常ならば以前のアリスのように、異世界に来てすぐは魔術を使えない。その世界の魔力に体が馴染みきっていないからだ。なにかしらのキッカケを与えるか、時間の経過を待たなければならないだろう。

 しかし今の蒼は、アリスの魔力を取り込んでいる。ゆえにその制限は存在しないのだ。


 が、あんなことがあった後。蒼も軽率なことをしようとは思えなかった。


「エルドラドとの戦闘で荒れた土地も元に戻しておきました。あれだけ大規模な戦いとなれば、当然一般人も気づいている。そちらの記憶改竄も済ませてあります」

「随分と僕たちの世界に詳しいんですね」


 蒼たちの世界において、魔術とは秘匿されるべきものだ。現代社会の裏に隠れなければならないもの。

 しかし一方で、今いるこの世界は魔術が人々の生活に根付いている。世界の中心に程近いところに存在しているだろう。


 なのにどうして、イブがその秘匿性まで知っているのか。他の誰かから聞いたと言うなら話はそれで済むけど。


「私はそういう存在なのです。訪れた世界の情報はすぐにインプットできる。ですから、学院本部とやらとも話はつけていますよ」

「話って?」

「アダムのことです」


 その一言で、親友との別れを察した。

 アダム・グレイスは蒼の世界で、人類最強と呼ばれる男だ。日本支部のみならず、本部からも戦力として期待されていた。


 その席が空くという意味を、イブは正しく理解してくれているのだ。


「話していたのは殆どアダムでしたが。そのアダムとあなたの仲間たちも、こちらに連れて来ていますよ」

「みんなも来てるのか……」

「これから向かう先にいます。他になにか疑問は?」

「どうして、アリスのことをちゃんと誉めてやらなかったんだ」


 彼女は言っていた。

 他の魔導師からも、魔導を教わった先生からも、全ては出来て当たり前なのだと言われた、と。

 アリスの立場を考えれば、多少は仕方ないことなのかもしれない。周囲からのやっかみは避けられないだろうし、この世界の平和と秩序を守る龍の巫女は、相応の力と立ち振る舞いを求められただろう。


 でも、もしも身近な人間にひとりでも、彼女をちゃんと褒めてくれる人がいたなら。あの子はあんなに思い詰めることもなかったはずなのに。


「その必要を感じなかったからです」

「そんなわけが」

「あるんですよ。あの子は、あまりにも真っ直ぐすぎた。王女や龍の巫女という立場がそうさせるのでしょうが、生来の性格でもあるのでしょうね」


 言わんとしていることを理解できてしまい、蒼は口を噤む。

 イブの言っていることは蒼だって感じたことだ。世界のため、国のため、そこに住む人々のため。龍の巫女としての使命を果たそうと努力を続けていた。

 誰になんと言われようが、それが当然なのだと疑わずに。


 そのままだと、どこかで折れてしまった時に取り返しがつかなくなる。

 だから蒼は、彼女を褒めてやることでその心に余裕を持たせてあげた。柔軟性を与えてやった。

 一方でイブは、褒めることなく無理難題を与え続け、一度挫折を経験させようとした。本当に取り返しがつかなくなる前に、アリス自身に気づかせようとした。


 どちらが正しいなんてのはない。指導者として、蒼とイブで方針が違っただけ。

 そりゃ蒼の方が優しいやり方だと言えるだろうし、そのおかげでアリスは成長できたのだろうけど。

 それだってたまたまだ。そのままイブの元にいたとしても、きっとアリスは成長できていた。


 これ以上続けても、平行線を辿るだけの無駄な話。

 だから最後に、イブはこう締めくくった。


「それでも、あなたのおかげでアリスが成長したのは事実です。わたしにはできなかった。悔しいですが、礼を言っておきます。あなたのおかげで、あの子は重責を払拭できた」


 言葉とは裏腹に、全く悔しそうに思っていない表情。初めて見たイブの笑顔は、弟子への親愛がたしかに籠ったものだった。



 ◆



 イブに連れられた先は広い客室だった。そこでアダム、龍、ルーク、凪の四人と合流し、早々にまた移動を始める。

 道中で片腕を失ったことに対し多大なからかいを受けてしまったが、四人に迷惑をかけた自覚はあるので、蒼は甘んじてそれを受けていた。


「しかし、ルークがドレス着てるのはどうにも違和感が凄いね」

「ねー、ボクもそれ思う」

「俺たちのスーツも似たようなもんだろ。まだ十六だぞ? 服に着られてる感がやばい」

「礼服なのは仕方ないだろう。ここのトップに会うと言うんだからな」

「その点凪さんは楽でいいよね。スーツじゃなくて燕尾服だし」

「お前らと違って、レコードレス着たままじゃないとこの世界に留まれないんだよ」


 蒼だけでなく、他の四人も正装に着替えていた。凪だけは少し違うが、まあ正装であることに変わりはない。


 そもそも渡された服がスーツだった時点で薄々気づいてはいたけど、やはりここのトップ、つまりはこの国の王様に会わされるらしい。アリスの姿がないのは彼女が王女であるからだろう。


 凪がレコードレスを発動したままなのは、彼が言った通りの理由だ。

 世界間移動は誰もが可能なわけではない。移動の際には魂に多大な負荷がかかり、常人であれば異世界に辿り着くことなく消滅してしまう。

 アダムはそもそもが異世界出身者。世界間移動は何の問題もなく行えるし、蒼たち転生者は魂の強度が違う。アリスは龍神の力を宿していたし、エルドラドなんてまさしくその龍神そのものだ。


 だが、凪だけは正真正銘ただの人間。そこでレコードレスの出番と言うわけだ。

 位相を操るそのドレスであれば、扉を開くことは出来なくとも通ることは可能。ただし、通った後もドレスは発動したままでないといけない。じゃないと異世界の魔力に体が拒絶反応を起こして、その場で死んでしまうから。


「お喋りはそこまで。着きましたよ」


 一行の前には巨大な扉が。両端には兵士が控えており、この先が目的の場所なのだと一目で分かる。


 ゆっくりと開かれた扉の先には、多くの人が待ち受けていた。

 部屋の中央に伸びるレッドカーペット。その端に沿うようにして、甲冑を着た騎士たちが並んでいる。その後ろに立っているのはこの国の重鎮たちだろうか。まるで品定めでもするかのように蒼たちを見ていた。


 堂々とレッドカーペットを歩くイブに続いて行けば、その先には一段高いところに玉座が。そしてそこに座る初老の男性こそ、この国の王だろう。

 すぐ隣に立つのは第一王女であるアリス。蒼たちの世界に来た時とはまた違った豪華なドレスと頭に輝くティアラは、アリスが王女であるなによりの証。

 玉座のほど近くには王と同じ歳くらいの女性と、恐らく凪と同じくらいの青年が。


「陛下、異世界からの来訪者をお連れしました」


 頭を垂れるイブ。威圧感のある王の瞳が、蒼たちを一瞥する。


「うむ、ご苦労だったバレンタイン魔導師長。私がドラグニア神聖王国第七代国王、ルキウス・ドラグニアだ。そなたらの活躍はアリスから聞いておる。エルドラド討伐に協力してくれたこと、この世界を代表して私が礼を言おう」


 アリスとはファミリーネームが違うのか。

 一瞬生じた疑問は、彼女から家族の話を少し聞いていたから。もしかしたら、ニライカナイの力を宿したからかもしれない。


 そしてそのアリスも、玉座の隣で腰を折った。


「改めてわたしからも、お礼を言わせてください。みなさん、ありがとうございました。おかげでわたしは龍の巫女としての使命を果たせて、こうして元の世界に帰ることができました」

「礼を言われるようなことじゃないよ。エルドラドを放置していたら、僕らの世界だって危なかった」

「ていうか、アリスは友達だしね。友達の力になるのは当然のことだよ」


 この場においても全く物おじしないどころか失礼にも当たる蒼とルークに、龍がため息を一つ落とした。

 王様の前だぞ、とでも言いたいのだろうが、転生者的にその辺割とどうでもいい。


 ルキウスも気を悪くした様子を見せず、周囲の家臣たちも黙ったままだ。

 やがて王はふっと表情を和らげた。その瞳に威圧感のようなものは感じられない。


「しかし、我々としてはなにか形に残る礼をしたい。この世界と君たちの世界、互いの友好の証としても、我々の体裁としてもな」


 その言葉が皮切りとなって、室内のどこか緊張した雰囲気が途切れた。騎士たちは相変わらず直立不動だが、それ以外の者たちはなにを贈るのがいいかと、王の前であろうと勝手に語り合う。


 ここはとてもいい国なのだろう。玉座の前にあっても家臣たちがこの空気感でいられるのは、ルキウスが優秀な王である証拠だ。


 そして礼をもらえると言うなら、遠慮なくもらうことにしよう。


「ルキウス王、ひとつ望みがあるんですけど、いいですか?」

「ああ、構わん。申してみよ」

「娘さんを僕にください」


 瞬間。

 部屋の空気が凍りついた。


 まるでアリスがオーバーロードを使ったのかと錯覚するほどに。ルキウスの笑顔は固まってしまい、家臣たちも何も言えずにいる。


 沈黙が広がる中、ついに王の口が開かれる。


「私の剣を持て」

「え」


 家臣の一人が素早く動き、ルキウスに剣を渡す。立ち上がった彼は大股で蒼の元まで歩み寄ってくると。


「私より弱い男に娘をやるわけにはいかんッ!」

「そうくるか……!」


 袈裟にかけて剣が振われる。咄嗟にバックステップでかわせば、横に並んでいた騎士たちが二人を囲み、即席の決闘場を作り上げた。


 因みに、他の四人はいつの間にやら部屋の隅へ退避している。ルークは笑い転げてるし、ドレスなんだからあんまり暴れるなよ。


「こっちは素手なんだけどな」

「ふんッ!」


 蒼の文句も聞く耳持たず、ルキウスは鋭い動きで肉薄してくる。何度も振るわれる剣を紙一重でかわすが、非常にやりにくい。

 魔術は使えないし、左腕はないし、武器もないし。異能も使っていいのかどうか微妙なところだ。


「ちょっと借りるよ……!」


 横に転がりルキウスの猛攻から逃れ、すぐ近くの騎士が腰に差していた剣を勝手に拝借した。騎士はなにも言ってこなかったが、もしかして魔術的なゴーレムとかじゃないだろうな。


 上段から振り下ろされる一撃を、右腕の剣で受け止める。衝撃が腕を伝って全身に響き、危うく剣を落としてしまうところだった。

 これだから片腕だけってのはやりづらい。


「重っ……」

「異世界の魔導師とはこんなものか! アリスを嫁に欲しいと言うなら、もっと力を見せてみろ!」

「話し合いで解決したいんですけどね!」


 金属音が何度も室内に響く。打ち込まれる剣を弾く度、ルキウスの強さを実感した。

 洗練された技術に鍛え抜かれた肉体によるパワー、鋭く素早い動き。どれをとっても一級の戦士だ。


 これが異世界の王。最大最強の国家を治める男の実力。

 いや、娘を持つ父親の底力だ。


「お父様やめてください! 今の蒼さんは病み上がりで、万全の状態じゃないんですよ!」

「アリスはそこで静かにしてなさい」

「アリスはちょっと黙ってて」


 ハラハラしながら見守っていたアリスがついに声を上げるが、二人はそれを跳ね除け向かい合う。


 これは男と男の決闘だ。

 話し合いで解決したいとは言ったが、蒼とて一度剣を取ってしまった。ならばどちらかが倒れるまで、負けを認めるまで、終わることはない。


「せやぁぁぁぁぁぁ!!」


 雄叫びを上げながら、渾身の一撃が振り下ろされた。

 真正面からは決して受けることなく、剣で衝撃を受け流しながら軌道を逸らす。あまりの勢いにそのまま体ごと持っていかれそうになるが、なんとか踏ん張って耐え、腹に思いっきり蹴りをお見舞いした。

 後ずさる体を追いかけて、素早く剣を突き出す。


「勝負あり、でいいですか?」

「ぐ、ぐぬぅ……!」


 王の喉元に迫った凶刃。

 誰がどう見ても、蒼の勝利だ。悔しそうに睨むルキウスから負けを認める言葉はなく。

 代わりに別のところから声が届いた。


「もうよろしいでしょう、ルキウス様。お認めになってはいかがですか?」


 発せられたのは優しい声。玉座のほど近くに控えていた女性、この国の王妃から。

 その隣に立つ青年も、呆れたように頷いている。


「昨日決めたではないですかお父様。アリスや彼がどう言おうと、我々は認めてやろうと。王であるお父様が先走ってどうするのです」

「お母様……お兄様……」


 どうやらアリスの兄だったらしい。つまりは王太子殿下だ。

 その二人から宥められ、ルキウスもついに剣も落とした。


「……そうだな、認めよう」

「てことは?」

「アリスのことは頼んだぞ。幸せにしてやってくれ」


 その言葉と同時に、ドッと歓声が沸いた。

 蒼の仲間たちも、見守っていた家臣たちも、一言も発さなかった騎士たちまで。

 宴の準備だなんだと騒いでいる城の人たちの声を聞きながら、アリスの方へと視線を向ける。

 彼女は呆れたような、けれどどこか安心したような。まちがいなく、その目に心底からの愛情を宿した笑みを向けていた。


「もし俺の娘になにかあったら、ただじゃ済まさないからな」

「ひえっ」


 耳元でボソッと言わないでよ怖いよ素が出ちゃってるよ。



 ◆



 城の大きなホールには、華やかなドレスやスーツに身を包んだ人たちが。天井に吊るされた大きなシャンデリアは魔術的なものなのか、とても美しい光で空間を照らす。ステージの上では音楽隊が雰囲気のあるジャズを演奏していた。


 まさしくお城のパーティと言った感じだ。

 始まって既に二時間ほど。第一王女の婚約者という触れ込みであちこちに挨拶回りをさせられた蒼は疲れ切って、アリスを伴いテラスに出ていた。


 木製のテーブルに置いたグラスには、ノンアルコールのカクテルが入っている。この世界にもノンアルとかカクテルとかあるんだな、と驚いたものだが、蒼の世界とは似通った部分は他にも多い。

 しかし、見上げた夜空には知っている星座がひとつもなくて、ここが異世界なのだと理解させられる。


「すみません、疲れちゃいましたよね」

「まあ疲れたけど、こういうのは慣れてないわけじゃないからさ」


 似たようなパーティには何度も参加したことがある。雰囲気で言えば、ブリテンにいた頃が一番似ているか。

 なにせ円卓の騎士様たちだ。祝勝会なんかは毎度お上品で優雅なもの。王のお目付役、指導係としてあちこに挨拶回りをしたものだった。


 その王様も、今は中で女性たちに囲まれているが。ルークが暴れ出さないか心配だ。


「いい国だね。空気は澄んでるし、街の人たちの活気はここまで届いてくる。城に勤める人たちも、みんなそれを誇りに思ってるみたいだ」

「ありがとうございます」


 我が事のように嬉しそうな笑みが、すぐに顰められた。夜風が吹き通り、アリスの綺麗な水色の髪を靡かせる。


「これ、羽織ってなよ」

「蒼さんが寒くなるじゃないですか」

「女性の体を冷やしてしまうよりはマシさ」


 スーツの上着を脱いで、アリスの肩にかけてやる。

 アリスのドレスはそこまで露出が多いわけではないが、やはりそれ一枚だと寒いだろう。この世界でも四季はあるようで、どうやら今は秋口に当たるらしい。元の世界よりも気温は高いとは言え、やはり夜は冷える。


 しかし寒い。外に出たのは失敗だった。吹き抜ける風は蒼の体を震わせる。こんなことなら、早くお酒を飲める年齢になりたいものだ。

 隣に立つ少女の頬が少し赤らんでいるのも、やはり夜風の仕業か。


「やっぱり、寒いんじゃないですか」

「ちょっとね」

「まったく、蒼さんは寒がりなんですから」


 別に寒がりってわけじゃないんだけど。

 言い返そうとして、それより早くアリスが距離を詰めてきた。ギュッと腕を抱き締められ、豊かな感触が肘に当たる。やはりドレスの生地は薄いのか、柔らかな刺激はかなり強烈だ。


 十六歳の年齢に精神が引っ張られてるから、いくら転生者と言えどもこれはキツイ。煩悩を必死に頭から追い出そうとするが、アリスはそんなことお構いなしに、耳を胸に当ててきた。


「アリス……?」

「よかった……ちゃんと、生きてる……」


 その一言で、邪な思考は全て霧散した。

 思えば、蒼が目を覚ましてから二人きりになれたのは、これが初めて。

 アリスはこの国の王女だ。帰ってきたらやることは多く残っている。ていうか、イブに鎖で雁字搦めにされてどこかへ連行されてた。

 一方の蒼もあの後ルキウスと二人で話したり、王族関係者に事前の挨拶に回ったり、なにかとやることがあったのだ。


 だから、エルドラドとの戦いが終わって、蒼が気を失ってから、ようやく二人きりで話すことができた。


 あの時アリスが抱いた不安は、今この時までずっと残ってたのだろう。

 蒼が目を覚ましても直接言葉を交わした回数は少なく、これが夢じゃないかと不安で仕方がなかった。


「大丈夫だよ。僕はここにいる、君の隣にいるから」


 そんな彼女を安心させるために、華奢な体を優しく抱き締めた。冷えた夜風が気にならないほどにあたたかな温もりが、ギュッと抱き締め返してくれる。


「これからは、ずっと。一生あなたの隣にいても、いいですか?」

「ああ、誓うよ。僕は君の隣から離れない。君と一緒に、未来を見つけたいから」


 そっと唇を触れ合わせる。

 パーティの喧騒から離れた夜の下。空を照らす月だけが、二人を見守っていた。



 ◆



 あちらの世界で一泊させてもらった後、一行はイブの手によって元の世界、日本支部の前に戻ってきていた。


「んー、やっぱり我が家! って感じするね! 魔力が馴染むぅ〜」

「向こうはこっちより、大気中の魔力が濃かったからな。ありゃたしかに転生者じゃないと無理だ」


 ルークと龍はグッと伸びをして、日本支部の校舎を見上げている。

 一日しか経っていないのに、なんだか随分久しぶりな感じがする。経過時間はあちらとこちらで同じらしいから、そんなことはないのだけど。


「いやぁいい体験をさせてもらった。まさか異世界に行けるとはなぁ。織にいい土産話ができたぜ」

「子供に聞かせても理解してくれないと思うよ。それか父親の頭を疑うか。僕なら間違いなく後者」

「ははは織はそんな子じゃありません」


 相変わらずの親バカっぷりを発揮する凪。位相の力を行使する彼にとって、その向こう側である異世界への訪問はいい経験になったのだろう。

 その土産話を聞いた子供が、果たして十六年後まで憶えてくれているかどうか。


「アダムさん、師匠……本当に行っちゃうんですか?」


 寂しげな声のアリス。その先にいるアダムとイブの背後には、また別の異世界へ通じる孔が開いていた。


「俺はこの世界に留まるわけにはいかないからな。今回の一件があった以上、これ以上の滞在は体質の影響が拡大するだけだ」

「私もずいぶん昔に、アダムに付き合うと約束していますから。ルキウスにはちゃんと話を通していますし」


 アダムの体質ゆえに、二人は旅を続けざるを得ない。いつか彼を受け入れてくれる世界が見つかるまで。

 それは途方もない旅路だ。ゴールが存在するのかすらも分からない。


 それでも行くのだと、アダムは決めていた。


「なにも金輪際会えなくなるわけじゃない。この世界は他よりも強いからな。また暫くすれば戻って来れるようになるだろうさ」

「アリス、あなたにひとつ、贈り物を授けます」


 優しく微笑んだイブが、一枚の書類を取り出した。住民票だ。豪華な赤いドレスの貴婦人には似合わないそれを、アリスは首を傾げながら受け取った。


 この世界におけるアリスの戸籍を作ってくれたのだろう。どのような手を用いたのかは分からないが、どうせ人様には言えない方法に決まってる。

 アリスの肩口から蒼も覗き込んだのだが。その住民票に書かれている名前が、漢字四文字になっていた。


「彼方有澄。それが今日から、この世界でのあなたの名前です」

「わたしの……」

「この世界におけるニライカナイとは、遥か彼方に位置する理想郷のこと。そしてあなたは、誰よりも澄んでいる正しい心の持ち主であるから」


 ただの紙切れに記載されたその四文字へ、アリスの目は釘付けになっている。

 そして、水色の髪にイブの手が乗せられた。ゆっくりと、優しい手つきで撫でられて、少女の目が涙で滲む。


「今まで、よく頑張りましたね。あなたはもう、立派に一人前。私にとって自慢の弟子です」

「師匠っ……」

「今まで褒めてあげられなくてごめんなさい。酷い師匠だったと思います」

「そんな、わたしは……師匠の元で学べたから……!」

「そう言ってくれると、少し救われます」


 手元の紙を涙が濡らす。

 そっと、一歩。イブがアリスから離れた。


「また会いましょう、アリス。その時には、もっと立派になったあなたを見せてください」

「はいっ……!」


 強く頷いた弟子に満足して、イブは一足早く孔の中へ消えた。

 師匠からの贈り物を、アリスは大切な宝物のように胸に抱き締める。


 残されたアダムは、そんな光景を慈しむような目で見て、こちらに視線を移した。


「蒼」


 今まで、名前で呼ばれたことが何度あっただろう。

 片手で数えて足りるほどだ。いつも馬鹿と読んでばかりで、まともに名前を呼んでくれなかった。


「人類最強の名はお前にやる」

「荷が重いな」

「断っても無駄だぞ。本部の老人はその空席を埋めたがるだろうからな。自然とお前にお鉢が回る」


 本当に荷が重い。

 だけど、親友から託されるのなら。

 その信頼に応えないわけにはいかない。


 フッと頬を緩めたアダムが、背中を向けた。


「じゃあな馬鹿ども、またそのうち会おう」


 孔の中へ入り、黒ずくめの少年は姿を消す。

 こうしてアダム・グレイスは去り、アリス・ニライカナイは彼方有澄と名前を変えてこの世界で暮らすことになった。


 だけどまだだ。始まりにも至っていない。

 未来を求め、未来へ繋げる物語が始まるのは、十六年後のこと。


 だから、そうだな。その時が来たら。

 久しぶりに先生と、呼んでもらったりしてみようか。


 第0章 完

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