第133話

 親友の頭に銃を突きつけた探偵。

 状況を全く理解できず、蒼はアダムの手を取ることもなく固まってしまった。


「どういう、ことだ……?」


 絞り出した声は掠れていて、しかし両者から反応がないのは、聞こえていなかったからというわけでもないのだろう。

 立ち上がり、銃を持つ探偵を強く睨んだ。


「どういうことだって聞いてるんだよ、凪さん。どうしてアダムに」

「今回の事件、その犯人がアダム・グレイスだからだ」


 今度こそ、意味がわからない。

 エルドラドは倒した。アリスも力を取り戻したし、万事解決とはいかないかもしれないけど、それでも戦いは、たしかに終わったのだ。もう敵はいない。


 あとはアリスが元の世界に帰れる方法を探すだけで、それだって元々はアリスの杖に秘密があるようだし、目処が立っていないわけでもない。


 それなのに、どうしてそこでアダムの名前が、犯人なんてのに上がるんだ。

 それに今回の事件って、一体どこからどのまでの出来事を差してそう言っている?


「初めて会った日に言ったはずだけどな。俺が推理すべきは、なぜ異世界からの来訪者がやって来たのかだ、って」


 そう。本来なら、エルドラドだって巻き込まれた側だった。アリスの杖に原因がありそうだとはいえ、ただの術ひとつで異世界への扉が開くわけない。

 つまりその術は、こちらの世界でいう位相に該当する魔術なのだろうが。その位相の力だって、それだけで扉を開けはしない。そんなことが出来るのなら、魔女か探偵が早々にその手を打っている。


 ならばその他の、なにかしら外的要因が絡んだと見るべき。


「アダム・グレイスの異能について。おかしいと思ったことはなかったか? あるいは、こいつの存在そのものに関しても」

「それは……」


 ない、とは言い切れない。

 そもそも、少年のままで五十年生きているアダムだ。なにかしらの事情があるとは分かっていたけれど。

 ただ、蒼はこれまで、親友の深いところまでは踏み込まなかった。自分自身がそうであるように、触れられたくない過去というものはあるから。


 異能にしたってそうだ。あまりにも強力すぎるし、アリスの言葉もあった。

 魂に宿るとされる異能。でもアリス曰く、アダムのそれは、体質と呼ぶべきもの。

 つまり、魂ではなく肉体の側に宿った力。

 呼吸や五感の働きのように、人として当たり前にこなしているそれらと同じものとして、破壊を撒き散らす。


「こいつの力は、お前らが思っているよりもヤバい代物だ。その影響は世界そのものにすら及ぶ」


 アダムがただここに存在しているだけで、この世界は破壊されてしまう。少しずつでも、確実に。

 その影響が目に見えて現れてしまったのが、今回の一件だ。


 本来ならこの世界とアリスの世界を隔てている扉、あるいはフィルターと呼ぶべきものが、アダムの影響で綻びを見せた。

 結果アリスの杖はその綻びに反応し、秘められていた力が解放されたのだろう。


 というのが、探偵の推理。

 桐生凪の目的は最初からエルドラドではなく、アダムだったのだ。

 今思えば、違和感を持つべきだった発言はある。この探偵は言った。

 今この時代で世界が破壊されるか、十六年後に破滅を迎えるか。


 その二択でありながら後者を選んだのはおかしなことじゃない。凪はその十六年後のために、今から打てる手を打っている。蒼との接触だってその一環と言えたし、蒼への頼み事だって、未来へ繋ぐための代償だ。


 しかし、わざわざ破壊と破滅、二つの言葉に言い換えたのはなぜだ?

 彼が十六年後の未来を閉ざしてまで、レコードレスを求めた理由は?


 思えば、かなり遠回しながら彼なりにアダムが犯人であるも示唆していたのだろう。

 蒼たちの中で破壊なんて言葉が出れば、本来はまず真っ先にアダムのことを思い出す。あの時は未来のことやらドレスの力のことやらで頭がいっぱいだったが。

 そのドレスにしても、魔女がこちらの味方をしてくれたのだから、凪が使う必要はなかった。まさかこの探偵に限って、魔女の参戦は予想外とは言うまい。千里眼でその可能性は視ているだろうし、可能性を現実にするよう根回しだってしたはずだ。

 そもそもエルドラドとの戦いにおいて、凪はそうそうに離脱していた。トドメを刺したのも魔女だ。


 ならば桐生凪がレコードレスで対応すべき相手はあの黒龍ではなく。

 この事件の元凶、世界をも破壊してしまう人類最強の男へのカウンター。


「エルドラドとの戦いで破壊の力を思いっきり使った時は驚いたけどな。幻想魔眼とドレスがなきゃ、今頃この世界はとっくに壊れてた。まあ、そいつは蒼の魔術にも言えることなんだが」

「んぐっ……」


 やりすぎた自覚は蒼もあるので、それを言われると弱ってしまう。


「さて、そういうわけなんだが。どうするアダム・グレイス。証拠が欲しいならいくらでも用意してやるぜ。なんせ今の俺には魔眼がある。不可能なことなんて殆どない」


 オレンジに輝く瞳で銃を突きつけられた黒ずくめの少年は、その状況にあっても焦った様子を見せず、ゆっくりと息を吐いた。


「銃を下ろしてくれ。俺がなんと答えるのか、千里眼で既に視ているのだろう」


 直接言葉にしなくとも。諦めたようなその声が、凪の推理に対する肯定となっている。

 そしてアダムの言う通り、ここで彼がなんと答えるのかを理解しているのだろう。凪は素直に銃を下ろしてホルスターに収めた。


 ゆっくりと、アダムはその場を見渡す。

 口出しせず固唾を呑んで見守るアリスに、未だ信じられないという表情の蒼。

 戦闘が終わったことを察したのか、丁度龍とルークも駆け寄ってきたところだ。学院の空間隔離も解けている。


「五十年以上か……少し長居しすぎたな。存外にこの世界を気に入っていたらしい」


 ふっと緩められたその表情に、敵意や悪意なんてものは見受けられない。仲間に向ける最大限の親愛が、怜悧な瞳に宿っている。


 そしてアダムは、すべての真実を明らかにする。


「凪の推理はなにも間違ってはいない。全て事実だ。そして俺もアリスと同じ。この世界の人間ではない。また別の世界からの来訪者、ということになる」


 アリスとエルドラドがやって来た龍の世界。それとはまた別の異世界からやって来たのは、丁度五十年ほど前。前世の蒼と出会った頃だという。

 それ以前にも様々な世界を渡り歩き、そして辿り着いたのがこの世界。


 ならばなぜ、アダムは異世界を巡っているのか。


「俺が元いた世界は、俺自身の体質のせいで壊れた。最初はそこまで大きな力ではなかったのだがな」


 幼少の頃から、兆しはあったのだという。

 例えば、親に買ってもらったおもちゃやぬいぐるみは、兄弟たちのものに比べてかなり早くに壊れてしまったり。

 例えば、母親の不倫が発覚して両親は離婚し、家族が壊れてしまったり。

 例えば、住んでいた屋敷は原因不明の火事で全焼し、そこに住んでいた自分以外の人間が死んでしまったり。


 その後も立て続けに、アダムの周りではことごとくが壊れていった。

 天涯孤独となった後に身を寄せた家も、通っていた学校も、友人関係も、住んでいた街から国すら。徐々にその範囲を広げ、やがて世界そのものが壊れてしまった。


「その世界が完全に崩壊する直前だ。その時に、一人の女に助けられた。そいつの名前はイブ・バレンタイン。どういうわけか、世界間を自在に行き来できるやつでな」


 その女性に連れられ、アダムは様々な世界を渡り歩くこととなった。肉体の年齢も世界間移動の影響によりとまってしまったけれど。

 でも、どこの世界でも同じ。アダムの周りでは破壊が巻き起こり、それは本人にすら止められない。やがては世界の崩壊が始まり、手遅れになる前に別の世界へ移る。


 そんな旅の中にありながら、イブはアダムの影響を全く受けなかったのだ。連れ回された当初は拒絶する姿勢を見せていた。それはイブの身を思ってのこと。

 けれど女性はケロリとしていて、次第にアダムも心を開いた。


 世界を渡り歩く旅の道中、様々なことを教えてもらった。魔術もそのひとつ。彼女は行く先々の世界に存在している魔術の全てに通じていた。

 なによりアダムの力となったのは、その体質との向き合い方。あるいは、扱い方を教えてもらったことだ。


「その女性、今は?」

「はぐれた」


 尋ねた蒼は、その返答にホッとする。

 軽く聞いてしまったが、もしかしたら死んでしまった、なんてこともあり得たかもしれなかったから。


「ちょうどこの世界に来る直前のことだ。次に向かう世界は、これまでの世界よりも存在の強度が高いと言われていてな。そこならもしかしたら、俺の体質も影響を受けないかもしれないと。実際にその通りではあった。これまでは長くても数ヶ月程度で変化が現れたからな」


 だがアダムがこの世界に滞在し始めて、もう五十年余りが過ぎている。その時点で、彼がこれまで渡り歩いた世界とは違う。


「恐らくだが、位相の存在が絡んでるんだろう。魔力や異能と言った超常の力が後天的に齎された世界。そんなもの、俺も聞いたことがなかった」


 つまり他の世界には、位相に該当するものが存在していない。この世界とアリスの世界にのみ存在している。

 その辺りは凪が詳しいだろうとそちらに視線を向る蒼だが、彼からなにか言う気配はない。視線に気づけば、肩を竦めるだけ。


「世界間の移動手段はイブに任せていたからな。俺一人ではあいつを探しに行くこともできなかった」


 そうしてこの世界で暮らして間もなく、アダムは前世の蒼と出会った。

 そこで友人となり、肩を並べて何度も戦い、ついには親友と呼べるまでになって。


 前世の蒼は、そんな親友を一人残して死んだ。


 だが五十年経っても、アダムの体質が世界に与える影響は目に見えて起こらず。やがてこの魔術学院日本支部で、小鳥遊蒼と再会を果たした。

 それからさらに半年ほどが経過し、ついに起こってしまったのだ。アダムの体質がもたらす破壊、その兆しが。


「最初は俺も分からなかったが、位相の話を聞いて理解した。ついにこの世界もか、とな」


 浮かべる笑みは、諦念と自嘲の含んだもの。五十年余りを過ごしたこの世界すら、アダムを受け入れてはくれない。


 ただ、それでも。アダムにとってこの世界での生活は、本当に意味のあるものだったはずだ。

 じゃなきゃこの世界のために戦ってくれはしないし、蒼のことを友人にはしなかっただろうから。


 もしくは、蒼を始めとした仲間がいたからこそ、彼にとってこの世界は特別なものになったのかも。


 その上で。探偵に向き直った黒ずくめの少年は、己の決断を口にする。


「この世界から出て行けと言うなら出て行こう。俺もイブを探しに行きたいからな。だが、その手段を寄越せ。それが無理なら、この俺を殺してみせろ」


 不可能だ。

 世界に破壊をもたらす男。それでも本人が壊れないのは、相応の強さを併せ持つから。

 ゆえに、人類最強。

 文字通り、この世界の人間では誰も敵うやつがいないからこその二つ名。


 対するのは、レコードレスという絶対の力を持った探偵だ。

 恐らくはここまで千里眼で視ていただろう凪の判断を、その場の全員が固唾を呑んで待つ。


「あの、アダムさん。そのイブ・バレンタインって人についてなんですけど……」


 そんな中。おずおずと口を開いたのは、沈黙を保っていたアリス。こんな状況で口を開いたから全員の視線を集めてしまい、しかしアリスはそれに一顧だもせず。

 むしろ、何か別のものに怯えるようにして、アダムへ尋ねた。


「もしかしてその人、毎日赤いドレスを着てますか?」

「……なぜお前が知ってる?」


 その回答に、アリスを除いた全員が驚きを露わにする。さしもの探偵もこの可能性は視えなかったのか、目を丸くしていた。

 ただ一人、アリスだけが顔をサーッと青くしている。


「趣味は散歩で、気がつくとすぐにどこかへフラッと消えて、たまに一週間以上帰って来なかったり……」

「おいアリス、お前まさか」

「魔力の鎖で笑いながら弟子を縛りつけるドSだったりしませんよね……?」

「どうやら、そのまさかみたいだね」


 さすがに蒼も全てを察して、言葉とともに乾いた笑みが漏れた。

 異世界からの来訪者。その一連の騒動となった元凶のアダムと騒動の中心にいたアリスには、こんなところで繋がりがあった。


「……まあ、念のため聞いておくか。アダムが逸れたという女性、イブ・バレンタインは、アリスの世界に漂着していた、ってことでいいのか?」

「どうやらそうらしいな」


 改まった凪の確認に、アダムはドッと疲れたようなため息を溢した。

 アリスはなにやら遠い目で空を仰いでいる。この二人にこんな反応をさせるとは、果たしてどんな人なんだ。弟子を鎖で縛りつけるあたり、ろくな人間じゃなさそうだけど。


「んー、でもさ。根本的な解決にはなってないよね?」


 若干二名お通夜のような雰囲気を出す中で、ルークが核心に触れて来た。

 そう、なにも解決したわけじゃない。アダムがこのままこの世界に留まれば、その体質で世界が壊れてしまう。だが世界間移動の手段はなにもない。

 問題はアダムだけではなく、アリスだって元の世界に帰れないのだ。


 その鍵を握るのは、異世界間の扉を開いた杖だろう。


「いえ、大丈夫です。多分ですけど、大体わかりました」


 アリスが杖を取り出し、アダムに手渡す。首を傾げて受け取るアダムは、しかし手に取った瞬間に理解したようで。


「なるほど」

「ちょっとお二人さん、こっちにも分かるように説明してくれないかな?」


 なんか通じ合ってる風で気に食わなかった蒼は、若干強めの語尾で説明を求める。


「エルドラド討伐の任に就く前、この杖を一度師匠にごうだ……預けたことがあるんです」


 今強奪って言いかけなかった?


「面白い細工をした、とは言われたんですけど、多分それが原因で、わたしとエルドラドはこの世界に飛ばされたんだと思います」

「間違いないな、イブの術式が込められている。恐らく、なにかしらの方法で俺がこの世界にいることを察知したんだろう」


 しかし、イブ自身は位相のフィルターに弾かれてこの世界へ入ることが出来ない。その代わりとしてアリスをこの世界に寄越した、ということか。


「アダムはその術式を使えるのか?」

「術式自体は、なんとかな。ただ、この杖を使うことは出来そうにない。使用権限がアリスにしかないからな。龍、少し手伝ってくれるか」

「任せろ。つっても、異世界の魔導具だしな。どこまで力になれるかわからねぇぞ?」

「俺やアリスだけで見るよりはマシだ」


 なんだか分からないが、これで一件落着ということだろうか。


 終わってみれば呆気ないものだ。

 実は最初から全部繋がってた、しかも見知らぬ誰かの掌の上だなんて、ちょっと釈然としないけど。

 しかしまあ、これで術式の解析が上手く行けば、アリスは元の世界に帰れるしアダムは恩人のイブに会える。

 万事解決の大団円。


 いや、親友とはこれでお別れになってしまうのか。そう考えると少し寂しい気もする。

 ああ、後はアリスとのこともちゃんとしとかないとな。もし蒼でもアリスの世界に行けるのだとしたら、ちゃんと結婚のご挨拶をしないとダメだ。


 呑気にそんなことを考えながら、杖を中心にああでもないこうでもないと話し合う三人を眺めていると。


 左肩に熱を感じた。ボゴッ、と人体から鳴ってはいけない音が鳴る。

 体内の魔力が上手くコントロールできない。咄嗟に左腕を押さえて、その場に頽れた。


「蒼?」


 すぐ隣に立っていた凪が心配そうな声と表情で覗き込んでくるが、ダメだ。


 近づいたら、ダメだ。


「僕から離れろ……!」


 うちに秘めた膨大な魔力が、外の世界へと溢れ出した。



 ◆



 その光景を、見ていた。


 アダムと龍と顔を突き合わせ、杖に込められた術式をどうにか取り出そうと画策していた時に。視界の端で、彼が突然蹲るのが見えて。

 突然、その左腕が弾き飛んだ。


「蒼さんッ!」

「待てアリス!」


 反射的に駆け寄ろうとすれば、凪に止められた。彼の瞳はオレンジに輝いている。


 力なく倒れたその体から、魔力の塊が外の世界に現出する。宙を漂うその魔力は単なる力の塊だ。

 小鳥遊蒼の、と但し書きが追加されれば、単なるだなんて言ってられない。


 彼の体は魔術という概念へと昇華した。

 実体を持ってはいるものの、中身は殆ど別物。彼自身が無限に魔力を生み出すひとつの炉となり、体内にはこの世に存在する以上の術式を秘めている。

 おまけにこうなる過程でアリスの魔力すら取り込んだから、彼が生み出す魔力は異質なものへと変化していた。


 位相のフィルターを通していない魔力。そう言えば分かりやすいだろうか。


 すなわち、この世界にとっては毒にしかならない。


 レコードレスが扱う魔力と同じだが、あの力により行使される魔力は全体量に比べるとかなり少ない方だ。

 世界そのものに影響を与えるほどじゃない。

 一方で蒼は、その魔力をその身一つで無限に生み出し続ける。

 そんなものを一個人で抑え切れるわけもなく、こうして溢れ出してしまった。


 アダムの体質による影響などよりも、さらに早く。この世界は壊れてしまう。


 いや、世界のことなんてどうでもいい。

 そんなことより蒼の方が心配だ。


「ドラゴニック──」

「だから待てって言ってるだろ! 落ち着けアリス!」


 力を解放しようとして、やはり凪に止められた。その魔眼の仕業か、無理矢理絞り出した魔力は霧散して消えてしまう。


「どうして止めるんですか! 蒼さんはわたしの魔力も取り込みました、ならわたしの、ニライカナイの力なら!」

「そう簡単なもんじゃないって言ってるんだよ!」


 この探偵がこうまで取り乱す。その事実こそが現状の異常さを物語っていた。


 凪のオレンジの瞳が睨む先では、倒れた蒼の体から今もなお魔力が溢れて止まらない。このまま放置していれば、そう時間はかからず世界に蔓延し、その魔力が持つ毒でこの世界は崩壊する。


「俺の力でも、お前の魔眼でも無理か?」

「破壊するのは論外だ。あいつはどうにか蒼の体に戻さないと、蒼が死ぬ。俺の幻想魔眼も無理だな。本物の魔眼ならどうにかなっただろうが……」


 打つ手がない。

 悔しさに歯噛みする。あの人の隣に立つと決めて、未来を共に歩みたいと願ったのに。

 彼が本当にピンチの時に、わたしはなにもできないのか。

 なにが龍の巫女だ。大切な人を守れなければ、なんの意味もないというのに。


「伏せろ!」


 衝撃が襲いかかってきて、紅い炎が遮る。

 魔力の塊から漏れてきたものだ。強敵だと思っていたエルドラドの一撃より、なおも重い。まともに受けていればどうなっていたことか。

 あの黒い波動のような放射状のものじゃなくて助かった。


「凪さん、なにか手はないんですか⁉︎」

「今考えてるからちょっと待て! ああクソッ、こんな可能性は微塵も視えなかったってのによ……!」


 探偵の脳内ではアリスには想像がつかないほどに高速の思考が行われているのだろうけど、しかし蒼の体から魔力が溢れる速度は一向に衰えない。

 地面を、空気を侵蝕し、死滅させる。


 頼むから。誰か、誰でもいいから。

 蒼さんを、わたしの大好きな人を、救ってください──。


 その思いが届いたのか。

 天から、無数の鎖が降り注いだ。


 魔力の塊は瞬く間に縛り上げられ、かと思えば蒼の体へとひとりでに戻っていく。


「蒼さんッ……!」


 急いで倒れた蒼の元に駆け寄る。

 息はある。魔力の流れも正常だ。

 意識は失っているけど、ちゃんと生きてる。


「まったく……心配になって強引にでも来てみれば、なにごとですかこれは」

「えっ」


 今にも泣き出しそうだったのに、空から降ってきた凛とした声を聞いた瞬間、顔から一気に血の気が引いた。

 恐る恐る見上げた先には、豪華な赤いドレスを着た上品な雰囲気の貴婦人が。


「し、師匠……」

「お久しぶりですね、アリス。これしきで泣きべそを掻くとは、修行が足りないのではありませんか?」


 今すぐどこかに逃げ出したかった。

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